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七 薬の在処

 夜半――。

 コウモリがグラジット恩賜の森の上を二羽三羽と飛び回っている――。

 時刻は夜の二十一時。

 王立機士学校の関連施設のほとんど全ての門は十七時で閉ざされ、唯一王立病院だけが急患に備えて扉を開いている。

 夜ということでレーネス坂も、八号大通りも車の交通量は少なくなっている。ガス灯がところどころに赤い光の円を街路の上にぼんやりと切り出しているが、その灯りの下を有る人の姿は稀である。

 と。

 カーゴバケットを取り付けた大型のトラックが三台、連なって病院の前の通りを走り抜けていくのが見えた。

 先頭を行く車両はそのまま八号の大通りを直進し、そのままいずこかへと消えていった。

 二台目は病院を通り過ぎ、動物園の入り口のところを右折して、ボイイ通りをリゼー街のほうに下っていった。あるいは、この車両はリゼーの野菜市場に向かうものであったかもしれない。

 唯一三台目のトラックが病院の入り口で減速し、そこから百メートル程行ったところで停車する。

 控えめな黄色いハザードランプが明滅し、トラックの中から運転手が降りてくるのが見える。だが。運転手は森のほうに向かって立ち小便をすると、これもまたいずこかへと去っていった。

 三台か揃ってただの通りすがりであったらしい。

 ギガトレイクのカーゴバケットをそのまま荷台に積み込んだトラックはステアネーゼではありきたりなものである。バケットは魚や肉、野菜といったコンテナとしても使われるし、怪我人を運搬する救護用のものや、一時避難のためのシェルター、さらにはちょっと変わった所では、このバケットを改造した地震体感機というものもある。防災教育の一環として、消防局が時々この地震を再現する機材を初等学校に貸与したりすることもある。

 「ハズレか……」

 暗がりに低く呟く声があった。

 声の主はグラジット恩賜の森の外側、レンガ壁の影に隠れるようにして腰を低くして待機している。黒い髪の野人、トリセルディ・エラート。昼の間に下見を終えた野人はどこに網を張れば獲物が落ちてくるか把握している。大事なのは後はタイミングだけ。

 「二十一時五分……道が混んでいるのかね」

 都の夜はしんしんと冷えていく。黒い髪の野人はその時を静かに待ち続ける。なかなか標的となるトラックはやってこない。必ず現れるはずなのだが……。

 少し苛立ち始めたトリセルディが不意に暗がりに自分の大柄な身体を押し込めるような仕草を見せる。

 「……!」

 時計の長針は文字盤の十を指し示し、カーゴバケットを積んだトラックが数台八号大通りを西から東に走ってくるのが見えた。トラックはそのままグラジット恩賜の森の前で停車する。暗がりに潜むトリセルディは笑った。

 「オルトネッリ……。来やがった」

 トラックは全部で四台。否、最後に遅れて一台がやってきて全部で五台……。

 「……遅れて来たやつが一番怪しいかな?」

 トリセルディは最後の一台に目をつけた。車の色も同じ。車種も同じ。つんでいるカーゴバケットも同じ、だが何かが違う。最後の一台の運転手が降りてこないのだ。他の車のドライバーは車を降り、門の前で雑談交じりに仕事の段取りなどを話している。

 「間違いねえな。あいつだ」

 トリセルディはそろそろと動き出し、それと時を同じくしてトラックのほうにも動きがあった。閉ざされていた森の南門が守衛の手によって開かれ、運転手達は自分の車に戻っていく。すぐにゲルモーターが始動し、動き出したトラックはそのままグラジットの森にゆっくりと乗り入れていく。

 「行くか……」

 トリセルディも素早く行動を開始する。壁を軽々と乗り越え、これと思っていたトラック、遅れてやってきた最後の一台を追って森の中に分けいる。

 恩賜の森の中は道幅が狭いために大型トラックのスピードものろのろしたものとなり、人の足でも十分に追いついていける。

 黒い髪の野人は落ち葉を踏み越えて夜の森を駆け抜けていく。

 しばらくするとトラックの列に異変があった。先頭の四台が右、つまりは植物園の方に向かったのに、最後の一台だけが急にハンドルを左に切ったのだ。列の最後尾を行くトラックは一台だけ道をそれて西の方角にゆるゆると進んでいく。これを追うトリセルディには驚きはない。そうではないかと最初から目星をつけていたからである。

 「病院ね……」

 斧を片手に携えた若者は王立病院のほうに走る。木立の中を一直線に走りぬける若者は舗装道を行くトラックを追い抜き、ちょうど病院の裏門近くでこれを待ち受ける形になった。

 「さて、どうしたものかね……」

 最後のトラックは病院の裏手、昼間の間にトリセルディ達が下見をした病院の陰気な北門前に停車した。

 「あれだと思うんだが……違うか?」

 トリセルディは其の様子をすぐ側の木立の中からじっとながめている。

 博打、であった。トリセルディは恐らくそのトラックが目指す費用的であると九分九厘確信しているのだが……。

 「どうだ……?」

 トリセルディは自分の運を試すようにして呟いた。どうやら、トラックの中からドライバーが降りてくる気配はない。そのかわりに病院の中から男が一人出てくるのが見える。

 白い制服をつけた男――。

 病院の関係者、それも恐らくは医師であろう。制服の医師はトラックの運転席のすぐ下まで歩いていき、車の窓越しにドライバーと二言三言会話を交わす。会話が終わると制服の男はトラックを病院の敷地内に導き入れる。もちろん彼らは自分達が何者かによって尾行され、監視されていることには気がついていない。大型のトラックはそのままスロープを下って病院の地下に下り――白い制服の医師は恐らくトラックに同乗したのか、門のところからは消えていた。

 「……それじゃあ行ってみますか」

 黒い髪の野人は特に躊躇うことなく病院の敷地に忍び込む。

 病院一階には警備員の詰め所があるが、トリセルディは午前の偵察でどこをどうすれば詰め所から死角となるかをすでに把握している。

 若者は開け放たれたままのゲートをするすると音もなく通り抜け、夜陰に乗じてトラックが下っていったスロープを降りる。足音を一切たてずに闇にまぎれ込んだトリセルディの姿はほとんど亡霊のようでもある。

 と、黒い髪をした若者の足が止まった。

 Uの路になったスロープを降り切った先に明かりがともったのだ。野人は慎重に歩みを進める。スロープの先には駐車場となっており、職員のものであろうか、十数台の車が駐められている。

 「いやがった……あれだ……」

 オルトネッリのトラックが駐車場のさらに向こう、病院の内部に通じる鉄の扉の前に停まっているのが見える。

 野人は車を盾にするように少しずつ前進していく。トラックのほうではすでに荷受けのためだろう、人が動き始めている。トリセルディの所からは内容までは聞こえないが話し声も聞こえる。出ている人の数は四人から五人といったところだろうか。ドライバーと白衣の医師に加えて残りは二人か三人といったところか。トリセルディは駐車中の車の影に隠れて、品物の受け渡しの様子を探る。

 ――今日は荷が……。

 恐らくは病院の側の人間だろう。青い作業服を着けた男の声が切れ切れにトリセルディの耳に聞こえた。と、ここでさらに動きがあった。扉の向こうからさらに三人ばかり、女性が現れたのだ。遅れてやってきたのは病院勤務の看護婦らしい。

 ――お疲れさまです。

 女達は荷物の積み下ろしをしている男達にあいさつをしている。どうやらこれから帰宅をするらしい。看護婦達に作業服の男が答える。

 ――今度一緒に呑みに行こうぜ。

 仕事の話はぼそぼそとしているのに、女性に対する男達の呼び掛けはいやにはっきりとトリセルディにも聞こえた。看護婦達は笑いあうと作業員の誘いに否も応も言うことなくそのまま駐車場に駐めてある車に乗り込み――そして病院を去っていった。

 「何か変だぜ……」

 トリセルディは車の影でぼそりと呟いた。

 職員も荷物を受け取る男達もあまりにも自然なのだ。犯罪の匂いや、悪事が必ず放つ『やばさ』が微塵にも感ぜられない。そう言えば、作業をしている連中もどこかぼんやりとしている。

 「こいつは。どうも、あれだぜ、見込み違いって奴か……」

 トリセルディは渋い顔を作った。彼はミスをしたのだろうか?したとしたらどこで?考え込むトリセルディの目の前で男達は仕事を開始する。トラックの後部、カーゴバケットの中から男達が積み下ろしてきたのは縦横高さ一メートル半ほどの段ボール箱であった。

 ――トイレ用。

 段ボール箱にはそのように記され、ご丁寧にも円筒形のトイレットペーパーの絵が描かれている。次の箱もトイレットペーパー、その次も、その次も、全てがトイレットペーパーであるのだ。

 「……」

 トリセルディは荷物の積み下ろしをじっと目で追っている。

 男達は箱を台車に乗せて、病院内とトラックの間を行き来する。

 「八分……いや、九分ってところか」

 トリセルディは男達が駐車場から病院に入り、また駐車場に戻ってくるまでの時間を時計で計っている。男達が去ってまた戻ってくる時間によって、トラックから荷物の保管場所までの距離がだいたい計算できる。作業員が箱を運び入れ戻ってくるまでにかかる所要時間は八から九分。十分を見越せば間違いないだろう。

 「便所紙ね、臭いものを拭くのにはちょうどいいがね……」

 トリセルディはじっと作業員達の様子を見やっている。

 ――間違いねえ。アタリだ。

 若者はすでに自分が見込み違いをしていないことを確信している。

 ――運転手の野郎、馬鹿に慎重だぜ。

 トラックのドライバーは作業を手伝うでもなく、運転席に陣取ったまま辺りを警戒している。ドライバーとしては積み下ろしを早く終わらせて適当に帰りたいというのが本心だろうに、作業の手助けになるようなことを絶対にしない。明らかにおかしい。

 「そんなに目を光らせるほど価値がある便所紙なんかあるとは思えねえ……」

 何かが、確かに何かがあるのだ。トイレットペーパーの次、その次に、何か、何か神経を使うような品が出てくる。トリセルディはその『何か』をひたすらに待ち続ける。

 「便所紙、便所紙……」

 次は何が、次は何がとトリセルディは目を凝らす。出てくるのはトイレットペーパーの詰まったダンボール箱ばかり。

 「また便所紙か……」

 トリセルディはじっと目を凝らす。そして若者が静かに見守る中、ついにトラックのカーゴバケットは空になった。最初から最後まで積荷はトイレットペーパーであり、徹頭徹尾の便所紙であった。あると踏んでいた『何か』はついになかったのだ。

 ――病院も広いから紙だけでも馬鹿になりませんやね……。

 作業員の一人が言うのがトリセルディにも聞こえた。

 作業員達はトリセルディにボロを見せないままに最後の荷物を台車に乗せ、荷物を全て積み下ろしたトラックはそのまま走り去っていってしまう。

 それでも。

 トリセルディの疑いはなくなっている。

 ――間違いねえ。

 トラックが去るのを見届けると作業員達は台車を押して医師と共に病院の中に入り、駐車場の照明も消されることとなった。 

 闇の中に、病院へと通じる鉄の扉のまわりだけが非常灯によってぼんやりと照らされている。黒い髪の野人はそこで再び動き出す。静かに、足音を忍ばせ、作業員達が消えていった扉に近づき、これをゆっくりと押し開いた。扉には鍵がかかっていない。黒髪の野人はそこで中の様子を伺いながら鉄のドアを押し開けた。

 妙にてかてか光る緑色の床に白い壁。冷たい白の照明に照らされた廊下が長く続いている。黒い髪の野人はそろそろと病院の中に一歩を踏み出した。

 「奥だな……」

 行って五分、戻りに五分。トイレットペーパーの印刷がされた段ボール箱は台車を押して五分のところにあるはずなのだ。野人は斧の柄を握りなおすと廊下を奥へと進み始める。緑色の廊下の左右にはクリーニング室、ゴミの集積所といった部屋が並んでいる。そのいずれにも明かりはついておらず、また人の気配も無い。段ボールの箱も見当たらない。

 「ここらじゃねえな。別の階かな?」

 黒い髪の野人による捜索はさらに続く。左手に非常階段、右手にはエレベーターが二機。二つのエレベーターのうち、右の一機は表示板によれば、一階のところで待機状態ににある。もう一機は今まさに地下に降りていくところであった。

 「エレベーターか……」

 トリセルディはぼんやりとエレベーターを見やる。緑色を下床の上に黒い痕が残っている。台車の車輪のゴムが擦れてできた後である。ゴム跡は綺麗に床の上に半円を描いている。

 「もう一階下の階だな……」

 トリセルディはすぐに動き出す。非常階段に通じる鉄の扉を開き、足音をたてないように人気の無い階段を下っていく。十五段を降りて踊り場をまわり、さらに十五段下り切ったそこが王立機士学校付属病院の最下層であった。階段の先には鉄の扉が一枚。若者は不測の事態に備え、慎重に扉を開いた。

 「……」

 人の気配はなくなっている。どうやらちょうど入れ違いになったようである。エレベーターの表示板が地下二階から、地下一階、一階へと上っていき、一階でぴたりと止まった。誰かが今まさに去っていったのだ。

 「……ここだな」

 地下二階の廊下は地下一階に比べるとさらに一段暗くなっている。長い廊下のどこかで水を汲み上げるポンプの回る音が聞こえる。ごおっという音はボイラーの音であろうか?エレベーターを降りた向いには広い部屋があり、テーブルと椅子が並んでいるのが見える。どうやら職員用の食堂であるらしいが。夜の食堂には客の姿はもちろんない。

 「あっちだな……」

 トリセルディは割合に用意に道を見いだした。廊下を右に行った先に倉庫であろうか。両開きの鉄の扉が一つ。廊下の上には台車の急発進によるものだろう、黒いゴムの痕があり、鉄の扉には下から十五センチほどのところに何度か台車をぶつけた傷が残っている。トリセルディは迷わず両開きの扉の方に向かい、ドアのノブに手を伸ばす。ドアノブは――回らない。

 「鍵がかかってやがる……」

 黒い髪の野人はしかし焦りも怒りもしなかった。

 「こういうのは姉貴の専門なんだが」

 トリセルディは斧を床の上に置くと、ポケットから皮の袋を取り出した。皮の袋には細い鋼の棒が数本。若者は其のうちの二本を選んで取り出して鍵穴に静かに差し入れる。

 カチ、カチ……。

 金属の擦れ遭う音が何度か響き、やがてガチリと大きな鉄の音がした。開錠のなった瞬間であった。黒い髪の野人は斧を引っ掴むとただちに部屋の中に滑り込む。

 「大当たり……」

 がらんとした部屋の中にはトイレットペーパーの箱が数十ほども詰まれている。

 「こんなに糞ばかりするもんか」

 トリセルディは呟いてから、段ボール箱を検分する。一番手前にあるものは、箱の上蓋が開いている。トリセルディはマッチを擦ってその明かりで中を確かめた。彼の言う所の便所紙だけが整然と並んでいる。中を手で探ってみるが薬の類は見当たらない。野人は最初の不発に慌てたりはしなかった。ダミーは一つあれば良いのだ。学校も病院も全てが上で繋がっているのであれば、秘密の露見も心配する必要はない。最低限、末端の作業員が『これはトイレットペーパーである』と疑わなければそれで良いのだ。

 「つまりだ……」

 トリセルディは斧でもって蓋の開いていない箱の一つを切り裂いた。

 中から出てきたの白い紙――ではなく鉋屑であった。トリセルディは無言のまま切り口に手を入れた。箱の中には木屑があり、そのさらに内側に麻の袋が仕込まれていた。

 若者は斧でもって内側の麻袋を切り裂き、其の中に手を突っ込んだ。麻袋の中には紙製の袋がたくさん詰まっている。若者は無数にある紙袋の一つを取り上げて中を改めた。

 紙袋の中には茶色をした薄い長方形の飴のようなものが入っている。

 なんともいえない甘い匂いがする薄っぺらい茶色の物質。トリセルディは頷いた。

 「……セドール。間違いねえ」

 黒い髪の野人は証拠となる飴をポケットに突っ込む。かくなる上は長居は無用であった。

 「とっとと帰らせてもらうか……」

 若者は段ボールの山に背を向けると倉庫を後にする。証拠は手に入れただけでは完全ではない。公になって初めて完全な証拠となるのだ。

 若者は薄暗い廊下を進み、非常階段を目指す。

 と、ここで黒い髪の野人の耳に人のエレベーターのモーターか回る音が聞こえてきた。

 ――誰かが来る!

 トリセルディはエレベーターの前まで行くと、表示板を確認する。エレベーターは地下一階を通り過ぎ、トリセルディが潜んでいる地下二階に降りようとしている所であった。このままでは鉢合わせは免れない。

 「ちっ……」

 野人は舌打ちはしたが慌てたりしない。非常階段に飛び込んで騒ぎを大きくする代わりに、職員食堂の中へと身を躍らせたちまち闇と同化してしまう。その瞬間にエレベーターのドアが開いた。中から、二人の男が降りてくる。

 一方は白衣を着けた先ほどの医師らしき人物である。そしてもう一人は色の黒い貧相な男である。唇の両端にだけ格好悪い無精髭を生やしたさえない中年男。赤茶けたコートを着けた男は小役人のごとき風情である。

 ――ちょろいな……。

 トリセルディは医師も小役人も自分の相手にならないことを確信した。

 「ホールバーゼン様、さあ、こちらへどうぞ……」

 医師は小役人を伴って倉庫の方へと向かっていく。貧相な男が呟くのをトリセルディは聞いた。

 「……警戒が緩すぎるのではないか?」

 二つの足音はトリセルディが先ほど忍び込んだ倉庫のほうへと向かっていく。

 「あまり警戒し過ぎるのも。ここは一般の職員も使いますれば。それに、ありきたりなところに隠すのが一番安全というわけでして……」

 「そうか?それにしても警備のものもなければ監視のカメラもない。もう少し考えないといけないのではないか?」

 「エルヴェイラ様は警備よりも効率を重要されるお方なものでして」

 医師の口から出た名前に小役人は呪う様に言った。

 「エルヴェイラの守銭奴め、金勘定ばかりの木っ端役人の分際で偉そうに!商務省も本当ににろくな奴がおらん。我々の命と大儀を危険にさらして何とするつもりであるか。あのカールクエイツも動き回っているのだぞ。これまでの通りでやっていると、しっぽを掴まれて、一網打尽ということになるやもしれぬではないか!」

 二つの足音と共に機士の叱責する声も食堂から離れていく。そしてトリセルディは口の中で呟いた。

 ――残念だったな。もう掴んでるよ。

 やがて。

 二つの足音がぴたりと止まった。食堂から奥の倉庫までは距離にして三、四十メートルほどだろうか。廊下は直線のために、食堂の出入口のところでトリセルディが動けば、倉庫からはそのその様子が全てが見通せる。そのためにトリセルディは動くことができない。

 「さて、そろそろ行きますか……」

 黒い髪の野人はぼそぼそと言った。

 薬の現物は抑えたし、ホールバーゼンやエルヴェイラという名前も何の苦労もなく手に入れた。後は機を見て逃げるだけ。そしてその算段もすでにトリセルディの中ではできている。

 ガチャガチャと鍵束の鳴る音が遠く聞こえる。逃げ出すとすれば、とんまな二人連れが倉庫に入った其の次の瞬間である。 

 ――連中、どんな顔をするかな?

 トリセルディは耳を済ませて廊下の向こう、三十メートルの彼方で起こるだろう混乱を楽しみにしている。

 確かに鍵をかけて数分後に戻ってきてみれば、倉庫が何者かによって破られている。麻薬保管の責任者としては青くなる場面であろう。果たして声があった。

 「あっ!」

 「どうした?」

 ホールバーゼンの鋭い問いに医師の叫びが続く。

 「鍵が……鍵が開いている!ま、まさか……そんな……」 

 一瞬の沈思の空気があり、鉄の扉が勢いよく開け放たれる響きがあった。ばたばたという足音が廊下に響く。男達は倉庫の中に飛び込んでいったようである。そしてトリセルディの方は混乱に乗じて食堂からするすると抜け出すと薄暗がりの中を非常階段の方に走っていく。倉庫の中では何の音も聞こえない。小役人達はきっと状況の確認そのものに手間取っているのだろう。

 その間にトリセルディは非常階段を駆け上がり、地下一階に出て病院に侵入してきた経路を逆走する。 

 と……。

 トリセルディは嫌な顔を作った。若者の目の前に男が立ちはだかったのだ。紺色のズボンに同じ色をしたジャケット。頬には二つ筋の傷。綺麗に口ひげをたくえた長身の中年男。男の腰には刀が下がっている。

 「おまえは……」 

 機士は言った。実は、髭の機士には立ちはだかったという意識は無い。ただ、駐車場の側から病院に入ってきた所、黒い髪の若者が前に飛び出してきたというそれだけのことであった。

 「……どうも、こんばんわ」

 トリセルディは不敵に笑った。野人のほうは、この髭の機士が恐らくはホールバーゼン達の仲間であろうことを瞬時に見抜いている。こんな時間に人目をはばかるようにして裏口から入ってくるような奴輩がまともであるわけがない。一方、機士のほうはトリセルディのことをどう理解して良いかしばらく分らなかったようである。大病院であれば人の出入りも多いし、入院患者や付き添いも自然である。極端に好意的に見れば、薄暗い人のいない地下の廊下をうろうろしている患者がいても必ずしもおかしなことではないのだ。少なくとも、その一点だけで機士が剣を抜く動機とはなりえない。もしも、この遭遇が地下二階で起こるか、あるいは、階下で起こっている異変についてに機士が関知した後のことであれば、情勢はさらに一段緊迫したものとなったはずであっただろうし、機士がトリセルディの顔を知っていてももう少し状況はかわっていただろう。目睫の事態にわずかに戸惑っている機士の横をトリセルディは悠々と擦り抜けて行く。

 ――自分は関係ない……。

 トリセルディは機士の見せた躊躇いを見抜き、そこで大手を振って悠然とその場を去ろうとする。立ち止まる機士に、歩み去るトリセルディ。そして機士が不意に言った。

 「待て、小僧……」

 「何だい?」

 トリセルディは顔色を変えることもなく泰然と振り返る。

 「物騒なものを持っているな」

 夜の病院で斧を携えて練り歩く。トリセルディの姿はおよそ尋常とは言い難い。だが、若者のほうはそのような職務質問を受けることには慣れていたし、またどのような答えが言い訳としてもっとも優れているかも知っていた。

 「裏の庭木の手入れに行くのさ」

 刀と違って斧は生活の道具である。言い訳のバリエーションは人を切るためだけの剣に比べれば多少はある。多少は。

 「庭木の手入れ……」

 機士は奇妙な沈黙を作った。トリセルディの言い逃れは極めて微妙な線上にあるが、言った本人は嘘の上にどっしりとあぐらをかいてあまり気にしていない。

 「庭師がこんな時間に?」

 「仕事のやり残しは嫌いな方でね」

 トリセルディは堂々としている。

 一方の機士の目にもすでに虚を突かれた際のぼんやりとした曇りは消えている。髭の機士はだんだんと思い出していたのだ。

 「その斧、どこで手に入れた?」

 「買ったんだよ。近所の金物屋で。欲しいのかい?だったら自分で買うんだな」

 トリセルディは適当に答えた。

 「私の記憶に間違いがなければ……」

 機士は呟いた。

 「確か南方の機士達の中に好んで斧を使う連中がいたな……」

 野人はふてぶてしく笑った。

 「何のことか良く分らねえけれど、あんたの記憶の人によろしくな」

 噛み合うことの無い問答を一方的に中断するとトリセルディは中年男を無視して歩いていこうとする。

 そしてここで地下からエレベータに乗って医師とホールバーゼンが上がってくる。トリセルディにしてみれば実に好ましくない事態である。

 「グ、グランデール、大変だ!」

 小役人は機士の顔を見るなり叫んだ。それは大変だろう。悪事が露見すれば間違いなくホールバーゼンは鳥係を解任され、下獄の後、最悪の場合はそのまま誅殺の憂き目を見ることになる。

 「保管庫に、保管庫に侵入者が……」

 鳥係の小役人は気が違ったようになっている。一方の医師のほうは目が泳いでしまって半病人のようになっている。そしてグランデールは、我関せずと言った具合に廊下を歩くトリセルディの背中に鋭い視線を向ける。

 「待て、小僧、貴様、待て!」

 黒い髪の野人は聞く耳を持たずおっとりと歩き続ける。髭の機士はここで全てを理解し、目の前を悠然と去っていく若僧のことを追いかける。

 「待たぬか!」

 髭の機士は若僧の肩に手を伸ばす……と、そうなることを予期していたトリセルディが振り向きざまに斧の一撃を機士に見舞った。髭のグランデールも不意打ちに慌てたりはしない。伸ばした腕を引き、そのまま後ろに飛びすさって鉄の一撃を軽くかわした。

 「ホールバーゼン殿、警備のものに連絡を!」

 髭の機士は落ち着いた声で言い、トリセルディは笑った。

 「良いのかよ。知られるとやばいのはあんた達のほうじゃねえのか?」

 「心配するな。小僧、警備の者は貴様の死体を片づけさせるために呼ぶだけのことだ」

 「たいした自信じゃねえか、おっさん。けれど片づけて貰わなきゃならねえのはあんたの死体になるかもしれねえぜ」

 トリセルディは挑発するように言い、髭の機士は静かに剣を抜いた。白刃が怪しく輝く。黒い髪の野人は普段見せない緊張の色を顔に表した。

 ――このおっさん、できるな……。

 髭の中年男はトリセルディの振り向きざまの一撃を難なくかわしたが、トリセルディは手を抜いた覚えはない。文字通り、必殺の一撃であったのだ。それを髭の機士はあっさりとやり過ごした。生なかなことではない。

 「グランデール……。そういや俺の方も思い出したよ。ルイ・グランデール。機士の中の機士といわれた男だ。昔、聞いたことがある」

 トリセルディは言った。グランデールは機士というよりはむしろ剣の達人ということで知られている。王弟クリーエフの側近中の側近であり、王家の親衛隊で剣を教えていたこともあったという。

 「小僧、戦いの最中に無駄話は厳禁だぞ」

 機士は片手で握った剣の切っ先をトリセルディの喉元に向ける。

 黒い髪の野人が相手の力を推し量ったように、いや、それよりも早く、グランデールは最初の一撃でもって若者の腕を見切っている。グランデールの技が十とすれば若者は六か良くて七。磨けばもっと伸びるだろう。もっとも、髭の機士は若者に技術を磨く時間を与えるつもりなど無かったが。

 「未熟者め。貴様にはここで死んでもらうぞ」

 機士の剣が胸の高さにぴたりと止まる。若者は怯まずに言った。

 「便所紙に麻薬をくるんでいったい何をしようというんだ?」

 トリセルディの正論にいらついたのだろうか、髭の機士は物凄い勢いで床を蹴り、正確な突きをトリセルディに見舞った。若者は斧でもってこの痛烈な一撃を防ぐ。

 がちりっ……。

 鋼の弾ける音が病院の廊下に響く。トリセルディは機士の一撃を何とかかわすことに成功した。だが、それは若者の努力の成果というよりは、機士のウォーミングアップが済んでいないというそれだけのことであったのだ。ルイ・グランデールは力によるつばぜり合いを嫌って一歩を引き、剣をいま一度構え直した。

 「坊主、貴様、いよいよ生かしておけぬ」

 「戦いの最中に無駄話は厳禁なんじゃなかったのか?」

 トリセルディは瞬きをしていない。フクロウのように闇の中に目を光らせてグランデールの切っ先に集中している。機士は髭の下で苦く笑った。グランデール本人は意識していないが、彼もまた悪事の露見に動揺しているのだ。

 「そうだったな……。うっかりしていたわ」

 髭の機士は再度踏み込むと、貫通力に優れる突きを若僧に浴びせる。速射砲のような連続攻撃にトリセルディは守勢に立たされている。

 「おお、そのまま……」

 ホールバーゼンが叫んだ。警備を呼びに行けと言われたことをすっかり忘れて戦いに見入るなど鳥係はここでも使いものにならない。

 鋭くも華麗に繊細に。

 まるで剣先で宵闇を縫い合わせるようにして、グランデールの剣はトリセルディを追い立てる。一方負われる側には余裕がない。若者は険しい顔で後ずさる。

 鉄と鉄がぶつかり合い赤い火花がちりちりと辺りに飛び散って煌く。やがて。

 「うおっ!」

 トリセルディが叫んだ。グランデールの剣が青年の右腕を切り裂いたのだ。傷は浅いが切り裂かれたジャケットの下からは血が流れ出る。

 「良い集中力だ……」 

 機士は言った。グランデールは腕を狙ったのではない。若者の心臓を狙ったのだ。まさに機士の中の機士、会心の一撃――。それを若者は斧の横面で弾いて絶命を避けた。傷を負わせたから良しとするような程度の低いものではない。機士は仕損じたのだ。 

 ――良い若者だ。強い。鍛えればもっと伸びるだろう。

 グランデールの目に何とも言えない寂しさのようなものが一瞬だけ写った。

 ――私はこんなことをするために機士になったのか。

 機士の中の機士。グランデールをそのように称賛する声があることを機士は知っている。剣豪として名声を得て、詩文や歌唱にも優れる。王家で剣を教え、人柄も謹厳で重々しいと慕われている。だが一歩裏に回れば彼は王族達の暗い陰謀に加担する便利屋でしかない。便利屋などと言うと言葉が良すぎるかもしれない。権力者と繋がっているからそうとは呼ばれないだけで、実際にはただの犯罪組織の一員であるのだ。

 「終わりにしようか……」

 機士は寂しさを心の中にしまいこむと剣の切っ先を若者に向けた。

 一方、死を前にした青年の方は驚きも慌てもしない。斧を床の上におろすと切り裂かれたジャケットをゆっくりと脱ぎ捨てる。グランデールは若者が死を受け入れる時間を与えた。目の前にいる若者が若いながらも尊敬に値する人物であることを機士はすでに知っている。

 「……おっさん」

 トリセルディは真剣な顔のまま静かに言った。

 「剣で正義が殺せると思うのか?」

 若者は時に言葉が剣よりも威力を持つことを知っていたのだ。『正義』という言葉にグランデールは小さく迷った。彼が機士の中の機士なればこそである。そして、トリセルディが思わぬ反撃を試みた。切り裂かれたジャケットが宙を舞い、ルイ・グランデールの顔に叩き付けられる……かに見えた、その一瞬。髭の機士の閃光のような斬撃が黒い革のジャケットを一刀の元に両断される。

 一方、黒い髪の若者はそのまま後ろに引き下がるのではなく、前のめりになって駆け出す。一歩を反射的に踏み込んだ機士はそのまますぐにトリセルディに二の太刀を浴びせる。だが、最初の斬撃のモーション後すぐということで筋肉が伸びきったグランデールの剣先は若者のわき腹を軽く引き裂いただけであった。まさに一瞬のできごとであった。トリセルディは痛みを無いものとして走り、グランデールもそれをすぐに追いかける。

 「ちっ……」

 髭の機士は舌打ちをした。逃れるとすれば後背、つまり駐車場に向かって逃走すると思っていた若僧がそうしないで、敢て前進してきたことはグランデールにとっては予想外の出来事であった。そのために太刀筋が鈍ってしまったのだ。そして。

 「うおーっ!」

 闇の中に悲鳴があった。叫びを発したのは鳥係の小役人であった。グランデールの剣を逃れたトリセルディは、ぼんやりと突っ立っていた医師と鳥係に肉薄する。そしてそのまま医師の方を蹴り倒し、ホールバーゼンの首根っこを引っつかんだ。人質、であった。

 「たっ、助けてくれっ」

 小役人は暗がりに命ごいをした。鳥係の首にはトリセルディの腕が絡みつき頸動脈には斧の切っ先があてられる。若者の後を追ってきた機士としては頭の痛いことであった。九分九厘相手相手ををしとめようというときに大番狂わせである。

 ――この男は……。

 闇の中でひきつった顔で喚く木っ端役人の姿にグランデールは慨嘆した。

 「グランデール助けてくれ、助けてくれーっ」

 四十過ぎの男は泣き声を上げている。一方のトリセルディは極めて冷静に状況を見守っている。

 「どうする、髭のおっさん、こいつを見殺しにするか?」

 トリセルディは言った。若者に勝ち誇った様子はない。恐ろしく冷静なのだ。若者はホールバーゼンがグランデールのことを『グランデール』と呼び捨てにしたことを覚えている。ホールバーゼンがグランデールの同輩か、目下であれば『殿』なり『様』なり敬称をつけるはずである。つまりは、機士にとって人質となるホールバーゼンは間抜けではあるけれど上役に当たるのだ。

 これは博打であった。

 ――上司をぶった斬るかい?

 トリセルディはグランデールの出方をうかがいながら言った。機士は剣を下ろしていない。突きかかってくるわけでもなく、斬りかかるでもない。黒髪の野人は小役人を引きずるようにしてエレベーターの前にまで歩いていく。機士のほうも失った機会を再び奪い返そうとトリセルディの後をにじり寄ってくる。

 「押せ、早く!」

 トリセルディはホールバーゼンにエレベーターのボタンを押すように命じた。間の抜けた中年男は命じられるままにボタンを押した。ドアがゆっくりと開き始め、黒い髪の若者がエレベーター内部に中年男を引きずり込んだ。グランデールは人質の命を斬って捨てるか迷っているようである。

 「ボタンを押せ!」

 黒い髪の野人はホールバーゼンに鬼の形相で命じた。木っ端役人は他にしようもなく『一階』のボタンを押した。

 ――どうする、仲間を殺せるか?

 トリセルディはグランデールの動きをエレベーターの扉が閉まり切る最後まで注視している。機士は動けなかった。

 ――確かにあんたは立派だよ。

 やがてエレベーターはゆっくりと動き出す。地下一階から一階……。扉が開くと若者は小便を漏らし震えている小役人をエレベーターから引きずり出した。ぶざまな中年男はエレベーター前のホールにへたりこみ、若者はそこで鳥係を開放してやる。これ以上中年男わ連れ回す価値も意味もない。身軽になったトリセルディは風のように走り出した。

 「こっちか……」

 裏口がどちらにあるかトリセルディはすでに把握している。階下から聞こえる足音はグランデールのものであろう。

 「長居をするようなところじゃねえよな……」

 若者は裏口に向かって走る。ただ走って逃げるだけではない。トリセルディは去りぎわに置き土産をグランデールにくれてやることにした。裏口脇にある警備員の詰め所。若者はそこまで早駆けに駆けていく。詰め所には何に知らされていない警備員が三人、カードで遊んでいるところであった。

 「警備員さん、大変だぜ。人殺しだ!」

 トリセルディは叫んだ。

 「殺しだよ、人殺しだ!」

 黒い髪の野人が不意に現れたことに警備員達もさぞや驚いたことであろう。そして、まさにその時であった。グランデールが地下一階から一階に上がってきたのは。

 「ほら、あそこだ、あいつだよ!」

 トリセルディはそう言い残して病院内部から逃げ出した。警備員達も『殺し』と聞かされてぼんやりしているわけにはいかない。

 ――まさか、本当に?

 半信半疑で詰め所から出てきた男達の視界に異様な光景が目に入る。

 中年男が一人、エレベータ前に昏倒し、その後ろから刀を握った髭の男がやって来ている。確かに事件が起こっている!警備員達と機士の視線が絡みつく。

 ――まずい!

 グランデールは自分の甘さを痛感したことであろう。あるいは人の良さを呪ったか。一方、まずいと思ったのは病院の警備員達も同じだろう。老人と若者で構成される警備員達は単なるアルバイトでしかない。剣豪ではないし、それどころか剣を握ったこともないような連中ばかりなのだ。

 「は、早く警邏隊に連絡を……」

 動転した警備員の一人が叫ぶのがグランデールにも聞こえた。もうここに至ってはしかたがない。機士はホールバーゼンを抱え上げるとこちらも遁走にかかる。後のことは、エルヴェイラ達に任せるよりほかにない。

 「まずいことになった……まずいことになったぞ……」

 機士は怒ったが、もうどうすることもできない。賊はどこかに逃げ去ってしまっているのだ。


 一方、森の木立に逃げ込んだトリセルディもグランデールと同じように渋い顔を作っていた。追っ手は来ない。だが……。

 「いけね……」

 腕とわき腹から血が流れるのを気にせずにトリセルディはうめいた。

 「証拠のセドール、捨ててきちまった……」

 せっかく見つけた薬の現物を若者はジャケットのポケットにしまったのである。そのジャケットはグランデールに切り裂かれて真っ二つになっている。恐らく病院の地下一階にはまだジャケットが落ちているのではないか。

 「ま、しょうがねえ。生きてるだけでもありがたいと思わねえと……」

 黒い髪の野人は気を取り直すと木立を抜け、壁を乗り越えてレーネス坂に降り立つ。そしてそのまま坂の暗がりにまぎれこむと、足音だけを残して夜の街に消えていった。


 時間は黒い髪の野人がちょうどグラジットの森に張りつこうというその頃に遡る。

 「あいつ、大丈夫かな……」

 寮室の窓から外を眺める金髪の若者の姿があった。

 時刻は八時三十分になろうとしている。

 ――もしも明日の朝までに戻らないようならば、悪いがバウケン街にあるカッツェンというホテルに行ってくれ。そこの三一二号室にユーニスという人が宿泊している。俺の姉貴だ。その人の所に行って何があったかを伝えて欲しい。

 トリセルディは寮を出るに当たって、そのようなことをバアドクレアに言い置いていた。敵の本拠地に乗り込むからには覚悟が必要ということであろうが、バアドクレアは心配である。

 「バウケン街のカッツェン……」

 バアドクレアはトリセルディの実力を知っているが、それでも万一ということがある。 「また降ってきそうだな」

 キメラの若者は不安そうに空を見上げる。空には厚い雲がかかっている。のんきなルームメイトにバアドクレアはいらいらすることの方が多いが、いなければいないで無性に寂しい。と、ドアをノックする音があった。

 ――あれ、早いな……もう帰ってきたのか?

 バアドクレアはあまりにも早いトリセルディの帰還に首をかしげ、そしてすぐに自分の思い違いを正した。

 ――あいつがノックなんかするはずない。帰ってくるのであれば窓からだ。

 金髪の若者は扉を開いた。

 ――誰か来たら飲みに行ったと言っておいてくれ。教官が来たときもそう言ってくれて構わない。

 トリセルディは確かにそのように言って部屋を出ていった。留守番のバアドクレアは何かあれば言われた通りに答えるつもりである。だが……。

 「よ!」

 入ってきたのはトリセルディではなく、教官でもない。浅黒い肌をした猫のような娘、エルマであった。

 「何だ、エルマか……」

 バアドクレアは気の抜けた呟きを漏らした。

 カペルヴィアストルの寮は男子寮と女子寮が並んで立っていて出入口は共用となっている。一階の守衛室のところを入って左手に進むと女子寮となり、右手の階段を上がったところが男子寮となる。八時以降の男女寮の行き来は基本的に禁則となっているが、裏手のテラスを伝わって女子寮から男子寮へ、男子寮から女子寮へと行き来することも難しくないために、校則はほとんど有名無実となっている。エルマも以前、自分のことを『胸ばかりでかい脳足りん女』と侮った男子生徒に復讐を試みるべく、深夜にスパナを片手にテラス伝いに男子寮へ忍び込んできたことがあった。幸い暗殺計画はシエルとバアドクレアの善意によって未然に防がれたが、もしも計画が実行されていれば、とんでもないことになっていただろう。

 「あれ……」

 エルマは部屋の中に視線をさまよわせる。バアドクレアはエルマに言った。

 「トリセルディならいないよ。呑みに行っちゃったんだ」

 浅黒い肌をした少女はがっかりしたように答える。 

 「何だ、そうか……」

 猫のような娘は男達に全裸を露出するという大サービスをしていたが、そのことで落ち込んでいる様子もない。一時的には惑乱していたが、それも半日程度で収まっていた。

 ――ま、下には下がいるし。

 下とはビーのことであろう。一方のビーステアも、

 ――全裸になるよりはましっ!

 と、同じ理屈でもって自らの傷を癒しているとかいないとか。

 「いつ帰ってくるか分らないんだ」

 バアドクレアはレクチャーの通りに言った。

 「あたしも連れていってくれれば良かったのになー」

 エルマは心底残念そうに言った。猫のような狂暴な娘は王立機士学校との一件以来明らかにトリセルディに向ける視線が変わってきている。これはファーラの表現であるが、

 ――視線の温度が二度程上がった。

 ようなのだ。

 強く逞しい男性。鷹揚で、金払いが良く、さらには陽気で細かいことに拘らない。戦いにあっては敵を圧倒する胆力と技術の持ち主――。

 バアドクレアはトリセルディのことを意地になって正当に評価しないが、エルマのほうは素直である。素直な称賛は憧れに通じ、憧れは敬慕となる。もともと熱しやい激情家のエルマはトリセルディを他の誰よりも早く『異性』と認識し、積極的な行動に出ようとしている。

 「まあ良いや。それよりも……」

 エルマはどうやらトリセルディに用件があるというよりも、バアドクレアに何か伝えることがあるらしい。

 「バアドクレア、面会の人が来てるぜ……」

 「こんな時間に?僕に?もう八時を過ぎているよ」

 寮の門限は八時。面会時間に制限はないが、それでも常識的に言って、このような時間に学生に会いに来る家族は珍しい。

 「ああ。まあうそうだけれど……とにかく、下のロビーにいるよ」

 エルマはどこかうんざりしたようにして言った。バアドクレアの身内のことで自分が非難がましい言われ方をしたことで僅かに気を悪くしたのだろう。

 ――・セ?こんな時間に……。

 いろいろと考えたがバアドクレアには思い当たる節がない。エルマはそこで言った。

 「女の人だよ。四十歳ぐらいかな。もう少し年かもな……」

 浅黒い肌をした少女は首をかしげている。ビーステアのように高貴ですらりとした美しさは持っていないが、エルマも実は大変な美少女である。しなやかで活動的で一所にとどまることをを知らない若さそのもののような娘。あるいは自分の容姿に頓着しない魅力というべきか。

 シエルが惹かれるのはきっとエルマのそういうなんだろうな……。

 バアドクレアはひどく覚めた頭でそのようなことを思っていた。

 「栗毛の髪で……たぶん、バアドクレアの親戚の人じゃねえか?」

 バアドクレアは来訪者の名前がどうしても思い浮かばず、そこで予測をすることを諦めてしまった。どうせ階下に客は待っているのだ。走っていってその顔を確かめればいだけのこと。

 「分かった。ありがとう。ちょっと行ってみるよ……」

 バアドクレアは歩き出し、一方、エルマのほうもトリセルディに未練はあるようだが、いないものはしかたがなく、そこで隣室のシエルのところに行きかける。

 「あの野郎に歴史のノートを貸していたからな。回収しねえと……」

 エルマは言った。彼女の言う『貸していた』を額面通りに受け取るべきではない。彼女に言わせればシエルの持ち物は自分の持ち物であるのだ。バアドクレアは思っている人に思われずただ使役されるシエルの未来を気の毒に思って苦笑いをした。と、階段を降り、踊り場の所を曲がったバアドクレアにエルマが言った。

 「なあ、バアドクレア!」

 「何?」

 「……その、来週のことなんだけれどさ」

 「来週?」

 [来週の末に学校の創立祭で舞踏会があるじゃんか」 

 ああ。バアドクレアは手を打った。

 カペルヴィアストルの創立から百有余年。いつから始まったのかよく分らないが、創立記念の日には学生達による式典があるのだ。式典と言うよりはもっと砕けてお祭りと言うべきだろう。仮装をして都の中を練り歩いたり、模擬店を開いて近隣の住民と交流を深めたりする。学内の大きなイチョウの木に電飾を施して点灯させ、その前で声楽隊が歌を歌ったりもする。そしてこのお祭りのとりとなるものが体育館で行われる舞踏会であった。

 ――そうか。舞踏会の季節か……。

 バアドクレアはこれまでに舞踏会を見たことはあってもこれに参加したことはなかった。踊る相手もいないし、それ以前に自分が男を相手に踊って良いのか、女を相手に踊って良いのか、そこからしてよく分からなかったのだ。若い身空で寂しい限りであるが、男ではシエル、女ではミューネのようにぱっとしない境遇の人間が回りに大勢いたので、バアドクレアも今までそれほど惨めな思いもしなくて済んできた。そういえばエルマもこれまでは完全にバアドクレア側の人間であったはずである。

 「トリセルディ、出るかな?」

 二階から、踊り場を見下ろしてエルマが言った、見上げるバアドクレアは何と答えたらいいかしばらく分らなかった。そのような質問に対する模範解答をトリセルディはバアドクレアに教えてはくれなかったのだ。

 「それともまた呑みにいっちまうかな?」

 ――子供じゃあるめえにダンスなんてやってられるか。

 トリセルディはあるいはそのように言うかもしれない。

 「さあ……。よく分からないよ。僕もお祭りのことなんかすっかり忘れていたし……」

 バアドクレアは言った。そう。のんきに踊っていられるような状況ではないのだ。影では大きな陰謀を計る悪党達が跋扈している。ダンスなどしていられる場合か。

 「……でも、あいつ何か忙しいみたいだからなあ」

 バアドクレアはぼそぼそと言ってうつむいた。しばらくしてエルマが答えないのに気がついてキメラの若者は何げなく顔を上げた。エルマはじっとバアドクレアの顔を見下している。身を乗り出すように真剣なエルマの視線の裏に、何かを探るような小さな敵意を感じ取ってバアドクレアはひどく落ち着かない気分になった。

 「……ほ、本人に聞いてみたら良いんじゃないかな」

 バアドクレアは慌てて付け足すようにして言った。エルマは口をとがらせて何かを言おうとしたが、猫のような娘は自分の疑惑を上手に言葉にすることができない。それ以前にエルマは自分が苛ついていることも理解していないかもしれない。無意識の反発心とでも言うべきか。これがもしもファーラであれば、ブン屋娘はこう言ったはずである。

 ――また、男と女を使い分けしている!

 バアドクレア本人は特に意識をしていないが、キメラの青年の存在はエルマとトリセルディの中に割って入る壁と同じである。

 「ふーん」

 何かが心にひっかかり、けれどそのひっかかりが何であるか分らないのだろう。エルマはあいまいに頷くと話を続ける。細かいことは行動した後で考えれば良い。エルマはいつでも行動の後に判断をするタイプである。

 「あたしさ……」

 エルマは毅然とした調子で言った。まるで建国の宣言のようであった。何を言われるのか分らずバアドクレアは戸惑っている。

 「今度の舞踏会でトリセルディに踊って貰おうと思うんだ」 

 「……あ、あ、そう。い、いいんじゃないかな」

 バアドクレアは答えた。キメラの若者は何故エルマがそのようなことをバアドクレアに宣告したのかよく分らない。

 「つき合ってくれとも言おうと思う。ああ、だから、男と女としてってことでだよ」

 エルマはばさりと斬り込むように言った。一方、バアドクレアのほうはうろたえている。そんなことをみだりに他人に話すべきではないのではないか?

 「そ、そう……」

 キメラの若者はまごついてしまって何をどう答えたら良いのかさっぱり分らない。エルマはいったい何をバアドクレアに期待しているのか?おそらくは何も期待していまい。ただ筋を通したかっただけだろう。 

 「ぼ、僕、行くよ……」

 キメラの若者はエルマが何かもっと恐ろしいことを言い出しそうに思われて、慌てて階段を下っていく。エルマのほうは自分の言いたいことを言い切ってしまったのでバアドクレアをそれ以上その場に引き止めたりはしなかった。

 ――何なんだよ……何なんだよ、一体!

 一方、キメラの若者はいたく居心地が悪い。ファーラもそうだしエルマもそうである。彼女達はバアドクレアにビーンボールすれすれの牽制球を投げてくるのだ。バアドクレアにしてみれば迷惑な話である。

 ――面白くない。何なんだよみんな!僕が何をしたって言うんだ! 

 キメラの若者はそのように単純に思い、エルマとの面白くない会話から逃れられたことに内心ほっとしている。だが――。

 階下に下り、ロビーにやって来たバアドクレアは嫌な顔を作った。不快な空気から不快な空気へ。不快な会話から不快な会話へ。キメラの若者にとって、どうやらその日は厄日であったらしい。

 守衛室脇にあるロビーでバアドクレアの事を待っていたのは四十過ぎの女性であった。顎のえらが張り、肩をいからせたような中年女性。髪の毛は染めたものであろう。バアドクレアはその女性を良く知っていた。 

 「ノルジエ叔母様……」

 ノルジエ。アスペンブロウの人々がノーラと略して呼ぶこの女性はバアドクレアの父親アスペンブロウ卿の妹あたる。バアドクレアにとっては叔母である。

 ――ああ、まいったな……嫌な人がやって来た。

 バアドクレアは内心で思った。これならばエルマの激情につき合っていた方がまだましといったところであろう。 

 「バアドクレア、久しぶりね。元気にしていたかしら」

 叔母は笑った。バアドクレアは媚びたような叔母の笑いが好きではなかった。

 「こんなところまでわざわざ……。今日はいったい何を」

 バアドクレアは少し早口に言った。早口で喋ればそれだけ会話も早く終わるだろう。

 「アスペンブロウの次期当主にお願いがあって」

 「お願いと申されますと?僕にできることがあるかどうか……」

 キメラの若者はすでに相手の来訪の意図を感じ取っている。

 「ま、座って、座って……」

 四十女はそう言って、ロビーに十台ばかり置いてある椅子の一つをバアドクレアに勧めた。

 ――ずいぶんと急くな。毎度のことか……。

 ノルジエは一刻も早く話をしたくてしかたがないらしい。バアドクレアはそこで主客が転倒していることには敢て触れずに席に着いた。顎のえらが張った叔母は頼まれてもいないのに語り出す。

 「立派になったわね。この前会ったのはいつだったかしら。二年ぐらい前かしら?」

 「そうだったと思いますけれど……」

 バアドクレアは困惑したが叔母は気にせずに持ってきた紙袋を取り上げた。差し入れの菓子――であるわけがない。中から出てきたのは帳面であった。

 ――やっぱり……そういうことか。

 バアドクレアは心の中で嫌な顔を作った。

 「これを見て欲しいのよ」

 叔母は帳面をバアドクレアに見せた。キメラの若者は内心でうんざりしながら帳面を見やった。中には手書きで縫製工場の事業計画が書かれている。工場の用地買収から作業に当たる工員の募集、縫製に使う機材の購入。いろいろなことがちょこちょこと書き込まれている帳面はどちらかというと計画書、というよりはただの雑記帳である。このような思いつきの落書きを手がかりにして資金を貸し出す銀行家は絶無であろう。

 「……叔母様も立派にやられているようで何よりです」

 バアドクレアは雑記帳を適当に眺めるとそれを叔母に返した。

 「まあまあよ……」

 叔母は取り繕ったような笑顔を作った。嫌な感じのする媚びるような笑顔であった。

 「それで僕に何の御用で?」 

 バアドクレアは尋ねた。否、尋ねる必要などなかった。アスペンブロウの次期当主はこの一族の鼻つまみものについて良く知っていたのだ。

 ――浪費家。傲岸な人。

 金を湯水のように使うザルのような女性。金がなくなると猫なで声を出す不愉快な人物。バアドクレアの叔母に対する評価はゼロどころかマイナスである。

 それでも――こんな浪費家の中年女でも子供のころはおとなしく、誰からも好かれる愛らしい人物であったのだそうだ。

 その『誰からも愛される人物』がおかしくなったのは副都に遊学して後のことである。

 ノルジエは副都クリンで知り合った若い美男の学生と恋に落ち、そしてそこで子供を二人も作ってしまった。ノルジエ――クリンに遊学したとき、すでにノルジエは性別固定が終わり女性となっていた――を中堅の貴族に嫁がせようと考えていたしていたバアドクレアの祖父は娘の勝手な振る舞いに激怒したが、子供が生まれてしまってはもはやどうすることもできない。結局ノルジエの暴走を追認され、そしてそのことでノルジエも、アスペンブロウ家も大きく運命が狂っていくことになる。

 ノルジエの夫は出が悪く、言ってみれば『どこの馬の骨とも』というような人物であったのだ。

 ――金銭にルーズで、派手好み。女好き。

 人生に失敗する要素をすでに三つも抱えている時点でノルジエの夫は相当危ういのであるが、この男にはさらに、

 ――能力がないのに事業欲が旺盛。

 という悪徳まで持っていたのだ。ノルジエの夫はクリンで不動産業に手を出し、そして失敗した。多額の負債に首が回らなくなった夫の赤字を埋めるためにノルジエは実家を頼り、その度にバアドクレアの祖父は金銭を渡すことなった。

 アスペンブロウの実家からノルジエが受け取った援助が最終的にどれほどのものとなったか孫のバアドクレアは知らない。けれどもそれが相当の額であることは間違いない。

 このころすでにバアドクレアの父親は結婚し、バアドクレアも生まれていたが、何かと言えば金をせびりにくる小姑にバアドクレアの母親が面白いわけがない。

 ――何の見境も無く何処の馬の骨とも知れぬちんぴらと結婚したあげくに実家に金をむしりに来るとはなんたるざまか。

 非常に癇が強く神経質なバアドクレアの母親ヘルガはノルジエのことをほとんど憎悪していた

のである。

 ――自分のことを自分でできないとは情けない!

 バアドクレアの祖父が生きている間はそれでも母ヘルガと叔母ノルジエの衝突も表面的ではなかった。両者の対立が決定的になるのは先代のアスペンブロウ卿が亡くなって後のことである。

 実家の代替わりに伴い、不動産業を行うノルジエの夫への援助の資金は途絶え、ほとんど有名無実になっていた叔母夫婦の結婚生活はそこでついに破綻した。やはり金の切れ目は縁の切れ目であったのだ。 

 離婚したノルジエはーラは二人の子供を連れてクリンから国都に出てきて、そこで縫製の会社を興すことになる。何のことはない。夫も事業欲が旺盛であったが、妻も同じようなものであったのだ。

 ――人に使われるほど自分は落ちぶれていない。

 そのように始めたノルジエの縫製会社であるが、経営は芳しくない。プライドばかりが高く、経験も乏しい人物がやるような仕事であるから経理も管理も穴だらけ、ノルジエの会社はこれまで一度として黒字になったためしがない。普通であれば、そのような企業の会社は淘汰されるのであるが、そうはならない。バアドクレアの叔母は落ちぶれずに企業家面をしていられるのだ。社員にはいばり散らし、同業者にも尊大なふるまいをしているとも聞く。彼女がそうしていられるのは妹のことを不憫に思ったバアドクレアの父親が細君に隠れて援助をしているからである。もちろん、祖父がやっていたような大規模な資金援助はできないが……。

 「兄上に話を取り次いで貰いたいのよ」

 ノルジエは言った。そういうことか。バアドクレアは内心で怒っている。

 ――この人……またお金か。

 母親ヘルガのノルジエに対する憎しみをバアドクレアは知っている。アスペンブロウの領土はそれほど大きくない。貴族とは言うけれど、リオンやエンティのように裕福ではないのだ。亡くなった祖父はノルジエのためにただでさえ小さな領土の一部を切り売りしていた。

 「話を取り次ぐと言いますと?」

 バアドクレアはわざと言った。

 「工場建設の資金を投資して貰いたいのよ」

 四十女は悪びれずに言った。借りるのではなく投資であるからということらしいが、そうやってノルジエはこれまでに何度も父や兄から金をむしり取っている。ちなみにこの虚業家が投資の配当を出したことはこれまで一度としてない。

 「銀行に話を持っていっても良いのだけれど、せっかくの利益を他人に渡すよりは身内で分け合った方が良いでしょう」

 叔母は得意げに言った。本当に中年女が自分の計画によって利益が上がると考えているのかバアドクレアにはよく分からない。銀行云々というが、叔母は以前、事業の資金繰りに困り、アスペンブロウの名前を使って銀行から融資を引き出したことがあった。本人には返済などできるわけもなく『練りに練った』事業計画はわずか三カ月で破綻してしまった。バアドクレアは祖父と父がその後始末に奔走したことを今でも良く覚えている。

 ――ノルジエには詐欺の才能がある。

 バアドクレアは疲れ果てて言った祖父の一言が今も忘れられないでいる。

 「……お話は伝えておきます」

 バアドクレアは言った。何処までも汚い叔母である。実家に直接に連絡をするとバアドクレアの母親とぶつかることになる。そこで、次期当主に話を繋がせようというのだ。叔母にしてみれば、アスペンブロウ家は自分の家であり、自分の家の金をどう使おうとよそからやってきた新参の女性にとやかく言われる筋合いはないということらしい。バアドクレアはそのような叔母に殺意すら覚えている。

 「……ただあまり期待しないでください。父は今忙しいですし」

 バアドクレアは言った。本当はもっと言ってやりたいことがあるのだ。

 ――ふざけるな馬鹿ッ!

 その程度の悪罵をぶつけてやりたいぐらいである。だが小心な若者はそれができない。叔母が悪辣なのは、甥の性格を知っていて資金の話を持ちかけてきたところにある。

 ――こんなとき、トリセルディだったらどうするだろうか。

 バアドクレアはそのようなことを考えている。あの野人であれば、こんな場面でどうするのだろう。

 ――きっと、自分に都合の悪いことは知らぬ存ぜぬだ。

 難しい話は聞いたふり。金の無心の話も話が終わればきっときれいさっぱりに忘れてしまい、恐らく実家に話を取り次ぐということもないだろう。そして、そのことを後で非難されれば『ああ、悪い悪い』の一言で簡単に片づけてしまう。

 ――僕もあいつみたいに適当にできればどんな楽だろう。

 バアドクレアは思った。と、沈思している甥っ子に詐欺師の叔母が言った。

 「貴方のお父上が跡目争いわすることなく今ある地位を守っていられるのは私が女になったからこそよ。そのことを忘れないでほしいわね」

 嫌な叔母は脅しをかけてくる。『あまり期待するな』というバアドクレアに対する牽制であろう。

 ――どうしてこの人はそんな嘘をつくのだろう。

 バアドクレアはむっとなった。

 叔母の記憶の中ではどうも歴史の流れそのものがねじ曲がっているようである。ノルジエの中では自分は兄弟の相続争いを避けるために女に敢てなった、つまり自らの意思で身を引いたということになっている。だがバアドクレアは祖父から全てを聞いていたのだ。叔母が女という性を選択したのは家督の相続以前の話であるという。

 ――相続争いを避けるために女になったのではない。女になってしまったずっとあとで相続というものがあるのだということに気がつき、そして大いに慌てた。

 それがノルジエの真の姿であった。

 もっともそんなことをあさましい叔母は知らぬ存ぜぬである。ノルジエにとっては過去よりも今日の運転資金が大切なのだ。金のためならば嘘でも何でも平気でつき、その嘘を真実と信じることも厭わない。バアドクレアは結婚生活がうまくいかず、二人の子供を女一人で育てた叔母のことを気の毒な人だと思ってもいるが、ここまで相手の心がねじけていると同情するのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 「お願いね」 

 嫌な叔母は言った。

 「伝えておきましょう……」

 バアドクレアは何も言い返せない自分に腹を立てたが、叔母の話に同意をするよりほかになかった。一方、浪費家にして事業欲に取りつかれた叔母のほうは甥が折れたことに満足したようである。

 「アスペンブロウも良い後継ぎを得たものだわ」

 一銭もかからないリップサービスならばいくらでもするということだろう。かくして自分の話を終えた嫌な中年女は席を立ってそのままいそいそと帰っていった。四十女が興味を持っているのは金だけであるのだ。甥っ子の健康も、学業も、だんだんに近づいている性別の固定も興味がない。全ては金、金、金であるのだ。

 後に残されたバアドクレアは憂うつなため息を一つ。


 黒い髪の野人が寮に戻ってきたのは深夜になってからであった。

 バアドクレアはトリセルディの事をひどく心配していたし、叔母が持ってきた厄介な話のことも気になっていた。エルマの言いがかりも何となく面白くない。とてもではないがベッドに入ってすぐに安眠という気分ではない。

 それにしても。バアドクレアにとっては忌々しい事である。

 ――国都の一大事に中年女のしりぬぐい。

 とうやら不幸というものは手錠で繋がってやってくるものらしい。と、そこにトリセルディが戻ってきた。帰ってきたクラスメイトの姿にバアドクレアは飛び上がって驚くこととなった。

 「あ、ああ、ど、どうしたの、その格好……」

 トリセルディは出がけに着ていた黒のジャケットはどこかになくなっている。乗機用のシャツも腕の所と脇の所に切り裂いた痕が残っていた。シャツの裂け目からは白い包帯が見てとれる。

 「やられた」

 トリセルディは他人ごとのようにあっさり言った。叔母の襲撃に続いて、寮友がなますにされかかった。本当に驚くことばかりである。 

 「やられたって誰に?」

 バアドクレアは寝巻きのままおたおたしている。

 「つめの甘い悪党にな」

 トリセルディ傷はないものとして言うと斧を壁に立てかけた。

 「包帯……だ、大丈夫なの?」

 「ああ。ここ戻る前に姉貴の所によってきたんだ。手当てはそこでやってもらったよ」

 トリセルディは平然と言うと、ベッドの上の腰かけた。バアドクレアもベッドの上に座って話を聞く。

 「そういうわけだから、まあ心配するな」

 本人が全く動じていないので、バアドクレアもだんだん落ち着いてきた。そう。本人が言うのであれば大丈夫なのだ。

 「……それで、どうだったの?収穫は?」

 バアドクレアも麻薬の件は気になっている。

 「八十点といったところかな」 

 黒い髪の野人は笑っていった。

 「二十点の減点はせっかく見つけたセドールを斬りあってる最中に落としてきちまったぶんだ。あれが無ければ満点だな」

 トリセルディはあっけらかんとして言ったが、バアドクレアは何となく暗い気持ちになった。乱戦に証拠を捨ててこなければならなかったということはトリセルディにとってよほどのことであったのだ。平気な顔をしているが傷も浅くはないだろう。野人は物凄いリスクをおして病院に潜入している。

 「おまえの予想した通りだぜ」

 「……薬は病院の中にあったんだ」

 「ああ。地下二階の保管庫にな。奴ら、考えたもんだぜ、便所紙の箱に薬を詰めて病院に運びこんでやがった」

 トリセルディは言った。 

 「便所紙?トイレットペーパーのこと?」

 「そうだ。便所紙の箱の中に鉋屑を詰めてな。あの木屑はクレティア杉か何かだな。セドールの匂いを消すために使っているんだ。検疫の犬の鼻を誤魔化すためかな……。ちょっと不思議な匂いがするからな、クレティア杉は」

 トリセルディは続ける。

 「運送会社の中に王弟側の人間がいるか、紙の納品元か、その両方か。どこかで正規の便所紙と麻薬入りの箱をすり替えるということも考えられるけれど、そうじゃないだろうな……」  

 「それで、どうするの、これから?」

 バアドクレアは尋ねた。捜査の方法としては二つ。運送会社をあたるか、納品された紙の納品元、あるいは製造元を辿るか。次はどこに忍び込むのか。そのように考えていたバアドクレアにトリセルディは意外なことを言った。

 「いや。なにもしねえ。放っておく」

 「え?」

 「この件に関してはしばらく静観だ。放置する」

 「どうして?」

 この機をとらえて悪を一掃する。邪悪な帰途が露見した今、トリセルディにはそれができるのではないか。バアドクレアはそのように思って疑わなかったので思わぬ決断にきょとんとしている。

 「……もう、事態は俺一人が走り回ってどうこうできる段階ではないってことなんだ」

 他国から流入する麻薬をこともあろうに王族が王立の機関内に隠匿し、これを組織的に売りさばく。ただの密輸はもはやただの密輸事件にあらず。大変な醜聞である。

 「だって、見たんだろ、麻薬があるのを。だったらすぐに悪い奴等を捕まえなきゃ!」

 バアドクレアはいつでも理想が先に立つ。だが現実というものはケーキを切り分けるようにして簡単に白黒をつけることができない。

 「俺には誰かを逮捕する権限はねえよ。おふくろならやるかもしれないけれど。あの人は法律も常識も通用しない禽獣みたいな人だからな……。いや、それでも無理だな。とにかくこれ以降は俺達の仕事じゃねえ。あとは警邏か銃士に引き継いでもらうってことになったんだ」

 八十点――。

 トリセルディは自分の仕事を評価してそのように言ったが、証拠となる麻薬を捨ててきてしまったことは相当響いているのかもしれない。王弟一派は今ごろ、証拠品の撤去を急いでいるだろう。官憲が動く頃には全てが片付き、トリセルディは嘘つきの烙印が押されるということになる。

 「やっぱり……証拠を取って来れなかったのが痛かったね……」

 バアドクレアは悔しそうに言った。どうしても持って来られなかったら薬。それさえあればすぐにでも銃士隊か警邏隊に病院地下に踏み込ませることもできるだろうに……。

 「まあな……。いや、確かにそういうこともあるんだけれどよ……実は、もっと困ったことになっちまったのさ」

 トリセルディは珍しく苦い顔を作って続ける。貴族であるアスペンブロウにはそれを聞く資格がある。トリセルディはそのように考えているようである。

 「実は、ゼーノのおっさんからさっき嫌な話を聞いてさ……」

 エラートの旦那はさらに厄介な事態について話し続ける。

 「ここ半月ぐらいで、飛竜の中古相場がほんのわずかだが上がってきているんだそうだ。覚えているだろう、ゼーノのおっさん」

 「覚えているよ」 

 ふとっちょの武器商人は体形からして非常にインパクトがあり、だからバアドクレアが彼を忘れるようなことはなかった。

 「クレティアとの戦線は膠着状態で今の時期に相場があがるのは本当だったらおかしいんだ。そいつが上がってきているってことは多分……」

 バアドクレアは恐ろしそうな顔を作った。

 値が上がるのは誰かがそれを買い取っているからである。いったい誰が?トリセルディは語らない。語るまでもないことだからだろう。

 「……あっ!もしかして、麻薬の資金で飛竜を買っている?」

 キメラの若者は人が良いのかも知れない。王弟の行状について知りながら、王弟の真の目的については気がつかなかった。否、気がつかないようにしていたのだ。ただ単に実の兄を苦しめるために他国と通じて麻薬を自国に輸入するようなとんまはいない。さらにその先、そのまた先があってしかるべきである。

 「も、もしかして、薬を売って得たお金で武器を買って、それで……」

 トリセルディは小さく頷いた。考えることは同じである。

 「ゼーノのおっさんに頼んで、今、買い手について調べて貰っている。数日中にはもっとはっきりしたことが分ると思うが、多分、な」

 「政権を力で奪取するというの?でも、まさかそこまでは。王弟殿下と国王陛下がいくら仲が悪いからって……」

 キメラの若者はきわめてあやふやな意味不明の笑顔を作った。一方トリセルディは固い顔のまま答える。

 「仲の悪い兄貴がいなくなってくれるだけで、自分が玉座に座れるんだぜ」

 「……」

 「陛下と殿下は俺たちからすればそれほど違わないが、本人にとっては天と地の開きがあるんだろうよ」

 バアドクレアは実父とノルジエの差を思い起こしている。

 「で、でもさ、王弟殿下がいくら国王陛下のことが嫌いでも、そんな私怨で兵隊を動かすような人を、国民が支持するとは思えないよ!いったい誰が、そんな大儀のない人についていく人がいるって言うんだ!」

 バアドクレアは叫び、トリセルディのほうは一瞬だけ沈黙した。黒い髪の野人は恐らく、バアドクレアが今になってやっと出した結論を最初からある程度目星をつけていたのだろう。

 「案外いるのかもしれないぜ。博打好きな連中が」

 「……」

 トリセルディは博打好きが誰であるかを特定しなかった。たぶんできなかったのだろう。一方、キメラの若者は自分の唇が乾いていることに気がついていない。

 「実際、こいつはよく考えた筋書きだぜ。薬をまき散らしてステアネーゼの国情を不穏なものにして、得た金で武器を買う。クレティアにもつなぎができる。クレティアの側はクレティア側でステアネーゼから麻薬の代金ってことで金が入るし、最悪でもステアネーゼにごたごたを起こし、うまくすれば苦労しないでこの国に傀儡政権をつくることかできるかもしれない。いったい誰がこんなことを考え付いたのか……」

 黒い髪の野人は面白くなさそうに言った。

 「とにかくカールクエイツができるのはここまでってことさ。もとより俺達は国の機関とは違って私的な集団だからな。麻薬の捜査を始めたのも、悪い言い方だけれど、家族を殺されたその報復という意味が強いわけだし。こっから先は大臣であるとかその上のやんごなきお方の領分なんだよ」

 黒い髪の野人は言った。

 あとは政治的な解決を――。その中にはもしかしたら、この機を逆手に取って王弟一派を撃滅するという選択もあるかもしれない。そしてその判断をするのはトリセルディではない。一方、バアドクレアの背中には冷たい汗が流れている。

 「……ねえ、トリセルディ。一つ聞きたいことがあるんだ」

 バアドクレアは乾いた声帯を奮ってカサカサの声で言った。

 「何だ?」

 「もしも君の予想が正しいとして……つまり、王弟殿下が君の言う通りに王権を奪取する心積もりだとして、病院の秘密を握られた事を知った王弟殿下が政府転覆の計画を早めることはないのかな?」

 悪事が露見した今、王弟のサイドは方針を転換しなければならなくなってしまった事は間違いない。より慎重に行動するか、あるいは、切れて無軌道に大胆に打って出るか。バアドクレアは後者になることを不安に思っている。黒い髪の野人は、彼にしては珍しいことに『うーん』とうなった。きっとバアドクレアの指摘が優れていたからだろう。

 「武装蜂起をする――飛竜を集めているんだからそういうことになるよね――ってことはその日時を急いだりしないだろうか」

 トリセルディはしばらく考えてから、彼にしては極めて珍しいことに言葉を選ぶように言った。

 「無いとは言い切れないな。どこまで計画が進んでいたのかははっきりしないが、もしも準備が六割まで整っていれば連中、すぐにでも動くだろう」

 トリセルディはどうもバアドクレアの素直な判断を自分の行動の指針、とまではいかないがある種の目印のようにしている節がある。船の水先案内人が星の緯度を眺めて現在位置を知るのと同じである。

 「けれど、まあ、奴らが今日明日に暴発することはないだろうよ」

 「どうしてそう思えるの?」

 「……麻薬が入り始めたのが一年ほど前。俺の身内が死んだ頃と一致している。一年でどれぐらいの準備ができるか。しかもまわりに気取られないようにだぜ」

 「……うーん」

 「情報によれば今のところ王弟殿下の軍団にも動きがない。飛竜は強力な兵器だけれど、ちっこい人間の武装解除をさせることはできないんだ。拠点を占拠するのはいつでも陸戦の兵団だ。王弟殿下が動くとすれば必ずオルバンにいる二個の軍団を動かすはずだ。けれど、こいつらに動く気配がない……」

 オルバンから王都まで六時間はかかる。決起をするのであればもう何某かの動きがないとおかしい。

 「さらに、飛竜の中古相場から、連中がどれぐらいの兵力を整えているかも逆算ができる。相場が不自然な動きを見せない程度に武装を整えるとなると……」

 「整えるとなると?」

 「いまのところ王都を襲撃できるほどの戦力は持ち合わせていないだろう……と、こいつはゼーノのおっさんの算定だけれど」

 「なるほど……」

 「もっとも万一のために親父達も手は打ったみたいだぜ。やんごとなきお方には郊外の離宮から秘密裏に都城に移って貰ったということだ。都城のほうが警備もしやすいからな。警備の親衛軍団も目立たないように増強されている」

 「そうか……」

 武侠集団カールクエイツは動きがとにかくすばしこい。今の所、どうやら国王側は王弟側に対して常に先手をとっている。そして、そこでバアドクレアが訊ねた。

 「ねえ、トリセルディ……」

 バアドクレアはおずおずと言った。キメラの若者の頭の中にあまりにも畏れ多い一つの案が生まれたのだ。語るにはばかられ、心に願うことさえ躊躇われる鬼の所業。

 「いっそ……」

 キメラの若者は自分の秘めたる攻撃性に脅えて口をつぐんでしまった。トリセルディはそんなバアドクレアが言わんとしていることを理解している。なぜならば野人はすでにその恐ろしい策の成否についてだいぶ前に考察したからである。

 「王弟殿下が動く前に、こっちから兵団を送って先に撃破する、か?」 

 貴族の若者は膝の上に握りこぶしをおいたまま黙って頷いた。先手必勝というし攻撃は最大の防御とも言うではないか。証拠固めなど気にせずいっそ潰せる時に潰し、殺せる時に殺してしまっては。バアドクレアは自分では意識していないがきわめて貴族的な物の考え方をしている。

 「そういうことも多分お偉いさん達は選択肢として考えているとは思うぜ。けれど……」

 トリセルディは前置きをしてから話し続ける。

 「なかなかそういう決断はできねえと思う。セドールの密輸に関しては王立機士学校付属の病院が絡んでいるということだけが分っているのであって、王弟殿下と薬物の間の線は全く見えていないんだ。王立機士学校はなるほど王弟殿下の管轄だ。けれど、実際に王弟殿下による指示によって売買が行われていたという確証がない。下っ端の医師が勝手にやっていたことと強弁されてしまえばそれまでなんだ。少なくともそれだけを理由に軍団を王弟殿下に差し向けるわけにはいかないだろう」

 「けれど武装蜂起をしようとしているんだよ……」

 「蜂起の話もあくまで俺達が勝手に導き出した推論だ」

 野人は陰鬱な表情のままベッドにに横になった。

 嫌疑だけで相手を打ち殺す。残念なことであるが、ステアネーゼという国はそれができるどに野蛮ではない。

 「困ったことはもうひとつ。いったい王弟殿下の一派がどれ位の規模なのかも分らねえ……」

 トリセルディは病院内で会ったルイ・グランデールを思い出している。グランデールは身分は低いが、王家で剣を教えるなど影響力のある徳望家でもある。そのような人物が王弟派にいるということは、いったい国政のどれほどまでに王弟派が食い込んでいる分らない。ガラガラポンで蓋を開けてみたら、思いもよらぬ大物が王弟側についているという可能性もなくはない。両リオン家、エンティ家、それをいえばアスペンブロウ家も疑われることになる。誰も彼もが疑わしい。本当に信じられるものが誰かも分らない。国王がさりげなく目立たない程度に守備を増強する程度しかできないのは、国王側がいまだに王弟の力を計り兼ねているからなのだ。

 さらに困ることは南の大国クレティアの動きである。クレティアはもしもステアネーゼで内紛があれば喜んで大軍を動かすだろう。ギガドレイクだけではない、地上軍を含めた軍団をである。

 国王側も、王弟側も、そしてクレティアも目隠しをしてポーカーをしているということには代わりが無い。

 さらにその上に国王の側が実力行使に踏み切れない理由が実はあった。

 トリセルディは言った。

 「それにな、そうできない大きな理由が一つあるのさ」

 「いったいどんな理由があるのさ。国の一大事じゃないか」

 バアドクレアは苛々している。トリセルディはぼそっと答えた。

 「やんごとなき御方の御母堂だ」

 現国王と王弟の実母は七十を越えるが、国都近郊に離宮にまだ健在である。母親思いの国王は皇太后の事を思って弟のことを力尽くで除くことができないという。

 「王太后様……」

 バアドクレアは自分の母親を思い、父親を思い、叔母を思っている。亡くなった祖父のことも思い出している。

 「どんな男でもおふくろの存在は大きいからなあ」

 野人は珍しくため息をついた。彼もまた自分の母親を思っているのだろうか。赤毛の、とても子持ちとはいえないグラマラスな美人。確かに息子としては思う所があるだろう。

 「いずれにしたところで、俺の出番は無いのさ。今の所は。いくら俺でも貴族や王族の屋敷にまでは乗り込んでいけないからなあ」

 トリセルディは結論を言った。

 「……ねえ、トリセルディ」

 バアドクレアは不安そうに言った。実際キメラの若者は不安であったのだ。

 「この国はこれからどうなってしまうんだろう」

 バアドクレアは同じような台詞を低い声でもう一度言った。

 「この国は、どうなってしまうんだろう?」

 「そうだな……。少なくともこれから一月から長くて半年はごたごたが続く。それも水面下でな……。何がどうなって、誰がどこにつくのかそれがわからないし。その見極めが行われるだろう……と、こいつは俺の親父の見立てだがね」

 「水面下でごたごたして、それで?」

 「その間に内務の連中が内偵なりをするだろう。場合によっては何人かが別件で逮捕されるかもしれない。どっちにしたところで、王弟殿下の側のほうはさらに苦しい立場に置かれるだろうよ。内部告発や脱走をしてくれるものが出てくれれば、戦にならなくてありがたいんだが……まあ、そのうち耐え切れなくなれば破裂するわな」

 結局、力と力のぶつかり合いになる――。そうなった時に国都はどうなるのか。トリセルディはそのことについては語らなかった。

 「何人かは確実に死ぬことになるだろう。あんまり気分のいいものじゃないけれど。俺達はその日に備えてもうしばらくは、王都に止まるつもりだよ」

 野人は彼の父君の見立てをそのまま右から左に流してから、しみじみとこれは彼本人の感想であろう続ける。

 「……それにしても、親兄弟や親戚っていうのはなかなかに難しいもんだぜ」

 国王とその弟は血を分けた兄弟でありながら激しくいがみあっている。その争いは国を真っ二つにしかねない凄惨なものである。兄は弟を除きたいと思いながら老母の事を考えて二の足を踏んでいるだけ。リオンやエンティといった大貴族も王家とは姻戚関係にあり、つまりは親戚。ステアネーゼは壮絶な身内争いの一歩手前のところでなんとか踏みとどまっているのだ。

 「そうだね……」

 バアドクレアは国王の一族の内紛に自分の家族のことを重ねている。優しい父親と勘の強い母親。父親には浪費家の妹があって、祖父はこの駄目な妹のことを心配しながら死んでいった。

 「何人か、下っ端がトカゲの尻尾切りで逮捕されるぐらいで済んでくれると本当はこっちとしてもありがたいんだけれどなあ……」 

 エラートの若旦那は傷が痛んだの、少しだけ嫌な顔をした。

 冷たい夜風が少しずつ強くなり、窓をガタガタと揺すっている。

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