40 決めた。
三国間を巻き込んだ、一令嬢セシリア。 一代限りだが、伯爵位を授かり貴族籍を取り戻したセシリアの日常は、なんら変わらない。
新聞の片隅に爵位授与の記事が載り、国王の印章が押された羊皮紙の書類が届いただけだった。
未だ、自分の身の置所に悩むセシリアは、スタルハーヴェンを去ることができずに、シグネの洋裁店で昔のように刺繍を刺していた。 何かしていないと、思考が堂々巡りを始めるのだ。
その上、熟睡できていないのか、抗いようのない睡魔に襲われていた。 今も、ついうっかり寝入ってしまったようで、指先の鋭い痛みに目が覚めた。 見れば、刺繍を刺していた指先にプックリと血玉が出来ていた。
慌てて指先を口に含む。 (商品を汚さなくて良かった)と思いながらもまた、ウトウトとしてしまう。
それに、食欲もない。 常に胃がムカムカしていて、気分が悪い。 ヒドイ時は、食べ物の匂いにまで吐気がする。
アンナが気を利かせて、食べやすい物を作ってくれるのだが、まったく食べる気にならない。
婚姻無効やなんやらで、相当、精神がやられているのだろう。
「セシリア。 船の料理人からのお裾分けよ。 貴女の事を話したら『これなら』って作ってくれたの」そう言って、シグネが見慣れないケーキをテーブルに並べた。
シグネが料理人の乗っている商船の説明を始めていたが、セシリアは、そのケーキの甘酸っぱい香りに魅入られていた。
(食べたい……)
久しぶりに感じた食欲だった。 アンナが丁寧にケーキを切り分けていたが、それさえもわずわらしく感じる。
「……セシリア、あなた、やっぱり妊娠しているんじゃない?」
黙々とケーキを頬張るセシリアを見ながら、唐突にシグネが言った。 アンナも頷く。
「えっ?」
セシリアはケーキの欠片を、口に運びながら驚いた。
「お嬢様、思い当たる事ありませんか?」
――思い当たる事しかない。セシリアは顔が熱くなるのを感じ、頬を抑える。 ついこの間まで新婚だったうえに、月のモノが来ていない事に気がついた。
「食欲がないのも、熟睡できないのも、この間の騒動のせいかと思ってましたけど……」
「ずいぶんと思い悩んでいるようで、どうしたものかと思っていたけど。 妊娠なら心配ないわね」
アンナとシグネが安堵したように、互いを見やる。
「そうとなったら、お医者様を手配しないと」
パンッと手を打ち、アンナが声を張り上げた。
「駄目よ。 待って」
セシリアが慌てて二人を制止すると、驚いたように彼女たちは振り向いた。
「どうして? 早くお医者様に診て頂いた方がいいじゃない」
「そうですよ。 お身体を大切にされませんと……」
「そうじゃなくて。 私、婚姻無効なのよ?
未婚の母になるじゃない。 困るわ……」
そう、困るのだ。 真っ先に思い浮かんだのは、『フランゲル家の名前を汚してしまう』事だった。 代々続いてきた家名を汚したくはない、という思いが強くこみ上げてくる。
それに、産まれてきたとしてこの子は幸せになれるのだろうか。
噂好きの貴族たちの標的となり、悪意に満ちた言葉を投げ掛けられるだろう。
それに、この子は名門シルヴェストーレ侯爵家一族のアレクシウス・イェレンシェルナ伯爵の子供なのだ。 色々と問題がある。
一瞬、時が止まった。
「何を言っているんですか。 赤ちゃんは、望まれて産まれてくるのが当たり前ですよ? 困った事になんて、なりません。 私がさせませんっ!」
やけに堂々とアンナは言い放ち、ドンッと自身の胸を叩く。
「そうよ、セシリア。 きっと、神様がアレクシウスとの縁を繋いでくれているのよ。 何を言われているか知らないけど、あきらめちゃ駄目よ」
「そうですよ、お嬢様。 父親はハッキリしているのですから、何とでもなります」
「だから、そもそもその婚姻が無効になっているわけで……」
セシリアの話も聞かずに盛り上がっている二人にそう言い切られると、黒い感情は燻ってはいるが、国の為に切り捨てられて心底憎んでいた事を忘れてしまいそうになる。
無条件に喜ぶ彼女たちに影響を受けたセシリアの心はフワリと軽くなり(新しい命を受け入れてみよう)とさえ、思えてきたのだ。
たがその一方で(この子を愛せるのかしら?)という不安は拭えない。
「で……でも、この事が向こうに知られたら……」
セシリアは怯えた。 『国家間の問題』とまで言われたのだ。 その子供が無事でいられるのだろうか。 何かしらの妨害があるのではないだろうか。
「それは、大丈夫だと思うわ」
「私も、問題無いと思います」
シグネとアンナの二人は、またもや顔を見合わせて力強く頷いた。
「お嬢様は、今やフランゲル領の救世主なんですよ?」
「セシリアが身体を張ったおかげで、スタルハーヴェンの街が戦火から逃れたんですから」
「それは、違うわ。 この街にアレクシウスの兵団がいたからでしょ?」
『いいえ』
アンナとシグネの声が揃う。
「領主が逃げ出したのに、セシリアがエヴァーグリムに残って奮闘しているのを伝え聞いた街の人々が『自分たちも』と、ここを守っていたのよ」
「それに触発されて、他国の商船の護衛兵や護衛艦まで残っていたらしいですよ」
「今度は、私たち領民がセシリアを守る番だ」と、二人はセシリアに訴える。 この街の人々はセシリアを誇りに思っている事も。 アレクシウスとの事については、自分の事のように心を痛めている事も。
「安心して、ここで産みなさい。 世界中何処を探してもここ、スタルハーヴェンより安全な所はないわ」
「エヴァーグリムも安全だけど、まだ復興していないから、住みにくいものね」
「それに……」と、シグネが付け加える。 「美味しいお菓子もあるしね」と、先ほどのケーキの皿を持ち上げる。
「フフフ……、アハハハ……」
セシリアの喉の奥から、乾いた笑いがこみ上げてくる。 目からは熱い雫が次から次へと溢れ出し、テーブルに染みを作っていた。
(こんなに心が軽くなったのは、いつ以来だろう)
セシリアは、涙を拭う。
未婚の身で子供を産めば、どんな未来が待ち受けているのか想像に容易い。 社交界からの追放? 家門の侮辱? 貴族社会を捨て、平民にまで身を落としたセシリアが、今更何を恐れる事があるだろう。
「そうよ。 私は何も悪い事はしていないわ。 きちんと教会の許可をもらってアレクと結婚したのだもの。 婚姻誓約書にもサインをした。 未婚じゃないわ」
それに、国からは一生かかっても使い切れない恩給がある。
子供には、不自由な思いをさせるかもしれないが、いざとなったらシルヴェストーレ侯爵から手渡された書類がある。
(なんとかなる)
胸の奥に居座っていた重い塊が、春の陽光に照らされた雪のように、サラサラと音を立てて溶けていくようだった。
「なんとかなるわ」
声に出してみれば、本当に何とかなりそうな気分になる。
そんなセシリアを祝福するように、夏の香りを乗せたそよ風が通り抜けた。
「急いでお医者様を呼びに行ってきますね」
「身体を冷やしたらいけないわね……」
セシリアの言葉に、アンナが飛び跳ねるように戸口へと向かい、シグネはいそいそと部屋の奥へと向かう。
そんな二人を見送るセシリアの瞳に、キラキラと輝く青銀色の水平線が映り、活気を取り戻した街のざわめきが聞こえてくる。
彼女の心は、かつて無いほどに軽く自然に笑みがこぼれた。
そして、まだ何の形跡もない下腹部を、そっと撫でた。




