30:人類には観測できない
早朝。
深い森に立ち込める霧は濃く、大粒だ。
まるで細い雨が浮かんでいるかのよう……とまで言えば過ぎた表現だが、軽く手をかざせば肌がしっとりと湿り気を帯びる程度には湿気っている。
「んー……! ちょっと朝は肌寒いなぁ。かといって下手に暖炉使うと一酸化炭素中毒だし」
窓を開けて伸び上がり、真田が呟く。
昨夜はみんな揃っての打ち上げパーティーで夜更かしをしたので、まだ少し眠い。
アルコールも入っての席だった為、最後の方はとんでもないことになっていた……とてもではないが全年齢媒体では公表出来ない内容だ。
「おはようございます、真田さん。昨夜はお楽しみでしたね」
「おはよ、エントロピア様。お楽しみも何も、色々ヤバかったんだけど」
濃い霧の中から浮かび上がるように現われた女神エントロピア。彼女に苦笑を返し、真田は言った。
「迎えに来てくれたの? 女神様の部屋以外で会うの初めてだよな。なんか妙な感じ」
「職場の外で偶然顔を合わせた同僚みたいな感じで新鮮でしょう? 私服を着てくれば良かったですね」
「ははっ、次の機会に期待しとく。んじゃ、みんな呼んでくるから中で待ってて」
女神を招き入れ、真田はいつもの面々を呼ぶのだった。
しばらくぶりに訪れた女神空間は、小石も小枝も材木も石材も毒沼も生魚もキレイに片付けられた、白一色の無機質な空間となっていた。
「女神様、大掃除頑張ったんだな」
「余計なことは言わないでください」
真田を黙らせ、女神はここへ初めて訪れた初心な来訪者たちに正面から向き合った。
「ようこそ皆さん。私はエントロピア――転生を司る女神です。もう真田さんから聞いて、大体のことはご存じですよね」
彼女が口を開いた瞬間、不可視の波動が――神威が――ノエラたち三人を後退らせた。だがそれは威圧したのではない。圧倒的な存在感から発せられる、謂わば重力のようなモノが彼女たちを圧したのだ。
「あ、貴女がエントロピア様……えと、いつもススムがお世話になってます」
一歩進み出たノエラがペコリと頭を下げる。脳天気無双の彼女も、流石に女神の前では多少の緊張があるらしい。
「ノエラさんですね。こちらこそ、いつもありがとうございます。真田さんと一緒だと、大変なことも多いでしょう」
「ううん、全然平気です! ススムがいると楽しいから!」
にっこり笑顔を見せるノエラに、エントロピアが微笑みを返す。一瞬、二人の間で何となしに微妙な空気が流れたのだが……唯一、真田だけがその機微に気付かなかった。
「そちらの女性騎士はオルフィアさんですね。初めまして……黒球の調査、大義でした」
「ありがたいお言葉、痛み入ります。我が名はオルフィア・オファーラント。女神様にお目通りかない光栄です!」
エントロピアに声を掛けられたオルフィアが、キチッとした礼儀作法で頭を垂れた。
儀礼用の鎧に紋章入りのサーコート。他の三人は普段着だったが、彼女だけはばっちりメイクまで決めた余所行きのフル装備だ。
「いやオルフィアさぁ、そんな堅苦しくしなくても大丈夫だって。もっとラクにしろって、な?」
「真田殿はアホか! 田舎の村長さんと面会するのとは訳が違うのだぞ! 相手は女神! 村長より町長より国王より遙かに格上の激烈尊い存在だ!! ちょっとは敬え!!」
「ふふっ、オルフィアさんは分かってらっしゃいますね。前に私をネズミ呼ばわりしてたことは不問としましょう」
「え……ね、ネズミ?」
そして最後にエントロピアが視線を向けたのは、神威にあてられた姿のままで固まっていたサリエルだった。
「サリエルさん、気を楽にしてください。私と貴女、方向性は異なりますが敵対しているわけではありません。何より私に敵意はありません」
「女神エントロピア……発言の意図を確認。気遣いに感謝……け、警戒を……弛めます」
そう言ったもののサリエルの表情は強張ったまま、白磁の肌には冷や汗が浮かんでいる。
「大丈夫だよサリエルさん。エントロピア様、別に怖くないよ?」
「はい、ノエラ。分かっています……で、ですが……存在の格差が、位階の違いが……私を脅かすのです」
皆の目に映っていたのは、眼鏡を掛けた知的な女性の姿だ。
しかしサリエルの魂に感じられるのは、圧倒的な存在感。
それを例えるならば小鳥と鷲。猫と虎。いや、もっとだ。
砂粒と岩。水溜まりと海。地球と太陽――それでも足りない。
もしサリエルを地球に例えたのだとすれば、エントロピアは太陽系と銀河だけに留まらず、無数の星々と銀河の全て――膨脹を続ける宇宙そのもの。
それ程の差が感じられていた。
「さて……顔合わせも終わった所で、本題に入らせて頂きますね。例の黒い球の話です」
場が落ち着くのを待って、エントロピアがゆっくりと話を切り出した。
「まず皆さんが各地で目撃し、黒い球と認識しているもの。あれは見たままに黒い球ではありません。周囲の環境から黒い球に見えているだけ……人類には観測が不可能な、全く別の物です」
全員が首を傾げる。
真田に伝わらないコトが、他の面々になら簡単に伝わると考えた女神の認識が甘かった。
「……図表でも用意しておくべきでしたか。結論を言ってしまうなら、アレは『無』です」
女神から告げられた「無」の一言。
たった一言でありながら全員の背筋が冷えたのは、生き物の生存本能ではなかったか。
「世界の綻びから『無』が現われました。世界を袋に例えるなら、穴の開いた部分から『無』が露出している、とでも言いましょうか……各地で複数あるように感じられるでしょうが、あれらは同じ物なのです」
空いた穴から外の景色が見えてるだけ、とでも解釈すれば良いだろう。
「その『無』とは『何も無い』ということ。空気も、光も、空間も。時間さえも……全てが存在しない。『何も無い』が『在る』。それが『無』であり、あの黒い球の正体です」
「分かりやすく例えて」
「えーと……夏休みの宿題をやってない以前に、宿題が出たことさえ気付いてない状態……ですかね。デジタルに例えるなら、データがないというよりも、保存するストレージが存在しない、みたいな。まだ人類には直接観測出来ないので、何かに例えるの難しいですね」
「みんな今の説明で分かるの? すごいねぇ……私、よく分かんないや」
ノエラの一言に皆の気持ちが集約されていた感じはあったが、彼女とて分からないと言いつつもフワッとした概念として受け止めてはいるようだった。
「話を進めましょう。具体的には『無』に接触した物は、無に帰します。この世から完全に消滅し、消え去るのです」
「あぁ、ゴーストが消えるみたいな……エネルギー保存の法則的な?」
真田の声に、エントロピアは首を横に振る。
「完全消滅です。存在もろとも残滓さえ残さずに消え、誰の記憶にも残りません。もし仮に、ここまでの行程で何かが、或いは誰か――皆さんのお仲間が――あの黒い球体に触れて消滅していたとしても。それを誰も覚えていません……勿論、この私でさえも」
再び全員の肌が怖気立つ。
消えても気付かれない。
記録に残らない。
記憶にも残らず、誰も覚えていない。
それが「無」という概念だ。
「だから騎士団のお偉方は、絶対に触れるなと……私に命じたのか……?」
「そうなのでしょう。調査の過程で何人もの人や物が消えた。記録にも記憶にも残っていないが、騎士団の空席が増え、空き家が増え、それが黒い球の調査に関わっていたと間接的に気付いて、最大限の警戒をした結果なのでしょうね」
オルフィアが自らを抱いて身震いする。
消えた者の中に知人や友人がいたのでは? そう考えているのだろう。
「確認――女神エントロピア。御身であれば対応可能では? 転生を――時空を司る貴女なら『無』を世界から切り離すことが出来るでしょう」
サリエルの言葉に、エントロピアが辛そうに眉根を寄せた。
「出来ます……が、出来ません。『無』を世界から切り離すことは出来ますが、無いものに干渉することは、私にも不可能です。それを例えるならば、空っぽのプールから水を抜け、といっているようなものですから」
女神空間に沈黙が落ちる。
静寂の中、遠慮がちに口を開いたのはノエラだ。
「その『無』ってのを、放っておくと……どうなるの? みんな消えちゃう?」
「はい、最終的に『無』は世界の全てを飲み込んで消えるでしょう。と言うよりも、既に世界の幾ばくかは消え去っています。記録も記憶も残らないので、私たちが認識出来ていないだけなのです」
ノエラの表情が蒼褪めて行く。
「こ、怖いね……なんだか、凄く怖いよススムぅ……」
「そうだな」
それまで比較的静かだった真田が口を開く。
「こりゃ、やるしかねぇな」
「……えっ?」
皆が――エントロピア以外の三人が、真田を見やる。
「このままじゃ全部消える。放置は出来ねぇ! それなら……俺が、やってやる! 知恵と勇気とド根性で『無』を捻じ伏せてやるぜ!!」
無機質な女神空間に、真田の拳が高々と突き上げられた。




