第六章 予兆 1
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翌日の昼近くなって、前方にそびえる岩壁を背にした大神殿が一行の視界に入ってきた。先導のアンゲルス神官が嬉しげに指を指して後ろを振り返る。
「見えてきましたよ! 皆さん、ほら! あれが北の大神殿です!」
やがて彼に追いつき全容を目にした者達の間から、次々と感嘆の声が上がったのも道理、大神殿と言うだけあって、その造作は見事の一言に尽きた。遠目には岩壁を背にしているように見えた建物は、近づくにつれ、実は前棟だけが壁から突出していると知れる。神殿というよりは砦にでも向いていそうなその造りを否定しているのは、前面の数段から成る階段と、それに続いて大きく開かれている巨大な観音開きの扉であった。決して多くはないであろう者のために開かれたこの扉の奥に大聖堂が続き、そのまた奥には神官達の居住区が壁の中に展開している。大神殿へと馬を進ませながら、そう簡単に説明したアンゲルス神官が、一同の顔に浮かんでいた――〈オクルス〉は別だが――不審げな表情に苦笑をもらした。
「ここは昔、石切り場だったそうです。ですが、あまりに深く掘り過ぎて『邪鬼の穴』まで突き抜けてしまい、それでそこに蓋をしてこの大神殿を建てて封印としたそうです。もっとも」
と、アンゲルス神官は少しばかり照れくさそうに頭をかいた。
「古い言い伝えですから、気になさらないで下さい。ただ、石切り場だったのは本当みたいですよ。ここに来るまでにあった大きな岩も、運びきれなくて置きっぱなしにしたようですからね」
だがアンゲルス神官の説明に頬を緩めたのは半数に過ぎなかった。残りの半数は、緊張に顔を強張らせたまま、近づいてくる岩壁に不安げな視線を向ける。〈オクルス〉ですら、馬車の引き綱を持つ手に知らず、力を込めていた。
なだらかな坂を登り、一行が正面扉の前に着くと、そこには既に出迎えの者達が立って彼らを待ち受けていた。
「カーフ神官!」
アンゲルス神官は、馬から降りるのももどかしげに顔見知りに歩み寄ると、抱き合って背中を叩いた。アンゲルス神官よりも痩身の神官は、その遠慮ない抱擁に今にも二つに折れそうだったが、笑顔でそれに応える。
「いやあ、元気そうで何よりだ。他の皆さんもお変わりないかね?」
「もちろんだとも。君も元気そうだ。そちらこそお変わりないか?」
ひとしきり再会の挨拶を交わしたカーフ神官は、改めて到着した面々に丁寧なお辞儀をした。
「これはこれは、遠路はるばる、よくお越し下さいました。私は皆様のお世話をさせて頂きますカーフと申します。神官長様より申しつかっておりますので、何なりとおっしゃって下さい」
「これは痛み入る」
と、これも馬から降りながら、ラウルス。
「では早速で申し分けないが、厩へご案内頂きたい。それと、カーフ神官にはスピカ様を神官長様の下へお連れ願えるでしょうか」
「もちろんでございます」
そう微笑んで、カーフ神官は背後に整然と控えていた神官見習い達に頷いてみせた。それに応えてすぐに各々が馬の手綱を受け取りに行く。ラウルスは部下達に厩まで同行するようにと指示して、スピカに続き大神殿の扉をくぐった。その後にアンゲルス神官、ネウラ、アクルクス、そして〈オクルス〉が同じく大神殿に足を踏み入れる。が、その〈オクルス〉の足が一瞬止まった。常に変わらぬ鉄面皮が、その一瞬だけ微妙に歪む。
「〈オクルス〉?」
と怪訝そうに振り返ったアクルクスに――それも逆光で――、それが見えたかどうか。それでも〈オクルス〉は瞬時に表情を消した。
「? ――遅れるな」
「…ああ」
〈オクルス〉は、何事もなかったように歩き出した。
大聖堂内は、薄く磨き上げた石英の板をはめ込んだ天蓋部からの採光と等間隔に掲げられた小さなランプによって、岩壁に取り囲まれた中とは思えぬ程の明るさを得ていた。象牙色の岩肌からの反射も手伝っての事とはいえ、見事な技術と言える。これが緻密な計算によるものか、はたまた長い年月の間に改良を重ねてきたためのものかは、今となっては誰にも判らなかったが。
「――この大神殿を通り抜けた辺りから私達の居住区になっておりまして」
と、やわらかな声音で、カーフ神官が歩きながら建物内について語り始める。
「部屋はすべて岩壁外部に面しており、換気と採光ができるようになっています。皆様のお部屋は一階にご用意致しました。ですが、何しろこういった場所ですので、いろいろ不都合があるかと存じます。その際は私でも誰でも構いませんので、その都度何なりとお申し付け下さい」
「ありがとうございます」
答えたスピカの顔に、ようやく笑顔らしい笑顔が戻る。一同は、カーフ神官の案内で大聖堂を通過し、奥のドアを抜けてその居住区へと入っていった。と言っても、一階は神殿内の祭祀のための部屋が並び、実際に神官達の居室と呼べるのは階上の部屋のようだ。通りすがりに、カーフ神官はずらりと並ぶドアのそれぞれが祈祷室や書庫や事務を取り仕切る部屋などだと説明しながら、スピカ達を目的のドアの前まで導いた。
「鳩が着いてからというもの、神官長様は皆様がお着きになるのを心待ちにしておられたのですよ」
カーフ神官がそう微笑んでドアを叩くとすぐに返った応えが、彼の言葉を裏付けていた。招きに応じて入室した一同を執務机から立ち上がって迎えた神官長が、ラウルスら剣士が姿を見せるとその顔をわずかに曇らせる。しかし彼はすぐにスピカに満面の笑顔を向けた。
「これはスピカ姫様。このような辺鄙な所までよくおいで下さいました。悪路でたいへんでしたでしょう? どうぞ儀式までゆっくりとお体を休めて下さい。――時に…」
神官長はアンゲルス神官をちろりと見やった。
「先に聞いていた人数と違うようですが?」
「はあ、あの…まあ…、いろいろとありまして…」
早くも吹き出した汗を拭いながらしどろもどろに答えるアンゲルス神官に代わり、スピカがラウルス達を紹介する。
「こちらはラウルス・エルト・ディーガル。私の父が後から寄越してくれた護衛の者です。それから…」
と、続いて〈オクルス〉を紹介しようとした彼女の機先を制して、神官長は、今度ははっきりと不快感を示した。
「では剣士の方は他にもおられると?」
訊き返す神官長に、ラウルスが頷く。
「自分の部下が二人、厩におります。ご挨拶は私が代わりに」
「困りますなあ」
神官長はラウルスの言葉も遮った。その、厳しい相貌がさらに引き締まる。
「ここはマーガム神殿の、我が国における北の要なのですよ? あまりそういった方々を連れて来られるのはいかがなものかと」
「ではスピカ様お一人で来れば良かったと申されるか」
ラウルスの声音がわずかに凍る。しかしあくまでも丁寧な物腰を崩さぬ青年に、神官長は頭を振った。
「剣士の皆さんが信心からお出でなのでしたらこんな事は申しませんが。もちろん姫様の事情も伺っております。しかし、この聖なる東屋に剣を振り回すような方々をそうそうお迎えするわけにもいかないこちらの事も、ご考慮頂きたい」
「――!」
「アクルクス!」
思わず怒声を上げかけた弟の、胸板を左手で押さえ、小さくも鋭く制止したラウルスの表情は平静であったが、アクルクスの動きを止めた腕はびくともしない。それをよそに、神官長は長くのばした白いあごひげを撫でつけながら嘆息した。
「ありていに申せば、殺生の臭いといったものを神殿内に持ち込んで頂きたいとは思えないという事です」
「ご懸念、ごもっともです」
ラウルスが、身を引いたアクルクスから腕を下ろし、答える。
「ですが自分達も任務であります。この点を踏まえて頂いた上で、部下の行動の責任はすべて自分が取ります」
「ほお? して、その保証は?」
神官長は、やや斜に構えて青年を見やった。対して、
「神名とディーガルの家名にかけて」
きっぱりと言い切り、真正面からこちらを見返してくるラウルスを、神官長はしばし黙って見つめていたが、不意にふと、口元を緩めた。
「なるほど確かに、部下の方々をきちんと掌握しておいでのようだ」
神官長はおとなしく一歩退がったアクルクスにも目をやり頷いてから、続けた。
「あなた方の事情も事情ですし、何より、今の私の失礼な物言いにもあなたは実に礼儀正しく応じて下さった。それで充分です。あなた方を信じる事にしましょう」
「ありがとうございます」
試されたか、とラウルスが苦笑いを浮かべた。それに、釘も刺された事も。無論、腹立ちを覚えなかったわけではないが、それは慎重に苦笑の下に隠す。それからラウルスは、わずかに微笑みすら浮かべて神官長が差し出した手を握り返した。痩身の老人とは思えぬ握力が、力強く青年の手を握りしめ、離れる。
「それで――」
神官長は、カーフ神官を振り返った。その間にラウルスは、まだ少ししびれの残る右手を握りしめ、隠すようにして脇に垂らす。これが神官職の老人の力か、と喉仏がぐびりと上下した。まるで年経てなお壮健な剣士のようだ、と。
そんな青年のかすかな困惑をよそに、神官長はカーフ神官にきびきびと指示を出していた。
「お部屋の用意は大丈夫ですか? それから皆さんは昼食がまだでしょう。そちらの用意は? あと、姫様のお疲れが取れ次第、すぐに儀式にかかれるよう準備は怠りのないように頼みます。それでは皆さんをお部屋にご案内なさい」
留まる理由もない一同は、再びカーフ神官の先導で用意された部屋へと向かった。ひとまずスピカに割り当てられた部屋――といっても寝台と文机と一脚の椅子があるだけの簡素な部屋だ――に全員を通して退出したカーフ神官を、アンゲルス神官が部屋に半身を入れたままで呼び止めた。
「カーフ神官、本当に私がこの前来た時から変わった事は何もないのかい?」
「ああ。どうして?」
「あ、いや、それならいいんだ」
「じゃ、昼食の用意ができたら呼びに来るよ」
そう言ってにこやかに立ち去っていったカーフ神官を見送りながら、アンゲルス神官は気がかりそうに呟いた。
「神官長様があんな事をおっしゃるなんて…」
「?」
ドア近くにいたアクルクスは、その呟きを耳にして、眉根を寄せた。が、その事を問いただす前に、ラウルスに呼ばれて皆の輪に加わる。アンゲルス神官も、ドアを閉めて話に加わった。
「神官長様に釘を刺されるまでもなく、ここで悶着を起こす気はありませんが――スピカ様、儀式の日程はどうなっておいでですか?」
「三日程、と聞いています」
スピカが椅子に腰掛けて、ラウルスに顔を向ける。わざわざスピカに割り振られたからには、多少なりと他よりは広いのだろうが、これだけの人数が入るとさすがに閉塞感は否めない。岩肌を削っただけの壁や床には歴史を感じさせる手織りのタペストリーやラグが申し訳程度に広げられていた。この辺りでは積雪量も、それに伴う寒気もたいへんなものなのだろうが、幸いスピカ達の滞在は初雪が降るずっと前までの事だ。だが秋半ばにしてはやや肌寒い空気からすると、朝夕の冷え込みは平地の初冬並なのかもしれなかった。スピカは、山に差し掛かってから羽織るようになったストールをかき合わせながら、儀式の内容について話し始めた。
「私も詳しくは聞いていないのですが、二日かけて身を清めた後、神官長様御自身による洗礼を受けるのだそうです」
ちらと視線を向けたアンゲルス神官が頷くのを見て、スピカは頬を緩める。
「それまで三日、ここでラウルス達には待っていてもらわなくてはなりませんが…。いくらなんでも大神殿にまで刺客が入り込む事はないと思いますけど」
いかにゼフ卿といえど不信心の人ではない――チェインはどうか知らないが――し、もしそれが期待に過ぎなかったとしても、命を受けた剣士たちの方が二の足を踏むだろう。
「その事ですが」
と、同じ推測――希望的なものでしかないが――をしたその時、ラウルスがふと咳払いをした。
「暗殺の件なら、しばらくはないと踏んでいいと思いますよ」
「え?」
ラウルスは、目を丸くする皆に対し、ドア脇に移動していた〈オクルス〉を肩越しに指し示した。
「〈オクルス〉がうまい事やってくれたようですから」
「ローラが?」
「だろ?」
上体をひねって笑いかけるラウルスに、〈オクルス〉は胡乱そうな目を向けたが、すぐに小さく頷いた。
「…ああ」
「と、いう事ですので、まず襲撃はないかと。もちろん自分達も警戒は怠りませんが、スピカ様はどうぞ、大船に乗った気で安心なさっていて下さい」
「でも…いえ、そうね。ローラの事ですもの、心配する必要はないわね」
スピカが軽く肩をすくめる。ラウルスと違い、彼女が〈オクルス〉の行動のすべてを推測するなど、無論できたはずはないが、少なくとも〈オクルス〉に説得されて歯向かえる自信も、それができる者もいないだろうというのも容易に想像がつくというものだった。
一人蚊帳の外の形になったアクルクスが憮然とするが、異論はないらしく、口を挟まなかった。前もってラウルスから、〈オクルス〉の姿を消していた時の行き先だけは聞いていたからでもあるが、そこで〈オクルス〉が何をしてきたかなど、簡単に察しがつく。知らず、アクルクスは両の拳をかたく握り締めていた。卑怯な手段だと思う。だが効果的ではあるだろう。それでも、剣士としての矜持がそれを許せなかった。剣を脅しの道具に使うなど!
コンタスはゼフ卿の別荘地であり、ゼフ領第二の大都市でありパロス領と隣接している地でもある。ゼフ卿本人はいるはずもないが、その懐刀と名高いチェインは来ているはずだ。かねてからアクルクス達もコンタスでチェインが糸を引いていると確信していたのだが、立場上どうする事もできずにいた。それを〈オクルス〉が代わってやってくれたというのに、その取ったであろう――おそらくは無頼のような――手段を容認するわけにはいかない。それでも助かったという思いを拭い去り切れない自分自身に対する苛立ちと口惜しさが、はけ口を求めて彼の胸中を駆け巡っていた。
しかし逆に、当の〈オクルス〉はといえば、長い前髪に隠したいつもの鉄面皮をわずかに曇らせていた。
〝おかしい〟
ざわざわと、体の中でがさざめいている。その「何か」は、〈オクルス〉自身とは全く違うところでざわめき…恐れ慄いている? 剣一本、身一つで生きる〈オクルス〉である。恐怖も不安も完璧に抑制する精神力は備えている。それなのに、それとは別のわななきが、彼女の肉体を操ろうとしていた。
〝これは…?〟
奴らか?
馬鹿なと振り切れない不安が脳裏をかすめる。〈オクルス〉は、これからの予定を話し合っているスピカらをちらりと見やった。が、すぐにこのままここに留まるのはまずいかもしれない、と視線を反らす。それも、かなり。〈オクルス〉は、口元にあてた握り拳の、人差し指の付け根を噛んだ。こんな事は初めてだった。その上、と、またスピカを見やる。
〝難儀な…〟
〈オクルス〉は、細く小さく、息を吐いた。
そうこうしているうちに、ラウルスの部下達も戻り、二人を案内してきたカーフ神官がそのまま昼食の用意ができたから、と一同を食堂へと連れ出した。その移動中、ラウルスは、荷とマントを置くだけでついてきた部下の片方が、利き手に布切れを巻きつけているのに目を止めた。
「どうした?」
目聡く見咎められ、一瞬背中にそれを隠そうとした若者は、ラウルスの無言の要求に負けてバツ悪げにその手を出しながら口を開いた。
「たいした事じゃ…」
ラウルスは、歯切れの悪い物言いに片眉を上げた。それでも言い淀む若者の背後から、同僚が口を出す。
「噛まれたんですよ、こいつ。自分の馬に」
「ウィン! この…ッ」
途端、羞恥に顔を真っ赤にした若者がウィンに食って掛かるのを、ラウルスが寸前執り成す。
「優雅がか? 珍しい事もあるものだな」
若者、グレンの乗騎グロリアは、軍馬にしてはおっとりとした性格の馬だ。そのグロリアに噛まれたとあれば、逆に自分がどんな不手際をしたのかと思われて当然だと、グレンは言い渋っていたのである。しかしウィンにばらされてしまったのでは諦める他ない。
「はあ…。まあ自分も不注意でしたし」
「グロリアも長旅で疲れていたんだろう。明日になれば元のおとなしい彼女に戻るさ」
ラウルスは、慰めるようにグレンの肩を叩いた。




