41 私の居場所
『アレクシウスの子供を産む』決心がついたセシリアは、もともと傷心を理由に引きこもっていた事を良いことに、社交界から遠ざかっていた。
伯爵位を受けた事で、噂好きの貴婦人たちからの『お誘い』の手紙が、王都の『エヴァーグリムの妖精』にチラホラと届いていたが、ウルリカが「あまりにもヒドイ姿で、人前に立てるような状態じゃない」と噂を振りまいてくれたおかげで、断りの返事を送っても「失礼だ」と言われなくて済んでいた。
もちろん、セシリアは元気だった。
レモンケーキを作ってくれたマグレブ公国の商船の料理人ユセフが、セシリアを心配して事ある毎に食べやすい食事を届けてくれていた。
自分が国に帰る時は、別の商船の料理人にセシリアの事を頼む程だ。
また、街の人々や港に留まる商船の乗組員たちまでもが、セシリアを気にしていた。
自国の妊婦に良いと言われる食べ物や飲み物、はたまた慣習までもセシリアに届けていた。
アレクシウスの愛を失ったセシリアだったが、その穴をスタルハーヴェンの人々が癒してくれていた。
第三王女フレイヤからは、嫌がらせのように大量の刺繍依頼が届いていた。 それも、王都の店舗ではなく、シグネの洋裁店に。
(さすが、王女様だわ)と、情報の速さにセシリアは関心する。
心の内が分かりにくい王女だったが、セシリアの事を心配している雰囲気は感じ取れた。
年頃になったフレイヤ王女は、他国に嫁ぐ事が決まったらしい。
この大量のドレスへの刺繍は、その準備らしい。そう、ウルリカからの手紙に書いてあった。
困ったように眉を寄せるウルリカの顔が思い浮かび、思わず笑みがこぼれる程だ。
それと、侍女たちにドレスを箱詰めさせているフレイヤ王女の姿も。
スタルハーヴェンの港には、様々な国の様々な人々が集まっているせいか、社交界に出ずともセシリアには情報が集まっていた。
そして、いつからか彼らの口端にマグヌスの話題が出てくるようになった。
――エヴァーグリムを見捨てる指示を出した上官と揉めて、騎士団を脱退する騒ぎを起こした。
――騎士団の団長は、マグヌスの義父で離婚手続がされている。
少し膨らみ始めたお腹をさすりながら、セシリアはテラスのカウチに寝そべり、レモンと蜂蜜の入った炭酸水を口にする。
妊娠してからというもの、レモンの風味が手放せない。
今のセシリアは、懐かしい昔の想い人を心配するぐらいには、心の古傷も癒えていた。
眠りが浅くなり、時折早朝に目が覚める。 すると、窓の外にあの可惜夜の空の色が見える事がある。
一時、その夜明けの空を、心底嫌っていた時期があった。
可惜夜の空の下、マグヌスの嘘を信じて、平民にまで身を落としながら彼を待ち続けた幼き日。
マグヌスの髪色が燃えるようなオレンジだから、夜明けの空が好きになったのか、可惜夜の空が好きでオレンジ色が好きになったのか……。 今ではもう、わからない。
アレクシウスが死の淵から救い上げてくれた時に見た空も可惜夜の空だった。
その頃からだろうか、オレンジ色は再びセシリアの好きな色となり、可惜夜の空を見ても、その美しさに心震えるようになっていた。
アレクシウスのアンバーの瞳が陽光に照らされて、オレンジ色に輝く瞬間も好きになった。
「私も少しは成長したのかしら? ねぇ……」と、セシリアはお腹に語りかける。
熱気を含んだ湿った潮風が、セシリアの髪を揺らす。
今、セシリアがくつろいでいるテラスは、長らく無人となっていたスタルハーヴェンの領主館に手を入れた物だった。
「好きにしろ」と言う国王の言葉そのままに、セシリアはここに居を移していた。
というもの、ホテルを出てシグネの洋裁店に身を寄せていたセシリアだったが、風が通り抜けず空気が澱みやすい部屋の間取りのせいか、体質が変わったせいなのか、この暑さにやられてしまったのだ。
妊娠して体温が高くなっていた事は分かっていたが、それを理由にするの事が嫌で、シグネに体調不良を訴えずにいた。
そんな状態だったので、暑さに朦朧とし部屋で倒れている所を、食事を届けにきた料理人のユセフに見つかり、騒ぎになった。
体調の変化に気づかなかったアンナとシグネは、ユセフにこっぴどく叱られた。
「心配だから」と、ユセフが洋裁店から連れ出そうとするのを、セシリアは「迷惑をかけたくない」と固辞した。
だが「無理して倒れるくらいなら、しなる枝のように生きなさい」と諭され、環境の整っているマグレブ公国の商館に身を寄せる事になった。
それ以降、セシリアの体調はすこぶる良い。
だが、いつまでも居候する訳にもいかず、スタルハーヴェンに身を置く決意をしたセシリアは、波止場近くの領主館に住まいを移す事にしたのだ。
通いでアンナが、食事はユセフが、話し相手はシグネが。 そして、居心地の良いセシリアの空間。 最高に幸せだった。
今や、潮風の通り抜ける涼やかなテラスは、セシリアのお気に入りの場所となり、日がな一日をカウチでうたた寝をしたり、刺繍を刺して過ごしていた。
眼下に広がる岸壁に打ち寄せる波や白壁の家々、可惜夜の空は、いつだかアレクシウスと見た風景と似通っていたが、セシリアの心は痛まない。 存外平気だった。
もう、アレクシウスに気持ちが無いのか、それとも、母になる強さなのだろうか。
少し懐かしい気持ちになり、複雑な感情が湧き上がるだけだった。
そんな穏やかな日々を過ごしていたのだが、この日は様子が違っていた。 朝から街中が騒がしいのには気が付いていた。
いつも顔を見せるシグネにも、まだ会っていなかったし、食事を運んでくれる心配屋のユセフの顔も、まだ見ていなかった。
ベルを鳴らし、レモンの炭酸水のおかわりを頼んだ後、眠気に耐えきれず少し横になるためカウチに移動した時だった。
階下が騒がしい。 何やら、言い合いをしている声まで聞こえてきた。
気になったセシリアは、少し身体をずらしテラスの手すりの隙間から通りを覗き込むと、数人の騎士がどこかの商館の従業員と揉めている様子が見えた。
(普段争い事の無い港町なのに、珍しい事もあるもんだ)と思いながら、再びカウチに深く身体を沈めた時――。
「駄目ですって!」
「ここなのか?」
ほぼ同時だった。 アンナとマグヌスが部屋に飛び込んできたのだ。
セシリアは驚きで声も出ない。 唖然として二人の顔を見比べていた。




