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可惜夜の優しい嘘  作者: 琴音
スタルハーヴェン
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49/49

49 賭け

 セシリアは一世一代の賭けをしようとしていた。 万が一、失敗したとしても心残りはない。 もう、自分には()()残ってはいないのだから。 


 ―――スタルハーヴェンの街が寝静まる頃、領主館を抜け出したセシリアは、波止場の小舟に忍び込んでいた。

 カンテラの灯りを頼りに、濃紺の闇の海原へと漕ぎ出したのだ。 

 冬の足音が聞こえてきている頃なので、港にも薄氷が張っていた。 それを、木のオールで割りながらセシリアは進む。 


 氷の膜に鋭く尖った金属のブレードが触れるたび、硬質な金属音が夜の静寂を切り裂いて響き渡る。

 砕け散った氷晶が月の光を浴びて、まるで冷たい星屑のようにきらめきながら闇へと吸い込まれていくのだ。


 凍てつく大気が張りつめて、セシリアはブルリと身震いをする。 氷海を渡ってくる海風は、想像以上の冷たさで身体の芯まで凍りつかせる。

 だが、氷を砕く手を止めるわけにはいかなかった。

 オールを握る、かじかむ手のひらに息を吹きかけ、騙し騙し進んでゆく。


 ガギィーン、と鈍い衝撃とともにオールが氷の表面で弾かれた。 だんだんと厚みを増した氷がセシリアの行く手を阻みだしたのだ。

 同じ場所に何度もオールを叩き込むが、硬質な音が闇夜の静寂に響くだけで、その氷にはひび一つ入らない。

 気がつけば、いつの間にかセシリアの乗った小舟の回りに、新たな氷の結晶ができ始めていた。


「ここまでかしら……」


 どこか満足気にセシリアは呟いた。

 すべてを無くしたスタルハーヴェンで、すべてを終わらせようと決めていたのだ。


 豪華な毛皮のマントはとっくに潮を吸って凍りつき、かつて刺繍針を動かした指先は、感覚を失って赤黒く腫れ上がっている。 

 ミシ、ミシシ……と、小舟の周囲で氷がさらに締まっていく。 逃げ道はない。 オールを握る力を抜くと、木製の柄がカランと音を立てて船底に転がった。


 死に場所を探し求めてここまで来たはずなのに、いざ絶対的な凍結に囲まれると、耳が痛くなるほどの静寂が胸を締め付ける。 

 見上げる夜空には、凍てついた月がただ冷ややかにセシリアを見下ろしていた。 アレクシウスと同じ青銀色(ブルーシルバー)の輝きを持つ月が。


 できる事なら、夜明けの可惜夜(あたらよ)の空を眺めながら眠りにつきたかった。 


 だが、そうすれば、誰かに見られる危険が大きかった。 誰にも気付かれる事なく海原に出なければならなかったのだ。


(まぁ、いいか。 アレクに見守ってもらえてると思えば……)


 そういう想いに至った事が可笑しくて、セシリアはクスクスと笑い出した。 

 もう、アレクシウスは自分の事を切り捨てているのに、まだ自分には未練が残っている。 その事が滑稽で、憐れで、哀しくて、笑えてきた。


 セシリアは月の銀糸を掴もうと、宙に腕を伸ばした。 思い起こされるのは、アレクシウスの柔らかな髪束。 ルーカスのフワリとした髪。

 涙が頬を伝った。 伝った側からピリリと凍りつく。


 たが、不思議な事にだんだんと寒さを感じなくなってきた。 感覚を失っていた指先は、もはや自分の物では無いように思えた。


 セシリアはゆっくりと瞳を閉じた。 


 凍てつく静寂の中で、氷の軋む音が消え去り、心臓の鼓動だけが耳に響く。 世界からすべての音が奪われていくようだった。

 それと共に、抗いようのない強烈な睡魔が襲ってきた。


 セシリアは微笑んだ。 穏やかな微笑みをたたえたセシリアは、深く、深く、銀世界の闇の底へと意識を委ねていった。


 セシリアは、自分の運命を神に委ねたのだ。 まだ、自分を必要とする者がいるのか、否かを。


 できる事なら、真綿に包まれるような暖かく優しい世界に旅立ちたい、と願いながら。




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