42 偽善
部屋に飛び込んできたマグヌスにセシリアは言葉も出ない。 なぜ、マグヌスが此処にいるのかさえ理解出来なかった。
マグヌスといえば、カウチから身体を起こしているセシリアの、ふっくらと突き出ている腹部に視線が釘付けだった。
互いに状況が理解出来ない。
「いい加減にして下さい。 今、お嬢様は大切な時期なんです。 負担になるような事は『言わない。しない。』ですっ!」
アンナが小さな身体を震わせて、巨人の様なマグヌスを押し留めている。
「――あなた、老けたわね」
「えっ?」
セシリアの第一声に、マグヌスは拍子抜けする。
何も言わず立ちすくむ彼に「とりあえず、座ったら?」と、セシリアはソファーを指差した。
そして、彼女も向かいのソファーにゆったりと腰を下ろしたのだ。
――沈黙が流れていた。 アンナが運んできた果実水の氷が、カランと澄んだ音を立てた。
「それで、そんなに慌てて何しに来たの?」
気怠い雰囲気をまとうセシリアは、おもむろに手を伸ばし水滴のついたグラスを手に取った。
セシリアには、なぜマグヌスがそんなにも慌てているのかが分からない。 そもそも、スタルハーヴェンにくる理由が、自分に会いに来る理由がわからない。
そんなセシリアに、マグヌスはポツリポツリと話し出す。
「実は、前の騎士団を除隊した後、ステンボック侯爵に拾ってもらったんだ。 それで、エヴァーグリムに常駐する事になった」
「えっ? 除隊って……。 奥様は? 侯爵の娘でしょ? 奥様もエヴァーグリムに来ているの?」
――噂通りの出来事に、セシリアは驚いた。 それと同じ位に、マグヌスの愛しい人を目の当たりにするかもしれない状況に戸惑いを感じた。
いくら過去の事で、もう何の関係も無いとしても、どんな顔をして奥様に会えばいいのだろうか。
セシリアは、何となく居心地の悪さを感じた。
「いや、彼女とは離婚した。 ここには来ないよ」
「――えっ?」
「もともとこの結婚を、彼女は嫌がっていたんだ。 今回の事も誰にも反対されず、あっという間に離婚が成立したよ」
自嘲気味に笑うマグヌスだったが、その口端の隙間から零れ落ちる寂しさは、隠しきれていなかった。
そんな彼の気持ちを他所に、ホッと胸をなで下ろしたセシリアだったが、次なる疑問が湧いて出る。
「ちょっと待って。 ステンボック家って? ウルリカの事? 彼女から、何も聞かされてないわよ」
驚き立ち上がるセシリアを、マグヌスは笑いながら座るように即す。
「ステンボック家がフランゲル領の政務を代行している事は聞いてる?」
「まったく。 始めて聞いたわ」
セシリアは、ソファーに深く座り直し、これまた深く溜息をついた。
確かにフランゲル領の政務の事など、頭の片隅にもなかった。 どこかで、以前のように王宮文官の誰か、代理人が処理しているのだろうと思っていた。
それが、まさかステンボック家だなんて……。
「ステンボック侯爵は、領主代行人が王命に背いて逃げ出した事を重く見ているんだ。 『あり得ない』と大層憤慨していたよ。 それでセシリアがフランゲル伯を名乗る事になった事を知って『後見人だから』と名乗り出たんだ」
そこまで一息で告げたマグヌスは、ぐいと身を乗り出した。 組んだ手の甲に顎を預け、僅かに口角を上げる。
瞬き一つせず自分を見つめ続ける濃紺の瞳に、セシリアは心の奥底を覗かれているような気持ちになった。 何だか、悪い事をした子供の様に、ソワソワしてしまう。
「侯爵から『エヴァーグリムの防衛強化の為に、騎士団を駐在させる』と言われて来てみたら、何処もかしこもセシリアの話題で持ち切りじゃないか……」
この言い方は、良い意味では無い。 セシリアは長い付き合いから、そう感じた。
「あ…、あら。そうなの?」
セシリアは手にした果実水のグラスに口を付け、コクリと一口、口に含む。 ――まったく味がしない。
(いったい何を言われるのだろうか)と、不安でしかない。
「なぜ『婚姻無効』なんて事になってるんだ? 相手は何をしてるんだ? そして、その身体の事、知っているのか?」
「知らないわよ。 国家間の問題だかなんだかで、認める事ができないそうよ。 私たちが一緒になると彼の家は没落するし、あっちの国は戦争ができなくなって困るんですって」
「あぁ……、中立国か……」
マグヌスは眉間に皺を寄せる。
「で、身体の事は?」
「言ってないわ。 あれ以来、会ってもないし連絡も来てないもの」
「知らせないのか? 父親だろ?」
脳内で、最後の一線を守っていた糸が、あまりの張力に耐えかねて弾けとんだ。
正論を吐くマグヌスの言葉がセシリアの耳に届いた事で、彼女の思考の歯車が火花を散らして急停止する。
抑えていた感情は、もはや「怒り」という形を保てないほどのエネルギー量に膨れ上がり、身体の内側から肉体を突き破ろうと暴れまくったのだ。
「うるさいわねっ! 私にどうしろって言うの? 私だって、どうすれば良いかなんて、わからないわよ」
セシリアは手にしていた果実水のグラスを、マグヌスめがけ投げ付けた。
そんな事は分かっているのだ。 アレクシウスに子供の事を伝えた方が良いことは。
例え結婚が無かった事になっていたとしても、子供の父親である事は事実なのだ。
彼にも『知る権利』はある。 あるのだが、その事実を知った彼がどんな行動を取るか。 それが怖い。
眉をしかめながら「嘘だろ?」なんて言われたら、どうすればいい?
結局は、怖いのだ。 アレクシウスに拒絶されるのが、恐ろしく怖い。
それに、子供を取り上げられたら……。
初めセシリアは、子供が産まれた後の環境を心配した。 だが、今ではアレクシウスに反対され、子供を取り上げられる恐怖に、日々怯えていた。
「あんたに、何が分かるっていうの?」
金切り声を張り上げたセシリアは、勢いよく立ち上がり部屋中を動き回り、手当たり次第手に触れる物をマグヌスに投げつける。
グラスやカップはもとより、本やクッション、置物まで。 持てるものは全て、マグヌスに投げ付けた。
驚いたアンナが、慌ててセシリアを止めようとするが、太刀打ち出来ない。
グラスの中味を浴びて、ずぶ濡れのマグヌスも急いで立ち上がり、セシリアを止めに入る。
「やっと、無条件に愛してくれる相手を見つけたの。 やっと……、やっとよ。それを、取り上げられたら、私はどうすればいいの? もう、ほっといてよっ!」
半狂乱になっているセシリアの言うことは、支離滅裂でマグヌスには理解出来ない。
「俺がいる。俺が、側にいるよ」
セシリアのか細い身体をギュッと抱きしめ、その場しのぎの優しい言葉を掛けたマグヌスだったが、セシリアはその腕に思いっきり噛み付いた。
「痛ッ……」
「バカにしないでッ! 私を捨てた癖に、今更なんなのよッ!」
マグヌスの腕を振りほどいたセシリアは、そのまま倒れ込み意識を失った。
薄れゆく意識の中で、セシリアはアレクシウスを求めていた。
「助けて……、助けてよ……」
セシリアが差し伸べた手は、虚しく宙を彷徨うだけだった。




