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六 ジャグリング

 バアドクレアとトリセルディが寮質に戻ってきたのは黄昏に街が染まる時分のことであった。

 ――プレッカのやくざの大親分を間近で見られるなんて!

 ファーラは学校への帰る道すがら大興奮していたが、バアドクレアはできれば二度と恐ろしい相手とは一所の部屋の空気を吸いたくはないと思っていた。

 「ねえ、トリセルディ……」

 バアドクレアはトリセルディのベッドに座って言った。すでに太陽は西の地平の彼方に消えている。

 「ああ、なんだ?」

 トリセルディは床の上に寝転がっている。ビーの粗相によってずぶ濡れになったバアドクレアのベッドはまだ生乾きのままである。バアドクレアはそこでトリセルディに責任をとらせることにしたものである。臨時にトリセルディのベッドをバアドクレアが接収し、諸悪の根源トリセルディ・エラートは床に直寝の刑である。

 「カールクエイツっていうんだね」

 バアドクレアはファーラが帰り道に言っていた事を思い出していた。

 ――カールクエイツ。王国最強の戦闘集団。

 普段は市民として生活し、何か事があれば盟主の元に馳せ参じる義勇兵の集団である。バアドクレアは詳しく知らなかったが、無駄な知識を豊富にため込んだブン屋娘はカールクエイツについても良く知っていた。

 ――武侠集団。戦力は最大で二〇〇。普段は盟主と呼ばれる人と僅かな者だけが南方のクレティア戦線に張りついている。

 「ああ、親父ね。そうだよ」

 トリセルディは仰向け転がったまま地図を見ている。南方戦線、ニールス、そして国都。点が点のまま線にならない。

 「ファーラ、黙っていられるかな……」

 バアドクレアは呟いた。重大情報を知ったファーラは果たして口を閉ざしていられるだろうか。級友はカールクエイツの縁者。やくざの親玉の所に乗り込み、麻薬の密売ルートについて協議をする。ブン屋魂を大いに刺激される状況ではないか。

 「黙っていて貰うさ」

 野人は静かに言った。

 ――語ればそれなりのことはさせてもらう。

 バアドクレアはトリセルディがファーラに言った脅し文句を覚えていた。バアドクレアに対する口封じよりもはるかに厳しい脅しである。

 「それに、あのねーちゃんが語っても誰も信じないさ。俺とおまえが知らぬ存ぜぬを決め込んでればな」

 「それはそうだ」

 ――やくざの親玉の所に行って、話をして……。 

 ファーラが吹聴して回っても誰も信用しない。学生達はファーラがいよいよ壊れたものと哀れんでくれることであろう。

 「それによ、シベイルのおっさんが話してくれたことは別にどうと言うこともないのさ。あのおっさんが知っているということはプレッカの五家の連中は皆知っている。と、言うことは官憲の上層部や一部事情通もな。俺達が知っていてもどうということはないのさ……」 

 バアドクレアはうなずいた。それからキメラの若者は尋ねた。

 「ねえ、トリセルディ、聞いても良いかな?」

 「何だ?」

 「あの怖い人も麻薬の密売をしているんだろ」 

 「もちろんだ」

 トリセルディは言った。バアドクレアは複雑な顔を作った。

 「あの人達は取り締まらないで、南のほうから入ってくる薬のことだけを調査するのは片手落ちなんじゃないかな」

 バアドクレアは疑問なのだ。詳細不明の売買ルートを持つ謎の組織の解明についても重要だが、現在判っているルートも摘発するべきなのではないか?

 「そいつは俺の仕事じゃないからな」

 「ずるい逃げをするんだね」

 バアドクレアは非難した。

 「まあ、な。やくざの事は国都警邏隊や治安維持銃士隊に任せておけばいいのさ」

 「無責任だと思わないの?」

 「やくざ連中のことはそれほど恐ろしくないんだ。警邏隊や銃士隊が本気になれば奴等を壊滅させることはそれほど難しくねえ。そうしないのは、あんな連中でも必要悪として世の中の人が認めているからなんだ」

 「でも薬を売っているんだよ」

 「買わなければ良い。欲しい人間がいるから売る奴が出てくる。それだけのことさ」

 「じゃあ、南から入ってくるのも放っておけば良いんじゃない?売る人にも買う人にも好きなだけやらせてやればいいじゃない」

 バアドクレアは正論を言った。トリセルディは清濁合わせ呑む度量を持っているが、それが行き過ぎて無軌道にだらしなくなりがちになる。その点バアドクレアはあくまで大義にこだわる。

 「ねえ、トリセルディ、さっき、あの怖い人の所で思ったんだけれど……」

 「ああ?」

 「君は、南の国境線で薬の密売をしている人が誰だか本当は見当がもうついているんじゃない?」

 バアドクレアの鋭い視線に野人は開いたままの地図で自分の顔を隠すようにした。

 「……どうしてそう思うんだ?」

 地図の向こうの若者の声はくぐもっている。

 「高純度のハーシュについては知らんぷり、麻薬全体のことだけを考えているのであれば、やくざの親分を放っておくのは片手落ちだよ。君は何かほかに目的がある。麻薬は大きな悪の一部。だからやくざのことは放置している。買いかぶりかもしれないけれどそう考えないと辻褄が合わない」

 正鵠を射る勘の鋭い僚友の発言にトリセルディは黙り込んだ。

 「邪魔をするつもりはないんだよ。ただ、そう思っただけ」

 トリセルディはしばらく黙っていたがやがて口を開いた。

 「……一年半位前から南方戦線でちょっと気になる動きがあってな。クレティアの連中が一〇〇機ばかりでばーっと越境してきて、こちらが出撃をすると、ろくに闘わずにさーっと逃げていく。何かおかしいんだ。何度かそういうことがあって、戦果も損害も無いという日が続いていた。けれどある日、奴等の意図が判った。いつものように敵が越境してきて俺達も迎撃に向かった。その時、俺のおふくろの弟の息子、つまり俺の従兄だった人が乗っていた飛竜が機体不良を起こして、急遽ニールスに戻ることになったんだ」

 バアドクレアはベッドに腰かけたまま静かに聞いている。

 「従兄は帰還の途中に偶然に低空で飛ぶ所属不明の飛竜を三機発見した。ステアネーゼの機体、ゼファーが一機、残りの二機はゼファーを改造したゼファーリアのはずだ。偽の認識番号を着けたその不審機がまともなものでないことは明らかだった。従兄は機体不良をおして、所属不明機を追跡した」

 「それで?」

 「不審機はこちらの停機命令を無視した。それで威嚇射撃を行うと、向こうは反撃してきた。相手は三機、従兄の機体は一機。しかも機体不良で調子が上がらない。従兄は向こうの攻撃を貰って死んだ」

 トリセルディは静かに地図の下から続ける。

 「従兄は死んだが、何もしなかったわけではなかった。翌日、俺達が総出で捜索をすると、近くの沼にゼファーが一機墜落しているのを発見した。従兄は攻撃をはずしていなかったんだ。機体には荷物運搬用のカーゴが取り付けられていて、中には積み荷が手つかずで残されていた」

 「麻薬があったんだね」

 「ああ。ゼファーの機士はすでに逃走していた後だった。おそらく街道に出て、近くの村で車を調達したんだろう。機体が手つかずで残っていたことを考えると、仲間からは見捨てられたんだ。撃墜された機士が仲間に拾われていれば証拠となるような物を必ず焼却していっただろうから……」

 トリセルディは淡々と話を進める。

 「すぐに回収した不審機の調査が行われた……。断っておくけれど、俺達は本当は、麻薬の密輸の捜査なんかをするつもりは無かったんだ。もしも、身内が死んでいなければ事件は官憲のほうに廻されて、それで俺達がここまで介入することもなかった」

 「復讐のため……なんだ?」

 「復讐というと響きが重いけれどな。でも、仲間が何故死んだかを知りたいと思うのは当然のことだと思うぜ。報復をするかどうかは俺達ではなく、ツェルニーが決めることだけれど……」

 バアドクレアは頷き、トリセルディは話を続ける。 

 「それで、俺達で照合した結果、撃墜した機体はアルトモーフ社がレーネス家の兵団に納めたものだった」

 レーネス。リオン家に次ぐステアネーゼの有力貴族である。アスペンブロウなどとは比較にならない大貴族。恐ろしい陰謀の匂いに貴族の若者は身を硬くしている。

 ――貴族が密輸と係わっている!

 やくざのシベイルは確かそのような勘ぐりをしていたのではなかったか。レーネスは財産贈与のことで先の国王と揉め、領土の一部を没収されている。アスペンブロウの次期当主もそのことはすでに知っている。

 「さらに厄介な話がクレティア側に送っていた密偵から伝えられてきた。どうもクレティアはステアネーゼに打撃を与えるために麻薬を大量にこちらに流すということを国家の作戦としてやりはじめたらしいんだ」

 「つまりクレティアとレーネス家が組んだと言うんだ」

 バアドクレアは途方も無い話に憤るよりもただ呆れてしまっている。敵対国の麻薬作戦とそれに乗って破壊工作を行う貴族。内憂外患とはこのことである。だが……。

 「いや。レーネスは多分関係ねえ。いくら国王が憎くてもそれは先代の国王に対してだ。もう四半世紀も昔のことだぜ。バアドクレア、人間っていうのは恩を忘れるのも早い生き物だが憎しみを忘れることも割合に早いもんだ」

 「でも撃墜した機体はレーネスの兵団のものだった」

 バアドクレアは尋ねた。

 「危険な任務に機体番号付きの機体を使うとはどうしても思われない。それならばむしろ……」

 「盗難機だったと考えるほうが自然だね」 

 バアドクレアはトリセルディが言うべきこと、『何者かが大貴族を嵌めるために工作した』という部分を理解し、その一節を飛ばして結論を言った。

 「では、いったい誰が?」

 やくざ連中は真っ先に消える。クレティアの国家戦略の相手がちんけなやくざであるはずが無い。傭兵軍団のような独立勢力ではない調べが付いている。残るは大貴族。

 「まさかリオン家とか?」

 バアドクレアはリンツとビーの二人のことを思っていた。

 「可能性はある。だがハイメリオンもクオレルリオンも動機が無い」

 「領地を分割されたのは……」 

 「そいつももうとっくの昔のことさ。それに、国を二分する争いを起こしてリオンが得るものは無い」

 「そうなると容疑者は残らないんじゃないかな」

 バアドクレア重大な見落としをしている。それはキメラの若者が常識的であるからである。世の中にはまさかというトリックが存在する。

 「そうなんだ。けれど実は一人だけ、とびっきりに怪しい奴がいるのさ」

 「……それは、誰?」

 トリセルディは地図を顔に乗せたままバアドクレアに手招きをした。キメラの若者は野人の側に耳を近づけた。トリセルディは囁いていった。

 「王弟殿下」

 「は?」

 バアドクレアは何が何だか判らず、キツネに摘まれている。

 「王弟クリーエフ殿下」

 「まさか。いったい何のため?」

 「さてね。でも他に動機のある奴が見当たらない」

 王弟クリーエフと国王は実の兄弟でありながらその仲は極めて不穏なものであるという。兄である国王は取り立てて目立つ人ではないが温厚で誠実な人物であり、王弟クリーエフもこちらも特に性格に問題のある人ではない。

 どちらかが好人物でどちらかが劣悪な人間というわけでもない。二人ともごくごくまともなひととなりであるのだ。王弟のほうが若干の派手好みということはあるが、浪費家という程のものではない。服飾に金をかけすぎるクオレルリオンの奥方に比べれば可愛いものである。加えるに両者は国家構想が違うとか主義が違うというようなことも実はないのだ。リオン家分断を敢行した頃に比べて王家はずっと力が弱くなっている。否、政治行政機構が発達しているのだ。もはや個人のリーダーシップではどうにもならないほどステアネーゼという国は肥大してしまっている。善良で温厚な血を分けた兄弟。それがいがみ合うから人々は首をかしげるのだ。結果としてファーラのような詮索好き連中がおおいにのさばることになる。

 「国法を王族みずからが破るなんて最悪だよ……」

 バアドクレアは貴族であり王政の一翼を担うことに少なからぬ誇りを抱いているのだ。自分が振っている旗の汚れを信じたくないという気持ちが非常に強いのは当たり前のことである。 

 「どうしてそんなことを……よくわからないよ。いったいどうして王弟殿下がそんなことを……なんのために?」

 「さてね……」

 黒い野人はどうもバアドクレアの問に対する答えをすでに見つけ出しているようである。だが野人はそれを語らない。バアドクレアはそれから思い出したようにトリセルディに詰め寄るようにして言った。

 「……トリセルディ、証拠はあるの?」

 「ねー。だから困っているのさ。証拠がなければ、それも動かない証拠がなければどうすることもできねえ」

 トリセルディはジレンマに陥っている。もとより彼には逮捕権も捜査権も無いことに加えて、被疑者は圧倒的な権力者である。広大な所領と堅牢な城を持ち、私兵集団を擁している。

 「警邏も銃士も動かないのは証拠が無いことに加えて相手が大物中の大物と感づいているからじゃねえかな。事は慎重に慎重を期するってわけさ」

 慎重でなければどうなるのか?当然、その先には恐ろしい結果が待っている!

 トリセルディは自分の顔の上に乗っている地図を床に投げ出した。

 「とにかく今は証拠をそろえるのが先だ。コレル商会に踏み込んでも良いが、あんまり期待できそうにねーな。やくざ連中が前に一度やっていることだしな。やはり薬の流れる経路と現物を抑えないと」

 トリセルディは口をへの字に結んで天井を見上げている。

 「証拠と証人を揃えるって言うけれど、あてはあるの?」

 やくざの親分の寄り合いでも手を引いてしまった問題案件である。しかも密輸のプロであるやくざ達が口を揃えて言っているのだ。流通の経路がはっきりしないと。トリセルディはむくりと半身を起こした。

 「裏の流通を使っていないということは、つまり表のルートに乗せている」

 「やくざの親分も言ってたじゃない。普通の運送業者とかは使えないって。かといって個人が車なりで運ぶにしては量が多すぎる。飛竜のカーゴバケットを使ってるぐらいだか相当の量だよ」

 トリセルディは黙って立ち上がると机の上に乗ったままの新聞を取り上げた。嵐の夜にトリセルディが読んでいた古新聞である。

 「こいつならどうだ?」

 バアドクレアは受け取った新聞の一面を変な顔で見ている。

 ――珍獣来る。

 ヴィーボという名前の不思議な生き物のイラストが麻薬と何の関係があるというのか。

 「こいつは俺の、というか俺の親父の仮説なんだが、連中、このルートに薬を乗せてるんじゃないか?」 

 「新聞配達の?」

 バアドクレアはとんちんかんな事を言った。

 「違う。そうじゃなくて。これだよ。この珍獣を送ってきたルートだよ」

 王立機士学校に付属する博物園。機士学校は機士の育成機関であるが、同時に官僚の養成施設であり、研究機関でもあるのだ。

 「研究サンプルということであれば検疫を受けることもない。官憲もまさか学内が麻薬の保管場所になっているとは思わねえだろう」

 間違いなく抜け穴である。

 「取りあえずクレティアから空路で国境を越え、ステアネーゼ南方の村か街かで荷を小口に移し替える。あとは王立機士学校に正規の物流で送り出してやれば良い。誰も疑わないだろう」

 「うーん、理屈は判るけれど……」

 発想の飛躍に現実的なバアドクレアは直ちに納得するとができない。エラートの若旦那はそんなバアドクレアに尋ねた。

 「バアドクレア、王立機士学校の理事が誰だか知っているか?」

 「それは国王陛下だろ。すべての王立機関の長は国王陛下だって聞いたことがあるよ」

 反対派が国王の庭先に禁制品の倉庫を作るというのは現実的ではない。だが。

 「王立機士学校の理事は実は王弟クリーエフなんだよ」

 「本当に?」 

 バアドクレアは甲高い声で言った。

 「いろいろな方面に問い合わせて聞いたことだから間違いない。王立機関の長は国王だということは確かなんだ。けれど、王立機士学校だけはそうではないんだ。多分、今の国王陛下が王立機士学校の出身ではなく、逆に王弟殿下が王立機士学校の卒業生だったということも関係しているんだろうよ」

 国王は十代の頃は体調があまり優れず、そのために学校にはほとんど行かず、王宮で家庭教師について学んでいたという。一方、王弟クリーエフは成績はそれほどのことはなかったが、それでも王立機士学校を卒業している。卒業生でもない人間が理事になるのは具合が悪い。あるいはそのような政治的な判断がどこかでなされたのだろうか。

 「あの学校はある意味、王弟殿下の牙城みたいなものなのさ」

 「そうなんだ……」 

 バアドクレアは合点が行った。そういうことであれば話は判る。そして、キメラの若者はそこで初めてあることにきがついた。

 「あ、それで……」

 「何だよ、急に」

 「それで君は最初王立機士学校に……」

 トリセルディが王立機士学校に編入したのは最初から、学校に疑いを持っていたからではないか。彼が放校処分となったのは、学内をいろいろと調査して、そのことを学校関係者に見とがめられたからではないか。バアドクレアはそのように思ったのだ。 

 「いや。そこまでは考えていなかったよ。密輸と学校の関係に気がついたのはカペルヴィアストルに来て、この新聞記事を見てからだよ。向こうに最初に行ったのは、前線の兵団子弟に無試験の特別編入枠があったからさ。ただそれだけだよ」

 トリセルディは笑って続ける。

 「試験があれば、あんなところまず入れねえよ」

 野人は種明かしをした。

 「別に無理して入るような所でもないけどな。男ばっかりで、なんか陰気なんだよな」

 「王立機士学校か……」

 バアドクレアはすでに最高学府に良い印象を持てなくなっている。性別のことで入学を断られ、練習機では追い回され、そのあげくに陰謀の舞台となっているらしい。知れば知るほどに嫌な連中である。

 「でも、もしもトリセルディの言うとおりだったとしたら、あの学校……」

 「まあ、廃校になるかもな」

 おかしな理事を戴いたせいで生徒は連座となる。生徒も生徒の両親もやりきれない。

 「……僕、本当はあの学校に入りたかったんだよ」

 バアドクレアは呟いた。話の内容が国家的な陰謀から極めて微細なものとなった。

 「入らなくて良かったんじゃねえか?つまんねえところだぜ。女もいねえし、俺は二時間で嫌になったけどな」

 「君はそうかもしれないけれど、でも僕は……」

 バアドクレアは自分の不運をトリセルディに八つ当たりのようにたたきつけた。

 「王立機士学校に入って、官僚になりたかったんだよ。本当のところ僕は自分がアスペンブロウの当主になるなんて思ってもいなかったし、僕が機士学校に入る時には二人の僕の姉は……」

 金髪の若者は疲れていたのかもしれない。キメラの若者は普段自分のことを、特に自分の種族について語ることはないのだ。バアドクレアは話をしてしまってから自分の失点に気がついて慌てて口を閉ざした。二人の姉がいるとしても、アスペンブロウの当主は男児であるバアドクレアが担うものと最初から決まっている。何も長男が家を出て官僚になる必要などどこにもないのだ。金髪の若者の発言は極めて矛盾している。

 「……いや、あの、だから」

 バアドクレアは自分のことを男としてトリセルディに喧伝している。さらにはトリセルディがすでにバアドクレアの宙ぶらりんな立場について理解しているということも知らないのだ。口をうっかり滑らせるという致命的なミスを犯し、動揺しているバアドクレアにトリセルディは言った。

 「まあ、しょうがねえよな。女になりたいっていうんだから」

 黒い髪の野人も実は思い違いをしている。物事にこだわらないエラートの若旦那は自分がキメラという血族についてすでに認知しているということを話す相手のバアドクレアが知っていると思っている。

 ――確か、言ったはずだったな、ダリエンの駐竜場で。

 お互いが事実を正確に把握していないのだ。

 「……女になりたい?」

 「そうじゃねえのか?おめえの上の二人、女になっちまったんだろ?」

 「……」

 トリセルディがあまりにもあっさり言ったので、バアドクレアは一瞬理解するまでに間があった。

 「知っていた?」

 「何が?」

 「僕がキメラだって、知っていた?」

 バアドクレアは乾いた声で尋ねた。トリセルディは適当に応える。

 「ああ。シエルがそんなことを言ってたから」

 「もーっ!」

 キメラの若者は地団太を踏んで悔しがった。

 「どうして言っちゃうんだろう!シエルも!」

 あのおしゃべり小僧め。バアドクレアはシエルがトリセルディに絶大な信頼を置いていることを良く理解していない。

 「別に怒るような事柄でもねえんじゃねえか?」

 バアドクレアはぷりぷりと怒ったがトリセルディはいつでもおおらかで、それぐらいのことで怒るキメラの若者の気持ちか判らない。一方、バアドクレアは自分の種族の秘密を『誰か』に知られることが気に喰わないのではない。『トリセルディ』に知られることが何となく気に食わないのだ。

 ――きっと、こいつはそのことで自分のことをからかうに違いない!

 バアドクレアは完全にトリセルディのことを悪意にとっている。

 「怒ることだよ!」

 「なんで?」

 「なんでって、僕はアスペンブロウの当主にならなきゃいけないんだよ!」

 「なりゃいいじゃねーか」

 トリセルディは困惑顔である。誰もバアドクレアがアスペンブロウの当主になることを邪魔してなどいない。

 「そうだけれど、けれど、人には言いたくないこともあるんだよ!」

 バアドクレアは少女の声色で叫んだ。

 「ふーん、そんなもんかね……」

 エラートの若旦那の言葉は尻すぼみになって途切れ、そしてバアドクレアのほうはこれは毎度の事なのだが、自分が何の抑制もなしに感情を爆発させてしまったことに思い当たって口をつぐんだ。本当の男であれば、このような場合じっと痛みに耐えるのではないか。ヒステリックに叫んで回るような人物はそれこそ女々しい人物としてあざけられるのではないか。苦い思いに笑って耐え、孤独を友とし、危機にあっては泰然とする。勇敢に仲間を率い、些細なことでは決して心を乱さない。バアドクレアの持っている秀でた男性のイメージとはそのようなものである。残念ながらバアドクレア自身とは正反対の人物こそがキメラの若者の目指すべき男の姿である。

 と。トリセルディか不意に真顔で言った。

 「なあ……今思いついたんだが」

 エラートの若旦那はあるいは、王弟殿下が絡んでいる陰謀について何か気がついたことがあるのではないか。バアドクレアにはそのように思われたのだ。そこでキメラの若者はほんの少しだけ機嫌を直した。何と言っても天下国家の一大事である。個人の快不快にいつまでもこだわっている場合ではない!

 「何?」

 トリセルディは真剣に言った。

 「おまえさ、女になったらどうだ?」

 「……」

 「だからよ、貴族の当主なんかやめて、女になっちまえばいいんじゃねえか?そうだ、そうしろよ。そうすれば、俺の嫁さんにしてやるぜ」

 トリセルディの気の触れた発言にバアドクレアは奥歯を噛んだ。

 ――やっぱり……こいつは馬鹿だ!

 「この世に良い男が一人増えるのと良い女が一人増えるのでは全然違うぜ……」

 キメラの若者は怒ると物も言わずにベッドの上の枕を取り上げると力任せに振り回した。

 「何を言い出すかと思えば、君はっ!」

 バアドクレアは火を噴くばかりに激怒する。多分、そういうことを言い出すのではないか。キメラの若者はそう思っていたからトリセルディにだけは自分の種族について知られたくなかったのだ。

 「狩人が一人増えるのと鹿が一頭増えるのではずいぶんと状況が……」

 枕でぼこぼこと殴られながらトリセルディは自説を強硬に主張する。

 「うるさい、うるさい、うるさい!」

 「良いじゃねえかっ、選択肢の一つとしてだな……」

 「変態野郎めっ、それ以上言うなーっ!」

 あまりの騒々しさに隣室のシエルが様子を身にやってきたが、華奢な少年は首を二度ほど振ってため息をつくと、何も言わないままに自室へと戻っていった。興奮したバアドクレアは枕を捨てて辞書の背表紙でトリセルディの頭を叩いた。

 「痛えっ、角はやめろって、角はっ」

「うるさいっ、このっ!死ねっ!このっ!」

 窓際では生乾きのシーツが揺れている。

 

 夜というものに所有権がもしもあるとして、その権利者のパーセンテージを円グラフにしたとする――。

 所有権者の九十九パーセントは恋人達になるだろう。夜はいつでも幸福な恋人達のためにあるのだ。それでは残りの一パーセントは誰のものであるのか?

 問いの正答となるべき人々の集う場所が都の郊外の林の中にあった。

 ぽつんと寂しげに立っている古い屋敷。没落した中堅貴族の所有の邸宅で、破産管財人が二年ほど前から売りに出していたものである。

 屋敷の前に吊されていた『売家』という看板がいつの間にか消えたのが一年ちょっと前のこと。それ以降も近隣の住人によれば屋敷で人が生活している形跡はほとんど見当たらないという。

 その奇妙な廃屋の窓に明かりが灯っている。

 灯火の下、広間に集っているのは二十人ばかりの男達であった。

 かつては館の食堂だった広い部屋にはテーブルはなく、来客は立ったまま約束の時刻を待っている。

 ――まだか。

 ――いやまだだ。

 広間の方々で小さな囁きがかわされる。静かな熱気とでもい言うべきか。 

 古い屋敷に集まった二十人のうちそのほぼ五割、半分を占めるのはステアネーゼの中下級貴族である。全員が五百クアント以下の領地しか持っておらず、その領地から上がってくる収益もぱっとしない食い詰め者達。さらに残りの四割はこちらは官僚、それも若く能力に優れる――と、本人達は自認しているが――若者達であった。彼らは領地から追い出された次男三男であり、自尊心だけは高いが自力ではどうにも喰っていけない連中である。最後に残ったほぼ一割はこれはステアネーゼの人間ではなかった。彼らは南方からやって来た自称商人であった。もっとも、お愛想の一つも言えないような武骨で色黒の商人では、物の売り買いがスムーズに行くとは思われない。筋肉のたくましい彼らはむしろ軍人といったほうが良い風体の人物である。

 林の中の一軒家に集った男達は静かに待ち続ける。

 やがて――陰気な屋敷に待ちに待った策謀家達の盟主が到着することとなった。黒塗りの車でやって来た指導者は何も言わずに広間に入ってくる。 

 痩せぎすで顔色の悪い人物。特徴に乏しく見るものに感銘を与えることのないその男は部屋の中でも顔の上半分を黒い頭巾で覆い、顔の下半分は黒い襟巻きで隠していた。

 黒い頭巾を被った男の後ろには護衛であろう、堂々たる体躯を持った機士が一人ついている。腰に大剣を吊した口ひげの男。年の頃は四十前半といったところだろうか。長い戦いの勲章であろう、男の頬には刀傷が二つ筋。外見だけでは、主と警護、というよりは、露払いと真打といった風情にも見える。

 ――おお!

 盟主の来訪に策士達は歓声をあげ、貧相な盟主はそれに手を挙げて応じた。 

 「王弟殿下、万歳!」

 男達は声を揃えて唱和し、黒いを王弟は特に何もコメントをすることのないままに広間の上座、十センチほど高くなった演壇に向い、演壇の上に据え付けられたみすぼらしい椅子に腰を下ろした。

 「王弟殿下、万歳!」

 男達は再び叫ぶ。実に馬鹿馬鹿しい儀礼であるが、本人達は真剣である。何といっても、彼らの命運がこの一時にかかっているのだ。おろそかにはてきない。中下級の貴族達は自分達の土地を守らねばならないし、官僚達は省内で浮かび上がるという大目標がある。そしてクレティアの自称商人達にしてみれば……。

 「これで全員が揃いましたな……」

 王弟のお出ましに先だって広間に入り控えていた貴族の一人、白髪の老人が重々しく続ける。

 「それではそろそろ会合を始めましょう……」

 ステアネーゼの北端カロンに僅かな領地を持つ白髪の老貴族は王弟クリーエフにお守り役として古くから仕えてきた人物であり、王弟が心から信頼する数少ない人物の一人である。

 「よろしいですかな、殿下?」

 老臣の問いに黒い頭巾の男はわずかに頷いた。

 王弟クリーエフはここにあっては一言も口をきかない。口をきいてはならないのだ。存在していながら、存在していることを否定されている。

 全ては誰にも言質を取られず、後に証拠を残さないため――。

 もしも国王の側に国家転覆の謀議を悟られても『王弟殿下はいなかった』と言い逃れるための予防線であり、王弟クリーエフに傷を付けない細心の注意である。

 もっともこれは奇妙なことであるのだが、策士達は自分達が国王側に尻尾を捕まれることなど無いと何の根拠もないままに確信しているのだ。

 「それでは同志会集会をこれより始めますぞ……。まずは、いつもの通り、計画の資金収支についての報告、次いで同志の獲得計画、最後に決起のための準備状況をそれぞれの担当から報告していただく。よろしいな?」

 老人はしわがれた声で仲間に語らい、それに策士達は同意した。 

 「それでは、まず今回の商品の売買に関する報告をいつものようにエルヴェイラ殿から……」

 老臣の言葉に、エルヴェイラという官僚の一人が前に出た。

 商務に携わる若い官僚は帳簿を取り上げると彼らの商品である『薬品』の取引で生じた売り上げとそれから引かれる人件費や手数料などを事細かく報告していく。ちなみに彼らの使っている帳簿に税金の勘定科目は存在しない。

 「全体の売上は十六万二千八百九十ゼルナ……ここからさらに諸経費が引かれて行きます。人件費や輸送費などについてはこれからお渡しするレポートにまとめてあります」

 若い官僚は正確な貸借対照表を作りあげ、これを仲間に配ってまわる。実はこの『金の流れ』というものこそが何事においても一番大事なことであるのだが、策士達のほとんどが金のことには興味を示さない。

 「経費を引いた粗利は八万二千八百五十ゼルナとなります……」

 一月の麻薬を売りさばいて新品飛竜が二十機を購入できる。全くもってぼろい商売である。だが、繰り返しになるが男達は天文学的な金にはそれほど関心を示さない。なぜならば彼らは麻薬の売買を汚れた仕事と嫌っていたからである。

 ――汚い金稼ぎは誰かに任せておけ。天下国家は俺が語ってやる。

 彼らは自分達が下級貴族の出身であり、そのために出世が望めないと信じている。そのことはある意味正しいのであるが、彼らは本当のところこういうことも考えるべきであっただろう。

 ――出世できないのは自分に能力的、もしくは人間的に何か欠落があるからではないか?

 「今月は南方からの物資が届かなかったために、商品の補充がうまく行かず、そのために売上が伸びませんでした。輸入ルートの拡充も済みました故、来月はほぼ売上も平均の水準に戻ると予測されます」

 嫌な役を担わされた商務の役人はそのように話を締めくくった。取引を嫌う王弟派にあっては、案外、彼はこの役目を気に入っているのかもしれない。

 「よろしい。エルヴェイラ殿、ご苦労だった。下がってよろしい……。それでは次に内応者の獲得についてであるが……フランブール殿」

 老臣が重々しく言った。

 有能な仲間を多く集める――。

 何ごとにつけ人を集めることが大切。特に回天の謀を完遂するには人の力がどうしても必要であるのだ。老人の言葉に貴族の一人が前に進み出た。フランブールに領地を持つ若い貴族である。

 「現在、いくつかの家に接触を試みています。多くの家が前向きに検討しているとの由。今しばらくお時間をくださいませ。次回までには必ずや王弟殿下のお心に沿う朗報を持参仕りましょう」

 堂々と言う若い貴族に、策士の一人が口を開いた。

 「フランブール殿、しばらく……」

 報告をする若い領主に突っかかっていったのは痩せた神経質そうな中年男であった。

 「……貴殿はその台詞をいったい何度語れば気が済むのだ?」

 農務省に勤める下級の中年役人は明らかに不機嫌であり、そして、それを聞くフランブールにも不機嫌はすぐに感染することとなった。

 「御前であるぞ。控えよ!ホールバーゼン殿」

 機嫌を損ねた若い領主はむっとなって叫んで返す。だが、唇の左右の端にだけぼつぼつと毛を生やした官吏はフランブールだけでなくどうやら世の中全部に対して文句があるらしい。

 「フラン殿。貴殿が人事工作の担当になってからもうかれこれ半年以上経っておるが、内応の同志は一向に増えぬではないか。これは、やり口が間違っているのではないかな?豚の群れに話しかけても内応者は出てこぬぞ」

 「ホールバーゼン殿、私を愚弄する気か?」

 勝手に名前を短縮された若い貴族は憤り、中年官吏もむかっ腹を立てている。

 「フラン卿は外面は立派だがいつも内実が伴わぬわ」

 悪態に若い領主も負けていない。

 「何もしていない御仁に何かを言われるのは心外ですな……いや、やっておられましたな、確か貴殿は……そう、鳥係でしたな!」

 農政に係わるホールバーゼンは大言壮語と他人への誹謗中傷がたたり、係長からヒラに降格された上に、鳥係を拝命することとなった。鶏や鴨といった家禽を育成、これの防疫を担当する『畜産課』に配属されたのではない。そうではなくて、単に庁舎で飼われているカナリアの世話を仰せつかっているのだ!

 「朝の水やり、餌やりとまこと忠実に職責をまっとうされておられる。これは失礼!」

 スタイリストのフランブールは嫌味を言って嘲笑し、一方鳥係のヒラ官吏は地団駄を踏んで悔しがる。そしてあわや内紛勃発というところで老臣が言った。

 「……二人ともそこまでにされよ。同志獲得は機密保持もあってなかなか難しいもの。時間をかけ慎重の慎重をを期さなければ性向はおぼつかぬ」

 老臣は渋い顔で続ける。実は鳥係のホールバーゼンの言い分も一理はあるのだ。

 「しかしフランブール殿もしっかりしてもらわなけれはならぬぞ。多くの仲間が心を一つ結束せねば大事をなすことはかなわぬぞ」

 老人の叱責に反対勢力の貴族達は再びざわつきを見せる。

 いくら動いても一向に仲間が増えぬというのは、笛を吹く側としては不安が大きい。

 「レーネスは?レーネスの当主殿は……」

 「両リオン家は我らに合力してくれぬのか?」

 策士達、特に中小貴族達の問いにリクルート係のフランブールは応じる。

 「レーネス、ハイメ、クオレル三家の返事はいまだに……」

 いまだにということは要するに永遠にということを意味する。

 体制側にある大貴族達は無理に事を大きくするよりも、国内で要職を握っているほうがはるかに有益だと考えている。平地に無用の穴を穿つような事など今更しなくても良い。

 「だから、大貴族は駄目だ最初から言っているではないか!」

 トラブルメーカーのホールバーゼンが叫んだ。

 策士達ははっきり言ってまとまりがない。完全な有象無象である。

 ――国王を追放し政権を刷新し王弟クリーエフのもとで政治を行う。

 二十人ほどの策士達の目的はその点では一致している。だが一致しているのはそれだけなのだ。有力な大貴族を抱き込んで事に及ぼうというものが一部、特に貴族達には多い。その一方で、大貴族の勢力を殺いで、其の土地なり権益を我がものとしたいという欲も中級貴族達にはある。

 一方、官吏達、特に市民出身の役人達は大貴族達が密議に加わることを潔しとしない。自分達よりも遥かに家柄の良いものが密議に加担するようになれば主導権を奪われてしまうし、それよりも何よりも彼らは毛並みの良い連中への鬱憤が溜まっているのだ。 

 下級の官吏が出世できない最大の原因は大貴族の子弟が親の七光りで簡単に入省して、これまた簡単に良いポストを掻っ攫っていくからである。レーネス家もエンティ家も子弟は二十代で外務や内務の重要ポストにつくこととができる。一方、家柄に劣る者はどんなにいっても課長止まり。ホールバーゼンのように降格される者は論外である。

 ――いつもいつも横滑りしてくる重石など無くなってくれ!

 出世の遅れる下級官吏、魂の叫びである。

 「しかし、大貴族の合力がなければ、これから先はどうにもならないぞ」

 貴族の一人が叫ぶ。

 「いや、大貴族の力を当てになどするべきではない!」

 「我々だけで決起するには心もとない!」

 「そんなことを言っているから何時まで経ってもうだつがあがらないのだ」

 策士達は口々に罵りあいはじめる。議論が収拾がつかなくなる恐れが出てきた。

 もともと我が強い連中の集まりである。彼らを結束しているのは現状への不満だけである。お互いへの尊敬も友情もない。誰かを利用していい思いをしようというその程度の連中でしかないのだ。このような連中に担ぎ出された王弟クリーエフはやはり二流の人物であると断ぜざるをえない。そして、たまりかねた老臣が声を張り上げる。

 「諸卿、静粛に、静粛になされますように!」

 老人のしわがれ声に、しかし生活と出世のかかった策士達は静まりはしない。あまりの程度の低さに見かねた南方の商人の一人が口を挟んだ。

 「大貴族の合力については、まだ時間がございますれば。それよりも今は資金を集め力を蓄えることが肝要かと……」

 政府を転覆するには準備が必要なのだ。

 ただ単に国王を取り除けは良いというわけではない。民心を揺さぶり、治安の低下などの工作にいそしみ、資金を蓄え、武力を整えそのうえで初めて国王を除く。そうしなければせっかく新政権を打ち立てても、その後を長く保つことが出来ない。誰もが納得する必要はないが、文句を言えない状況を作り出さなければならないのだ。

 クレティアの商人を束ねる屈強な中年男が続ける。

 「とにかく資金を集めないとなりませぬ。金さえあれば何でもできるとは思われませんが、金でできないことが少ないということもまた事実なわけでして……」

 クレティアの商人の慇懃な口調に誇り高き鳥係ホールバーゼンが食ってかかる。どうやら、この髭の役人にとっては誰も彼もが敵に見えているらしい。

 「何を偉そうに!貴様らクレティア人の魂胆は判っているのだ。要するに、我が国が混乱すればそれでいいのであろう。我々の決起が成功しようが失敗しようが貴様らにはどうでもよいことなのだ!異民族の分際で大きな口を叩くな!」

 八つ当たりをもらったクレティア商人のリーダーは内心ではきっと面白くなかっただろう。だが、彼らはホールバーゼンよりもよほど程度がすぐれており、

 ――仰せのままに。

 と、頭を下げてあっさりと引き下がった。そして屋敷の中は再び混乱することになった。

 盟主となる王弟は黙ったまま何も語ろうとはしない。彼には国家戦略などというものはない。あるのは兄に対する『嫌い』という感情だけなのだ。ほかには理屈も何も無い。嫌いだから除く。大儀は全くない。

 やがて。それまで黙っていた人物が口を開いた。

 王弟の後ろに構えていた護衛の機士。頬に傷の有る男はぽつんと呟くように言った。

 「それはともかく……。私の聞いたところによりますれば、どうやら、カールクエイツか動き出したようですな……」

 ホールバーゼンのそれと違い、綺麗な髭をたくわえた機士の言葉に屋敷は一瞬に静まりかえる。決して大きな声ではない。だが、機士の言葉は全ての策士達の耳に届いたようである。

 「カールクエイツと言うと、武侠集団の?」

 フランブールが尋ね、機士は頷いた。

 スステアネーゼの武侠集団――。

 傭兵軍団と義勇兵を混ぜ合わせたような組織とでも言うべきか。その起源はスフィアーの開拓組織であったといわれる。武器を持ち、外敵を排除しながら土地を開拓していく殖民集団。この殖民集団は時代が下がるに従って生産者と戦士に職能が分離し、一方は農民、そして一方は武侠になったといわれている。

 そのような戦闘集団の第一党がカールクエイツであった。

 常に組織だって戦う傭兵軍団と違い、武侠は普段は市民として生活し、何か事が起こると飛竜を駆って戦地に結集する。そのモットーは、

 ――金では動かず信義によって動く。

 戦力と気力も兼ね備えた強力なこの武装集団はステアネーゼの王家とも深い繋がりがあり、特に先代国王はこのカールクエイツに対して絶対的な信頼を置いていたという。

 ――私が死んだら、彼らに棺を運ばせるように。

 先代王はそのように遺言し、その遺言はカールクエイツの領袖ハール・エラートによって果たされたという。そのことはともかく置くとして――。

 「グランデール殿、武侠がいったい何を?」

 フランブールは過剰に警戒して尋ねる。名前を呼ばれた髭の機士は顔色を変えなかったが、それでも内心では舌打ちをしていたのではないか。

 「……カールクエイツは本陣をニールスからビットプリウスの廃城に移しております。あるいは、我々の計画について某かを探る心積もりであるかと……」

 とんまな策士達はようやく自分達の状況について思いを巡らせることが適ったようである。とにかくここは仲間内で争っている場合ではない。

 「何故……何故、武侠の奴ばらが……」

 貴族の一人が叫び、グランデールは抑制の効いた声で応えた。あるいは本当は機士は『知ったことか』と叫びたかったのではないか。

 「……さて。そこまでは分りかねますが、私の配下の者で王立機士学校に紛れ込んでおります機士がすでに一人、連中に撃墜されております」

 いまいましい事実をグランデールは冷静に言った。

 王立機士学校にまぎれ込ませていた機士の一人が、カールクエイツのドレイクによって撃墜された。機士の耳にはすでにそのような報告を入っている。

 「あ、あるいは国王陛下の差し金では……」

 黙って聞いていたエルヴェイラが掠れた声で言った。商務の役人ははっきり言ってすでに腰が引けてしまっている。

 「奴ら……カールクエイツは国王陛下の密名を受けている。そういうことは考えられないか?」

 商務の役人はすがるような声で髭の機士に尋ねる。

 武侠を探偵代わりに使う――。

 貴族などと違って、武侠集団は独立勢力である。使う側としてみればこれほど使いやすい相手はいない。

 尋ねられた機士は続ける。もはや、策士達の中で喚き散らすものは一人もいない。

 「詳しいことはまだなんとも。さりながら、もうそろそろ国王陛下がこちらの動きを察知してもおかしくはないかと……」

 髭の機士の冷たい物言いに、二流の策士達は一瞬だけ沈黙した。もう後戻りはできない。そのことを彼らは肌で実感したのだ。もしも計画が頓挫すれば……。

 「早く、早く計画を次の段階に移しませぬと!」

 「武器を……、とにかく飛竜の用意を整えるのです!」

 「兵士だ、陸戦の兵団も早く集めなければ……」

 尻に火が付いた策士達がまるで爆ぜる爆竹のようにそれぞれに叫ぶ。

 金を集める。次に武器。兵団――。

 全てが整った時計画は実行される。王弟の領地オルバンで待機していた飛竜が南下し、さらに、それに呼応して南からクレティア軍が北進を開始する。同時に王都エイレンツワイス各地に放火し、混乱に乗じて王宮を襲う。

 それが策士達の政府転覆のシナリオであった。邪悪な筋書きはさらに続く。

 王宮を襲い、国王を捕らえて退位を迫る。退位の要求に国王が従わない場合はこれを監禁幽閉し、同時に国庫と玉璽を押さえて貴族達に号令を発する――。

 もっとも計画ができるということと、それを実行することには天地の差がある。カールクエイツの名前に慄き、浮き足立つ二流の策士達に果たして、計画を実行に移せるかどうか……。

 と。

 騒然と鳴っている広間を見渡していた王弟クリーエフの視線が髭の機士グランデールに向けられる。

 ――どうしたらいいのだろうか。 

 議論はすでに議論ではなく、各人が勝手に叫んでいるだけである。

 機士重々しく、主に向かって言った。それはすなわち程度の悪い策士全員に向けたメッセージであった。

 「私は計画を早めることには賛同いたしかねまする。慌てて動けば、それこそ向こうの思惑通りということになりましょう。国王陛下も我々が浮き足立つのを待っているのに違いありませぬ。ですからこちらとしましては何も知らぬし、何も存ざぬということでしらばっくれているのが肝要かと」

 機士の言葉に王弟は頷く。そして、すね者のホールバーゼンが激昂した。

 「しかしだな、カールクエイツが動いているのだぞ!」

 鳥係の小役人はまるで首筋に死神の鎌が当たっているような形相である。だが機士は泰然としている。

 「カールクエイツは私共がなんとかいたしましょう」

 「なんとかすると言っても、いったいどうするというのだ?グランデール!もしも貴様がカールクエイツを抑えられなかったとき、責任はいったい誰が取るというのか!」

 鳥係はすね者であると同時に大変な小心である。機士は粘り強く語る。

 「私の配下の者が軍の管制をはじめ様々なところに紛れ込んでおります。カールクエイツの本陣ビットプリウスも常に監視しております。異変があればすぐにこちらに伝わりましょう。もし万一、何かありました場合はフェリエ街に常駐さけている実働部隊をビットプリウスに差し向ける準備もできております」

 グランデールは続ける。

 「報告によればビットプリウスのカールクエイツの本陣には今、当主を筆頭に数人の武侠があるばかり。急襲して全滅させることも可能でしょう」

 殺される前に殺す。動じることの無い古強者に策士達は少しずつ落ち着きを取り戻す。

 「……そ、そうだ、機士の中の機士グランデール殿が我らの中にあれば、我らに敗北などあろうはずがない!」

 官吏の一人が叫んだ。彼は現状を認識してその上で安心をしているのではない。ただ『機士の中の機士』という肩書にすがっただけなのだ。要するに思考停止である。そのことは、称賛されるグランデール本人が一番理解しているだろう。

 「カールクエイツなど恐れるに足らず!」

 「武侠ごときに我々の志を潰されてなるものか!」

 男達は陶酔したように叫び始める。 

 「この計画を成功させ、新たな秩序と政権をこの大地に打ち立てるのだ!」

 何かに追い立てられるような威勢の良い叫び――。

 自分を必死に騙し、ごまかすような歓声が広間に響く。

 全てをうやむやにするような熱狂。つまりは、そこで硬い話はおしまいということであった。後は、不安を抑えるようにして酒瓶と珍味が運ばれてくるばかりである。

 王弟クリーエフは上座に鎮座して酒を煽り始め、そして有能とは思われない王弟を囲む策士達は自分達がいかに有能であり、その有能ゆえにどれほどの不遇をかこっているかを口々に言い合った。

 もはや誰も難しい話しをしようとはしない。恐らくは、そのような難事を考える能力事態を彼らは持ち合わせていないのだろう。

 そして。唯一、髭の機士だけがその場から離れていくこととなった。

 ――辺りを見回ってくる。

 グランデールはそのように仲間達に言い置いたが、実際には機士はその場にいるのが苦痛であったのだ。

 陰気な館の外、葉が落ちた木々の上には青い月がぽっかりと浮かんでいる。

 機士は機士であると同時に詩人であった。楽器に秀で、歌も上手である。

 ――王弟クリーエフが夫人に贈った曲と詩はすべてグランデールの手になるものである。

 王宮ではそのような噂が語られており、これは恐らく事実であっただろう。

 感受性に優れる髭の機士は何かを思って月を見上げる。背後を遠く、屋敷の中からは男達の笑う声が響いてくる。

 と。

 「……機士の中の機士。ルイ・グランデール。実は王弟クリーエフの奥方に懸想しているとかいないとか」

 それは本当に突然のことであった。木立の中から声がかかる。

 不粋で直截な言葉に機士は応えなかった。応えるまでもない。闇の中からまるで水面に浮かぶ泡のごとくに一人の男の顔が浮かび上がってくる。『妖艶な』という表現はいささか大げさなものであるが、ほかに形容詞が見当たらない、そのような容貌を持つ男であった。

 黒い瞳に浅黒い肌。しなやかな体躯。黒い髪は生来からそうなのだろう、軽くウェーブしている。スタンドカラーのシャツにウール地の薄青いコートを羽織った美男。奇妙な男は愉しげに笑い、揶揄された機士は自分のプライベートについては語らないままに言った。

 「こんなところまでやってきてよろしいのですかな、大使殿」

 「大使ではなく、ペドロワと呼んでくださって良いのですよ」

 せっかくの厚意に機士は何も応えない。グランデールは老練な人物であり、尻尾を掴ませると厄介な相手がいるということを弁えている。コートの美男は続ける。

 「グランデール殿。右手に刀、左手に詩。私はあなたのような人物がいるこのステアネーゼを尊敬しているのですよ」

 「私も貴殿を大使に任命するクレティアには大いに感心しておりますぞ」

 グランデールは嫌味を寄越して返す。クレティア大使は笑って話を続ける。

 「……それにしても間の抜けた上司というものは困りものですな。私も本国からの指令がころころと変わるので難儀をしているのですよ」

 何かを探るような空気があった。ルイ・グランデールは厳しい顔で応じる。

 「大使閣下。王弟殿下にお取り次ぎいたしましょうか?」

 「無用。長居はするつもりはございませんので」

 気味の悪い美男は足下に言い捨てると、策士達が集う屋敷をじっと見上げる。月明かりが雲間にふっと消えた。 

 王弟クリーエフとクレティア大使ペドロワ。

 実務はエルヴェイラやフランブールといった連中が担っているが、形式的には、王弟と大使の二人が噛み合うことで、今回の政権転覆の陰謀は成立している。否、もっと正確に言えば、王弟がペドロワに踊らされているというほうが正しいかもしれない。

 「……愚かなるもの。その名は男」

 美男は言い、機士はそれを半分ほど黙殺した。

 「今宵は大使としてではなく、詩人として貴方と語らいと思ったのですが無理のようですねえ」

 月が雲間に隠れた。大使ペドロワは続ける。 

 「ルイ・グランデール殿。正直なところ、政府転覆はうまくいきそうですかな?」

 大使はからかうように、ふざけたように尋ねた。

 大使はあけすけに尋ねるほうが隠すよりも相手を牽制できると言うことを知っている。機士の中の機士は問いには応えず、そこで大使は闇の中で笑った。

 「まあ、私としては皆さんが首尾よく物事を運ばれることを望んでいるわけですが……」

 王弟クリーエフと大使ペドロワが以前交わした覚書には次のような項目があった。

 ――王弟による政権奪取の暁にはステアネーゼ南方の四州をクレティアに割譲する。

 もちろん王弟のほうには、そのような密約を守る意志などないだろうが、それはペドロワも同じであった。

 ――素直に渡して貰えないのであれば奪い取れば良い。

 大使はそのように弁えている。すでに南方戦線ではステアネーゼ動乱にあわせて軍団の増強が始まっているとも言われる。領土を掠め取れるかどうかはともかく、大使ペドロワとしてみれば隣国がごたごたしてくれればそれだけで十分なのである。そして大使はすでに自分の職責を全うしている。

 「何をするにしても時の運というものが肝要ですからねえ。特にのるかそるかの博打を張るときは……」

 のんびりとした美男の声が響く。機士の方は黙っている。程度の悪い同志の姿を見続けていれば機士も沈黙したくなる。

 「まあ、よろしい。グランデール殿、ご健闘をお祈りしていますよ。それから、王弟殿下によろしくお伝えください」

 雲間から月が再び顔を覗かせる。その時にはすでにクレティア大使の姿は消えていた。

 後には暗く沈んだ機士が一人月の光を浴びている。


 「わわーっ!」

 カペルヴィアストルの学生寮で黄色い悲鳴が響いた。ほとんど泣き声といっていい叫びを漏らしたのはバアドクレアである。

 「わーっ!」

 校舎の方ではおそらく講義が始まっている頃だろうが謹慎中のバアドクレアは授業を受けることを許されず、しかたなく自室で掃除をしているところであった。

 そして。掃除をしていたキメラの若者はここで恐ろしいクリーチャーによる苛烈な攻撃を貰うこととなったのだ。

 体長七センチ。黒い羽根を持ち、かさかさと動き回る気味の悪い虫。

 トリセルディの机――ほとんど使われたことはないのだが――の裏側から走り出たいやらしいゴキブリは壁の上に張りついてまるで息でもしているように長い触角を蠢かせている。寮室ではたきを持ったままバアドクレアは硬直し、もう一度叫んだ。

 「わーッ!」

 そこにゴミ捨てを強制されたトリセルディが何事かといった具合に戻って来る。バアドクレアは野人のシャツを握ると気が狂ったように叫んだ。

 「と、取って、取って!」

 バアドクレアは実はいろいろ言いたいことはあるのだ。だが、慌てた舌先から短い単語しか出てこない。バアドクレアはとにかくゴキブリが大嫌いなのだ。

 「あれ、あれ取って、あれ……」

 バアドクレアは半狂乱になって叫び、そしてトリセルディはそこでようやく騒動の中心となる七センチクラスのクロゴキブリを壁の上に見いだした。

 「ああ……」

 あまりにも単純で乱暴な寮友の指示にトリセルディは思いもよらぬ行動を取った。つまり、バアドクレアの言う言葉を額面通りに受け取り、ゴキブリを捕獲しようとしたのだ。それも素手で。

 「あんなものが欲しいのか?」

 不思議そうな顔のまま野人はゴキブリに手を伸ばし、その背中を掴むバアドクレアはさらにパニックに陥ってしまった。

 「違ッ、違うっ!そうじゃないっ!そうじゃなくてっ!」

 キメラの若者はトリセルディの背中から手を離してしまうと腿上げ走をしながらその場で独楽のように高速スピンを開始する。

 「あれを、あれを殺すんだっ!殺すんだってっ!」

 ――いったい何で、僕の言うことが分らないんだ!

 トリセルディはようやく納得して、ベッドに立てかけてあった斧を取り出して、それでゴキブリを叩いて殺そうとした。錯乱したバアドクレアはまた喚いた。

 「駄目だよっ、それで潰したら中の白いのがぐちゃって出てきちゃうだろーっ!」

 狂乱にあるバアドクレアの言いたいことはおそらくこういうことだろう。

 ――ゴキブリを潰して中の体液がぶちまけられるのは見たくない。いったい誰が掃除すると言うのだ!

 バアドクレアはジャンプし、必死の形相でトリセルディの腕にすがりついてくる。野人がいかんともし難く困惑しているとゴキブリは突然、思い出したように『飛ぶ』という方法で人間共に反撃をしてきた。ばたばたと不格好に羽ばたくクリーチャーが向かって来たことで、トリセルディも僅かに慌てたようである。

 「うおっ!」

 野人は小さくうめき、バアドクレアのほうは泣き喚いた。

 「わひーっ!」

 ゴキブリはフローリングの床の上に着地すると、そのままバアドクレアのベッドの下に逃げ込んでしまった。恐怖の対象が視界から消えたことでバアドクレアは落ち着いた……ように見えた。

 「……のせいだ」

 バアドクレアは下を向いたままじっとりと呪うように呟いた。

 「トリセルディのせいだ」

 「ああ?」

 黒い髪の野人は怪訝な顔を作り、そしてバアドクレアは再び大噴火した。

 「君がっ、君がいない時にはゴキブリなんか見なかったっ!一回もだよっ!君が来てからだよっ、あんなでかいのが出てくるようになったのはっ!」

 バアドクレア魂の絶叫である。トリセルディはただ五月蠅そうな顔をしている。少なくとも反省しているような顔ではない。

 「君がベッドのうえでビスケットを食べたり、ジュースを飲んで瓶をそのままにしてるからゴキブリがどこかからやって来るんじゃないかっ!」

 「ゴキブリの二匹や三匹、あんなの何てことないだろう」

 トリセルディはつまらなそうに言った。

 「何てことあるよっ!全く、何、考えてんだよっ!もしも、もしも夜、寝ている間に口に入って来ちゃったりしたらどうすんだよ!」

 「いいじゃねえか。喰っちめえば。案外うまいかもしれねーしな」

 トリセルディの暴論にバアドクレアは耳を両手で塞いだ。

 「嫌だ、嫌だ、嫌だーっ!」

 キメラの若者は空中分解一歩手前となって悶絶し、トリセルディは斧を元あった場所に立てかけると、後は何事もなかったかのように自分のベッドの上に腰を下ろして新聞を読み始めようとする。バアドクレアはまたもや怒った。

 「何してんだよ……」

 「新聞」

 トリセルディは何故叱責されたのか分っていない。ゴキブリは視界から去った。その時点で話は終わりというのが野人の方針である。だが、バアドクレアの意見は別である。害虫は確かにまだベッドの下にいるはずなのだ。それもバアドクレアのベッドの下に。

 「もう、ちゃんと殺してくれよー。安心して寝られないだろ!」 

 キメラの若者はそう言って寮友を激しくせっついた。黒い髪の野人はしかたなく立ち上がり、バアドクレアのベッドを動かして、ゴキブリを追跡する。

 「いねーな」

 「そんなことないよ、いるに決まってるよ!だって見たもん!」

 バアドクレアは真剣である。トリセルディはベッドをひっくり返してみたがついに恐るべき人類の敵は発見できなかった。

 「どっかいっちまったんだろ」

 トリセルディはバアドクレアのベッドを元通りに戻して言った。

 「どこかって?」

 「実家じゃねえのか?」 

 「ゴキブリに実家なんかあるもんか!」

 バアドクレアは不満顔のまま言ったが、実際に虫がいずこかへと消えているのではそれ以上どうすることもできない。

 「それよりもよ……」

 トリセルディが言った。もうゴキブリの事など忘れてしまっているのだろう。エラートの若旦那は新聞をバアドクレアに見せた。

 「これ、どこで買ってきたの?」

 謹慎中のトリセルディが新聞を手に入れるのはそれほど難しくはないがそれでもゴミを捨てて戻ってくる一分少々ではいくらなんでも時間が足りない。購買部のある校舎まではどんなに急いでも五分はかかるのだ。

 「一階の守衛室にあったからよ」

 「泥棒じゃないかっ!」

 バアドクレアはここのところ怒りの境地が平常心となっている。

 「いいんだよ。新聞ぐらいで硬いこと言うな」

 エラートの若旦那は適当に言った。小切手に比べれば新聞一部ぐらい安いものではないか。

 「それよりもだ。こいつを見てみな」

 トリセルディに指し示す先には次のような小さな記載があった。

 「……王立機士学校の付属植物園にて行われる高原植物展の展示品の搬入始まる」 

 バアドクレアは読み終えてから頷いた。邪悪な連中が国都と陰で暗躍しているということはキメラの若者も知っている。

 「麻薬の搬入があるってことかな?」

 表のルートで禁制品をそのまま都に搬入する。幸いにして王立機士学校には付属の動物園や植物園、水族館に博物館、美術館、図書館と様々な施設が付随していのだ。そしてそれぞれの施設で月に一度は必ず某かの催しを行っている。

 「来月は美術展だとよ。絵描き共も自分のキャンバスと一所に薬が運搬されるとは思うめえ」

 トリセルディは伝法に言った。

 「調査に行くんだね。今夜?」

 バアドクレアは心配そうに尋ねた。キメラの若者はエラートの若旦那が大嫌いだったけれど、同時に全く矛盾する表現であるが、嫌ってはいなかったのだ。

 「まあな。今なら現物を押さえれるかもしれねえ」

 また謹慎中の抜け出しということになるが、そんなことはトリセルディにはどうでもいいことである。何と言っても停学は休暇と考えるような御仁なのだ。トリセルディは。

 「その前に今から下調べに行こうと思ってる」

 トリセルディは言った。バアドクレアは毎度のことなのでもう苦言を呈したりはしない。勝手にやらせるしかないのだ。

 「王立機士学校に行ってみようと思う。何とかっていう変な動物の公開日が今日だということだから。人も多少出ていてくれた方が煙幕になってくれるだろ」

 野人は事もなげに言い、一方バアドクレアは古新聞に載っていたヴィーボという奇妙な生き物の事を思い出していた。

 ――僕も見に行きたいなー。

 珍獣は目が大きく実に愛らしい。バアドクレアは動いているヴィーボを一度で良いから見てみたいと思っていたのだ。

 「どうだ一緒に来るか?」

 トリセルディは言った。バアドクレアは、うーんと唸った。いつもであれば『とんでもない』と即答するところである。だがキメラの若者はそうしない。動物を見てみたいというのはもちろんだが、もう何度も重大な校則違反をしてきたことでバアドクレアは自分でも気がつかないうちに相当モラル面で鈍くなってきている。

 それに。王国の危機に対する貴族としての責任感というものもある。祖国の危機であれば小義についてはこの際目をつぶっても良いのではないか。バアドクレアは決断した。

 「よし、行こう!」


 カペルヴィアストルと王立機士学校――。

 都にある二つの機士学校は規模も施設も人材も全ての面で大きな差がある。

 カペルヴィアストルは校舎と寮、あとは運動場がある程度である。金融街のサイズベリに隣接する商業地域のトラム街にあり、敷地も大きくはない。

 一方、もう一つの機士学校、王立機士学校は王家から下賜されたグラジットの森の中にあり、敷地面積はカペルヴィアストルの実に三十倍もある。

 学校の中には王立美術館があり、博物館がある。天文台も備えるし膨大な蔵書を揃える図書館もある。それだけではない。様々な研究施設や病院といったものも抱えている。グラジットで働く人員の数はおそらく一万人を越えているだろう。

 要するに具らジットの森は王国の知恵と知識の一大集積地であるのだ。

 その知の集積地を背の高い屈強な若者と、痩せて小柄な金髪の娘がうろついている姿が見受けられる――。

 このうろついてる若者二人連れが停学処分中のトリセルディでありバアドクレアであることは言うまでもない。

 鉄の格子壁が巡らされたグラジットの森を一周したあと、バアドクレア達は敷地の南にある黒い門を潜った。

 「結構広いなあ……」

 バアドクレアは呟いた。

 広大な敷地には様々な施設が海に浮かぶ島のように点在している。トリセルディの推察によれば、そのどこかに違法な薬物の一時保管場のようなものがあるはずなのだが……。

 「こんなに広いと何処だか分らないよ」

 バアドクレアは途方に暮れている。歩いてみて初めて理解される広大さとでも言うべきか。だからこそ物を隠すにはうってつけなのだろうが……。

 「そうだな」 

 トリセルディはぼんやりとして言った。

 「ちょっと作戦を変えないといけねえな」

 「変える?」

 バアドクレアは尋ねる。

 「適当に探してもこいつは無理だな。向こうが施設の倉庫なりにセドールを隠しているとは限らないし。どこか人目につかないところに埋めたりとかしている……いや、そんなことはねえな。シベイルのおっさんの話によれば、相当の頻度で物を出し入れしているみたいだからな。きちんとした施設に保管されていると考えるほうが適当だわな」

 木立の道を歩きながらバアドクレアは頷いた。

 「そうだね。多分、倉庫みたいな所だね。昔、使われていて、今は使われていないようなところが怪しいかな?」

 トリセルディはバアドクレアの横顔を見ている。

 「でも、そうだと、人の動きで怪しまれてしまうかも。だって、廃屋に大勢の人が集まってコンテナを搬入したりしていれば目立ってしまうだろ?」

 野人はうむと頷いた。バアドクレアは続ける。特に推理をしているという意識はない。いつものように『女』の勘と常識を働かせているだけなのだ。

 「いっそ、薬があっても別に何とも思わない所に置いておく方がいいかも。だって、セドールだって薬には違いないんだから。保存場所は日の当たらない涼しい場所。子どもの手の届かない所……」

 バアドクレアは自分の部屋の湿布薬の裏に書かれていた諸注意を思いだしていた。

 ――高温多湿は避けてください。

 薬の取扱説明書にはそのように書かれていたのではなかったか。野人は頷いた。

 「そうか。薬があっても別に何とも思わない所か……」

 トリセルディはバアドクレアの推理をそのまま横取りにかっさらっていった。もっともそのことでバアドクレアは別に怒ったりはしない。

 「と、いうことは、あれか、あそこなんか臭いな……」

 トリセルディは足を止めて、顎で持って指し示した。野人の示す先には王立の中央病院がそびえる。白い壁に囲まれた七階建ての建物には外科内科を始め、様々な部局が揃っている。

 「まさか、ね……」

 まさか大病院内に違法の薬があるとは。バアドクレアは自分が導き出した推論に自分で首をふった。

 「大きな病院がそんな大それた犯罪に加担するなんて、ちょっと考えにくいね」

 トリセルディは病院の方角をじっと見つめている。

 「……病院を捜索するの?」

 キメラの若者は尋ねた。

 バアドクレアはトリセルディの考えていることはだいたい分るのだ。特に訓練をしたわけでもないし、昔から野人のことを知っているわけでもない。けれど何となく察せられるということがある。どうやらエラートの若旦那は捜査対象を一つに絞ったようである。もっとも、トリセルディが対象を絞り込もうとそうでなかろうと、バアドクレアには止める方策もなかったが。

 「そうだな……そうだ」

 エラートの若旦那は行動力の固まりのような人物なのだ。決断も早い。

 「……もしも、うまくいけば」

 ――植物園への荷物の搬入。

 新聞にはそのような記事があった。タイミングさえあえば薬剤の納入現場をそのまま押さえられるかもしれない。

 「ちょっと行ってみよう。何かわかるかもしれねえ」

 トリセルディはそのように言うと病院のほうへと歩いていく。

 大小七つの病棟からなる付属病院は、それだけで小さな町のような外観となっている。

 バアドクレアはトリセルディについてグラジットの森を王立天文台を右手に、舗装された道をゆっくりと歩く。

 平日のグラジットには人の姿はあまりない。機士学校の医学部校舎を通り抜けて、さらに十分ほど歩くと左手に赤いレンガの壁が見えてくる。そこが機士学校の付属病院であった。

 大型車が一台通れるほどの道路をまっすぐに行くとグラシッジの森の西の門に通じる。木製の黒い門はバアドクレアがいる付属病院の北門からも遠く見ることが出来る。その先、グラジットの西門を出たところすぐは北から南に緩い勾配の坂となっている。かつてレーネス家の邸宅があったことからこの坂はレーネス坂と呼ばれているが、肝心の屋敷はずいぶんと昔に失火炎上して無くなっていた。

 「あっちがレーネス坂か……」

 バアドクレアは自分の頭の中で地図を拡げるようにして頷いた。実はバアドクレアは地図を眺めて移動することがあまり得意ではない。自分の現在位置と地図を見比べているうちに何がなんだかわからなくなってくるのだ。

 ポプラ並木が美しいレーネス坂を左に行くと、八号の市道に通じている。八号の市道の先には立体交差があり、さらにその先には十四号市道に通じるのだが……。

 ――もういいや。

 地図に嫌気がさしてバアドクレアは頭を振った。

 「行こう」

 トリセルディはそのように言って、バアドクレアを呼んだ。

 二人は病院の北側にある通用門から敷地に入る。病院の北側にある鉄の門は開けっ放しになっており鍵はかかっていなかった。業者の車が割合に頻繁に出入りするからであろう。ちなみに、この病院北側の鉄門は院内で亡くなった人の亡骸を搬出する時にも使われるという。

 「あんまり気分の良いところじゃないね」

 バアドクレアは陰気で殺風景な病院裏手を見ながら呟いた。

 北門から入ったすぐの所、右手に焼却場が見える。ここで医療用の廃棄物などが焼却される。反対に左手には病院地下に降りていくスロープがあった。業者が車で荷物を運びいれるためであろう、スロープはかなり幅が広く作られている。

 「人は……いないね」

 バアドクレアは呟いた。すぐ目の前には病院の裏口がある。裏口脇には警備員の詰め所が見えるが、人の気配は感ぜられない。部屋の灯りはついているのだが……。

 「なるほど……」 

 トリセルディは頭の中に病院への侵入経路を叩き込んでいるようである。

 「……車で来るとすれば地下だな」

 野人はぼそぼそと呟いた。だいたいのことは理解した。と、なればその場に長居をする必要もなし。黒い髪をした若者は踵を返して急ぎ足にその場を立ち去る。

 「……トリセルディ、中には入らないの?」

 バアドクレアは友人を追いながら尋ね、それに野人はこう答えた。

 「ああ、まあな……。うろうろして顔を覚えられるのも嫌だしな。ま、夜にもう一度来てみよう」

 トリセルディはそう言うと、今度は病院の北門から一度グラジットの森に戻り、そこから今度は病院のレンガ塀を左手に、先ほど遠くに見えたグラジットの西門を目指して歩く。

 どこかで百舌が鳴くのが聞こえる。

 舗装された森の道には人の姿は無く、また、車も通らなかった。

 「静かなものだね……」

 バアドクレアの呟きにトリセルディは特にコメントしなかった。

 チームを組んだにわか探偵達はグラジットの西門を出ると、今度はレーネス坂をゆっくりと下っていく。八号の大通りまで達するとそこを左折し、今度は王立病院の正門を通り過ぎて、最初にバアドクレア達が森に入った門に至る。二人はここでちょうど病院をぐるりと一周したことになる。

 「怪しいところは見当たらないね」

 バアドクレアは言い、トリセルディは頷いた。確かに不自然なところは見当たらない。全てが平穏そのものであるのだ。もっとも、これ見よがしに不自然な宣伝をする密売人というのもいないと思われるが。

 「それで、どうするの、これから」

 バアドクレアの問にトリセルディは言った。

 「植物園があったな。あれを見ておこう……」

 黒い髪の野人はそのように言って歩き始め、バアドクレアもそれに従う。二人はもう一度門から森の中に入り、今度は、先ほどとは違って右手、東のほうに歩いていく。

 やがて。

 二人の歩く方角に金網が見えてくる。金網の向こうには植物園があり、さらににその先には動物園が隣接している。

 「あっちだ……」

 トリセルディはそう言うと、金網を右手に見ながら北へ向かう。しばらく行くと植物園の裏口が見えてくる。裏口脇には警備員がつめる詰め所があった。トリセルディはのっそりとした様子で詰め所に近づいていく。

 ――関係者以外進入禁止。

 そのような立て札があるがトリセルディは全く気にしていない。

 と、敷地に入ってきた二人の姿を見たのだろう、すぐに植物園の守衛がやって来た。横幅のある、古くは立派な体格であっただろう老警備員はトリセルディとバアドクレアが間違って施設に入ってきたものと思ったらしい。

 「入園者の人は正面の門に回ってください」 

 老守衛はのんびりした調子であり、陰謀の匂いとは無縁なようであった。と、ここでトリセルディが不意に思いもよらぬことを言い出した。

 「守衛さん、俺達、運送会社のほうから荷受けの作業補助としてこっちに来るように言われたんだけれど……」

 トリセルディは堂々としている。バアドクレアのほうは仕方がないので嘘につき合うばかりである。守衛は思った通りの反応を示した。

 「作業補助?」

 「そうなんだ。植物園のほうで積み下ろしの業務があるということなんで。俺たち臨時雇いなんです」

 トリセルディは適当に出鱈目を語った。

 「そんな話は聞いていない……。運送会社っていうのはオルトネッリさんのところかな?今日はあそこだけだったと思うが」

 トリセルディは力強くうなすいた。

 「そうです」 

 「あそこはいつも助手がついていたし、それに積み下ろしは植物園の人間がやることになっているはずだが……」

 守衛はぶつぶつと言った。

 「そうなの?俺達はオルトネッリの社長さんに言われてこっちに来たんだけれど。それで、荷物のほうは?」

 トリセルディはあまりにも堂々としており、そのせいで老守衛も疑うことができなくなっている。

 「あそこはいつも遅いよ。聞いてないのか?今日も多分来るのは九時過ぎだろう」

 「九時?それまで俺達何してりゃいいんだよ」

 「そんなことは知らんよ……」

 老守衛はこれ以上トリセルディに構っていると、不都合が自分の身に及ぶと感じたようである。その場からそろそろと離れていき、詰め所に引っ込んでしまった。

 「九時。オルトネッリね……」

 トリセルディはうなずき、バアドクレアは言った。

 「たいした腹芸だね」

 

 「駄目だなー、ヴィーボ」

 日はすでに中天からだいぶ西に下っている。グラジット恩賜の森の下見を終え、バアドクレアはトリセルディと共に八号の大通りを下っていく。 

 「寝てばっかりなんだもん……」

 バアドクレアは少女の面ざしで文句を言った。

 キメラの若者は動物園で見た奇妙な生き物のことを思い出している。一般公開のなった珍獣のブースには見物客が大勢詰めかけていた。その多くは子供達であったが、若い男女の二人連れもちらほら見受けられた。バアドクレアが不満なのは、せっかく見に行った珍獣が夜行性なために、始終寝っぱなしで愛嬌の一つも振りまかないからである。サービス精神に欠ける生き物にがっかりしたバアドクレアは『ふれあいの広場』という動物に触れられるコーナーでウサギ達に餌をやってから動物園を後にしたのである。

 「あんな動物、どうにもなんねえよ。喰えそうにねえしな」

 トリセルディは言い、バアドクレアは渋い顔をした。

 「君は本当に食べることしかないのかよ!」

 野人は何も言わずに『他に何があると言うのだ』といった具合に眉を動かしただけであった。

 やがて。大通りを行くバアドクレアの足が止まった。

 小さな洋品店のショーウィンドウの前である。八号の大通りには近くにレーネスを始め大貴族の邸宅があったこともあって高級な服飾の専門店が目立つ。喫茶店があり、洒落たレストランがあり、美容院があり、宝飾店も多い。バアドクレアが立ち止まったのは、売り出し中の若手デザイナーが開いたばかりの小さな店であった。

 「どうした?」

 トリセルディは尋ねた。ガラスの向こうには女性用のドレスがディスプレイされている。綺麗な空色をした丈の長いよそ行きの衣装。飾り気のあまりないドレスは調度バアドクレアにぴったりなサイズではないか。

 「……」

 バアドクレアは黙って青い衣装を見入っている。トリセルディは聞いた。

 「欲しいのか?」

 「いや、う、ううん……」

 キメラの若者の反応はあいまいである。バアドクレアの精神構造は極めて複雑である。男でもあり女でもあり、男という選択もでき女という選択もできる。バアドクレアが普通の男性であれば、女性の衣装に見とれるのは異常とはいかないまでも、まわりの人々に怪訝に思われたことであろう。

 「こんなの、いくらぐらいするんだ?俺はこういうのは良く分からなくてなあ。姉貴なら知っていると思うが」

 トリセルディはショーウィンドウの中を一緒にのぞき込む。値札は見当たらない。

 「高いのか?どうなんだろう」

 エラートの若旦那はバアドクレアの出自を知っている。男にでも女にでもどちらにでも転び得るキメラの若者のことを理解しているので、バアドクレアの行動を揶揄したり馬鹿にしたりしない。むしろ、女性的なものにバアドクレアが興味を持つのが自然なものであるとトリセルディは認識しているようである。大人物といえば聞こえは良いが、単にあまり細かいことに拘ることができない性質なのかもしれない。

 「店員に聞いてみるか?」

 青いドレス。金髪のバアドクレアが身につければきっと栄えるだろう。キメラの若者は一目でそれを気に入ったのだ。だが。

 「……行こう」

 キメラの若者は首を振って歩き始める。トリセルディも不思議そうな顔のまま歩き出す。

 「何だ、買わないのか?」

 「……いい」

 バアドクレアは沈んだ口ぶりで言った。

 「欲しいんじゃねえのか?」

 トリセルディに内心を読まれて、キメラの若者は動揺している。

 「金がねえなら貸してやるぜ」

 エラートの若旦那は軽い口調で言った。黒髪の野人は万事に前向きで、どんな不運でも良い方に良い方にとろうという意識が働く。トリセルディに言わせればキメラとは男にも女にもなれる実に愉快な存在である。性を自分の意志で決定できるとは何と言う幸い!一方、バアドクレアはそのように簡単には割り切れない。

 「いいんだ、もう……」

 金髪のキメラはしょんぼりと肩を落として言うとそのまま歩き続ける。トリセルディはその後をゆっくりと歩いていく。 

 「僕は男にならないといけないから……」

 「良いじゃねえか。先のことはともかく今は男でもないし女でもないんだろう。男の服を着ようが女の服を着ようがかまわねえじゃねえか」

 トリセルディは拘るこなく言った。もしかしたらエラートの若旦那はバアドクレアの性別のことをリバーシブルのジャケットのように考えているのかもしれない。確かに、その通りであるのだが、繊細なバアドクレアは自分の事であるからそこまで物事を単純に割り切ることができない。

 「そういう問題じゃないよ」

 「じゃあ何だ?」

 トリセルディは尋ねた。

 「僕は貴族なんだよ。貴族には品格ってものがあるんだ」

 「品格って言ったって、現実におめえはキメラじゃねえか」 

 キメラの若者はトリセルディが自分を侮っているのだと思い込んできっとなった。だが思いもよらずトリセルディの視線は優しいものであった。

 「おまえよお、自分を自分と認められないなんて、そんなの生きててつらくねえか?」

 トリセルディの言葉にバアドクレアのいきり立った心が今度は沈んでいく。いっそ、からかわれたほうか良いという事もこの世には存在する。

 「トリセルディ……」

 バアドクレアは言った。

 「……僕にはアスペンブロウ家の全てがかかっているんだ。アスペンブロウは小さな貴族だけれどそれでも僕の家には二十人の家臣がいて、みんなが家族を持っているんだよ。僕達には彼らの生活を保障する義務があるんだ」

 ふーん。

 トリセルディは疲れたようにため息をついた。何か言いたいことはあるが、その言いたいことを敢えて飲み込むような、そのようなため息であった。

 ――論点をそらすなよ。

 トリセルディはそのように言いたかったのかもしれないし、

 ――他人の生活を保障するなどと思いあがったことを抜かすな。

 と言いたかったのかもしれない。けれど、そう言えばバアドクレアを追い詰めてしまうかもしれない。そこで黒い髪の若者はため息でごまかしたのではなかったか。

 「……まあ、そうか。そんなものか。貴族には貴族の辛さって奴があるだろうからな」

 トリセルディは迂遠に言った。

 「そいつは分ったよ。男になるならなるで結構。ならなきゃいけないのであれば、それも良い。俺は止めたりはしねえし、文句を言うつもりもない。けれどよ、実際問題として今のおまえは男でもなければ女でもないじゃないか。それが良いとか悪いとか言ってるんじゃない。ただそうだって言ってるんだ。別にそれは悪いことでもないし恥ずかしいことでもない。おまえは男でもあり女でもある。そういうものと決まっているんだ」

 バアドクレアは黙っている。

 「そう決まっていること、そう定められていることを笑って遊ぶか、それとも、しかめっ面で不愉快な時間を過ごすか。そこで人間の器って奴が試されるんじゃねえのか?」

 「……」

 トリセルディは穏やかに続ける。

 「おまえがあの服に見向きもしないのであれば、俺だって最初からこんなことは言わねえよ。たださ、すごく欲しそうな顔をしてたからよ。そんなに欲しいのであれば買えばいいってそう思ったのさ。買いたければ買って着てみればいい。別にそんなに迷うことでもないし、誰かに憚るようなことでもない。自分のことを規制するようなことは何もない。俺はそう言いたいだけなんだ。ただそれだけのことなんだよ」

 トリセルディは穏やかに言い、バアドクレアは黙っている。

 「人生は短い。そんなに何かに拘ったり、世間体を気にしたりする必用なんかないんじゃないか。いつだって笑ったもん勝ちだぜ。プライドを振りかざしても結局寂しいだけだ」

 プライドを振りかざしても寂しいだけ。

 トリセルディの言葉は光威弾のように破壊力が有る。だからバアドクレアはトリセルディのことが気に食わないのだ。

 「……まあ、こいつは俺の個人的な意見で、おまえにはたぶん違う意見があるだろうよ。だから、無理に俺の言うとおりにしろなんて言うつもりはないけれどな」

 野人はルームメイトを傷つけないように沈黙し、バアドクレアも沈思する。

 回りから見れば二人の姿は別れ話をしている恋人のようにも見えたのではないか。やがてキメラの若者は心細そうに告白する。

 「……本当は、本当は僕は男になるか女になるか、あんまり深く考えてこなかったんだ」

 トリセルディは黙っている。

 「そんなのずっと先の話だと思っていた。ずっと先の。けれど僕の二人の姉は女になってしまった。家族も家臣のみんなもみんなびっくりしていたけれど本当にびっくりしていたのは僕だったんだ。自分に重い責任が科せられるようになるとは思ってもみなかったから」

 「……」

 「もうアスペンブロウ家には僕しかいないんだ」

 キメラの若者は悲愴ですらある。

 「アスペンブロウだけの話じゃない。キメラという人々の事も考えなきゃならない立場に僕はあるんだよ。この国にはもう純血のキメラの血筋はほとんど残されていない。僕はその血も守らなければならないんだ」

 トリセルディは何か言おうと口を開きかけて、結局何にも言わなかった。

 リンツやビーの母親もキメラであると聞く。『普通の』人間の家に嫁いでいくキメラも決して珍しくはないのだ。バアドクレアは話を続ける。寒風が大通りを吹き抜けていく。一生懸命に語るバアドクレアの頬がわずかに赤くなっている。 

 「僕の母の実家は、僕の母が女を選んでしまったために断絶することになってしまった。養子を貰って名前は残ったけれどキメラの血筋そのものは絶えてしまった。僕は同じ轍を踏むわけにはいかないんだよ」

 金髪のバアドクレアは言った。

 「僕は男にならなければいけない。けれど、誤解しないで欲しいんだ。僕は女になるのが嫌で嫌でたまらないというわけではないんだ」

 エラート若旦那は静かに聞いている。

 「僕は今は男にならなきゃと思っている。でも、もしかしたら何かの拍子で女の方が良いと思うようになるかもしれない。実際、姉さん達がそうだったみたいだから。些細なことで心が揺れて気がついたら本当に女になってしまう。僕はそれがとても恐ろしいんだ」

 野人は頷いた。キメラの性の選択は中々に微妙なものであるらしい。

 「心が揺れて、女になってしまうかも、それが怖いんだ……」

 バアドクレアは本当に思っている不安の核心を再び語り、そして、僅かに自分の告白が核心からそれていることに気がついて言い直す。

 「……トリセルディ、君は僕のことを意志が弱い、家族や他の人の目ばかり気にしているって思うかもしれない。そのことは認める。僕は弱いんだ」

 「……」

 「僕が……僕が本当に怖いと思っているのは男になれないことでも女になることではなくて、失敗をして両親や回りのみんなが失望することなんだ」

 本当に怖いのはみんなの視線。みんなの評価。トリセルディは黙って聞いている。

 「僕が失敗したらみんななんて言うか。父上は、母上は、親戚は、家臣達は……。そのことを考えるとすごく気持ちが重くなるんだ。鬱々として心が暗くなる」

 トリセルディは頷くかわりにふーっと鼻から長いため息を漏らした。

 「……もうどうしようもないんだよ。どうしようもない。僕は君みたいに強くなれないし、君みたいに自由に何でもやれる立場にはないんだ。本当は僕だって笑って自分の器が大きいことを示したい。できることならばそうしたい。でも駄目なんだ。どうしてもうまくいかない。うまくいかないんだよ……」

 「……そうか」

 トリセルディは重々しく言うと、二度と青いドレスについてもキメラについても語ることはなかった。バアドクレアも自分のことについては硬く口を閉ざしたまま一言も口をきかなかった。 

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