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可惜夜の優しい嘘  作者: 琴音
スタルハーヴェン
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50/51

50 三度目の正直

 セシリアの耳の奥に、さざ波のような低い声が響く。

(夜が明けたのかしら?)

 その穏やかなざわめきが、いまだ凍てついた氷海を漂うセシリアの意識を引っ張り上げた。


「……おい、気がついたか」


 重いまぶたを押し上げて、視界に飛び込んできたのは可惜夜(あたらよ)の空でも、銀色の月夜でもなく、きらびやかな装飾が施された豪華な天井だった。 真鍮のランプが緩やかにスイングしている。


「……ここは?」


 セシリアが辺りを見回した。 壁はマホガニーの木材で囲まれ、最低限に置かれている調度品は、一流とわかる物ばかりだが、その脚に巻かれているロープが異様だった。

 部屋の隅には鉄板に覆われたストーブが置かれ、ヤカンから湯気が出ていた。

 そして、身体の感覚が戻ってくるにつれ、手足の先がじんじんと焼けるように痛くなる。 思わず顔をしかめた。


 確か、深夜に小舟で沖合に向かったはずだった。 自分の運命を神に委ねるために……。


(……という事は、生き延びてしまったのね)


 自分の身体であるはずが、鉛のように重く自由が効かない。


「無理に動くな。 まだ、冷え切っている」


 セシリアの顔を覗き込んできたのは、オリーブの肌と夜明け色の瞳の男、タリクだった。


「なぜ貴方が? ここは?」

「ここは、国へ戻る私の船の中。 それよりも、これを一口飲むといい」


 タリクはそう言って、セシリアの背中にそっと手を添え、上半身を起こした。彼の大きな手のひらから伝わる確かな体温に、セシリアは思わず身構えた。


 差し出された銀のカップには、赤ワインにシナモンやクローブ、そしてたっぷりの蜂蜜を加えて煮立たせた、温かい薬草酒が満たされていた。

 差し出された縁に震える唇を寄せ、小さく一口すする。 喉を焼くような熱さと甘みがじわりと広がり、凍りついていた感覚が指先へと溶け出していくようだった。


「……ありがとう」


 掠れた声でようやく紡いだ感謝の言葉に、タリクは満足そうに目を細めた。


「礼には及ばない。だが、君の肌はまだ驚くほど冷たいな」


 タリクはセシリアを優しくベッドへ横たわらせると、あらかじめストーブの前で温めておいた新しい毛布を、手際よく彼女の首元まで掛け直した。さらに、熱い湯を注いだ金属製の湯たんぽを、セシリアの冷え切った足元と脇の下へと滑り込ませる。


「荒療治だが、凍傷を防ぐにはこうして急所を全方位から温めるのが一番だ」


 その時、セシリアの体が小さく震えた。温まり始めたことで、かえって体中の神経が目覚め、激しい悪寒が波のように押し寄せたのだ。 歯の根が合わずにガチガチと鳴る。

 タリクは迷うことなく、自身の分厚いビロードのコートを脱ぎ捨て、ベッドの端に腰掛けた。


「君を抱えるのは二度目だな」と、意地悪な表情を浮かべたタリクは、その大きな両手で、セシリアの震える肩や腕を、ゆっくりと、しかし力強く擦り始めた。


 耳元で囁かれる異国のアクセントが混じる低い声。毛布越しに伝わる、タリクの胸の鼓動と圧倒的な熱量。異国の香油のような、わずかにスパイシーで甘い香りが、セシリアの鼻腔をくすぐる。

 衣服の擦れる音と、ストーブの薪がパチパチと爆ぜる音だけが、防音性の高い豪華な船室に響いていた。

 タリクの献身的な看病に包まれるうち、セシリアを襲っていた激しい震えは次第に収まり、彼女の頬には、薔薇のようなほのかな赤みが差し始めていた。


「それで、何だってあんな所で寝ていたんだい?」


 再びセシリアをベットに横たわらせたタリクが、何かのついでの様に、軽く聞いてきた。

 セシリアは、自分の顔を覗き込む、その夜明け色の瞳をジッと見つめた。 彼に全てを話してもいいものか、それを見極めていた。


 その猜疑心に気がついたのか、先にタリクの方からセシリアの発見に至るまでを話し始めた。

 彼の話は、単純明快だった。 出航しようとした時にセシリアの小舟を見つけた事、スタルハーヴェンに戻る時間が惜しくて、そのまま航海を続けている、と。


「それで、君はどうしたいの? エヴァーグリムの妖精さん?」


 セシリアの眉間に皺が寄る。 なぜ、今、その呼び名で自分を呼ぶのか。 彼は味方なのか、それとも……。


「――貴方、どこまで知っているの?」

「どこまでって?」

「たとえば……、私がイェレンシェルナ伯爵との婚姻を、国の事情で無効にされた事とか?」

「あぁ、知ってる。 なんなら、英雄を待ち続けて平民になってしまった愚(・)か(・)令嬢だって事も」

「なんですって!?」


 セシリアは憤慨する。 ついこの間知り合った者に『愚か者』と言われる筋合はない、と思ったのだ。


「だってそうだろ? 君は一度フランゲルを捨てたんだ。 それなのに、一平民となった君が、領主さえ見捨てたエヴァーグリムを、生命をかけて守ろうとしたんだろ? それなら、初めからフランゲル伯を名乗って、君が領主になっていれば良かったじゃないか……。 と、思うわけだ」


 正にそうだ。 エヴァーグリムを捨てきれないのなら、素直に親族の提案を受けながら、フランゲル伯爵を名乗れば良かったのだ。

 それなのに、疑心暗鬼になり意固地になって、フランゲル家を捨てたのだ……。


 そして、マグヌスを待ち続けて裏切られ、アレクシウスを信用し捨てられ、愛しいルーカスをも喪った。


「もう、私には何もないのよ……」

「えっ?」

「よく言うじゃない。 三度目の正直。とか、何とかの顔も三度目まで、とか」


(――急に何を言い出すのだろうか) タリクは唖然としてセシリアを見つめた。 寒さにやられて、おかしくなったのだろうか。と、わりと本気で心配した。


「だから、三回というのは何かの区切り何だと思ったの。 もう、私には何もない。心配する事もない。 心残りだったフランゲル領はステンボック家が治めてくれているし、マグヌスもいる。 なら、私の運命を神(・)に委ねてみようと思ったの」


 タリクの眉がピクリと動いた。


「黙れ……」

「えっ?」


 部屋の空気が一瞬で凍りつき、セシリアはビクリと肩を揺らした。 

 タリクの先ほどまで優雅な微笑みは完全に消え去り、夜明け色の瞳には冷徹な蔑みと激昂が宿っていた。


「そんな浅はかな理由の為に……。 生命を何だと思っている」


 タリクは思わずセシリアの肩を掴み、強く揺さぶった。 その肩は、タリクの想像より細い。

 あの時、気まぐれに出航を早めていなければ、もし発見するのが、後数分でも遅ければ……。 そう、考えるだけでタリクの脳裏に最悪の恐怖が走る。

 それなのに、目の前の令嬢はその恐怖すら理解していない。


「君(・)を守る為にどれだけの人々が、スタルハーヴェンの人々が心を砕いていたかわかるか? 君が望んで死を選んだ事を聞いたら、君の侍女や友人、それにアミーラやユセフは? 彼らの想いはどうなる? そんな事など考えた事もないのだろう」


 軽蔑に満ちた深い溜息が、タリクの唇から漏れた。彼はすっと身を起こし、ベッドに横たわるセシリアから物理的にも、精神的にも距離を置くように一歩下がった。

 その視線は、もはや温もりを一切持たない氷の壁そのものだった。


「私の船において、命を粗末にする我が儘な者を優しく迎えるゆとりは無い。……頭を冷やすといい。 それと……、その諺(ことわざ)の使い方は間違っている」


 タリクはセシリアに背を向け、静かに部屋を去っていく。 その彼の背中だけが、暗がりに残された。

タリクがセシリアを救う下りや症状は、医療的におかしい部分があるかもしれませんが、あくまで創作であり古典療法だとご理解下さい。

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取り合えす 助かって良かった タリクさんちょっと怖いけど…
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