51 新世界
心身共に不調だったセシリアが、ようやくベットから身体を起こせるようになった頃、世界は一変していた。
甲板の手すりをしっかりと握り、眼下を見下ろせば、細かな氷が覆っていた海原は、紺碧の色を称え白銀の光を放っていた。 身体を覆っていた暖かな毛皮は必要なく、涼やかな潮風が頬を撫でていた。 見上げれば、ギラギラと照りつける太陽が、項垂れているセシリアを傲慢に見下ろしていた。
「もう数日で、シャハバールに着くぞ」
その声にセシリアは、ドキリとする。 思わず身構えると、声の持ち主であるタリクはカラカラと豪快に笑い出す。
「なんなの?」
「いやいや。 いつになったら従順な侍女になるのかと思って」
「侍女になるなんて言ってないわ」
「じゃあ、娼婦か?」
「なっ……!!」
タリクはセシリアの頭をフワリと撫で、豪快な笑い声を残したまま甲板の向こう側へと歩いて行く。
「掴みどころの無い人……」
恨めしそうにその背中を睨んだセシリアは、再び紺碧の海原に視線を戻した。
タリク・エル・ファッシ。 産気付いたセシリアを、マグレブ公国の船へと運んでくれた貴人。
タラウィー国のシャハバールという名の港町を持つ領主であり、商人でもある彼は以前、妻とその子供を亡くしていた。 出産時の事故だそうだ。
だからなのか、セシリアが自分の運命を天に委ねた事が許せなかった。
だが、セシリアは生き残った。
タリクに救われたその生命をどう使うべきか、彼女は悩んでいた。
前回、アレクシウスに救われた生命を、彼に請われるまま彼に預けたが、結果、捨てられ全てが無に帰した。
こんな事なら、救って欲しく無かった。 あのまま、マグヌスに恋したまま生を終えたかった。
だが今、この現状はあの時よりも最悪だった。 セシリアには何も無い。 誰も愛してくれない。 愛する人もいない……。 空っぽなのだ。
タリクから「セシリアとして生き残るか、はたまた別人として生き直すか。 シャハバールに着くまでに決めておけ」と、言われている。
『セシリア』としての人生は、ルーカスを喪った瞬間に尽きてしまっていた。 そう、セシリアは考えている。 なぜなら、ルーカスはセシリアの全てだったのだから。
しかし、タリクに言われ改めて気が付いた事もある。 自分を支えてくれていたアンナやシグネ、それにスタルハーヴェンやエヴァーグリムの領民たち。 もちろん、ウルリカを始めとしたステンボック家の人々。 彼らに支えられていた事で、平民になっても生きてこられた。
「なんて、恩知らずなのかしら」
セシリアは、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
今、彼らはどんな思いで過ごしているのだろうか。 自分の失踪に驚き、心を痛めているかもしれない。 雪深い山々や凍りついた海原を徒歩で、ソリで、私を捜しているかもしれない……。
「でも……。 でも……」
分かっている。 分かってはいるのだ。
でも、アレクシウスの事を思うと胸が抉られるように苦しくなるのだ。 あんなに愛していたのに……。 あんなに愛しいと心から思える人に、もう出会える気がしない。
こんな最後を迎えるなら、出会いたくなかった。
それならば……。
※※※※※※※※※※※
その令嬢は、風にはためくドレスの裾を抑え、船べりの手すりをしっかりと握っていた。
港から吹き付ける風は、スパイスの香りを乗せ令嬢の髪を撫でていく。 懐かしいアミーラの香りだった。
激しい波が打ち付ける赤岩の岸壁に、太陽の光を跳ね返す漆喰塗の白い城壁がそびえ立っているのが見えてきた。 港内の穏やかなエメラルドグリーンとのコントラストが鮮やかだった。
一見、スタルハーヴェンの港と似通っているように思えたが、シャハバールの港に近付くにつれ細い路地に建つ馬蹄型のアーチを持つ石造りの門や、幾何学的なモザイクタイルで飾られた塔に、ここはメルヴェイユではない異国なのだと思い知らされる。
急に甲板が賑やかになった。 あちらこちらから怒号のような声が聞こえ、慌ただしく水夫たちが駆け回る。
木の軋む音、巨大な帆がバタバタとはためく音が彼女の鼓膜を震わせる。
視線を下に落とすと、岸壁はすでに狂乱の坩堝だった。 色鮮やかな衣装をまとったタラウィーの街の人々が、黒山の人だかりを作っている。
彼らは一斉に船を見上げ、口々に理解できない現地の言語で叫び声を浴びせてくる。
(私は、本当に異郷の地へ来てしまったのね……)
恐怖とも高揚ともつかない震えが、ドレスの奥の膝を小さく揺らす。
「錨を入れろッ!」
次の瞬間、ドボォン! とすさまじい水飛沫を上げて、巨錨が海底へと突き刺さった。 船首と船尾から放たれた太い麻縄が空を舞い、岸壁の係留柱へと巻き付けられる。
ギギ、ギギギギギ――!
船体が自重に耐えかねて、悲鳴のような重低音を響かせた。 うねりに押された巨躯が、ついに赤岩の硬い岸壁へと衝突する。「グシャリ!」と船べりの藁束が潰れる鈍い衝撃が甲板に走り、令嬢の身体が大きくよろめいた。とっさに手すりを掴み直した彼女の目に、ドシンと音を立てて架けられた分厚いタラップが映る。
その瞬間、背後から声を掛けられた。
「セシリア嬢。 準備はいいか?」
タリクだった。夜明け色の黎明の瞳が、柔らかく微笑んでいる。
セシリアは自分の胸の鼓動が、激しく高鳴っているのを感じていた。 今、この瞬間から生まれ変わるのだ。
長らく間が開いてしまいました。
まだ、読んでくれる方がいれば幸いです。




