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可惜夜の優しい嘘  作者: 琴音
スタルハーヴェン
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47/49

47 凍月

 スタルハーヴェンの港は、海が閉ざされる前の『最後の狂乱』に包まれていた。


「急げっ! 氷に閉じ込められたいのかっ!」


 親方の怒鳴り声が、マストが立てる軋みの音と共に、あちらこちらから響いてくる。 桟橋には、交易品が詰め込まれている木箱や鉄の延棒が山のように積まれていた。

 それらを商船の腹に詰め込む労働者たちの息は白く、防寒用の毛皮から漏れる汗は、白い湯気となり立ち上がっていた。


 沖合では、すでに薄氷がナイフの刃のように海面を覆い始めている。一度本格的に凍り始めれば、春先まで船は一歩も動けない。

 港に泊まる貿易船は、冬眠前に食いだめをする獣のように、ワインの樽や塩の袋、穀物などを次々とその巨大な腹に収めていた。


 桟橋から少し離れた巨大な倉庫が立ち並ぶ一角で、厚手のマントに身を包んだ商人が、手帳を片手に厳しい目で、その光景を見守っていた。


 数週間もすれば、この喧騒は嘘のように消え去るだろう。波止場を支配するのは、船の活気ではなく、厚い氷の上を滑るソリの鈴の音と、凍てつく沈黙だけになるのだった。


 セシリアはその喧騒を、自室のテラスから見下ろしていた。 水平線を輝かせているのは、話に聞く薄氷なのだろうか。 陽射しに照らされ、キラキラと輝いていた。


 その胸には、暖かげなお(くる)みに包まれた男の子が抱かれていた。 その子は、父親譲りの青銀色(ブルーシルバー)の髪色とアンバーの瞳を持ち、ルーカスと名付けられた。


 スタルハーヴェンの冬は厳しい。

 エヴァーグリムもそれなりには寒かったが、スタルハーヴェンには、凍てつく海面を通る海風が吹き付ける。


「耐えられない寒さではなかったわ」

「セシリア様には()()でしょうけど、ルーカス様には命取りになります」

「また、その話?」


 アミーラは、赤子を取り上げた時、助産師の顔色が変わった気がしたのだ。 その事が、ずっと胸に引っかかっていた。

 一番に考えられるのは、この冬を越せる体力が無い事だった。 それほどにルーカスは小柄だった。 

 だからアミーラは、何としてもこの親子を温暖なマグレブ公国に連れて行きたかった。 海原が凍りつく前に。


 だが、その不安はセシリアに伝わらない。


「何度も言うけど、ルーカスをアレクに会わせたいの。 もしかしたら、最後の船便でこっちに来るかもしれないじゃない」

「ですから、そのような連絡があったのですか?」

「………」


 セシリアはアミーラの言葉が聞こえないフリをして、プックリと膨らむルーカスの頬を突付き、天使のような微笑を堪能する。


「こんなにも可愛らしいのよ? きっと、アレクだって会いたいはずだわ」

「セシリア様……」


 アミーラは観念した。 だが、もう時間が無いのだ。 明後日にはマグレブ公国へと戻る船が出る。 その船に乗らなければ、春までこの親子は氷の世界に取り残されるのだ。


 溜息と共に部屋を出ようとしたアミーラだったが、その扉を閉めようとするのを邪魔する者が現れた。

 産気付いたセシリアを、公国の船へと運んだ貴人だった。 タリクと名乗る彼は、多くを語らなかった。

 フランゲル伯の印章が押されたタラウィー国の通行証を携帯していたので、怪しい人物では無い。という事しかわからない。

 マグレブ公国とタラウィー国は交流があるが、さすがにアミーラもユセフも彼の事は知らなかった。


「フランゲル伯爵。 私も彼女の提案に乗るべきだと思う。 じゃないと、せっかく救った命が無駄になってしまう」

 少し演技がかった喋りでセシリアの気を引こうとするが、彼女は乗らない。 眉間に皺を寄せ、蔑むような視線を投げかけるだけだった。

「本当にしつこいわね、二人とも。 アレクにルーカスを見せるだけじゃない。 何でそんなに急かすのよ。 ねぇ?」

 そう言いながらセシリアは、ルーカスの顔を覗き込む。


「なら、なんでイェレンシェルナ伯爵は来ないんだ? 船ならとっくに着いているし、何なら来週には出航予定だが」


 セシリアの肩がピクリと動き、アミーラはタリクの袖を引っ張る。 だが、タリクは止まらない。


「おかしいだろ。 こんな狭い街の中で領主が一人で子供を産んだ事なんて、とうに知れ渡っている。 それなのに、当事者の伯爵はもとより商館の誰からも祝いの品が届かないじゃないか」

 タリクは腕を広げてみせた。 セシリアの部屋の中は、スタルハーヴェンにある商館から贈られてきた子供服や織物、珍しい玩具で溢れていた。


「きっと忙しいのよ。 来週にも出航なら、その準備があるでしょ?」

「なら、私はどうだ? 私だって忙しいが貴女の様子を見にくる時間ぐらい作れる。 貴女とは、何の関係も無い私でさえ、時間を作れるんだ。 ルーカスの父親である伯爵なら、会いに来て当然……」

「うるさい、うるさい、うるさいッ!!」

 セシリアは金切り声を上げ、首を左右に振り乱す。

「そんな事はわかっているわ。 だから何? ほっておいてよ。 私の事なんて、ほっておいてよッ!!」

 セシリアの声に呼応するように、ルーカスが鳴き声を上げた。 その声にタリクはビクリと身体を震わせた。


「まぁ大変。 ルーカス様の食事の時間ですわ。 タリク様、申し訳ありませんが御退室を……」

 アミーラが、タリクの背中をグイグイ押しながら、退室を迫る。 

「また来るからな。 貴女が、ここを離れる決心がつくまで、また来るからなッ!!」

 タリクは捨て台詞を吐くが、ほとんどが頑丈な扉に遮られてしまっていた。


「クソっ」


 タリクは、目の前の扉に悪態をついた。 残された時間は僅かなのだ。


 ※※※※※


 か細い鳴き声を上げるルーカスを見るセシリアの眼差しは聖母のようだった。 これほどまでに慈愛に満ちた眼差しはないであろう。

 セシリアは自身の胸をはだき、ふくよかになったその胸の尖をルーカスの口に含ませた。


 セシリアにはまだ、乳母がいない。 アミーラの勧めもあり、自分の乳でルーカスを育てる事にしていた。


 その様子を見守っているアミーラは、やはり、自分の不安は的中していると確信していた。 

 鳴き声が弱々しいのもそうだが、ルーカスの口元から何度も乳首が抜けてしまう。 吸い付く力も弱いのだろう。 この分では、満足に母乳が飲めているのかも疑問だ。


 ルーカスが痩せ細っている事からも、事態は悪い。 この時期の赤子は、丸々と太った豚のようでなければならない。


 アミーラは意を決して告げた。 今まで遠慮して、不幸続きのセシリアにこれ以上つらい思いをさせたくなくて、なかなか言えなかった言葉。


「セシリア様。 ルーカス様の状態は宜しく無いです。 生命の危険があります」


 この街の誰もが知っていた。 

 アレクシウス・イェレンシェルナ伯爵が、ヴィンドストランド国の商館にいる事を。


「伯爵様は、ここには来ません。 アンナやシグネが何度も伯爵様に面会を申し込みましたが、全て断られています。 手紙の受取も拒否されました。 セシリア様、心を決めてください。 もう、あきらめて下さい。 ルーカス様の為にも」



「――知ってるわ」


 ポツリとセシリアが呟く。 その思いもしない返答にアミーラの思考は凍りつく。 何か言わなければ、と思えば思うほど焦りで頭の中が白くなるのだ。

 開いたままの口が、頼りなく空気を吸い込んだ。


「ここに座っているだけでも、下を通る人々の話が風に舞って耳に届くのよ。 聞きたくない言葉ほど鮮明にね……」


 セシリアは変わらず微笑みながら、何度もルーカスの口元に乳首を含ませる。 もう、ルーカスは泣いていない。


「それに、ルーカスが生きられない事も理解してる。 たぶん、私が一番……」

「それなら、なぜ……」


 アミーラは、やっとの思いで言葉を絞り出した。

 セシリアはゆっくりと視線をルーカスからアミーラに移した。 その瞳は、言葉にできない諦めを孕んで、アミーラの胸を締め付ける。


「だからよ。 だからこそ、アレクと過ごしたここ、スタルハーヴェンで全てを終わらせたいの」


 ――数日後、ルーカスと名付けられたその男の子が、その短い一生を終えた。 小雪の舞い散る深夜の事だった。


 夜空には銀糸の様な月が浮かんでいた。 アレクシウスの髪色のような青銀色(ブルーシルバー)の輝きを放ちながら。







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