38 別離
どうやって戻ってきたのか。
気がつけば、セシリアは『エヴァーグリムの妖精』の店舗兼住宅の前に佇んでいた。
カポカポと遠ざかる馬の蹄の軽快な音が、セシリアを現実に引き戻す。
「フランゲル領に戻るも良し、王都に住み続けるのも良し。 どちらでも、好きにしなさい」
そう言って、冷たく微笑む国王の顔が、セシリアの脳裏に浮かび上がる。
看板を見上げる彼女の頬を涙が伝った。 その涙を拭うアレクシウスは、もういない。
悔しくて握りしめた手には、報奨金の指令書があった。 いわゆる口止め料だ。
この件は、もうオシマイ――。
だんだんと苛立ちが湧いてきた。
なぜ、この場にアレクシウスが居ないのか。
なぜ、便りの一つもないのか。
なぜ、なぜ……。
さざ波のようだった苛立ちは、いつしか嵐の夜の海のように、セシリアの心を荒立てる
「あぁ、奥様。 お戻りですか?」
新しく雇入れた従業員が、朗らかに微笑む。
丁度、客を見送る所だったようで、満足気な貴婦人とすれ違った。
彼女に気づかれないように、そっと涙を拭ったセシリアは「ただいま」と声をかけ、店舗を後にする貴婦人に頭を下げる。
(そうよ。 なぜ、待つ選択をしたのかしら。 直接聞いた方が早いじゃない)
そう思いついた途端、心の奥底に澱となって沈んでいた不必要な感情までが、ムクムクと湧き上がってくる。 今まで気付かないようにしていた黒い嫉妬心が。
(もしかしたら、そんな事はないだろうけど……。 有名貴族のアレクの事だから、私の事なんてどうでも良くなって、どこかの華やかな夜会で、異国の香水を纏った貴婦人と踊っているかもしれない。あるいは、どこかの酒場で、私のことなど霧の彼方に追いやって、見知らぬ誰かと杯を交わしているかも……)
愛しているという感情は、いとも容易く悪い状況への想像力を掻き立てる。
この呪わしい「待ち時間」に終止符を打つべくセシリアはアンナを捜す。
「アンナ? アンナ? 今すぐ出掛ける準備をして。 アレクシウスに会いに行くわ」
******
かくして、スタルハーヴェンからアレクシウスへの国、ヴィンドストランドへ向かう連絡船に乗り込んだセシリアは、今、シルヴェストーレ侯爵家の応接室で黙り込むアレクシウスと侯爵夫妻と対面していた。
侯爵からは全面的な謝罪を受けた。 この問題は、国家間の問題に発展しているので、どうする事もできない、と。
――アレクシウスの国ヴィンドストランドは、中立を宣言していた。
なのに、侯爵家の兵がスタルハーヴェンの街に駐屯していたのが問題となり、セシリアの住むメルヴェイユ国と敵対しているグリムウッド国より「宣誓布告とみなす」と宣言された。
慌てた侯爵はヴィンドストランド国王に「スタルハーヴェンにある商館の防衛の為の侯爵家の兵だ」と申し開きをしたのだが……。
グリムウッド国は納得しない。
何故なら、シルヴェストーレ侯爵家は王族との距離が近い。
今後も『商館を守るために』と言い、スタルハーヴェンに軍を駐在させられては堪らない。 いつ何時、ヴィンドストランド国がメルヴェイユ国と同盟を組むか疑心暗鬼になるのも致し方ない。
従って、憂いを晴らすべくヴィンドストランド国王も了承しない。
「どうも、グリムウッド国は、貴女の為に兵を出した事に、気が付いているようなの」
侯爵夫人が困ったように首を傾げる。
「グリムウッド国とは、貿易相手として友好関係を築いておきたいのよ。 それなのに……、ねぇ。 貴女との婚姻を認めると、シルヴェストーレ家が今後も出兵してくると思われて、中立が難しくなると思わない?」
侯爵夫人が畳み掛けてくる。
「グリムウッド国の取引相手から、『取引停止』の書類も届き出してるの。 貿易で成り立っているシルヴェストーレ家には、痛手なのよ」と、ニッコリ微笑んだ。
そう言われてしまえば、セシリアには反論はできない。 自然に顔が俯いていく。
シルヴェストーレ家の商売の邪魔をしてまで、婚姻するメリットは何も無い。
(それでも、私はアレクと一緒にいたい)
セシリアは、膝に置いた手をギュッと握る。 ドレスに皺が寄った。
これから告げる言葉の重さに、セシリアの身体は小刻み震える。 武者震いのように。
「――私、メルヴェイユ国を捨てる覚悟があります。 それなら、アレクシウス様と一緒になれますか?」
侯爵夫妻にすがるような視線を投げかけたが、夫人が悲しそうに微笑んだ。
「無理よ。 だって、貴女、フランゲル領の領主の娘でしょ? 命懸けでエヴァーグリムを守ったじゃない。 グリムウッド国は認めないわ」
「申し訳ない。 『フランゲル伯爵領とは一切の関係が無い』事を証明しない事には、何とも……」と、公爵は言葉を濁す。
セシリアは、救いを求めるような眼差しをアレクシウスに送り、彼が口を開いてくれるのを祈るような気持ちで見ていた。
だが、その期待は裏切られた。
「僕はどうすれば良かったんだ? 教えてくれよ。 セシリアを助けに行ったのに、君を失う事になるなんて……。 あの時、君がスタルハーヴェンに来ていてくれれば……」
頭を抱えていたアレクシウスは、困惑に濡れた瞳で、恨めしそうにセシリアを見上げてきた。
(違う。私が欲しい言葉は、そんなんじゃない)
恋が冷めるのは一瞬だった。
窮地を脱する為に、共に悩み解決したかったのに、彼はただ困惑するだけで、終いには責任転嫁し始めた。
彼に救いを求めていたのが、急に滑稽に思えてきたほどだ。
セシリアの恋心は、急速に体温を失っていった。
そんなセシリアに侯爵夫妻の言葉が、鋭いナイフのように突き刺さる。
「貴女はエヴァーグリムを捨てられなかったじゃない。 今更『捨てる』と言われても……」
「『捨てる』のが、少し遅かったようだね……」
セシリアは反論しようと口を開けるが、唇が微かに震えるだけだった。
何も言えなかった。
あの時、確かにセシリアは『エヴァーグリムを守る事が正義』だと思ったのだから。
言葉が途絶えた空間は、肌がヒリつくほどの緊張感だった。
沈黙が重圧となってセシリアを押し潰す。 婚姻無効は決定事項なのだと、彼女に分からせるには十分だった。
「セシリア・スヴェルトシェルドとアレクシウス・イェレンシェルナとの婚姻は無効。ということで、いいかな?」
立ち上がったシルヴェストーレ公爵が、部屋の外へと続く扉を開けた。
――セシリアはまた、大切な人を失った。




