第六章 予兆 2
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その夜、再びスピカの部屋を打ち合わせのために訪れたディーガル兄弟は、少女の悲鳴じみた声に、一瞬動きを止めた。
「どうして!?」
ディーガル兄弟は思わず顔を見合わせ、次いで挨拶もそこそこに慌ててドアを開けた。
「どうしてそんな、いきなり!?」
ぎょっとする男達をよそに、青ざめた顔でスピカはその前に立つ〈オクルス〉を凝視していた。片や〈オクルス〉は、いつもの鉄面皮のまま、平然と少女を見返している。その二人の脇でおろおろしていたネウラが、兄弟に気付いて助けを求める。
「ああ丁度良いところに! 二人を止めて下さいまし!」
「一体何が…?」
事情が飲み込めず唖然とする兄弟に、スピカがきッと顔を向けた。
「ローラが! ローラが降りるって言うの! 私の護衛を!」
「貴様!」
即座に怒声を上げたのはアクルクスの方だった。つかつかと大股で〈オクルス〉に詰め寄るや、その胸ぐらをつかみ上げる。わずかに勝る身長差そのままに上からにらみつけるアクルクスに、〈オクルス〉は冷然たる視線を返した。
「身勝手も大概にしろ! 何様のつもりだ!」
「――…もう手は足りてる」
「なん…ッ!?」
「それに」
と、〈オクルス〉はアクルクスの腕をつかんだ。万力のような力に、アクルクスは呻き声を上げたが、意地もあってか、手は放さない。しばしにらみ合った後で、先に手を放したのは〈オクルス〉の方だった。一拍置いてアクルクスも彼女の胸ぐらから手を放す。微妙な静寂の後、〈オクルス〉が口火を切った。
「依頼は暗殺者からの護衛。そうだったな?」
問われた皆は、それぞれの心情で頷いた。〈オクルス〉が重ねて問う。
「その黒幕がゼフ卿という話でもあった」
〈オクルス〉は、喉元の詰まってしまったマント――彼女だけは旅装を解いていなかった――の首元を引っ張って直し、続けた。
「刺客はすべて撃退したし、黒幕とやらにも釘を刺してきた。あちらも刺し違えてまで暗殺する気はあるまい。他の者が欲を出したとしても、あんた達が城に戻るまでに手を出す事はできないはずだ。命の危険がなくなったのなら、私の仕事は終わった」
「…確かに」
重苦しい空気をまず震わせたのはラウルスであった。
「〈オクルス〉の言い分にも一理ある。だが」
と弟を制しておいて、
「それでもいささか腑に落ちんな。どうして今なんだ?」
「大神殿まで送り届けるのが約束だったからな」
「それなら半月の約束の方はどうなる?」
「仕事もないのにいる理由はない」
「あるわ!」
スピカが二人の間に割って入る。しかし〈オクルス〉はにべもない。
「私は子守はしない」
「貴様ッ!」
「判っているわよ、そんな事!」
またも〈オクルス〉の胸ぐらをつかんだアクルクスの拳が、スピカの金切り声にびくりと止まった。その彼を突き飛ばす勢いで〈オクルス〉のマントにすがりついたスピカの目が涙で潤んでいる。
「せめてあと三日、三日でいいから…ッ。報酬だって倍払うから、バカな女だって笑ってくれていいからッ。…お願い…、私を助けて…ッ!」
すがりつき、うつむいて懇願するスピカの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。悲痛としか言いようのない叫びに誰もが言葉を失うなか、〈オクルス〉の声が静かに問うた。
「何を隠している?」
スピカの体が、傍目にも判る程に大きくびくりとすくみ上がった。が、自身は気付かず、弾かれたように〈オクルス〉を見上げた。怯えた瞳が小刻みに左右に揺れる。しかし程なく、少女はまた、顔を伏せた。うつむいたままで、その口が逡巡のままに何度も開かれては声もなく閉ざされる。〈オクルス〉のマントをつかんだ両手が恐怖のためか――だが何の? ――小さく震えていた。
「……一晩だけ待つ」
スピカは、頭上からの穏やかな声に顔を上げた。知らず緩んだ彼女の手からするりと抜け出し、〈オクルス〉は滑るような動きで四人をよけ、戸口へと向かう。その足が、戸口をまたいでふと、止まった。
「――ラウルス。悪いが私は夜番から外してくれ」
「判った」
「〈オクルス〉!」
言い捨てて出て行った彼女を追おうと怒声を上げて身を翻したアクルクスを、ラウルスは寸前で引き止めた。
「! 放せよ!」
「やめろ!」
アクルクスは、彼の上腕をつかんで放さぬ兄をぎッ、とにらみつけた。
「なんでいつもあいつの肩を持つ!?」
「場所をわきまえろと言ってるんだ。レオン、お前だってもう子供じゃないん…」
「だったらもう幼名で呼ぶのはやめてくれ!」
アクルクスがそう言い放った途端、兄弟は揃って鋭く息を飲んだ。思わず緩んだラウルスの手を振りほどいたアクルクスが、バツ悪げにそっぽを向く。
「お前…」
ラウルスは、そのかすれ声が自分のものとすぐには気付かず、ちょっとの間呆然とした。が、すぐに気を取り直して軽く咳払いをする。
「お前――」
しかし、後が続かない。目だけを向けるアクルクスの、かすかに怯えたような視線に、何と言ってよいものか判らなかった。そしてラウルスは、絶句した後、沈痛な面持ちで目を閉じた。
「――すまん」
アクルクスは、搾り出すようにそう詫びた兄から、たまらず顔を背けた。子供じみたヒステリーだという羞恥に顔が赤くなる。けれど同時に、確かな爽快感を覚え、また、ラウルスを傷つけたという罪悪感も湧き上がる。それらの感情がせめぎ合い、やるせなくさえあった。兄の顔を見る事ができない。いたたまれず、アクルクスはスピカに一礼して退室した。取り残されたラウルスが、思わずのばした手で空を握りしめる。眉間に深い縦じわを刻み、唇を噛んだ彼の耳に、ネウラの気遣わしげな声が届いた。
「ラウルス殿…」
その声に自制を取り戻したラウルスは、ネウラと、彼女の胸に顔をうずめて小さい嗚咽をもらしているスピカに深々と頭を下げた。
「――…お見苦しいものをお見せしてしまいました。申し訳ありません。今夜はウィンとグレンに警護させますので」
「ラウルス殿。あの…」
ネウラの呼びかけに応えず、ラウルスは顔を伏せたまま辞去し、彼女の視線を断ち切るように静かにドアを閉めた。
「――お姫様」
ネウラは、スピカをそっと引き離すと、その頬を両手で挟んで上向かせた。
「あれではあまりに我が儘ですよ。ネウラは恥ずかしゅうございました」
「だって…!」
「確かに〈オクルス〉殿の申し出は感心できませんが、ゼフ卿の刺客が来ないのだとしたら、ラウルス殿やアクルクス殿達がいるではないですか。儀式だって明日から始まりますし、お誕生日だってまだ半月も先です。あんな言い方、ラウルス殿達が役者不足だと責めているのと同じですよ。彼らだって立派な剣士なのですから」
「違うの! 駄目なの! 私には判るのよ、ネウラ! ラウルス達じゃ無理なの! ローラでなきゃ…ッ!」
「だからどうして〈オクルス〉殿でなければいけないのです?」
「判らない…ううん、説明できないの。でも、ローラなら何とかしてくれるって判るの。言葉にできないけど、それだけははっきり判るのよ!」
ネウラは、言うべき言葉が見つからず、スピカを再び固く抱き締めた。気丈で、常に穏やかな仮面を外さないスピカの、本当の姿がここにあった。もうずっと、ネウラでさえ見た事のなかった、自分の運命に怯える少女が。
〝そうなのかもしれない…〟
死と隣り合わせの立場に立たされた人は、本能的にそれを察知しうるのかもしれない。唯一の生存のチャンスを、それを可能にする人の存在を。それなら、と、ネウラはスピカに囁いた。
「それなら、やはりきちんとお話しすべきではありませんか?」
「でも…。もし断られたら…」
「だますのですか? そりゃ怖いと思うのは判りますけど、でもやはり、本当の事を言うべきだと思いますよ。お姫様の命も皆さんの命もかかっている事なんですからね。もちろん私達はお姫様のためなら喜んで何だってしますよ。けれど〈オクルス〉殿にはきちんとお話しして、彼女自身に決めて頂かなくてはね。誰かに一生懸命何かをしてもらおうと思ったら、まずこちらから誠意を見せなくてはいけない、とネウラはそう思いますよ。お姫様が信じてあげなくては、あちらもお姫様を信じてはくれませんよ」
暖かな腕の中で、スピカは幼子のように、こくりと大きく頷いた。
大神殿前の岩場に降り注ぐ、針のように細い月の光ではおそらく、〈オクルス〉を見つける事はできなかっただろう。ほうっと、ろうそくの幽かな灯りに浮かび上がる座した人影を見つけて、ラウルスは肩の力を抜いた。
「こんな所にいたのか」
ラウルスの声に〈オクルス〉が振り返る。その目が紅く光ったように見えて、ラウルスはぎょっと足を止めた。が、それが自分のかざしたランプの光に反射しただけと納得して、また表階段を下り始める。大神殿玄関よりやや離れた場所に座した〈オクルス〉は、拒絶するでなく招くでなく、ただまた背を向けた。ランプ片手に彼女のそばまで歩み寄ったラウルスの目に、一本きりの小さなろうそくが映る。漆黒とさえ言える闇の中に、たったそれだけの灯りを灯しただけで静かに座していた〈オクルス〉の胆力に、知らずラウルスは笑みを浮かべた。
「驚いたな」
「何がだ?」
〈オクルス〉は、当然のように左横に腰を下ろしたラウルスを見やった。ランプの灯りは夜目にさすがに眩しいのか、わずかにすぼまったその目をちょいと指さし、ラウルスが笑う。
「黒かと思っていたが、紅だったんだな」
「?」
訝しげに眉根を寄せた〈オクルス〉は、次いで合点したのか、フンと小さく鼻を鳴らした。
「些細な事を」
「そうだな」
笑って相槌を打とうとしたラウルスだったが、できずに視線を反らす。不意に沈み込んだ青年に、〈オクルス〉は敢えて何も問わなかった。しばし、全くの静寂がその場を占める。それから、ようやくラウルスが口を開いた。
「レ…アクルクスに叱られてしまったよ。幼名で呼ぶなってさ。考えてみれば呆れた話だよな。あいつを一人前に見てやってくれと言ってた俺が子供扱いしていたんだから」
ペイダリオン王国に限らず、貴族は幾つもの名を持っている。それは個人名と家名、称号や領地の名前を連ねたものだが、それとは別に、剣士階級は元服名、幼名、家名の順に並んだ名を持つ。だから、成人した者は元服名で呼ぶのが通例であった。もちろん、肉親はその限りではないのだが。
「些細な事だ」
「ああ。だが塵も積もればと言うだろう」
「甘いな」
「そうかもしれん。甘やかしていたつもりはなかったんだが…」
「違う。逆だ」
珍しく、言葉を遮ってきた彼女に驚きの目を向けたラウルスは、〈オクルス〉が穏やかともとれる眼差しで自分を見つめてるのにまた、驚いた。
「逆?」
「あんたは、あの坊やが許してくれるのを見越した上でそうしていたのさ。私に言わせれば、あんた達はお互いに甘え合ってる」
「…きついな」
「他人だからな」
だから、身内のような甘えは許されない。他人、というのはこんなに遠いものだったのか、とラウルスは苦笑した。それ故に、自分達では見えなくなっているものを端的に指摘してくれる。たとえそれがどんなに耳の痛い事柄であっても。と、ラウルスは、ふと自分がどうして〈オクルス〉にこんな身内の話をしてしまったのか、その理由に気がついた。他人だから、だ。昨夜はアクルクスを庇ったつもりだったが、少し喋り過ぎた気もしていたのだ。だがここに至って、納得のいく答が得られた気がする。〈オクルス〉が全くの他人だったからこそ、しがらみも遠慮もなく胸中を吐露できた。けれど、こんな愚痴だって甘えにすぎない。彼ら兄弟が甘えていると断言した〈オクルス〉が、それを見逃してくれた事に、自然と頭が下がる。
「そうだな」
ラウルスは、両手を後ろについて夜空を見上げた。
「他人だもんな」
仲間であればこそこぼせぬ愚痴でも、他人にならば言える。数日とは言え寝食を共にしながらも他人であり続けてくれた〈オクルス〉の、それを優しさと取るのは単純すぎるかもしれないが、なんとなく、ラウルスはスピカが〈オクルス〉に惹かれるのも当然だろうと感じた。スピカは、彼よりもずっと、本心を吐露しづらい立場にある。
「ところで、なんでこんな所にいるんだ? てっきり部屋で休んでいるもんだとばかり思っていたんだが」
「わざわざそんな事を言いに来たのか?」
見透かすような一瞥を受け、ラウルスは小さく頭を振った。
「いや。本当はさっきの話をな」
「あんた達があのお姫さんを止めてくれると助かる」
「やはり出て行くと?」
「もう仕事はない」
「そちらこそ、何を隠しているんだ?」
わずかながら緩んでいた空気がまた、外気さながらに冷たく冴える。〈オクルス〉の視線から一切の感情が消えた。構わず、ラウルスは問いつのる。
「世間の評判はともかく、あんたは受けた仕事はきっちり、完璧にこなすクチと見たが。そのあんたが途中で仕事を投げ出すとは思えなくてね。さあ、何を隠している?」
「買いかぶるな」
〈オクルス〉の、静かな声からは何の感情も読み取れない。その表情もまた、ついと背けられ髪に隠れ、ラウルスには見えなくなった。その横顔をじっと見つめているラウルスの表情も、硬く冷たい。
「コンタスで本当は何をしてきた?」
返答はない。
「あの奸物に会ったんだろう?」
「――寝返ったかと?」
ラウルスは、〈オクルス〉の冷笑じみた物言いに眉根を寄せたが、一拍置いて短く笑い、天を仰いだ。
「だったらとっくに死んでるか」
両手を後ろについたまま、器用に肩をすくめる。そして、屈託なく「だろ?」と同意を求めた。それに対し、
「知れんぞ?」
と、裏があるかのようにほのめかす〈オクルス〉に、ラウルスは苦笑を返す。
「そんな手間をかける必要がどこにある?」
「……」
互いの腹の底まで探りあうような重たい沈黙の帳が下りる。〈オクルス〉は否定も肯定もしなかった。しかしラウルスは、彼女の、人を寄せ付けぬ厳しい鬼気が不意にかき消えたのを受けてそっと安堵の息を吐いた。どうやら敵に回さずに済んだらしい。それからラウルスは立ち上がると、〈オクルス〉を中に誘った。
「とにかく中へ戻ろう。本気で明日発つ気なら、ゆっくり休んだ方がいい」
「いや、私はここでいい」
思わぬ拒絶の言葉に、ラウルスが目を丸くする。
「まさかここで野宿する気じゃないだろうな。レ…アクルクス達なら俺が…」
「そうじゃない。あそこは…私には合わない」
「? よく判らんな。大体、合わないと言ったって野宿よりはマシだろう?」
「――言い伝えには、時に真実が含まれる事もある」
「アンゲルス神官の言ってた、あれか? 『邪鬼の穴』とかいう? おいおい、〈オクルス〉ともあろう者が子供の夜話のような話を怖がるってのか?」
軽口を叩いたラウルスは、見つめ返してきた〈オクルス〉の静かな視線に思わず口ごもった。ゆっくりと、ろうそくの灯に目を戻して、〈オクルス〉。
「見た事がないからと軽んじると、命を落とすぞ」
「じゃ、お前は…?」
「一般論だ。神殿に戻るならランプを忘れるな」
「いや、それなら…」
「明るさに目を慣らしたくはない」
それきり口を閉ざした〈オクルス〉に、かける言葉を失くしたラウルスは、仕方なく差し戻されたランプを手に、神殿へと戻って行った。しかし彼は気付くべきだった。大扉の陰から彼らの話に聞き耳を立てていた人物に。そしてそれに、あろう事か気づかなかった〈オクルス〉に。
慌ただしく自室をノックされ、アンゲルス神官は就寝前の祈りを中断して立ち上がった。穏やかに返事をしながらアンゲルス神官がドアを開けた途端、その胸ぐらにカーフ神官が齧り付く。
「カ、カーフ神官?」
「アンゲルス神官、私と一緒に来てくれ! さあ早く!」
「一体何が…?」
「いいから早く! 大変な事になるかもしれないんだ!」
痩身の神官は、とてもそうとは思えない力で自分の倍はありそうなアンゲルス神官をぐいぐい引っ張って小走りに走り始めた。
大聖堂を中心に見て来客用個室棟の反対側の端、神官長室まで一気に走り抜けたカーフ神官は、ドアの下の隙間からまだ灯りが洩れているのを確認してから、今度は深呼吸の後、ノックをした。
「入りなさい」
落ち着いた(いら)応えに胸を撫で下ろしつつ二人が入室すると、神官長は書き物の手を止めて、羽根ペンをインク壷横に置いたところだった。
「こんな時間にどうしたんです?」
「神官長様! 私は恐ろしい事を知ってしまったのです!」
「恐ろしい事?」
勢い込むカーフ神官とは逆に、神官長は訝しげに眉根を寄せる。しかし構わず、カーフ神官は自分が見聞きしたここ半刻程の出来事を一気にまくし立てた。
「私は、就寝前に、御用はないかと思ってスピカ様達のお部屋の方に参ったのです。その時あの〈オクルス〉という方とすれ違ったのですが、その時に、ああなんという事でしょう! 彼女の目がまるで『邪鬼の穴』の業火のようにぎらりと光ったのです! 灯りも当たっていなかったのにですよ! まさに血の色と呼ぶにふさわしい禍々しい輝きでした。その時私はあまりの恐ろしさに声も出ませんでしたが、この大神殿に限ってと思って、勇気を振り絞って彼女の後を尾いて行ったのです。もちろん私の見間違いだとも、誤解であった場合どのような罰も受ける覚悟でもあったのです。彼女は私に気づかず、大聖堂を抜けて外に出て行き、そこに座り込みました。程なくして、別の剣士の方が彼女の下を訪れて話を始めたのです」
「カーフ神官! あなたはまさか、盗み聞きなどという恥ずべき行為をしたのではないでしょうね!?」
アンゲルス神官の責めるような物言いに、どきりと言葉を切ったカーフ神官を庇う形で神官長が先を促す。
「まず話を聞きましょう。もしこれが万一の事だったら、それどころではないのですから。カーフ神官、それで?」
「は、はい。わ、私に聞き取れたのはほんの少しだったのですが、それでも彼女はこの大神殿には居られないとはっきり言ったのです。自分の居る場所ではないと。ここに居るくらいなら野宿の方がマシだと! この神の恩寵確かな大神殿に居場所がないなど、自分には合わないなどと! ええ、もちろん彼女が異教徒で、それで居づらいのなら判ります。しかし、彼女の目は暗闇で光るのです! それがまことに人のものでありましょうか!?」
「し、しかしそれだけで…」
と反論するアンゲルス神官の語気は弱い。
「しかし…」
ぴんと張り詰めた静寂の中で、アンゲルス神官の弱々しい声だけが空気を震わせる。
「あの〈オクルス〉殿が、そんな…。何かの見間違えじゃ…?」
「では私が嘘をついていると!?」
「そうは言ってないよ、カーフ神官。でも…」
アンゲルス神官は、詰め寄ってきたカーフ神官から身を守るべく両手を差し挙げ、助けを求めて神官長を見やったが、老人は両肘を机についたまま動かなかった。
「私は見たし、聞いたんだ! なあ、あんただって一緒に旅をしてきたんだ、一度ぐらいは見たんじゃないのか!? 私は神かけて…!」
「カーフ神官!」
神官長の鋭い声に、カーフ神官はハッと口をつぐんだ。二人が声もなく自分を注視しているのを感じつつ両の親指で目頭を揉んでいた神官長は、吐息をついてようやく口を開く。
「軽々しく神の御名を引き合いに出すのではありません。アンゲルス神官の言い分にも一理あります。他人を疑い、貶めるような発言は慎みなさい。とはいえ――」
と、またも目頭をもみほぐす。
「あなた方も知っての通り、スピカ様の儀式の事がある以上、不安要素をそのままにしておく事もできません」
組んだ指の向こうから、強い意志の光をたたえた視線が二人の神官を射抜く。
「私が何か手立てを考えておきます。今日のところは二人とも、自室に戻って休みなさい。明日、この続きを話しましょう。それから、判っているとは思いますが、この事はまだ他言無用です。無論、スピカ様達にも。いいですね? アンゲルス神官」
「スピカ様にもですか?」
目を丸くして訊き返したアンゲルス神官に、神官長は慎重に頷いた。
「もちろんです。あの方の儀式の本当の意味を知っているのは、ここでも限られた人間だけです。余計な騒ぎを起こしたくはありません。それにもし、もしカーフ神官の誤解であれば良し、さもなくば…。下手に動けば一体どういう事になるか」
アンゲルス神官は、苦渋に満ちた神官長の言葉にうなだれた。このせまい建物の中で、噂の流布が何を導くか。そしてそれが相手の思うツボである事も、容易に想像がつく。
「それでは部屋に戻りなさい。枕を失くさないように」
古い魔よけの呪言を囁いた神官長の目が、ふと揺らいだランプの灯りにぬらりときらめいた。




