46 光
セシリアは恐怖に囚われていた。 こんな街なかで、動けなくなってしまうなど想像もしていなかった。
(こんな所で、立会もなく子供を産むなんてあり得ない)
何としても自室……、せめて何処かの貴族所有の商館にたどり着きたいセシリアは、痛みが襲ってくる前にと、どうにか立ち上がり歩き出そうとするが、目の前には貴族街へと続く長い坂道が立ちはだかる。
もちろん、アンナたちの必死の制止の声が雑音として聞こえてくる。
そうこうしているうちに、また、痛みがやってくる。 セシリアは、だんだん腹が立ってきた。
「埒が明かないわ」
そう言って一歩踏み出した……。はずなのだが、セシリアの身体は宙に浮いた。 正確には、抱きかかえられていた。
見上げれば、日に焼けたオリーブの肌で夜明け色の瞳の見知らぬ男が微笑んでいた。
「何? なんなの? 誰ッ?」
「お嬢さん。 暴れないで。 危ないから」
「旦那っ!」
セシリアは手脚を振り回し、旦那と呼ばれる男から逃れようと暴れるが、当の本人はカラカラ笑いながら楽しんでいるようにも見える。
「お嬢さん。落ち着いて。ほら、見られているよ?」
我に返り回りを見渡すと、遠巻きに取り囲んでいた水夫たちが、目を丸くして自分たちを見ていた。
「悪いけど、首に手を回してくれるかい? その方が運びやすい」
「降ろしなさいッ。 失礼だわ」
「こんな所で産みたくないだろ? お嬢様?」
「……」
素直に旦那と呼ばれる貴人の首に腕を回したセシリアは黙り込む。
そして、旦那を観察しながら、とある考えが思いついた。
(身なりから何処かの貴族である事は間違いない。 ならば、この子の立会人として利用しよう)と。
「親切な旦那さま。 私を何処につれて……、ッ……」
再び痛みがセシリアを襲う。思わず腕に力が入り旦那がよろめいた。
「おっと、ごめんよ。 もうすぐ着くから頑張って」
内臓が絞られるような痛みに耐えながらセシリアが顔を上げると、波止場に並んで停まっている巨大な商船たちの一隻に向かっているようだった。
「どッ……、何処に?」
「うーん。 あの奥の船。 公国の旗が見えるかい?」
「えっ?」
確かにマグレブ公国の旗をなびかせた商船が波止場に停泊していた。 アミーラから「赤様に必要な品物を国から送ってもらうから」と、聞かされていた。 いやいや。 貿易港なのだから、どこの船が停泊していてもおかしくない。
「ふっ……船……?」
「飲み屋の床で産むよりは、客室で産む方が落ち着かないかい?」
「ふ……ね……?」
セシリアは頭が働かなかった。 客室で産むとは? 商船に客室があるのか? いや、あるか……。
内臓が捻れるような痛みに耐えながら、思考を働かせるが答えは出ない。 ただ、飲み屋の床よりマシな事は確かだ。
フッと力が抜けた。 痛みが引いたのだ。
「あっ! アンナにアミーラに伝えてもらわないと。 それに、助産師も」
セシリアはアンナの姿を捜すが、何処にも見当たらない。 積まれた木箱と荷役の姿が目に映るだけだった。
「それなら問題無い。 家の者を使いに出すから。 痛みが引いているようだね。 少し急ごうか」
振動を与えないように慎重に歩いていた様子の旦那様は、その歩みを速めた。
*******
大地を暖めていたか弱い秋の陽光が、森の端のトンガリに刺されながら消える頃、つい先程まで銅色に輝いていた海原は、命を持たない鉄板のような暗いな灰色へと色を変えた。
その無機質な海原に漂う、豪華客船と見間違える程の立派な商船の一室で、その部屋に似つかわしくない声を上げているのはセシリアだった。
唸るような、絞り上げるような、今まで聞いた事も出した事も無いその声を、セシリアは他人の声のように感じていた。
ベットの上で四つん這いになったり、寝転がってみたり。 はたまた、ベットから降りて縁に手をかけ膝まづいたり……。
だが、どんな体勢を取った所で少しも痛みは和らがない。 それどころか、少しづつ痛みは増していく。
いったい、いつまで続くのだろうか。 果てのない戦いのように思えてきた。
アミーラが、ずっとセシリアの腰を擦っていた。 アンナは動き回るセシリアに、少しづつ水を飲ませていた。
そんな二人の励ましの声は、セシリアには何処か遠くに聞こえている。 セシリアはこの世とあの世の曖昧な境目に漂っている感覚だった。 それほど、感覚がおぼつかない。 痛みだけがセシリアを襲う。
痛みを逃そうと身体をよじるセシリアに、粘り気のある真綿が纏わりついているようだった。 逃げても逃げても、ゆっくりと引き戻される感覚。 自分の身体ではない感覚。 精神と肉体が引き剥がされていくようだった。
――とある瞬間『産まれる』と閃いた。
セシリアは慌ててベッドによじ登り横たわると、やはり何かを察したアミーラが、セシリアの股の間を覗き込んだ。
何やら大声で叫んでいるアミーラを横目に、セシリアは遠ざかる意識を必死に手繰り寄せていた。
身体が大きく膨らみ、プツンと弾けたように感じた瞬間、ヌルリとした感覚と共に、永遠にも感じられる痛みとの戦いが、空気を切り裂くような産声で終わりを告げた。
「おめでとうございます!」
悲鳴にも似たアンナの声を先頭に、室内が歓喜に湧く。 興奮冷めやらぬセシリアの胸に、綺麗に洗われた赤子が助産師の手で置かれた。
少しはだけたセシリアの胸元で、モゾモゾと動くその赤子の髪色は青銀色だった。 紛れもなく、アレクシウスの子供だ。
その赤子の小さな手は、狩人のように獲物を見つけ出し、その小さな口にセシリアの乳首を含んだ。
つい先程までセシリアの内側で、内臓を捻りながら暴れていた生き物が、今、人の形をしてセシリアの乳を吸っている。
その神秘的な光景に、自然と涙が溢れてきた。 痛みからでも疲労でもない、名前のつけ難い嵐のような感情だった。
その新しい命のしっかりとした鼓動が、セシリアの胸に響いていた。
マグレブ公国の商船で産まれたセシリアの子供は、メルヴェイユと共にマグレブ公国の国籍を持つ事となった。




