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五 大失態

 ダリエン駐竜場に帰還を果たしたバアドクレア達を待っていたのは、嵐のような歓呼の声、ではなく割合にこじんまりとした出迎えであった。教官のミラーナをはじめ急を知った学校関係者が何人かと、学生が数名。彼らは消息を断った生徒達のことを心配し、捜索隊を出さなくてはと慌てていたところに武器商人のゼーノから連絡を貰ったのだ。

 ――王立機士学校に攻撃されたところを通りがかりの武器商人に助けられたのだろう。

 カペルヴィアストルの教官達はどうもはじめのうち、事実をそのように誤認していたようである。当然のことであるが、教職員は生徒達が王立機士学校に返り討ちを食らわせたあげくに鹵獲した敵機を売り飛ばしてしまったなどとは思いもよらない。

 果たして教員達が事の一部始終を知るのは、意気揚々と引き上げてきた生徒達を帰し、とんちんかんにも商人達に礼を述べに行って後のことであった。

 ――いや、実はかくかくしかじかで……。

 急に礼を言われてきょとんとしているふとっちょの商人が事の成り行きを教員達に語り始めた時には学生達はすでに駐竜場を去っていた。


 しばらくの後。

 敵機を撃破したバアドクレアとその仲間達の姿は国都の商業地区トラム街にあった。

 初めての勝利に誰も彼もが興奮していて、収拾がつかない状態である。血が騒いでとてもではないがすぐに寮に戻ってベッドに入るなどということはできないのだ。

 それに。

 プロの流儀ということで若者達の手には驚くほどの大金がある。陽気で豪気なリーダーの元、何をどうするかはもう決まっていた。つまりは派手にやってしまおうというわけである。トリセルディと翔んだ仲間達の誰からも異論はない。

 バアドクレアでさえすっかり舞い上がってしまっていて、その場の雰囲気に完全に呑まれてしまっていたのだ。恐ろしいことに、飛空船の中から仲間達と戦果について喋りっぱなしの若者は気がついてみればトラムにある居酒屋のテーブルについていたのである。

 もしもキメラの若者がもう少し冷静さを保っていれば、あるいは後の悲劇を避けられたかもしれない。少なくとも、日が暮れる前から酒場にしけこむようなことはなかったのではないか。否、やはり運命は定められていたのだ。

 「好きなものを頼め!金なら心配すんな!」

 トリセルディは陽気に言った。どうやら景気のいいエラートの若旦那はもぎ取ったゼルナ紙幣を全部使い切ってしまうつもりであるらしい。一方、仲間達は自分達の奮闘と辛苦、逆転の大勝利についていくら語っても語り尽くせない。

 「ほんと、死にそうだったんだぜ」

 エルマは普段の倍も口が回り、それはファーラも同じであった。

 「もう何度、駄目かと思ったことか……」

 ブン屋は器用でありべらべらと喋りながらも頭の中ではファーラ新聞の構成について考えている。ちなみに彼女はすでに新聞の一面見出しをすでに決めている。

 ――王立機士学校返り討ち。

 である。ファーラはとにかく次々にネタを提供してくれるトリセルディにほれ込んでいる。

 ――こいつが台風の目。こいつにくっついていれば必ず何か大事件がおきるぞ!

 興奮しているファーラに比べるとビーステアはちょっと恨みがましい。

 「もっと早く戻ってきてくれれば良いじゃない……」

 お嬢様は町の居酒屋などというものを下賤と見くびっており、普段であればまずこのようなところにやってこなかったであろう。平静と冷静を保っているように見えるビーステアも、地に足が着いていないバアドクレア同様に完全に我を見失っている。このことは高貴な淑女に破廉恥な悲劇をもたらすことになるのだが、それは後のことである。女王ビーステアはひどく未練がましく続ける。

 「いつまでも淑女を待たせるなんて。あなた達、どこかで自分達の出番の時間調節をしていたんじゃないの?自分達の株を上げるために」

 味方のピンチに最高のタイミングで戦力を投入する。時間配分もヒーローの条件である。助けて貰っていながらそのように相手を非難するのはビーステア自身が自分がいつ舞台に上がるかを常に計算しながら生きているからであろう。もちろんトリセルディはいちいち賢しらな自己演出をしたりはしない。

 「そいつは考え過ぎって奴だ」

 トリセルディは誹謗すれすれのビーステアの恨み節をあっさりと流してしまった。

 「ま、いいじゃねえか。勝ったんだからよ」

 勝ったのだから良いだろう。それはごもっとも。勝っているからこそビーステアの不平もこのぐらいで済んでいるのだ。と、その時になって飲み物やら料理などが次々に運ばれてくる。ファーラが忙しく立ち回って、店員から食器やワインのボトルを受け取っている横で、エルマは笑って言った。

 「あの様子をリンツにも見せてやりたかったぜ。すごかったんだぜ、トリセルディの空中戦。あれは完全に神業だぜ」 

 酒場の隅にはなぜかハイメリオンの貴公子リンツの姿もある。誘導の任務についていたリンツは仲間達の非常事態を知って、最後までダリエンに残っていたのだ。そして凱旋なった仲間達によってここまで引きずってこられてしまった。彼もビーステア同様に下賤の一杯飲み屋など戸口の前に立っただけで反吐が出る口であっただろうが、何となくついてきてしまっている。大貴族の跡取りとしては従姉妹のビーステアのことも心配であったし、また事件の現場で何が起こっているのかを知りたいということもあるだろう。否、もっと言えば、貴族の青年は新参のトリセルディのことが気になっているのだ。リンツは自分の血筋にも自分の立場にも過剰に自負しているところがある。本人も自分が学生のリーダーであると考え、また同級生も教職員も、上級生ですら、

 ――あいつは特別なのだ。

 と納得していたのだ。

 なぜならばリンツは父親が国政に携わる実力者であるから。

 けれど、実はそれはそれだけのことでしかないのだ。リンツの実力は虚名であって、それ以上ではない。確かにハイメリオンの次期当主は学業も優れ、剣技も冴えている。飛竜の腕も良い。それは家庭教師がついているから当たり前のことであり、本人も影で必死に努力をしているのだ。では、それが何だと言うのだ?と問われるとリンツとしては困ったことになってしまう。トリセルディという新参者は誰もが『リンツは父親が権力者だし、成績も優秀だし、本人も寛大で重々しく誠実だから』と何となく納得している学校盟主の地位に、

 ――そうか?

 と実力でもってクエスチョンマークを突きつけてきたのだ。それも小切手を熨斗紙につけて。結果は見てのとおりである。エルマは大いに笑い、ミューネはまるでトリセルディのことを霊剣あらたかな金の神像を見るようにして眺めている。ビーステアでさえ生活力にきわめてたくましい若者を大いに評価しているのだ。リンツとしてはとにかく困ったことなのである。一方、トリセルディはリンツのことなどはなっから頭になく、悪気も当然ない。貴公子が勝手に新参者と自分の器を比べてしまっているだけなのだ。脅威というか焦燥というか。リンツは何となく暗くなっている。

 「さあさあ、どうぞどうぞ」

 卓を囲む生徒達にワインをついでまわるファーラがにこやかに傷心の貴公子のグラスにワインをついだ。全員のグラスにワインが注がれ、すぐに乾杯となった。音頭は頼まれてもいないのにエルマが取る。

 「初めての勝利に!」

 猫のような娘は一滴も飲まない前からすでに勝利にべろべろの酩酊状態になっている。

 ――勝利に!

 グラスが鳴り、再び若者達の間で騒々しいおしゃべりが再開する。誰も彼もが自分たちが切り抜けてきた窮地のことを話したがり、トリセルディとバアドクレアがどこからどうやって巨大な一級の戦列機を調達してきたのかを知りたがった。興奮状態にある生徒達は呑み、喰い、喋る……。

 実は、このあたりでやめておくべきであったのかもしれない。いや、やめておくべきだったのだ。誰が頼んだのか空になったワインボトルが店員に片づけられ、グロッグと呼ばれる水割りのラム酒がどういうわけか運ばれてきた頃から状況は不穏なものとなった。バアドクレアはラムのようなきつい酒はさすがに呑むことができず、そこで、ファーラが頼んでくれたらしいグレープフルーツのジュースを貰った。店内はとにかく熱く、そこでキメラの若者は冷たいジュースを三杯ほど飲み干してしまった。ミューネやビーステアも同じように呑んでいるし、口当たりも良いので、バアドクレアはそれが強い焼酎をジュースで割ったものだと気がつかなかったのだ。恐らく、最初にワインを一杯呑んでいたせいで舌がちょっと馬鹿になっていたのだろう。

 とんでもないことになることはもう明らかであった。

 一番、最初に異常になったのはシエルであった。少年はグロッグを呑まされ、それ以後笑いっぱなしになってしまった。エルマもそれほどお酒には強くないようで、奇妙な叫び声を上げて、シエルの頭を平手でばしばし殴りはじめる。ミューネは絡み癖があるのか普段では聞かれないような怒声でリンツに絡んでいる。

 「ぶびょーって!ぶびょーって!」

 ミューネのしつこい懇願にこちらも酔っているリンツが怒って言った。

 「僕は……僕はハイメリオンの次期当主だぞ、どうしてぶびょーなどと言えるものか!」

 酔っ払いの発言にいちいち訂正や断りを入れるのも不粋であるが、リンツはすでにミューネの願いを十分にかなえてやっているのではないか。

 「誰がぶびょーなどと……」

 据わった目で呟くリンツもよく分からないが、ミューネも判らない娘である。

 「怒りぶびょーじゃなくてっ、怒りぶびょーじゃなくてっ」

 ミューネは激怒して狂ったように喚いている。どうやら『怒った顔でぶびょーというのはやめてくれ』ということらしいのであるが、ただでさえ理解に苦しむ不思議少女は酔ってしまったために不思議が完全に異常になってしまっている。一方、酒害は高貴な淑女にも直撃をすることになった。涙を流してテーブルに突っ伏すビーステアは、

 「私だって……、いろいろとみんなが私のことをどう思っているかとか気になるのよっ!」

 などと泣き言を言っているのだ。とにかくめちゃくちゃである。そして、バアドクレアはというとこちらは無意味に陽気になってしまいトリセルディと肩を組んで大声で歌を歌っている。

 「あはは!」 

 何が面白いのかよく分からないが、キメラの若者はとにかく楽しい。笑顔のまま声を張り上げて出鱈目な歌を歌いまくる。恐らく生真面目な金髪の若者は完全に糸が切れてしまっているのだろう。

 ――何か気持ち良くて、楽しいなー。

 見ればトリセルディも大喜びで歌を歌っている。野人は歌と言うよりはただ吠えているとするべきだろう。ところでその場にいる酔っ払い達は誰一人として気がついていないがファーラは、ブン屋娘はいったいどうしていたのか?接ぎ上手の娘は邪悪にも自分ではほとんど一滴も酒を呑まずに、強い酒をどんどん注文して、仲間達に容赦なくがばがばと酒を接ぐ。よせば良いのにリンツにせよエルマにせよまるで水でも呑むように喜んでグラスを開けていくのだ。いったい何のためにブン屋は混沌をまき散らすのか?ただ単に面白がっているということもあるだろう。確かに学校の貴婦人が酩酊したり、大貴族の坊やが拗ねて怒っている姿は文句なしに面白い。それに。ファーラには大層な信念があったのだ。つまり、

 ――記者は事件があるところに必ずあらねばならない。では、事件が無いときには?簡単なことである。その場で事件を起こしてしまえば良い!

 ファーラのモラルの欠如のゆえに仲間達はそれからすぐに大迷惑を被ることになるのだが、もちろん彼らはそのことを知るよしもない。そして知るよしもないままに浮かれ、喜び歌い続ける。

 ――あははは、楽しいなー。

 バアドクレアは無邪気に喜び、そして酔っ払い共の夜は少しずつ更けていった。


 バアドクレアは夢を見ていた。緑の木立をスキップで歩いていく自分が夢の中にあることをキメラの若者は頭のどこかで認識している。

 ――ああ、これは夢だな。

 夢の舞台はアスペンブロウの領地にあるどこかの森のようでもあるが、北方の針葉樹林はどこか陰鬱としている。だが夢の中の森の何と明るくのどかなことか。少年であり少女でもある不思議な若者は足取りも軽く森の中を抜けていく。と、キメラの若者は不意に前方に何かを発見した。道のうえに仰向けに横たわっているのは熊であった。大きな小山ほどの熊を見つけてバアドクレアは、

 「あっ!」 

 と、叫んだ。現実であれば一目散に逃げるべきところであるが夢の中にあるバアドクレアは大胆である。

 「クマだ、クマだ!」

 金髪の若者は少女の面ざしで笑うと小山のような動物のほうに走り寄った。黒い毛皮の熊は森の真ん中で仰向けにになって、ちょうど気をつけの姿勢で眠っている。夢の中のバアドクレアは熊の鼻の上に手をやった。獣は確かに息をしている。バアドクレアは何がそんなにおかしいのか自分でも判らないが、腹を抱えて笑った。動物は相変わらず寝ている。金髪の少女は熊の頭の上にしゃがみ込むと、しばらくじーっと獣の顔を眺めていたがやがて、にまーっと口の端で笑った。何かを思いついたバアドクレアは熊の両瞼に指をあてて眠っている動物の左右の目をむりやりに押し開いた。ひどいことをするものである。バアドクレアが指を離すと熊の瞳がぱちっと閉じた。キメラの若者は腹を抱え、大地を両手で叩いて笑った。そしてひとしきり笑い転げると神妙な顔を作って、もう一度熊の目をむりやりに開いた。指を離すと動物の目が恐ろしい勢いでぴたりと閉じた。

 「あはははっ」

 バアドクレアは笑い転げる。我慢強い熊は前足を鬱陶しそうに鼻のあたりで振るった。キメラの少女はじーっと熊を見ていると、動物は再び静かになった。そこでバアドクレアはもう一度、熊の両目を指でこじ開ける。指を放すと熊の瞳がぱちんと閉じた。熊は『むー』と一声唸り、金髪の若者は笑い転げる。熊は相変わらず目を覚ますことがない。

 「あははっ」

 笑い転げるバアドクレアは熊の頭のほうにしゃがむと動物の額を掌で軽くぱしぱしと二度ほど叩いた。それから三度目に力任せの平手打ちをばしーっと熊の頭に叩き込んだ。

 「むーん」

 我慢強い熊は一声うなり、バアドクレアは笑い転げる。何がおかしいのかよく分からないがとにかく楽しいのだ。目を覚まさない熊に気を良くしたキメラの若者は今度は熊の腹の上に腰かけるとぼんぼんと尻でもって熊の腹の上で跳ね回る。そう、初めてのベッドに喜んで飛び回る子供のように。

 「あははは」

 バアドクレアは熊の腹の上でトランポリンでもするようにして尻でもってぼすぼすと跳びはねる。畜生の事など知ったことではない。バアドクレアはとにかく愉快であり、熊の上で飛んで遊ぶ。飛んで遊ぶ。飛んで……そこでバアドクレアは目が覚めた。

 寮のベッドの上であった。窓からは薄青い光が射し込んでいる。そろそろ夜明けだろうか。だが。

 「うう……あ?」

 バアドクレアは何かがおかしいことに気がついた。そう。いつもと目覚める位置が違うのだ。いつもは窓は自分の頭の右側にあるはずなのだ。だがそうではない。バアドクレアが痛む頭で考えるに、窓は頭上、左側にある。それに、どうもベッドが狭く感ぜられる。それも異常な小ささである。眠っている間にキメラの若者の体格が倍になったわけではない。バアドクレアの右手、ベッドの中央に誰かが荷物を置いていったようなのだ。

 「もう何なんだよ……」

 バアドクレアは不平をぶつぶつと呟きながら半身を起こした。ちょうど首のあたりまで伸びた綺麗な巻き毛を結んでいる小豆色のリボンはどこかに消し飛んでいる。

 「頭が痛いよ……」

 昨夜のことは何も覚えていない。何か歌を歌ったような記憶はあるのだが、記憶が錯綜している。いったい何がどうなっているのだ。王立機士学校の連中をやっつけて、その後飛空船に乗って、そうだ居酒屋に入って……。バアドクレアは自分が薄氷の上にいることに気がついていない。若者はそこで奇妙な軋み音を聞いた。壁を爪でかきむしるような嫌な音。キメラの若者はまだ半分寝ぼけていて、その音が土壁を食べているカミキリムシのものだと考えた。ちなみにカミキリムシは土壁を食べたりはしない。

 「誰だよう……カミキリは飼っちゃ駄目だって先生にも言われたじゃないか」

 酔いが抜けていないこともあって金髪の若者の発言も完全に常軌を逸している。不機嫌な顔で薄ぼんやりと明るい部屋の中を見渡していたバアドクレアはそこに妙な人影を見いだした。

 「……誰だ?」

 半酔っ払いのバアドクレアが訊ねた。誰何というよりは酔いどれ中年の呟きである。音はその人影が発していた。じーっと見ていたバアドクレアは少しずつ状況が飲み込めてきた。誰かが扉の所にもたれかかるようにして眠っているのだ。

 「あれは……」

 扉にもたれかかるようにして眠っているのは貴公子のリンツであった。床に座り後頭部をドアノブの下のところに押しつけた大貴族の跡取りは何をそんなに悩んでいるのか眉間に皺を寄せ歯ぎしりをしている。耳障りな怪音の源はカミキリムシではなくリンツの歯ぎしりであったのだ。あまりにも無残な、あまりにも変わり果てた姿であった。ハイメリオンの次期当主は家柄も良く、容姿も優れていて、女子生徒達からも非常に人気があったのだ。リンツシンパがこの惨状を見たら何というだろうか。

 「どうなってるんだ……」

 バアドクレアの意識がだんだんとはっきりしてくる。楽しい夢は、実は地獄の一丁目で見ていたのだ!リンツの隣には丸くなったミューネが横になっている。穏やかな寝顔の不思議少女の手には焼き肉の鉄板が乗っていた木皿がしっかりと握られていた。居酒屋から失敬したものであろうがいったい何のために?

 「こ、これはいったい……これはいったい……どうして?」

 小心なバアドクレアは焦りに焦っている。そして、そこでようやくベッドの真ん中に置き去りにされていた大きな荷物がトリセルディであることに気がついた。

 「わっ、わっ、わっ……」 

 こいつと、この男と一夜を共にしたのか。同じベッドで寝たのか。可哀相にバアドクレアは恐慌寸前に陥っている。

 ――まさか、そんなまさか……。

 トリセルディはパンツに青いタンクトップの下着だけである。一方バアドクレアも状況は似たり寄ったりである。白いパンツに白い短衣のシャツ。普段寝るときはこの上に寝巻きを着るのだが酔っていて熱かったせいもあるのだろう、下着だけとなっている。

 ――ああ、ああ、どうして、こんなことに。

 後悔というよりは錯乱というべきだろう。酔いも半分以上は吹き飛んでしまっている。ぶざまにうろたえているバアドクレアの隣で大きな荷物はいびきをかいている。バアドクレア自身もアルコールを摂取しているので気にならないが、エラートの若旦那の吐く息はひどく臭う。

 ――困ったな、困った、どうしよう、どうしたら……。

 小心な若者は薄明かりの中で頭を抱えている。だが。バアドクレアは自分の有り様にうろたえているが、彼もしくは彼女の失態は実はまだかわいいものであった。下には下がいるしさらに強者はいる。慌ててベッドを降りたキメラの若者は足元に何かが倒れているのに気がついた。

 「ああっ!」

 それはパンツ一枚、上半身裸のまま仰向けに大の字に転がっているエルマリィン・デルカロッツァの変わり果てた姿であった。

 「わ、わ、わ……」

 エルマは胸も露に涎を垂らして寝ている。何たる破廉恥、何たる失態……。と、思考が停止しているバアドクレアの向かい、キメラの青年が使うベッドの上で動きがあった。小柄な影がむくりと起き上がったのだ。シエルであった。寝ぼけた少年はベッドから立ち上がるとそのまま夢遊病者のようにトイレのほうに歩いていった。少年は足元に転がる半裸のエルマには気がつかないようである。 

 ――これはほうっておいてはまずいだろう、いくらなんでも。

 バアドクレアはエルマにかけてやる毛布の類を探した。普段トリセルディが使っている毛布はミューネが抱きしめている。それではもう一枚のバアドクレアが使っているものは……。

 「!」

 バアドクレアはシエルが寝ていたベッドの向こうで昏倒しているビーステアを見いだして絶句した。高貴な女王陛下は何を悲しいのか毛布を奥歯で噛み締めている。否、それだけでバアドクレアもそれほど衝撃を受けなかっただろう。キメラの若者は自分が普段寝ているベッドのシーツの上に大きな染みができていることに気がついた。気がついてしまったのだ。

 「ああ!」

 バアドクレアは慨嘆するしかなかった。そういえば前から嫌なにおいがするなと気になっていたのだ。つまりはそういうことであった。

 ――ビ、ビー、まさか漏らし……た?

 多量の酒を呑んだ美少女は人生最大の大失態を犯していたのだ。バアドクレアは自分のベッドの上での粗相に失望し、理不尽な運命を呪った。

 ――いったい誰が、誰が洗濯するんだよ……。

 バアドクレアは天を呪ったが、本当に呪いたいのは間違いなくビーステアであっただろう。と、暁に天井を睨むパアドクレアの耳にトイレの水が流れる音が聞こえる。用を足したシエルがよろよろと半病人のようによろめくようにして戻ってくる。華奢な若者はかたわらに立つバアドクレアには気がつかない。寝ぼけていることもあるが、それよりも彼は見てしまったのだ。床の上に横たわるほとんど全裸に近いエルマを。少年がこのときに見せた行動は特筆に値する。シエルは最初それが何であるかを理解できなかったようである。何故、エルマがそこに寝ているのか、何をやっているのか。少年はまるで前衛芸術を見る五歳児のように足を止め、全く反応らしい反応を見せなかった。

 ――これはいったいなんだ?

 大の字で寝ているほぼ裸のエルマをシエルはぼんやりした眼差しで眺めていたが、やがて、麻痺した頭で全てを理解したのだろう。

 ――ああ、エルマは裸だ。

 華奢な少年にはあまりにも生々しくどぎつい光景であったらしい。シエルは多分卒倒してしまったのだろう。床の上に直立不動のままうつ伏せに倒れ込み、再び夢の住人となった。そしてバアドクレアにも異変が起こった。

 「は、ははは……」

 あまりにも悲惨な光景にとうとうバアドクレアは壊れてしまった。

 「ふふふ、ははは……」 

 金髪の若者は力なく笑うとベッドに腰を下ろした。

 「これは夢だ。夢に違いない。こんな馬鹿なことがあるわけないじゃないか。これは夢だ。夢に決まっている!」

 バアドクレアは切れて無軌道になっている。

 「もう一度寝て、起きたときには何もかもがいつも通りになっているんだ。僕はトリセルディとは寝ていないし、エルマも裸では寝てない。ビーだってお漏らしなんてしてない。これは夢に決まっている」

 金髪の若者は妙に爽やかな笑顔を作ると再びベッドに横たわった。

 ――これは夢、夢、夢……。

 バアドクレアはブツブツと呟いた。リンツの歯ぎしりやトリセルディのいびきがうるさくてかなわないし、嫌な匂いもするが、それが何だと言うのだ。夢の分際で騒ぎ立て香り立つとは猪口才な。キメラの若者は断固とした態度で夢想に立ち向かう。

 ――これは夢なんだっ!

 小心で繊細な若者は受けた衝撃があまりにも大きかったのだろう。感受性が一時的にショートしてしまったようである。いや、もしかしたら大胆さがルームメイトから伝染してしまったのかもしれない。それが証拠に、

 ――夢だ。

 と呟くうちにバアドクレアの意識が途切れがちになっていく。疲れもあるのだろうが、以前のバアドクレアならば些細なことが気になり出したら目がさえていよいよ眠れなくなっていたことであろう。

 ――もう寝る……。

 バアドクレアは悪夢としばしのお別れをすることがかなったが、それは問題をただ先送りしただけのことであった。

 ――そういえばファーラは?ファーラ、何処に行ったんだろう……。

 金髪の若者は意識の途切れる最後の瞬間にそのように思った。ブン屋娘はいったいどこにいるのか?何処に行ってしまったのか?部屋には見当たらなかったが……。やがてバアドクレアは再び寝息を立てて眠りについた。事実を夢として片づけたキメラの若者が現実に手痛い反撃を貰うのはそれからしばらく後のことであった。


 「やれやれ、困りましたね……」

 カペルヴィアストルの学校長はテーブルの上に並べられた二枚の紙切れを見ながら何とも言えぬ複雑な顔を作っている。女校長が見ている紙切れの一枚はファーラ新聞であった。三時間という短期間で刷り上げたファーラの校内新聞号外の一面見出しは、

 ――見よ、これが真実!寮生達の極めて不謹慎な生活!

 となっている。法廷イラストのように恐ろしくリアルな挿絵はファーラの手になるものだろう。なんともまあ器用な娘である。以下、いかに寮生がふしだらな生活を送っているか事細かく書かれている。『不良寮生達の一部が盛り場で酒を呑』み、その上に『寮室できわめてふしだらな乱交まがいの行為に及』んだ。『酒場の備品を強奪した女子生徒』や『恥知らずにも全裸で踊り騒いだ者』や『意識混濁し尿失禁をした者まで現れ』た等々、あることないこと書かれている。仲間達に酒をがんがん煽らせたファーラは、自分では一滴も呑まず、そのまま仲間達の酒での失態を題材として徹夜で新聞記事として書き上げたのだ。

 ――このらんちき騒ぎには、某有力貴族の御曹司や令嬢も加わっていたという未確認の情報もあり……。

 実名を報道しないところはファーラの良心というべきだが、寮室に倒れている生徒達の姿を描いた異様にリアルな法廷スケッチ(カペルヴィアストルの生徒達であれば誰が誰か一目で理解できるほどスケッチは精密であった)が添えられていては匿名である意味が全く無い。

 ――文責ファーラ・グイドバルド。

 誇り高く署名をしてくれるのは良いが、仲間達にしてみれば大迷惑である。ちなみにトリセルディが王立機士学校を撃破したことについての関連記事は、ページとの兼ね合いで最後の三行ほどに簡潔かつ付け足しのように載っているばかりである。要するにファーラにとっては派手な空撃戦よりも、仲間達の失態のほうが報道する価値を持っているということであるらしい。

 「このようなことを……」

 校長室にはバアドクレアとトリセルディの二人の姿がある。午前の授業を喧騒と怒号の中で過ごした二人が校長から出頭命令を貰ったのはお昼過ぎ。らんちき騒ぎの仲間の中で一番最後の召喚、ということは校長は二人を首謀者と認めているようである。ちなみに先に出頭した他の連中にはすでに『停学三日』という処分が下っている。

 「す、すみません……」

 バアドクレアは泣きそうになって肩を落としている。一方、トリセルディのほうは退学すら屁とも思っていないつわものである。停学など気にするわけもない。

 「こちらについてはこれはこれで困ったことですが……」

 ルッカ校長を悩ませるのは実は新聞ではない。もう一枚の紙切れ。武器商人のゼーノが切ってくれた小切手である。

 「事の次第は聞きました」

 「そうですか」 

 トリセルディは全く悪びれることがない。

 「そいつは好きに使ってください」

 校長としては頭の痛いことである。これから処分しようとしている生徒がイコールで多額の寄付援助者であるということもそうであるが、小切手のむしり取りかたにも問題がある。相手側が悪いとはいえ、王立機士学校の備品を分捕ってそのまま売り払ってしまった!

 「セプティアがだいぶ痛んでいるので新型の練習機を購入するのが良いんじゃありませんか」

 トリセルディは当たり前のように言った。手前で稼ぎ取ったものを手前で処分して何が悪い。だが校長は言った。

 「こちらの機体の修理費のぶんだけを差し引いて、残りは王立機士学校のほうにお返ししようと思います」

 前線と国都では違う。前線の流儀を持ってくるには国都は複雑に過ぎるのだ。黒髪のトリセルディは校長の判断に異を唱えない。若者はおおらかであり、同時にこれはバアドクレアは絶対に認めないことであるが世慣れた大人でもあったのだ。

 「ま、そいつは学校長にお任せします。勝手にやってください。それから……」

 「何ですか?」

 校長は尋ねた。謹慎を食らう身でありながらトリセルディは堂々としている。

 「今回のことは、オレが全ての責任を負いますから、こいつらの処分については手心を加えてやっていただけないかなと思いましてね」

 たくましい生徒を見ながら校長はため息をついた。カペルヴィアストルの校長がしっかりとしていれば王立機士学校がのさばることもなく、トリセルディが実家から物騒な暴竜を引っ張り出してくることもなく、と、いうことは派手な空中戦も凱旋パーティもなかったはず。校長としては辛いところであるのだ。だが教育者は決然として言った。

 「それとこれとは別問題です。処分は処分。飲酒は校則で禁止となっていますからね」

 酒場に入り浸っている不埒な生徒達が他にもいることを校長はうすうすと知りながら大原則を振りかざした。それが彼女の仕事だからである。

 「ただし、今回はご両親への報告はやめておきましょう」

 バアドクレアは青い顔のままほっとしている。不幸中の幸いとはこのことである。

 「両人とも三日の停学謹慎ということにします。良いですね」

 バアドクレアは『はい』と蚊が鳴くように言い、トリセルディは自分がどういう立場にあるかを理解していないのか全然平気な顔をしていた。


 三日の停学である。校長室から寮室に戻ったバアドクレアの顔色は冴えない。処分のショックもそうだが二日酔いで耳の血管のどくどくいう血の流れが頭に響いてしかたがないのだ。

 「ううー、頭が痛いよ……」

 自室に戻ったバアドクレアは呪うように言った。窓には洗濯の終わったシーツが干してある。

 「全く、どうしてこんなことに……」

 悪夢は夢にあらず現実であったのだ。

 バアドクレアはゆるゆると起き出してきたクラスメイト達のデスマスクのような顔を思い出していた。ミューネは自分が何故その場にいるのか判らないようであったし、それはリンツも同じであっただろう。胸を丸出しにしていたエルマはいつまでたっても目を覚まさず、そのために男性陣に大サービスをすることとなってしまった。シエルはエルマの乳房に再び興奮して鼻血を出し、そしてビーは自分の失態を何とか隣に寝ていたシエルの責任にしようとヒステリックに喚き散らしていた。トリセルディと一緒のベッドに寝ていたことをバアドクレアは恥じていたが、そんなことを気に留めている者はもはや誰もいない。完全な黙殺である。そして追い打ちをかけるように全員停学である。

 ――僕は……僕は何ということをしてしまったんだーっ!

 リンツ一人が頭を抱えて叫んでいたが、仲間達はもう停学ぐらいの処分では驚かなかった。全裸や失禁に比べれば停学が何だと言うのだ!

 「ま、しょうがねえな」

 トリセルディは酒のダメージから立ち直り、洗面所に立っている。しれっとしているルームメイトがバアドクレアには何となく憎らしい。

 「何が『しょうがない』だよ。停学になっちゃったんだよ!」

 「まあ、いいじゃねえか。おめーも二日酔いで頭痛いんだろう。三日も休めるんだありがたいことじゃねーか」

 トリセルディは洗面所で髭を剃っている。

 「トリセルディ、停学はお休みじゃないんだよ」

 バアドクレアは機嫌が悪い。一方のトリセルディは髭剃りに集中していて、寮友の言っていることが耳に入らない。 

 「停学はお休みじゃないんだよっ!」

 「……」

 「ねえ、話、聞いているのかよっ、もーっ!」

 キメラの若者は頬をふくらませて怒った。男性であるトリセルディは一つのことに集中すると他のことがおろそかになる。

 「ああ?」

 「ああ?じゃないだろう!」

 バアドクレアはトリセルディの背中を見やってそこで口を閉ざした。キメラの若者は体格が中性的で、肩幅も狭い。いっぽうエラートの若旦那は肩幅も広く背中がとにかく広く感ぜられる。バアドクレアは渋い顔をして呪うように言った。

 「まったくファーラもファーラだよ。仲間を売るような真似をして」

 ブン屋娘の暴走がなければ、少なくとも飲酒について露見することはなかったはずである。そうすれば停学などと言う不名誉な処分もなかったはずなのだ。

 ――いったい何の恨みがあってこんな新聞なんか……。

 ベッドの上にはファーラ新聞号外が乗っている。何ともまあありがたいサービスである。新聞は学校の至るところに張られているのだ。不貞腐れたキメラの若者は唸るように号外の見出しを読んだ。

 「何が『若者達の乱れた性』だよ、ちくしょーッ!」

 と。怒りの収まらせないバアドクレアの寮室にそのファーラ本人が飛び込んでくる。謝罪に来た……わけではないようである。

 「ちょっと聞いてよッ!」

 ファーラはバアドクレアに輪をかけて怒り狂っている。不機嫌なバアドクレアは騒動の種をばら撒いたファーラとは目を合わせない。

 ――ちょっと聞いてよだって?誰が聞いてやるもんか!

 面白くないバアドクレアの代わりに顔の半分を泡だらけにしたトリセルディが応じる。

 「何だ、おまえか」

 「ちょっと聞いてよ!」

 ファーラは何に怒っているのだろう?

 「聞いてるじゃねえか」

 トリセルディは停学を休暇と考えているので、他の仲間達のようにファーラのことを憎くも感じていなければ特に何とも思っていない。

 「停学よ!停学!私まで停学なのよ!信じられる?」

 ブン屋の絶叫にトリセルディは剃刀を動かしながら話半分に聞いている。

 「これは権力の学校権力の横暴だわ!私はただ事実をありのままに伝えるために潜入取材を行っただけなのよ!それなのに停学よ!停学!」

 間の抜けた話ではあるが、ファーラも停学処分となっている。

 ――新聞を作って不良学生を密告してくれるのは結構だが、それではいったい貴様はどうしてそのような情報を手に入れたのだ?

 克明な状況描写などその場にいなければ判らないことばかりがファーラの新聞には書かれているのだ。新聞の存在そのものがブン屋がその場にいたという証拠ではないか!かくしてブン屋娘は無実の叫びを残したまま処分を食らったものである。もっとも、寮内をうろうろとしている所を見ると、彼女もまた停学をただの休みと考えている口であるらしい。

 「まったく何を考えているのかしら、この学校は!ふざけてるわ!」 

 ファーラの糾弾にバアドクレアは怒りぶびょーのまま思った。

 ――それは……それはこっちの台詞だ!

 「馬鹿にしているわ、学生の知る権利を無視しているわ!」

 と、ファーラは何を思ったのかベッドの上に腰を下ろしている不機嫌なバアドクレアのほうに近寄ると言った。

 「男の人が髭を剃っている後ろ姿って何となくぴっとくるものあるわよね」

 ファーラは声を潜めることなくあけすけに語り、それを聞きながら髭を剃っているトリセルディが背中で言った。

 「何だ、ファーラ、デートのお誘いか?だったら今日は駄目だぜ」

 バアドクレアはさらにむっとなった。バアドクレアの不満には知らぬ存ぜぬの癖に、こういう話題の時には驚くほどに地獄耳。キメラの若者はエラートの若旦那のそういうところが腹立たしい。

 「そうだよ、みんな謹慎なんだよ。デートなんてとんでもない!」

 バアドクレアは不満顔のまま甲高い声で言い、それをトリセルディがよせばいいのに訂正した。

 「いや、まあ、謹慎なんてのはどうでもいいんだけれどよ、今日はこれからちょっと出かけるところがあるんだよ。悪いな。デートはまた今度な」

 エラートの若旦那の言葉にファーラではなくバアドクレアが反応した。

 「で、出かける?出かけるって何処に?」

 金髪の若者は声が裏返ってしまっている。

 「謹慎中じゃないか。もしも校長先生にばれたら……」

 「大丈夫じゃねえか?」

 トリセルディは適当に応える。

 「大丈夫なものか、何考えてるんだよ!」

 「いろいろとな。悪いなファーラ。また誘ってくれや」

 トリセルディはタオルで顔を拭くと一張羅となる黒いジャケットを羽織り、鉄の斧を手に取った。

 「と、いうわけでちょっと行ってくるわ!」

 エラートの若旦那はそう言うと、この前の時と同じようにテラス出る。さすがのファーラもかなり慌てている。

 「ちょ、ちょっと、どこに行くのよ……」  

 トリセルディは目を丸くするファーラに一度だけ笑ってみせると雨どいを伝ってするすると階下へと下っていく。バアドクレアは二度目のことなのでもうどうということもないがブン屋娘のほうは驚いている。まさかそのような脱出口が存在しているとは。

 「ねえ、彼、何処に行く気?」

 バアドグレアは答えに窮した。麻薬の密輸云々という件についてはもちろんのことだが語らない。金髪の若者は寮友との約束を守ったのではない。自分でも信じていないものを他人にに話す気にはなれなかったのだ。

 「さあ……」

 キメラの若者はあいまいに言っただけであった。と、それからファーラが見せた行動にバアドクレアは度肝を抜かれることになった。

 「ふーん……よしッ!」

 ファーラは何かを思いついたらしい。不意にテラスに走り出ると、真顔のままトリセルディがそうしたように雨どいを伝わって階下へと降りていく。

 「ちょ、ちょっと、何を……」

 後ろも見ずにレンガの壁を乗り越えるトリセルディと、黒髪の野人を真似て猿のように雨どいを伝っていくファーラを交互に見ながらバアドクレアは困惑している。

 「彼についていけば必ず事件があるわ。こんなチャンスをどうして逃せるもんですか!」

 ――この女、極めつけのアホだ……。

 バアドクレアはクラスメイトの程度の低さをいまさらに思い知らされて途方に暮れた。否、途方に暮れている場合ではない。驚くべきことにファーラは器用にも地上に降り立つと、トリセルディを本気で追ってこうとする。

 「ちょ、ちょっと駄目だって!」

 トリセルディの本当の目的は判らないが、彼がきわめて危険な橋を渡っているということだけは確かである。極めつけのアホ女はそのような危地に意気揚々と飛び込んでいこうとしている!

 「だ、駄目だったら……」

 金髪の若者は不本意ながらいかれた仲間たちの後を追いかける。何としてもファーラを引き留めなければならない。それは事情を知っているバアドクレアの責務であった。

 ――ちくしょー!何で僕が、何で僕が……。

 バアドクレアは心の中で泣きながら雨どいを降りていく。男性と女性のちょうど中間の体格をしているキメラの若者はトリセルディほど力強くはないが、実は相当にすばしこく、運動神経にも優れているのだ。大地に降り立ったバアドクレアはすぐにファーラを追った。ブン屋娘は学校のレンガ塀を乗り越えようとしてもたついている。足の速いキメラの若者はすぐにファーラに追いついた。

 「駄目だよ、駄目だったら!」

 バアドクレアはファーラの手を取って引っ張った。ブン屋娘は静かにバアドクレアのほうを見返した。怒るでもなければ苛立つわけでもない。ファーラはひどく静かな視線をバアドクレアに向ける。キメラの若者はちょっと怯んだ。

 「……だ、だから、駄目なんだよ、駄目なんだって」

 「バアドクレア・アスペンブロウ」

 居心地の悪いバアドクレアの姓名をそのままファーラは言った。

 ――何故止めるのか。 

 ――邪魔をするな。

 ファーラがそのようにいうだろうことを想定していたバアドクレアに思いもよらない言葉が投げかけられる。

 「男と女を使い分けるのは卑怯だよ」

 「え?」

 バアドクレアは我が耳を疑った。ファーラは何を言っているのか?

 「あなたがキメラだということは判ってるつもり。けれど、状況に応じて都合良く男と女を使い分けるのは公正じゃないと思うんだ」

 ファーラはいつも快活で陽気で冗談が好きでにぎやかな娘なのだ。同時に瓢々としていてなかなかに本心を打ち明けない自由人である。他人を真顔で見据えて異見するような野暮はしない女性である。そんな人物の視線にバアドクレアは浮足立ってしまっている。

 「ぼ、僕がいつそんなことを……」

 「あなたはトリセルディに男として接しながら、心の中は女の子としてやっている。それはずるい」

 ファーラは静かな視線をバアドクレアに送っている。キメラの若者は相手の言っている意味が判らないので狼狽えてしまっている。

 「寮室も一緒。男の子だから。でも視点は女の子。それって特権を悪用していると言われてもしかたない。私はそう思うよ」

 「そんな、そんなこと無いよ、そんなこと……」

 大混乱に陥っているバアドクレアにファーラは言った。

 「ま、性別のことは良いとして。とにかく私もエラート君には取材対象として興味があるんだ。だから止めないで」

 相手の禁手のような性別への攻撃に一瞬だけ慌てたバアドクレアであったが、ファーラが壁を乗り越えようとするのを見るにいたって、今一度ブン屋娘の暴挙を制止に掛かる。

 「駄目だよ。駄目だって!」

 「バアドクレア……」

 「だって、ファーラ、あいつのことを新聞に書くつもりなんだろう。謹慎中の事が書かれたらあいつ、今度こそ本当に退学になってしまうもの……」

 「……」 

 「あいつ、王立機士学校をやめさせられていて、それで、ここもやめさせられたら……。だから君を行かせるわけにいかないんだよ」

 バアドクレアは嘘はついてなかったけれど、本当のことはついに語らなかった。うなだれているキメラの若者にファーラのほうがついに折れた。ブン屋娘はバアドクレアよりも非常識ではトンチンカンであったが、その一方でキメラの若者よりも大人であったのだ。

 「判った。記事には書かない。約束するわ」

 バアドクレアは僅かにだがほっとした。キメラの若者の引き留め工作によって常軌を逸したブン屋は前非を悔い、穏やかな人生を送ることを決めた……わけではなかった。

 「でも、書かないということと知るということは別よ!」

 実家が両替商の娘はそう言うとレンガの壁を乗り越えようとする。

 「ファーラ!」

 「バアドクレア。あなたには止める権利はないのよ」 

 「……そうだけれど、けれどトリセルディが迷惑に思うよ」

 「彼に直接聞いたわけではないでしょう?」

 「そうだけれど……けれど、危険なんだよ、あいつの側にいると。喧嘩とかにも巻き込まれちゃうかもしれないし。それに、ほら、足手まといになるから」

 「台風の目には風が吹かないものよ!」

 ファーラは両手で体をレンガ壁の上に引きずり上げて言った。確かにトリセルディは台風の目であろう。ブン屋娘は必死に壁に上ると、バアドクレアを見下ろして言った。

 「バアドクレア、本当の友達が危険なことをするのであれば余計に放っておけない。そういうものじゃないの?」

 ブン屋娘の言葉はバアドクレアの痛いところをついたのだ。 

 「私は自分が彼みたいに強くないことも知ってんのよ。けれども彼だって人間よ。誰かの手助けが必要な時もあるかもしれない。そんな時、私のような人間でも警邏隊や銃士隊の詰め所に駆け込むことぐらいはできるの」

 ファーラが本心からそう思っているのか、それとも彼女が単に言いくるめの達人なのかバアドクレアにはよく分からない。どちらにせよファーラはトリセルディのあとを何としても尾行したくて仕方がないのだ。説明は全て後づけである。

 「じゃ、ちょっと行ってくるわね!」

 トリセルディは長いレンガ壁を遥か向こうをゆっくりと歩いている。急がないと野人の姿は視界から消えてしまう。もはや一刻の猶予も無いのだ。そしてバアドクレアはいつものことだが迷いに迷ったあげくにみじめに言った。

 「……だったら、だったら僕も行くよ」

 バアドクレアは貴族の子弟であり剣もそこそこに使えるのだ。ファーラよりは恐らく上手だろう。問題は今までに誰も刺したことかないということと、剣を部屋に忘れてきたことであるが、素手の戦いも多分完全な女性であるファーラよりは上だろう。

 「どうぞお好きなように」

 ファーラは笑って言った。謹慎中の二人が謹慎中の不良学生を追う。奇妙な追跡劇が始まった。


 トラム街の裏通りを北へ向かい、モンテルノ公園を左折。イチョウ並木の綺麗な市道は最初は西へ、中央郵便局と国都警邏隊の本部の前で北西へと僅かに向きを僅かに変えていく。左手に国軍司令部、青いタイル張り建物を見てさらに道を進むとその先には歓楽街プレッカの象徴、背の高い中央放送塔が見えてくる。

 ――何でも買える街。ただし金さえあれば。

 公営の賭場があり、さまざまな飲食店や娯楽施設があるプレッカはステアネーゼの文化の発信地であり、スフィアー屈指の歓楽街であった。ステアネーゼで唯一売春が認められている地域でもあり、当然、上品な地域とはみなされていない。ガラの悪いやくざが幅をきかせ、しのぎを巡っての出入りや喧嘩は毎日のこと、殺人事件や物取り放火といった事件が絶えない物騒な街である。街を北西から南東に二分する十四号市道の北西の入り口には国都警邏隊の分室があり、南東の入り口には治安維持銃士隊の詰め所が抑えている。

 そして今まさに――国都の暗部に通じる市道を南東の端、十人ばかりの銃士が待機している詰め所の前を二人の女子学生が通っていった。

 ヘイゼルの髪が美しい暴虎馮河な娘と、いかにも顔色が悪く気乗りがしていない金髪の少女。

 プレッカは基本的に夜の街であり、お昼の早い時間にはトラブルが起こることはほとんどない。動いているのは酒場に酒だるを搬入しる酒屋や、おしぼりや食材を運ぶ業者ばかりであって、博徒ややくざ、売春婦といった夜の主役はほとんど表に出てこない。この時間、詰め所に持ってこられる苦情もせいぜい隣人のゴミの出し方が悪いとか、不法駐車に困っているといった程度のものである。だから、昼の間に学生がこの街にまぎれ込んでも詰め所の銃士達も目くじらをたてたりはしないのだ。それを良いことに二人の女子学生はどんどん物騒な街の奥へと入り込んでいく。

 危地に恐れること無く飛び込んでいく女子学生はファーラであり、そして、もう一人の女子学生はバアドクレアである。厳密に言えばバアドクレアは女子学生ではないが、恐らくほとんどの人間はキメラの若者を女性と認識しただろう。と、ファーラの半歩後を行くバアドクレアが呟いた。

 「こんな所まできたのは初めてだよ……」

 バアドクレアはプレッカに恐ろしいイメージしか持っていない。対抗勢力の人間を捕らえたやくざが拷問のために溶けた鉛を飲ませたり、指を切り落としたりする。そのような話をバアドクレアは本で読んで知っていた。性病に苦しむ売春婦がうろうろとし、物ごいが常に石畳の上に寝転がっている。万引きなど当たり前、女性の誘拐が頻々として起こる恐怖の街。バアドクレアはプレッカがそのような街だと信じて疑わず、そのために街のそばを車で通るのが関の山、それ以上にこの禁断の街に近づくということはなかった。一方のファーラはプレッカほど面白い街は無いと考えているらしく、これまでにも何度か訪れたことがあるようである。

 「この街も昼はそんなに危なくないのよ」

 ファーラはさらりと言った。二人の後ろからビール樽を二つ乗せた台車を押した若者がやって来て、追い抜き、右手のパブに入っていった。

 「それにしても……いったい彼、何処に行くのかしら?」

 ブン屋娘のいぶかしむ視線の先には斧を片手に悠々と闊歩するトリセルディの後ろ姿がある。追跡開始からすでに三十分。黒い髪の野人は特に警戒をしないまま往来をゆっくりと歩いていく。 

 「もしかしたら……」

 「もしかしたら?」

 多分君の想像は外れていると思うよ。バアドクレアは思った。

 「何かの秘密結社の調査とか……」

 「……」 

 バアドクレアは困ってしまった。あたらずとも遠からず。ファーラのような現実から大きく乖離したような人物の予想は、普通であれば失笑を買うような結果におわることになる。だが、トリセルディに関してはむしろファーラの誇大妄想が現実的となるのだ。だからこそファーラはトリセルディが好きなのだろう。と、尾行をしている二人の前でトリセルディがわき道に入った。両者の距離は五十メートルほどである。

 「まずい、走るわよ、このあたり、道が入り組んでいて、一度、巻かれると厄介だわ」

 事件記者は走った。実はバアドクレアはファーラよりも遥かに足が早いのだが、キャップである記者を追い抜いて行くわけにもいかないので力をセーブしている。

 嫌な匂いの残るゴミ置き場の横を越え、石畳の靴音を響かせて二人は追跡を続ける。木箱にサワラとアマダイを積んだ魚屋の親父が疾走する二人の学生を不思議そうに見つめている。やがてファーラとバアドクレアはトリセルディが曲がっていった角にたどり着いた。細い小道が坂になって下っている。道の左右には三階建ての間口の狭い店舗兼住居がずっと続く。店の上のほうにはいやに派手な女物の下着がたくさん干されている。どうやら売春窟の入り口であるらしい。トリセルディの姿は……忽然と消えている。

 「行くわよ!」

 ファーラは勇んで言い、バアドクレアはたじろいで思った。 

 ――行って良いのか?

 興奮状態の闘牛のようになっているファーラは自分の立ち位置が見えていないのだろうか?困惑するバアドクレアを置き去りにファーラは躊躇なく小路を駆け下りていく。バアドクレアも腹を決めるしかなかった。それにしてもここ二、三日の間キメラの若者は腹を括りっぱなしである。何故こうも心配事が流星雨のように押し寄せてくるのだろう。何か神の怒りに触れるようなことを自分はしたのではないか?だが、どう考えてもバアドクレアには自分に罰せられるような理由が見当たらないのだ。

 「あれ?」

 坂を下り切ったファーラが不思議そうに行った。道はT字路となっている。左の道にはトリセルディの姿は無い。右手には物ごいの乞食が一人寝転がっている。

 「あれれ?」

 ファーラは不思議がる。相手は歩き、こちらは走っている。距離は縮まっているはずなのにトリセルディの姿は無い。いったいどういうわけなのか?と、合点の行っていない少女達の背後に邪悪な影が迫る。影は腰がひけてしまっているバアドクレアの背中に恐ろしい食指を伸ばし……。

 「わっ!」

 あまりのことにバアドクレアは大声で騒いだ。キメラの若者の背中を何か硬いものが軽く突いたのだ。ファーラも慌てて振り替える。そこには追っていたはずのトリセルディの姿があった。トリセルディの斧の柄はバアドクレアの背中の真ん中に埋まっている。 

 「……何やってんだ、おめーら」

 トリセルディは静かに言った。

 「あらら、奇遇ね。こんなところで出会うなんて」 

 さすがファーラと言うべきか、何を陳腐な言い訳をとするべきか。いずれにせよ奇遇で出会うような場面で断じてない。トリセルディは鈍いほうであるが、さすがにファーラの言い訳は通用しなかった。野人はファーラではなく、バアドクレアに言った。

 「邪魔はしねーって約束したじゃねえか」

 違約をなじられたと思ったバアドクレアは慌てて応える。

 「いや、だから、僕は駄目だって言ったんだよ!でもファーラが、ファーラがどうしても尾行するって言うから……」

 黒い髪の野人は斧を引っ込めると苦い顔のまま耳の裏のあたりを軽く掻いた。

 「あのなあ……」

 すっかり舞い上がっているバアドクレアに比べるとファーラは遥かに落ち着いてる。

 「エラート君、何か知られては困ることでもあるの?」

 追いつめられたブン屋娘は尋ねた。半分は恫喝と言ってもよろしい。 

 「いーや、ねーよ」

 トリセルディはぞんざいに言った。

 「ただこっちにもいろいろと思惑って奴があってさ。あんまり関係の無い人間を巻き込みたく無いんだよ。それだけなんだ」

 「ふーん」

 ファーラは唸った。口の達者な娘は回りくどいことをせずにすばりと尋ねた。

 「ねえ、いったいこれから何処に何をしに行くの?」

 ブン屋娘はいろいろと考えて、相手の『他人を巻き込みたくない』という思惑を無視することに決めたのだ。仮にトリセルディが『応えられない』と言えば、『知られたら困ることはないって言ったじゃない』と反論するつもりであろう。つまるところファーラはトリセルディがどれほど命を賭けた危ない橋を渡っているかということが判っていないのだ。エラートの若旦那は何かを考えているようであったが、すぐに決断を下した。

 「一緒に来な。ただし口外はするなよ」

 「判ったわ!」

 ファーラは喜んで言い、バアドクレアは心の中で思った。

 ――ファーラ、あんまり判ってないな……。

 「ついてきな」

 トリセルディを先頭にカペルヴィアストルの生徒達は路地裏を行く。道は迷路のように入り組み住めば進ほどに細くなる。エラートの若旦那がやばい方に向かっていることはバアドクレアにも察せられた。ファーラのほうは初めての訪れる魔窟の最深部に大いに興奮しているようである。やがて、路地は行き止まりとなった。何の表札もかかっていないうす汚れた間口の狭いレンガの建物。そこがトリセルディの目的地であった。建物の入り口の所には一見して堅気ではないと判る男たちが数人たむろしている。柄の悪いちんぴらの視線にバアドクレアはすでに震え上がっている。ファーラも恐れてはいるが、バアドクレアほどみっともなく狼狽えてはいない。

 「何だ、てめえら、ここはてめえらの来るような場所じゃねえぞ」

 「お嬢ちゃん、身売りかい?」

 ちんぴら達が近づいてきたことにバアドクレアは泣きだしそうになっている。と、トリセルディが言った。

 「シベイルさん会いたい」

 物おじしないトリセルディにちんぴらの一人が睨みつけるように怒鳴った。

 「うちの親分に何の用だ」

 プレッカには五つのアウトローの組織があった。もっとも大きなところがシベイルという親分に率いられる所であり、ここは常に百人近い兵隊を抱えているという。このやくざな大立者はステアネーゼの王族や官僚、商人達とも関係があるという。

 「エラートが来たと言えば判ってくれるはずだ」

 トリセルディは静かに言った。バアドクレアは気が気でないが、ファーラのほうは緊迫したシチュエーションに両目をキラキラと輝かせている。ちんぴらの一人が取り次がないわけにも行かずうさんくさそうに家の中に入り、やがてすぐに戻ってきた。お伺いをたてに家の中に戻った太りぎみの禿げたやくざは出てくる時には油が切れたゼンマイ時計のようになっていた。確かに組の事務所で何かがあったのだ。

 「……ど、どうぞお入りくださいまし」

 禿頭のやくざは明らかに動揺し緊張していた。ほかのちんぴらには何が起こったのかさっぱり理解できないことであろう。トリセルディは軽く頭を下げると事務所の中に入っていく。二人のクラスメイト達も急ぎ足に野人の後を追う。

 「有名人なのね、あなた」

 ファーラは野人の耳に囁いていった。トリセルディはそれに応えなかった。扉の向こうには薄暗い廊下が続き、その先には広いホールがあった。ホールには十五人ばかりの目つきの極めて悪い連中が用もなくぶらぶらしていたが、トリセルディが現れると全員がきちんと立ち上がり目礼をしたものである。

 「こちらから上にどうぞ」

 やくざの一人がそう言って階段を指し示した。トリセルディはうなずき、ファーラはいよいよ勇んでいる。やくざの親玉に面会できるなどということは普通であれば考えられないことである。勇むファーラに比べてバアドクレア元気がどんどん無くなっていく。やくざ集団を前にしてとにかく恐ろしくてならないのだ。一人で帰る事などできないのでしかたなく仲間達についていっているというそれだけである。

 階段は十三段。その先にやくざの親玉の部屋があった。そこがプレッカという街の裏の頂点であったのだ。トリセルディはまるでトイレのドアか何かのように扉を叩いた。

 ――入れ。

 恐ろしい、聞いただけでも震え上がるような地獄からの声が扉越しに響いた。バアドクレアはできればトリセルディに扉を開けてもらいたくなかった。一方ファーラのほうは自分の立場も弁えずに目を輝かせている。これから起こることを一つとして見逃すものか。ブンや娘にはそのような意気込みがある。トリセルディはファーラほどには物見高くはなかったが、それでもブン屋娘の望みに合致する行動をとった。扉が開け放たれる。

 「エラートの坊主か……」

 部屋の中には机が一つ。机の向こうには恐ろしい獅子のような男が座っていた。髪を撫で着け髭を蓄えた中年の男。顔には刀傷が残っている。バアドクレアはその眼光をもらっただけでその場にへなへなと座り込みそうになった。ファーラの顔からも余裕のようなものが消えている。

 「女連れとは良いご身分だな、トリセルディ」

 やくざの親分は立ち上がった。物凄い巨漢である。トリセルディも大柄であるが、獅子の男はそのさらに上を行く。まるで銅像のような大男はそばにあるキャビネットから酒瓶を取り出した。

 「呑むか?」

 いいえ。トリセルディは言い、バアドクレアは青い顔のまま思っていた。

 ――そうだ、頭が痛いのいつの間にか直っている……。

 もはや二日酔いで気分が悪いなどと言っていられる場面でもない。獅子男は唸るように悪態をついた。

 「おまえのおふくろは気違いの人殺しだ」

 そんな時候の挨拶があるだろうか。だがバアドクレアはやくざの親玉がそのように言う理由が何となく理解できた。

 「主人に平気で噛み付くような狂犬病の雌犬はさっさと始末にする限る」

 獅子男は恐ろしいことを平気で言った。トリセルディは笑って言った。

 「それじゃ、親分におふくろの始末を頼みますか」

 不孝な息子のもの言いにやくざは嫌な顔をした。

 「てめえ、俺に自分の組織を潰せと言うのかっ?」

 やくざのシベイルはトリセルディの母親が嫌いでもあり恐ろしくもあるようである。

 「親父はあれでうまくやっているので大丈夫ですよ」

 黒い髪の野人は軽い調子で言った。

 「てめえの親父は博愛精神まの固まりか、そうでなければ最悪のペテン師だ!」」

 やくざの親玉は銀のコップに酒をついで一口に飲み干した。

 「親父のことはともかく」

 トリセルディは言った。話の本題に入るということなのだろう。獅子男のほうも弁えている。

 「てめえの親父から話は聞いている。セドールのことだろう」

 セドール。バアドクレアは以前トリセルディが語ったことを思い出していた。南方の麻薬であるという話であるが……。

 「何か御存じですか?」

 「蛇の道は蛇ってわけだ。実は、うちでもあれには相当手を焼いている」 

 「と、言うと?」

 トリセルディは尋ねる。

 「その前に……」

 やくざの親玉は不意に言った。

 「その後ろの姉ちゃん達は……」

 シベイルは鬱陶しそうに言った。これから語られる話は極端な重要事項なのだ。その中には当然アウトロー達に都合の悪い事実も含まれている。

 「捜査を手伝って貰っています。心配はありません」

 トリセルディは即答し、そしてやくざの親分は苦い顔をした。

 「学生の分際で麻薬の捜査とはな。世の中もめちゃくちゃになったものだ。いや、てめえのおふくろが生まれた時からこの世はすでにめちゃくちゃになる運命だったのかもしれんな」

 親分はトリセルディの母親を憎んでいるようである。そして蛇蠍のごとく嫌われる女性の子息はこう応えた。

 「そう母に伝えます」

 「てめえ、余計なことをするんじゃねえっ!俺をっ、俺達を殺すつもりかっ!」

 トリセルディの一言にやくざは本気で怒鳴った。おそろしさに怯んだバアドクレアは涙目になってトリセルディのジャケットを思わず握り、ファーラは三歩ほど後ずさった。

 過去に何があったのかは知らないがやくざの親分は真剣にトリセルディの母親を恐れている。

 「……まあいい、とにかくセドールの話だ」 

 黒い髪の野人はうなずいた。 

 「実は、あれには俺ら都の五家もほとほと困っている。あれが大量に都に入ってくるせいで俺達の商品が大幅に値崩れをしちまってな」

 やくざは当たり前のように言うと、机の上の帳簿を取り上げた。大柄な獅子男は思いもよらず会計の知識があるらしい。

 「一年ぐらい前からどんどんセドールが入ってきた。俺達の扱っているのは北方から入ってくるハーシュが主力なんだが、値段の面でどうしても対抗できない。精度はこっちのほうがはるかに上だし、効きも上等なんだが、粗悪なセドールにつられて値が下がる一方だ」

 やくざの親玉は露骨に嫌な顔を作った。

 「シベイルさんのところは絡んでいないと」

 「当たり前だ。俺達は良質なものを適正価格でお客様にご奉仕しているんだ。女もそうだし博打もそうだ。あんな劣悪な薬をどうして売れるかってんだ」

 やくざの親玉が『適正価格でお客様にご奉仕』と言ったことにバアドクレアは内心で首をかしげていた。モットーだけはご立派である。ご立派であるのだが……。

 「セドールがどういうルートで売られているかご存じですか?」

 トリセルディは真剣に尋ねた。

 「ある程度までは、な」

 やくざのボスは渋い顔をしている。

 「セドールの売人を何人か捕まえてな、いろいろと調べさせてもらったぜ。売人の半分は昔、都の五家にいた人間で破門された奴等だった。残りの半分は薬好きの堅気。学生、主婦もいた。とにかくいろいろな連中が絡んでいる」

 「なるほど」

 「奴等のほとんどは薬中でな。薬におぼれて身を持ち崩しているようなろくでなし共だ。薬を買う金もなく、街をぶらぶらしている時に連中、灰色の服を着た男達にこう誘われるのさ。薬をやる。金もやる。働いてみないかとな。それで純度の低いセドールを与えられる。品が無くなると売人はそれぞれが教えられた方法で卸と接触をする。たとえばこれは一例だが空き缶にワインのコルクを入れて、待ち合わせの場所――こいつはたいてい人目につかない所だが――置いておくと、卸のほうから取引の場所が指定されてくる。指定された日時に金と引き換えに品が渡される、と、まあこんな感じだ」

 「そこまで判っているならば元締めについても判るんじゃないですか?」

 トリセルディは尋ねた。やくざの親分は苦い顔のままである。

 「フェリエ街にあるコレル商会という何をやっているかよく分からない会社がある。登記上は水産物の貿易会社ということになっているらしいが。灰色の男達はここを拠点としている。これは確かだ」

 「灰色の男ですか……」

 トリセルディは何かを思い出しているようである。やくざの親玉は声を潜めて言った。

 「実はな、こいつは秘密事項なんだが、都の五家の一つ、ウージの若い衆が先走ってな、このコレル商会に乗り込んでいったんだ。二月ほど前のことだ」

 「それでどうなりました?」

 「どうもしねえよ。みんな逃げて帰ってきた」

 「逃げて?」

 トリセルディは不思議そうに尋ねた。

 「闘ったのですか?」

 「いや。コレルの連中はおとなしく会社の中をウージの連中に見せたそうだ。セドールは一かけらも見つからなかったそうだ。その代わりに……」

 「その代わりに?」 

 「高性能の爆弾や重機関銃、地雷といったものがごろごろしていたそうだ。都の五家の若い連中を皆殺しできるぐらいの武器だ」

 薬の次は武器。世も末である。

 「コレルに詰めている奴等、あいつらはどうやら兵隊上がりのようだったということだ。訓練も俺達の比じゃねえな。それでウージの所はしっぽを巻いて逃げてきたというわけだ」

 「……」

 「末端の売人は判った。その元締めらしい奴も判った。だがそこまでだ。コレルですべてが途切れちまう。その背後関係がさっぱり判らねえ」

 トリセルディは考えてから言った。

 「国都警邏隊や、治安維持銃士隊はコレルをのことを……」

 「掴んでいるよ、俺達の仲間がちくったからな。コレルはいかがわしい。内偵をするべきだってな」

 やくざは当然のよう言った。商売敵を潰すために官憲を使う。賢いようでもあり何か間違っているようでもある。

 「ま、俺たちがたれこみをしなくても、連中、派手にやっているから知ってはいるだろうな。ところがだ。警邏隊も銃士隊も出足がいたく鈍い」

 「何故、ですかね……」

 ファーラは気がつかないが、バアドクレアは思いがけずはっとなった。キメラの若者はどういうわけだかトリセルディの思うことが時々ぼんやりと察せられることがあるのだ。

 ――トリセルディはもしかしたら、麻薬を密輸している悪い人が誰だかすでに知っているんじゃないか?

 バアドクレアが何故そのように疑ったのか、バアドクレア本人もよく判らない。女の勘とするべきだろうか。

 ――誰かを犯人と目星を着けていて、証拠を固めている。

 バアドクレアはそのようなことを思った。と、やくざの親玉が低く言った。

 「……それで、組織の中にはこういう声がある。つまり、コレルの裏には実はてめえのおふくろの実家のツェルニーか、バイーアといった傭兵軍団か、あるいはてめえの親父の率いているカールクエイツの武侠が絡んでいるんじゃないか」

 獅子男は眼光鋭くトリセルディを睨みつけてる。

 「あそこまで高度な武装は尋常じゃない。多分、奴等は飛竜も持っているだろう。これだけ大がかりなことができるのは相当の組織が無いと駄目だ。しかも、南方のクレティアからが物が入ってくる事を考えれば、向こうさんと某かの接触がなければならない。そうなってくると対象は限られてくる」

 「国境に展開している人間というわけですね」

 「独立した傭兵団や武侠が絡んでいるのであれば警邏や銃士が二の足を踏んでいるのも納得がいく」  

 やくざの親分の邪推にしかしトリセルディは首を振った。

 「ツェルニーにもバイーアにも一応確認を取りました。モーリーンの宗教騎士団や、ビアクの飛行軍団、国教の僧兵分隊、クルル分派の黒い師団。親父が思いつく限りの軍団には確認を取っていますがそういった事実は無いということです」

 「そうか。と、なると、だ……」 

 やくざの親分は困ったような顔を作った。

 「残されているのは手前のところで軍団を養えるような貴族だな。レーネス家かエンティ、ハイメ、クオレルの両リオン……」

 獅子男は珍しく疲れたようなため息をついた。ファーラとバアドクレアの心にはリオン姓が引っかかっている。ハイメ、クオレルの子弟は彼らの顔見知りなのだ。

 「レーネスの当主は国王とは不仲だというから、案外な。リオンも大臣を出しているが領土のことで不満を持っているかもしれない。いずれにしたところでそうなると俺達侠客では手が出せねえ」

 やくざでも手に負えない相手というものがある。

 「つまり、こいつはてめえらカールクエイツの武侠集団でも下手をすれば危ねえ相手かもしれねえというわけだ」

 「けれど放っておくわけにもいかんでしょう」

 「そのとおりさ。それだからプレッカ五家の頂上会議でも二月間、結論がでなくてな。正直、みんな頭を抱えているのさ」

 なるほど。トリセルディは何かを考えている。所属不明の兵隊上がりの連中。麻薬を都で大量に売りさばき、商売敵となるやくざの親玉達でさえうかつに手を出せない重武装を保持する。相手の居所は判っているが、証拠が無い。今の所は……。

 「シベイルさん、一つ伺っても良いですか?」

 トリセルディが尋ねた。

 「都への物流のことです」

 「物流?」

 獅子男は尋ねた。トリセルディはうなずいた。

 「そうです。もしもです、もしもレーネスなりエンティなりが、都に禁制品を持ち込むとして、プレッカの五家の目をかい潜ることなんか本当にできるんでしょうか?」

 やくざの親分は首を横にふった。

 「そいつは無理だ。裏のルートは俺達が抑えている。陸路空路海路、ポケットに入るものならばともかく、とんでもない量の薬だ。おかしな動きがあれば俺たちが見逃すわけがねえ」

 トリセルディはふんと鼻を鳴らして、それから言った。

 「それでは表のルートは?」

 何を馬鹿なことを言ってるのだ。やくざの親分はとんまなトリセルディに憐憫の情の交じった視線を送った。

 「てめえの言う表のルートっていうのは一般の運送屋のことを言ってるのか?あのなあ、そんなに言うんだったらてめえ、自分でやってみるといいぜ」

 トリセルディはぼーっとしている。やくざの親分は物分かりの悪い若者に教示する。

 「海路であればリゼー。空路はペルワン。俺達は荷受けの協会にも人を出したりしているから知っているが税関の目をごまかすのは本当に大変だぜ」

 「つまり、表でも裏でもできないものはできないと」

 「無理だ」

 やくざの親分は断言した。

 「そうですか……。判りました」

 トリセルディは沈んだような声で言った。そばで見ているバアドクレアはトリセルディの横顔を見ながら、

 ――こいつ、何かを掴んだんだ。

 と感じていた。理由があるわけではない。ただ何となくである。

 「坊主、こいつはやばいヤマだぜ。あんまり係わらねえほうがいいんじゃねえか?」 

 やくざの親分は警告し、そしてトリセルディのほうは笑っただけであった。

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