45 始まりの朝
その日は、朝から腹部に張りを感じていた。 脚の付け根に、突っ張るような痛みもあった。
少し心配になったセシリアだったが、助産師から「お腹の重みで筋肉が伸びる痛みがある」と聞いていた事もあり、さほど気にしていなかった。
「まだ、大きくなるの?」と、溜息をつく。
さすがに、これ以上お腹が重くなると、動くのが辛くなり困る事になるので、朝食は控えめにしよう。と考えた。
とはいっても、胸がつかえて、あんまり食べられないのだが。
いつも通りにアミーラは、ユセフが作った朝食をセシリアの私室に運び、テラスの近く海原が見えるテーブルへと並べる。
本当は、テラスで潮風を感じながら食事を摂りたいセシリアだったが、さすがに冬が近づいているここ最近は「身体が冷えます」と、アミーラに断られている。
「どうですか? 変わりはないですか?」
いつものようにアミーラが声をかける。 彼女の動きに合わせて、スパイスの香りがセシリアの鼻腔をくすぐった。
それは、食が細くなったセシリアの食欲をそそる。
「少し、お腹が張るぐらいかしら?」
「痛みは?」
「ないわ」
アミーラがそっと、両手でセシリアの腹部を包み込んだ。
「最近、お腹が動かないのだけど、赤ちゃんは大丈夫なの?」
不安そうにアミーラの顔を覗き込むセシリアの、その訴えるような眼差しに、思わずアミーラの頬が緩む。
「もう、動く隙間がないのでしょう。 そろそろ産まれる頃合いなのかもしれませんね」
「そう。 もうすぐ会えるのね」
膨らんだ腹部をそっと撫でるセシリアの口元に、自然と柔らかな弧が描かれた。 その笑顔には慈しみが溢れ、瞳の奥からは温かな光が溢れ出る。
世界中の優しさを集めても、今のセシリアの笑顔には負けるだろう。
アミーラは、春の陽だまりのような暖かさをセシリアから感じていた。
あれほど悲惨な経験しても尚、この様な慈悲に溢れる表情をもてるのか。 不思議でならない。
人伝に聞いただけだが、それでもその凄絶な日々は想像に容易くない。
愛を信じ裏切られ、それでも再び愛を信じて……。 普通ならば、心はささくれ立ち、世界を呪う毒になってもおかしくはない。 それなのに、なぜ、その子をあいせるのだろうか。
(だからこそ。 だからこそ、彼女を支えたい。と、思ったのよね)と、アミーラは振り返る。
この、繊細なガラス細工のようなお姫様を全ての悪意から守りたかった。
「痛みが出てきたら、遠くまで散歩するのは止めて下さいね」
「わかったわ」
セシリアはニッコリ微笑み、アミーラに感謝を伝える。 そして、毛織物の膝掛けを腹部にかけた。 愛おしそうに、眺めながら。
――穏やかな時間が流れる。
ゆっくりと時間をかけてセシリアは、ユセフの食事を口元に運ぶ。 その一口一口にユセフの愛を感じていた。
アミーラの優しさにも、もちろんアンナやシグネからも。
「意外と私は図太いのかもね……」
あんなに愛を憎み恨んでいたのに、時間が経ち、スタルハーヴェンの人たちに少し優しく扱われただけで、また愛を信じてしまう。
その愛の種類は、アレクシウスへの愛とは違う物である事は、重々承知だ。
でも、アレクシウスへの想いは確かに変化した。
『父親』として側にいて欲しい。
その願いは叶わなくとも、この子を認めてほしい。 そう、願わずにはいられなかった。
口元をナフキンで抑えたセシリアは、ゆっくりと椅子を引いた。 口を付けたのは、用意された食事の三分の一にも満たない。
呼ばれたアンナの眉間に皺が寄るが、セシリアは一向に気にしない。
「出かけるわ」
アンナの返答を待つことなく、セシリアは扉を開ける。 その手には、ヴィンドストランドのショールを握って。
※※※※※※
メルヴェイユ国の秋は短い。 あっという間に、冬の足音が聞こえてくる。
いつものように波止場に向かうセシリアの瞳に、その場所は、まだ昼前だというのに低い陽光を浴びて鈍い銀色に光って映る。 その色がアレクシウスの色味に似て、ドキリとさせられる。
入り江には、何隻もの商船が漂い、石畳の上には鉄材や冬を越すための穀物を詰め込んだ木箱が、城壁のように積み上げられている。
毛皮の帽子を深く被った荷役たちが、大きな声で荷を捌くが、その声は凍てつく海風に掻き消されてゆく。
セシリアの事を知らない荷役たちが、好奇の視線を自分に向けてくるのを、首元に巻いたショールを上げてやり過ごしながら、セシリアは散歩を続ける。
以前は桟橋まで歩いていたセシリアだったが、急速に冷たさを増す海風に負け、路地奥の教会に目的地を変えていた。
低く傾いた秋の陽光は、路地に並ぶ家々の白壁を淡い琥珀色に染め上げる。
その色味までもがアレクシウスの瞳に見えて、自分自身に呆れてくる。
その光は、波止場に面した居酒屋の窓ガラスを鈍く反射させていた。 まだ、昼前だというのに中からは早くも航海を終えた水夫たちの笑い声と、熱いエールが注がれた陶器の触れ合う音が漏れ聞こえてくる。
「風が変わりましたね」
セシリアの後を歩くアンナが、羊の毛皮をセシリアの肩に掛けた。
「アミーラが言っていたんですけど、秋に産まれる子供は、厳しい冬を越すために強い魂を持ってくるんですって」
「――そう。 強い子になるかしら」
「ええ。 冬の嵐を知るからこそ、春の美しさを愛する優しく強い子になりましょう」
「……」
「お嬢様?」
黙り込むセシリアにアンナが違和感を感じるのと、セシリアが座り込むのが当時だった。
「お嬢様? お嬢様ッ!」
アンナが金切り声を上げる。
「――大丈夫、大丈夫よ。ちょっと、お腹が痛くなってきた……だけ」
セシリアの額に、薄っすらと汗が滲んでいた。
実のところ、朝から感じていた張りが強くなり、少し前から痛みを感じていたのたが、急激に痛みが増した。 絞り上げられるような痛みだ。
ゆっくりと深呼吸をすれば、痛みは和らぎ遠くなる。
「ふぅ。 大丈夫よ。 今のうち、戻りましょうか」
ゆっくりとセシリアが立ち上がると、アンナの悲鳴を聞いたからなのか、幾人もの水夫や給仕係の女性が、心配そうに遠巻きに取り囲んでいた。
気恥かしさから顔を背け、急ぎ足にその場を立ち去ろうとしたセシリアだったが、一人の年配の女性に声を掛けられた。
「あんた、あの御屋敷のお嬢さんだろ? 少し休んでいったらどうだい? 馬車を呼んでおくよ」
「ご親切にありがとう。 でも、大丈夫。 まだ、歩いて戻れます」
セシリアは、差し出された手をそっと押し返し微笑んだ。 正直、一分一秒でも早くこの場から立ち去りたかった。 あの痛みが襲ってくる前に。
「でもあんた、ヒドイ顔色だよ?」
「お嬢様、ご厚意に甘えましょう? アミーラを呼んできます」
走り出そうとするアンナの腕を、セシリアは必死に引き留める。
冗談じゃなかった。 こんな、見ず知らずの人々の中に置いていかれたくなかった。
「大丈夫だから、アンナ。 ゆっくり戻れば大丈夫だから……」
押し問答が続き、時間だけが経っていく。
痺れを切らし歩き出そうとするセシリアの身体が、突然グラリと揺れたように見えた途端、彼女はしゃがみ込んだ。
セシリアの顔が苦痛に歪む。 アンナの悲鳴が海風に掻き消された。




