30 沈みゆく街
セシリアは森の中を馬で駆けていた。 なぜ、あんな事をしてしまったのか。と、後悔しながら。
門塔から戻ったセシリアは、すぐさま領館に残るアンナを始めとした領民に、隣領への退避を命じた。
そして、門塔から戻ってきた領民たち全員の無事を確認し、衛兵に守られながら隣領を目指したのだ。 途中で、堤を決壊させたニルスにも合流できるだろう。
だが、セシリアにはまだするべき仕事があった。 防衛戦、最後の仕上げた。
その任務を行うために、セシリアは一人退避の列から離れたのだ。 ほんの数十分離れるだけの予定だった。 それなのに……。
*****
湖の中程にそそり建つ円筒状の塔に、水門の扉を開閉させるハンドルがあった。 その扉を開けると、湖の水がエヴァーグリムにある隠し井戸から溢れ出る仕組みになっていた。
堤の決壊と共に、確実に街を水没させていく手段になっていた。
セシリアは馬上のまま、慎重に塔の中へと続く頼りない跳ね橋を渡り、水門のハンドルを回した。 回してはみたものの、目に見えて変化はない。 ゴウゴウとした水音でも聞こえるかと思っていたのだが、何も聞こえなかった。
外に出てみても、湖の湖面は穏やかで何の変化もない。
「本当に水門は開いたのだろうか?」
セシリアは不安になった。 だが、それ以上に好奇心も湧いていくる。
本来ならば、直ぐに取って返し、退避する領民たちと合流するのが筋なのだろう。 だが、セシリアは誘惑に負けた。
「ちょっと、のぞくだけ」
『堤の決壊により水中に沈むエヴァーグリムの最後を見送りたい。それは、元領主の娘としての責務』だと、言い訳をしながらセシリアは、はやる心を抑え馬にまたがった。
湖から少し行った所にある、街を見下ろせる高台へと続く、緩やかな坂をセシリアは駆け上っていく。 息が上がっているのは、緊張からなのか……。
駆け登った先に見えた世界は、一変していた。 かつて人の営みのあったエヴァーグリムの街が、穏やかに、そしてゆっくりと酷く濁った水に飲み込まれようとしていた。
「あぁ……」
冷たい風が、セシリアの身体を吹き抜けた。
彼女は、馬の手綱を引き、その場に制止する。
胸の奥が、歓喜で疼いた。 領主としての最後の勤めを無事果たせたのだ。
自分の鼓動だけが、やけに鮮明に耳に響いていた。 身体の奥から込み上げる、震えるような痺れ。
思わず笑みがこぼれたセシリアは、達成感に包まれていた。
その時、吹き抜ける風に違和感を感じた。 普段、感じない匂いを嗅いだのだ。
瞬間、破裂音が聞こえた。 セシリアの直ぐ側の木の幹が、弾けて飛んだ。
しかし、辺りを見回すセシリアの視界には何も見えない。
直ぐに手綱を取って引いたセシリアは、向きを変え走り出した。
「なぜ?」
セシリアの頭には、その言葉しか浮かんでこない。 敵はまだ門塔の向こう側にいるはずなのだから。
(もっと早く、もっともっと)
セシリアは手綱を緩めない。 喉が焼け、気管が鳴る。 吸い込む空気が喉に張り付くようだ。
得体のしれない何かに狙われている恐怖。 背中を冷たい蛇が這い上がってくるような、ゾワゾワとした感覚。 鼓動が耳に響く。
(皆のいる所には戻れない。 それなら……)
湖中に建つ、その塔に逃げ込む事に決めたセシリアだったが、直ぐそこの距離のはずの塔が、とても遠くに感じていた。
全力で走る視界の端、木漏れ日に反射する木々の幹が高速で流れていく。 その明るさに影の濃さは際立ち、木々の隙間に潜む「漆黒の闇」が追手に見えてくる程に、セシリアは追い詰められていた。
が、急に視界が開け、目の前に湖と塔が見えてきた。
つい先程、といってもかなり前のように感じているのだが、先ほど渡った頼りない橋が『希望』に見えてくる。
(――やっと、やっとだわ)
セシリアは馬と共に跳ね橋を渡りきり、その暗く口を開ける塔の入口へと駆け込んだ。
そして、馬から転がり落ちる様にして、跳ね橋を上げるハンドルに手をかける。
気持ちははやるのだが、ハンドルを回す手に上手く力が入らず、何度も手が滑り落ちた。
ようやく鈍い音を上げ、ゆっくりと跳ね橋が上がり始めた頃には、さらに数発の炸裂音が聞こえ、跳ね橋の板、木の欠片が弾け飛んでいた。
ギィィィ……
木くずを落としながら跳ね橋が上がると同時に、セシリアの視界は暗くなった。 はるか上の小窓から、薄く光が差し込むだけになった。
その時、セシリアの耳に何かがバタリと倒れ込む音が聞こえた。
振り返ってみれば、セシリアをここに運んでくれた馬が倒れ込んでいた。 塔の中に響いていた、浅く早い呼吸音はセシリアの物だけではなかったのだ。
だが、ここには馬に与える水も飼草もない。 セシリアを助けてくれた相棒を労る事もできやしない。
なんと浅慮だったのだろうか。 セシリアは汗ばむ相棒の身体をただ、撫でることしかできなかった。 相棒の身体は、暗闇に薄っすらと浮かび上がるように、陽炎のような蒸気を発していた。 上下する筋肉、時折苦しそうに嘶く相棒に、セシリアは胸苦しさを覚えていた。




