29 戦いの合図
一両日中、叩きつけるように振り続いていた雨は上がり、白み始めた空から一筋の穏やかな陽射しがエヴァーグリムの街を照らす。
冷え切った大気の中で、濡れた木々が深い眠りから覚めたように、その身を輝かせた。 防御壁や見張り台に置かれた大砲までもが、水滴をまとい光輝き、まるで肖像のような佇まいを見せていた。
それとは対照的に、普段は穏やかな付近の川は、ゴウゴウと音を立て濁流と化し、セシリアたちの思惑通りに、国境から続く街道一帯は湿地帯となっていた。
そそり立つ濡れた門塔は、朝日に照らされながら、エヴァーグリムの街を守っていた。
全てが上手く進んでいるようにみえた。
―――その朝、セシリアは微かに感じる地響きに気が付き、目が覚めた。 ドォーンドォーンと腹に響く砲撃音が遠くに聞こえる。
「――何事?」
まだ夢の中にいる思考が、現世に引きずり戻されるのを必死に拒んでいた。
セシリアは、かなり疲労していた。 いかに上手くエヴァーグリムを利用するか。そればかりを考えて眠りについた。 もはや、この愛しい街を守る事は叶わない。
ならば、その価値を最大限に利用しなければ、代々エヴァーグリムを守り繋いだ祖先に申し訳ない。 その思いが、彼女を押しつぶし疲労させていた。
しかしながら、この物音は尋常ではない。「起きなければ」という思考が、怠惰な思考と対峙する。
――あれからまだ一日。 敵軍が、我が領地にたどり着く訳がない。
怠惰な思考が勝ったのか、布団の心地良い温もりに囚われたセシリアは、再び真綿の様な深淵の淵に堕ちていった。――が。
「お嬢っ! 大変ですっ!」
ニルスの叫び声と、ドンドンと扉が叩かれる音で、セシリアは再び現実に引き戻された。 ムクリと起き上がったセシリアは、眠い目をこすりながら隣室のアンナに声を掛けようと、サイドテーブルのベルに手を伸ばした……、その時。
「敵襲ですっ!」
ほぼ同時だった。 アンナが部屋に飛び込んできたのだ。 余程焦っていたのだろう、大きく見開いた目、半開きの口元にアンナの驚きが表れていた。
閉まりゆく扉の向こうには、膝に手を当て肩で大きく息をしているニルスの姿が見えた。
「門塔が砲撃を受けているそうです」
「なぜ!?」
的外れな返答をしたセシリアは、まだ、現実を受け入れられなかった。「あり得ない」という思考が、彼女に淡い期待を抱かせようとするが、その身体に響く地響きが現実だと気付かせる。
(この地響きは、門塔が攻撃されている音だったのね)
だんだんとセシリアの脳が働き出す。 真綿に包まれていた意識が、ゆっくりと浮上してくる。 集中するために閉じた瞼の裏は、まだ灰色で夢の残滓が残っているが、アンナの身支度が整うにつれ、だんだんと鮮やかな色が蘇ってきた。
(早すぎる。あまりにも、早すぎる)
門塔を破壊し街になだれ込む敵軍に、決壊された堤からの濁流が襲い掛かってくれないと意味がない。
「ニルス。 今すぐ、堤に向かって」
支度を整えたセシリアは、次の間の扉を開けると同時に声を発した。
時は一刻を争う。 もたもたしている間に、門塔を破壊した彼らは、エヴァーグリムの街になだれ込むだろう。
豪雨の中、あの湿地帯と化しているはずの街道を、たった一日で通り抜けた上に、濁流となっているはずの川までも渡っているのだから。
(急がなければ。 早く準備を終えなければ。 彼らが広場まで到達してしまえば、全てが無駄に終わる。 『国の盾』にもなれない)
呼吸を乱し跪いていたニルスは、瞬時に事を理解したようで、ハッと顔を上げた。
一度、チラリとアンナの方に視線を投げかけ、何か言いたげに口元を動かした後、その言葉を飲み込むようにして、走り去った。
アンナがその後ろ姿をジッと見つめていた。 その肩が、僅かに震えていた。
いつものドレスではなく、動きやすさを重視した装いのセシリアは、そんな二人の後姿に『この防衛戦を必ず成功させてみせる』と、誓った。
*****
馬上のセシリアは、数人の衛兵たちと共にエヴァーグリムの街を駆け抜け、門塔へと急いでいた。
急ぎながらもセシリアは、(今日一日位は持ちこたえられるだろう)と、呑気に考えていた。
門塔に近づくにつれ、巨大な獣の咆哮のような轟音が響いてきたかと思うと、数秒後に身体が揺さぶれる程の地響きが襲ってきた。
セシリアの目に、長年エヴァーグリムの街を守ってきた花崗岩の塔の頂が、砂の山のように砕け散るのが映った。 パラパラと飛び散る石礫が、雹となり落ちているのが見えた。
思わず馬を止めたセシリアは、唖然としてその風景を眺めていた。 想像とはまったく違う戦場がそこにあった。
巻き上がる砂埃、鼻に付く微かな硝煙の香り……。
甘く見ていた。 込み上げる恐怖と胃液を抑え込み、門塔の中に駆け込んだセシリアは領民たちがいるはずの廻廊へと向かった。
途中の通路は、砂埃で視界が悪くなり、いくつもの光の筋が降り注いでいた。 轟音と地響きさえなければ、とても神々しい雰囲気に思えただろう。
そして、見上げれば青空がのぞいていた。
「お嬢!」
駆け上がったセシリアを見つけた市長の声が、轟音にかき消された。目に見えない衝撃が、再び城壁の一部を薙ぎ払った。 空気を切り裂く風切音に続いて、耳をつんざく爆裂音がセシリアたちを揺らす。
「なんだって、こんな所に。 危険ですから帰ってください」
「堤を決壊する合図を送らないと」
「間に合いませんよ。もう」
セシリアの傍らで、領民たちが黙々と砲弾を補填していく。
狭間胸壁から、市長が向ける視線を追えば、湿地帯となっているはずの場所一面に敵軍の姿が見え、せっせと足場を広げているのがわかった。
その時、砲身から吐き出される火花が冷たく瞬いたのが見えた。 瞬間、巨大な振動が地面から伝わった。 頑丈なはずの塔の側面の壁が崩れ、雪崩のように城門の前へと崩れ落ちた。 崩壊した瓦礫が、もうもうと立ち込める砂煙となり視界を奪う。
「もう、撤退しましょう」
セシリアはニルスに合図を送るべく、その準備に取り掛かるように市長に告げた。
「まだ、殺人孔があります」
だが、恐怖を忘れ去った領民たちは、門塔の防御装置を全て起動させないと気が済まないようだ。
口々に「まだ、やれます」と、懇願する。
「命令します。 今すぐ撤退しなさい」
セシリアは、再び撤退を命じるが、彼らの目は爛々と輝き、その頬は上気して赤らむ。まるで、狂気だった。 極度の緊張が、彼らの感覚を麻痺させたのだろうか。
「いけません。 私は、あなたがたを待っている家族に、無事を約束しました」
そんな約束をする時間は何処にもなかった。 なかったが、彼らの狂気を落ち着かせる為に必要だとセシリアは思った。
その『家族』という言葉に、我に返った彼らからは、すすり泣きが上がった。
一定のリズムで打ち鳴らされる鐘の音と共に、青空にユラユラと白くたなびく狼煙が上がった。
かくして、セシリアたちは撤退するべく、馬を走らせたのだった。
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