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39 煩悶

 失意のセシリアは、再びスタルハーヴェンの港あるホテルのテラスに立っていた。

 岸壁に並ぶ白壁の家々は、あの日と同じ風景をセシリアに見せる。 だが、セシリアにはもう、()()()()は巡って来ない。

 もう二度とアレクシウスと過ごす事は出来ないのだ。


 帰り際の侯爵の話が忘れられない。 内密だと言って教えてくれた――。


「今回グリムウッドは、念密な準備をしていたんだ。 確実に王都を脅かす為に。 なのに、中立を約束していたヴィンドストランド国の、それも友好的な関係を築いていた()()のシルヴェストーレの兵に襲われた。となると、どうにも弁明ができなくて。 改めて中立を誓う為に、セシリアとの婚姻無効を提案するしかなかったんだよ。 許しておくれ。 そこまでの考えが至らなかった私の責任だ。 この事は、妻もアレクも知らない。 だから、二人の失礼な態度も全て、私の責任だ。 二人を……、アレクシウスを恨まないでくれ。 私たちは、セシリアが娘になる事が本当に楽しみだった。 それだけは、信じて欲しい」


 途中、涙声になりながらも誠実に事情を打明けた侯爵だったが、それを受け止めるセシリアの眼差しは冬の湖面のように凪いでいた。 なんの感情も湧いてこないのだ。

 どちらかといえば「そちらのお家事情に巻き込まないで」と思っていた。 


「困った事が起きたら、その用紙を商館で見せなさい。 シルヴェストーレの商館は、何処にでもある。 私にできる事は、これぐらいしかない。 本当に申し訳ない」


 別れ際、深々と頭を下げる侯爵から渡された上質な羊皮紙には、印章と複雑な署名と共に『この貴婦人は、シルヴェストーレ侯爵家の大切な友人だ。 彼女に手助けを』と、書かれていた。


 その文字を見たセシリアの瞳から涙が零れ落ちる。 嗚咽が漏れた。『大切な友人』その言葉に侯爵の温かな思いを感じた。 

 だが、アレクシウスを失った事に変わりはない。 許す気にもなれない。


 侯爵が再び謝罪の言葉を述べるが、その言葉を聞き終える事なくセシリアは、静かに背を向けた。 僅かな衣擦れの音が、静寂に包まれたシルヴェストーレ家の廊下に冷たく響いていた。


 ――その時の事を思い返しても、セシリアは何と返事をすればよかったのか、わからなかった。

 わかっていたことは、口を開けば侯爵を罵るか泣き喚くか。 許すつもりは、これっぽっちも無かった。


 頭では理解している。 シルヴェストーレ家にとって『婚姻無効』、()()は家を守る為に最善で唯一の選択だったろう。

 そして、それを受け入れる事が死地から救出してくれたアレクシウスへの、シルヴェストーレ家への恩返しになるであろう事も。


 でも、それを受け入れてしまったら、アレクシウスへの気持ちはどうすればいいのだろう。 彼らを憎まなければ、自分が惨めで仕方が無い。


 侯爵の差し出す『正論』という免罪符を、憎しみの炎で真っ黒に焼き尽くす。

 それは、かつて信じた幸せが()()だったと証明する作業だ。 その憎しみの炎が燃え尽きる頃、ようやく彼らを許すことができるのではないだろうか。


 ――テラスの少し錆びた鉄の手すりは、午後の陽射しを浴びて、僅かに熱を帯びていた。 セシリアはその熱を手のひらで確かめるように寄りかかり、水平線の彼方、空と海が溶け合う曖昧な境界線を眺めた。


 何処まで行っても交わらない水平線は、セシリアの心の内を表しているようだった。 アレクシウスが、自分を選び取らなかった事に対する苛立ちと、死の淵から救い上げてくれた感謝の気持ちがせめぎ合っていた。


「これから、どうすればいいのかしら?」


 セシリアは手すりに肘をつき、広大な海に悩みを打明けてみたが、彼女の迷いなど一切関心がないとでも言うように、波は一定のリズムで繰返し岸壁を打ち付ける。

 その打ち付ける波の欠片が真っ白な飛沫となって、宙に舞い上がった。逃げ場のない硬い岩肌と、全てを飲み込む深い紺碧。


「エヴァーグリムに戻ろうかしら……」


 ここ、スタルハーヴェンには『アレクシウスと思い出』が多すぎる。 それに、街の人々も困惑するだろう。 結婚式までしたのに『婚姻無効』だなんて。

 かと言ってエヴァーグリムにもアレクシウスとの思い出はある。 彼と初めて会ったのはエヴァーグリムの洋裁店なのだから。

 それに、エヴァーグリムを選んだ事でアレクシウスを失う事になった。 複雑な思いが込み上げる。


 しかしながら、命を掛けてまで守ろうとした街でもある。 両親との思い出もある、大切な街。


 思考が波しぶきと共に砕け、柔らかな潮風が頬を撫でる。

 答えの見つからない問いを海に投げかけるように、セシリアはただ、終わりなく繰り返される紺碧の闇を見つめ続けた。


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