第七章 蠕動(ぜんどう) 1
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香木を燻らせたやわらかな芳香と薄い紫煙が差し込む朝日にたなびき始めると、大聖堂での朝の礼拝が始まる。神官や神官見習い達があくびを噛み殺しながらしずしずと席に向かう中に、スピカ達の姿もあった。席は前列から神官達が、中程から神官見習いが占めていくため、外来のスピカ達の席は自然と扉近くの後列になる。その隣に、少し遅れてやはりここでは外来になるアンゲルス神官が会釈をしながら腰を下ろした。スピカは、ネウラやラウルス達とも朝の挨拶を交わすアンゲルス神官の、わずかな違和感に小首を傾げた。
「どうかされました? お顔の色が冴えませんね」
「ああ、いやいや。少し寝つきが悪かったもので…。ところで〈オクルス〉殿は…?」
「あの、ローラは…」
「〈オクルス〉なら外ですよ」
口ごもったスピカに代わって、ラウルスが答える。
「あいつはそっちの方がいいそうで」
「あ、ああ、そうですか」
「?」
頷いて、奇妙に腰の落ち着かないアンゲルス神官に皆は眉根を寄せたが、問いただす前に礼拝が始まり、話はそれきりになった。
礼拝が終わる頃、開け放たれていた扉から〈オクルス〉が音もなく滑り込んだ。そのまま間口横の暗がりに立ち、神官達が退出していくのを待つ。そして、神殿の住人達が半数程になり、スピカ達が席を立とうとした時、その彼らに歩み寄った。
「ロ…!」
〈オクルス〉は、スピカの驚きを無視して用件を切り出した。
「話す気になったか?」
「〈オクルス〉、貴様!」
あまりの物言いにいきり立つアクルクスを軽く押さえ、スピカは一つ大きく深呼吸をすると、〈オクルス〉をまっすぐに見つめ返した。
「ええ。…私の部屋で話しましょう。皆も」
そう言って先頭に立ったスピカに皆が続き、最後に〈オクルス〉がその後を追った。通りすがりにアクルクスが〈オクルス〉を憎らしげににらみつけたものの、当の〈オクルス〉は見えてなかったのか、彼に一瞥すらくれない。思わずカッとなる青年の肩をぐっと押さえたラウルスもまた、複雑な表情で女剣士を見やるも、黙ってスピカの後を追った。
八人はほぼ一列になって木製のベンチの間を抜け、祭壇横の、昨日も通った戸口へと向かった。祭壇上では当番の神官達が灯火や香炉、杯などの片付けにかかっている。アンゲルス神官はその中にカーフ神官の姿を見つけてドキリとしたが、彼が片付けに専念していて、〈オクルス〉に気付いてさえいない様子にホッと息を吐いて横を通り過ぎた。だが、カーフ神官の方は、高まりゆく緊張に、手にした杯を取り落とさずにいるのが精一杯で、〈オクルス〉を見る余裕すらない有様だったのである。
〝落ち着け、落ち着け! こんなチャンスは二度とない。彼女の正体を暴くには今しかないんだ。大丈夫、神官長様のおっしゃった通りにやれば間違いはない。私には神がついているんだ!〟
――彼女は隻眼だ。
次第に血が上ってくる頭に、今朝受けた指示が蘇る。
――彼女の右側から杯の聖水をかけてみなさい。真実彼女が魔物なら苦しみだすはずです。そうでなければ――ああ、もちろんそうである事を願っていますが――、何の痛痒もなく、ただ水がかかったというだけです。誰を傷つけるわけでもありません。
〝ああ、神官長様! 私に力をお貸し下さい!〟
ぎゅっとつぶった目を開けると、祭壇中央から凛とした老人が頷いて見せてくれる。カーフ神官の頭は、ガンガンという早鐘のような自分の激しい鼓動と神官長の言葉ではちきれんばかりになり、眩暈さえ伴ってきていた。早く、と気ばかりが急く。ようやく踵を返した途端、カーフ神官は壇下に〈オクルス〉の姿を目にして、ひいと喉を詰まらせた。それでも前に出なくてはと、無理矢理動かした足がもつれる。あッと思った時には壇上に倒れていた。しかしそのために、彼の手から離れて一度弾んだ杯の聖水が〈オクルス〉の右顔面に撥ね飛ぶ。完全に虚を突かれた〈オクルス〉の口から、一拍置いてくぐもった呻き声が洩れた。と見るや、右目を押さえて膝をつく。
「うあ…ッ!」
「ローラ!? どうし…!?」
思わず駆け寄ったスピカの、いや凍りついたようにその光景を見ていた全員の耳朶を、カーフ神官の自信に満ちた声が打ち据えた。
「やはりそうだったんだな、魔物め! 邪鬼め! よくもぬけぬけとこの大神殿に入り込んでくれたな!」
「カーフ神官…?」
唖然とするアンゲルス神官を勢い良く振り返り、カーフ神官は〈オクルス〉を指さして叫んだ。
「見たまえ、アンゲルス神官! 私の言った通りだったろう! 彼女は邪鬼だ! 間違いない!」
大きなざわめきが神官達の中に生まれる。それにぎょっとしたアンゲルス神官は慌てて〈オクルス〉のそばに駆け寄りながらカーフ神官を止めに入った。
「ま、待ちたまえ、そんな…! こんなだまし討ちのような真似までして、少し性急すぎるだろう」
「だがこうして正体を現したじゃないか! この女は間違いなく邪鬼の眷属だぞ!」
「…何…?」
〈オクルス〉が呻くように訊き返す。
「ローラ…! 大丈夫?」
顔面を押さえたまま、〈オクルス〉は壇上の神官を見上げた。その鋭い眼差しを、カーフ神官は嫌悪の表情をもって受け止める。そこへ、さらに厳しい声が割り込んだ。
「鎖を打て! その者を捕らえよ!」
「神官長様!?」
スピカとアンゲルス神官の、信じられぬという声が重なった。
「何て事を!?」
「ローラは違います! 今のは聖水が古傷にしみただけです! そうでしょ!? ローラ?」
しかし〈オクルス〉は、せっかくのスピカの弁護にもかかわらず、少女の方を見向きもしないで壇上のカーフ神官とその背後に立った神官長を見据えたまま、告げた。
「離れていろ」
「ローラ!?」
〈オクルス〉は空いた手でスピカを押しのけると、ゆっくり立ち上がった。そして、じゃらじゃらという重苦しい金属音が迫ってくるのも構わず、壇上の二人から目を離さない。その静かな視線に耐え切れず、先に目を反らしたのはカーフ神官であった。その代わり、わけも飲み込めずとにかく言われた通り鎖を取ってきた神官見習い達に、裏返った声で早くしろとわめきたてる。だが〈オクルス〉は、未だ彼女の視線を真っ向から受け止めている神官長をつぶさに観察していた。その凝視は、恐る恐る周囲を取り巻いた神官見習い達がカーフ神官に叱咤されて鎖をかけ始めても微動だにしなかったが、戒めが完了した時に初めて訝しげにすぼまった。
〝あいつ…?〟
わずかな険を含めた視線の先にいる神官長が、一瞬笑ったのだ。確かに、「神官」が「魔物」を捕らえればしてやったりと思うのは当然かもしれない。しかし、神官長が一瞬見せた笑みは、日頃厳格な面持ちとは相容れぬ程に下卑たものだった。それが〈オクルス〉の警戒心を逆撫でる。と、またも響いたカーフ神官の言葉に、〈オクルス〉の注意は神官長から離れた。
「アンゲルス神官! その者の剣を取り上げて下さい!」
カーフ神官は、ぎょっと立ちすくむアンゲルス神官に苛々と続けた。
「どうしました? 早く!」
おろおろと〈オクルス〉とスピカ、カーフ神官を見比べるアンゲルス神官の顔色は、気の毒な程青ざめている。額にびっしりと浮かんだ冷汗を拭う事すらできずにいる彼に代わって、冷笑含みの声が言葉を返した。〈オクルス〉だ。
「欲しければ自分で取ったらどうだ?」
「な…ッ、邪鬼の分際でぬけぬけと!」
さっと顔に朱を上らせたカーフ神官が、壇上から駆け下りると〈オクルス〉に手を振り上げる。それを、アンゲルス神官がすんでのところで止めに入った。両手で抱きつくようにして、カーフ神官の右手にしがみつく。
「よしなさい! そんな…大人気ない!」
「放して下さい! あなただって邪鬼にこんな口を――!」
二人がみ合う間に、割って入ったスピカがカーフ神官をにらむ。
「何の根拠があってこんなひどい事をなさるの!?」
途端、カーフ神官の表情が、ひどく傷ついたものに変わった。急に力の抜けた腕をするりとアンゲルス神官の手から引き抜き、スピカに向き直る。
「ひどい? 私は貴女様の安全を一番に考えて…! 私は貴女様を狙っていた邪鬼から貴女様を守ったんですよ!?」
スピカに詰め寄るカーフ神官の声音がヒステリックに高くなる。そしてそれは、勢いを増していくかに思われた。〈オクルス〉の眉根が――危惧したか――わずかに寄ったが、まだ動かない。
カーフ神官にしてみれば、昨夜からの焦燥と恐怖、緊張の糸が一気に切れたための、どうにも抑え切れない躁状態から出た言動なのだが、そんな事を知る由もない周囲からすれば唖然とする他ない。
「私は貴女様のために勇気を振り絞ってお守りしましたのに、それなのにひどい!? 貴女様は、貴女様を守った私ではなく、お命を狙っていた邪鬼の方を庇うとおっしゃるのですか!? そんな…そんな事がありますか…! 一体貴女様は、『鍵』である――!」
「カーフ神官!!」
突然、それまで沈黙を守り事態を傍観していた神官長が、鋭い叱責の声を飛ばした。反射的に言葉を飲み込んだカーフ神官は、今自分が口走ってしまった単語に青ざめる。カーフ神官は、今更ながらに口を押さえ、おぼつかなげに目をきょろつかせたが、怒りに身を震わせるスピカの、痛い程に冷たい沈黙と視線に一層浮き足立つ。が、その凍てついた場を、他ならぬ〈オクルス〉の穏やかな声が静かに震わせた。
「アンゲルス神官、剣を」
「で、ですが…」
〈オクルス〉は、板挟みにうろたえるアンゲルス神官に顔を向けた。相変わらずの鉄面皮ながら、むしろその普段と変わらぬ様子にごくりとのどを鳴らしてから、アンゲルス神官が他の二人の横を擦り抜けて〈オクルス〉に歩み寄る。
「あの…本当によろしいので?」
「構わん」
そう答えて〈オクルス〉はわずかに体を右にひねった。突き出される形になった〈オクルス〉の腰から剣を外したアンゲルス神官は、その剣を額に押し頂き、彼女に誓約する。
「私が責任もってお預かりいたします」
「ああ。そうしてくれ」
アンゲルス神官は、柔和な丸っこい顔を精一杯引き締め、厳粛に頷いた。そのままスピカ達の所まで下がると、くるりと神官長へ向き直る。
「神官長様、よろしいですね?」
神官長は、この申し出に少し難色を示したが、やがて頷いた。
「いいでしょう。あなたにお任せします。それでは他の武器も…」
「彼女は剣士です!」
アンゲルス神官は、神官長の言葉を遮って叫んだ。
「彼女は勇敢な剣士です! その彼女が剣を手放したのです! それで十分ではありませんか!」
震える声音であったものの、アンゲルス神官の必死の訴えに神官長は、ぐっと顎を強張らせた。
「――判りました」
しばし気まずいにらみ合いの後、折れたのは神官長の方だった。よもや神官長たる自分に歯向かう神官がいるとは思わなかったのだろう。老人の声には狼狽の色があった。
「ではあなたのその言葉を信じましょう。ですが彼女をこのまま放置するわけにはいきません。真実がはっきりするまで隔離しなくては。それからカーフ神官、あなたには『沈黙の行』を課します。理由は言わずとも判りますね?」
「――はい」
カーフ神官は、打って変わって神妙な態度でこの罰を受け入れた。通常、一切の会話を禁じるこの行が罰として言い渡される際には期限が設けられるのにもかかわらず、今回それは提示されなかったが、それを問いただす者は誰もいなかった。
「それから――」
と、神官長は〈オクルス〉に視線を戻し、厳しい声音で神官見習い達に彼女を最下層の貯蔵室に連れて行くよう指示を出した。が、その言葉が終わるのを待たず歩き出した〈オクルス〉に、神官見習い達の方が反対に鎖に引かれる形になる。彼らは、よもや自分達のすぐそばに「魔物」なるものが存在するなぞ、信じられないが、否定もしきれぬという漠然とした不安の目を神官長と〈オクルス〉にそれぞれ向けたが、神官長ににらまれて、おどおどと歩き出した。それに比べて〈オクルス〉の足取りは、先程膝をついたとは思えない程にしっかりとして、鎖の重さすらないかのようだったが、その足がラウルスの前でふと止まる。しかし、訝しむように眉根を寄せるラウルスに対し、〈オクルス〉の引き締められた口元が開く事はなかった。
今、何らかの警告をするのは早計だ、と〈オクルス〉は再び歩き始めながら思案を巡らせる。それに、他の武器について口をつぐんでくれた――驚きでそれどころではなかったのかもしれないが――事に対する礼も。何をどう言っても互いの立場が悪くなるだけだと判断したのだ。それに、と〈オクルス〉は気を引き締めなおす。眼帯の隙間から染み込んだ聖水のせいで右の眼窩がひどく疼いていた。だが、ともすれば意識を失くしてしまいそうな脱力感を、他に悟られるつもりは毛頭ない。その理由も、だ。
大聖堂を抜け、左右どちらの居室にも向かわずに、〈オクルス〉は後ろの神官見習い達の指示に従って少し奥にあったドアへと進んだ。神官見習いの青年が一人、太いろうそくに灯りを灯して戻ってくるのを待ってから、彼を先頭に〈オクルス〉達はドアを抜け、肌寒い漆黒の階段を降りていった。先頭の青年が、皆の数歩前を歩きながらおよそ十段おきに立てられている簡素な燭台のろうそくに火を移していく。そうして五、六本のろうそくすべてに灯が灯った先に、わずかな場と古ぼけた鉄格子の門扉があった。先に立っていた青年がそれに駆け寄り、奥歯を疼かせるような軋み音をたてながら大きく開く。
「入…いや、その…」
入れ、と言い切る自信もなく言い淀んだ背後の神官見習いに、〈オクルス〉は知らず薄い笑みを浮かべて歩き出した。そして、彼女から上体を反らすようにして後ずさった青年の脇を通って鉄門の奥へと進み、中に数歩入った所で足を止める。なるほど、と〈オクルス〉は闇に慣れた目で周囲を見回した。
ひんやりと言うには肌寒いこの場所は天然の氷室なのだろう。大広間程に見える広さに、穀物の麻袋やワインか飲料水の――あるいはその両方か――瓶の詰まった木箱がきちんと積み重ねられていた。〈オクルス〉がざっとそれだけ、見て取った頃、背後の鉄門が、また軋みながら閉ざされていく。肩越しに振り返った〈オクルス〉の目に、鎖の端が閉じた門扉の格子を通されるのが映った。そして鎖は、格子に開いたまま引っ掛けられていた錠前によってつながれた。がしゃり、という重苦しい音が皆の耳朶を打つ。後は居たたまれないと言わんばかりにそそくさと立ち去って行く神官見習い達の中で、灯されたろうそくの下にぐずぐずと残っている青年がいた。
「おい、早くしろよ!」
気付いて小声で急かす仲間の声に浮き足立ちながら、彼はようやく意を決したように〈オクルス〉へと話しかけた。
「な、なあ、あんた本当に…?」
「灯りは消していっていい」
返った言葉は穏やかなものだったけれど、会話は拒絶された。もう門扉の奥に灯りは届かず、〈オクルス〉の様子はまるで知れない。ごくり、と喉仏を上下させた青年は、慌ててろうそくを吹き消すと急いで仲間の後を追った。すい、と片足を引いて体をひねり、その様子を見やった〈オクルス〉は、かすかな灯りと足音が遠ざかっていくのを確認して、ようやく吐息をついた。それから踵を返して穀物袋のある方へと向かい、崩折れるように膝を折ると、袋にぐったりともたれかかった。肩や腕にのしかかる鎖の重さも、後ろ手に縛られた手の痛みもどうでもいいとさえ思える程の猛烈な脱力感が全身を制圧していた。そのくせ息苦しく、呼吸が浅くなる。
〝ザマはないな…くそ…っ〟
自身を罵る思考にも容赦なく脱力感が襲いかかる。右の眼窩から、力という力がとめどなく流れ出していくようだ。まるで溶けかけた海綿にでもなった気分だった。ずるずると床にずり落ちていく。まさか聖水がこんな風に我が身に働くとは思ってもいなかった。当たり前だ、人間なのだから。少しばかり、規格外であるにしても、だ。
「…難儀な…!」
そう己を誹った後、〈オクルス〉は意識を失った。




