三 亢竜は翔く
一時間の後。
学生達の姿はダリエン駐竜場にあった。駐竜場と言ってもそれほどたいそうな施設があるわけではない。中央に鉄骨を螺旋のように組み上げたカタパルトが一機、そのすぐ傍に飛竜を納めた格納庫が三つ。格納庫脇には帰着用の空き地が広がる。帰着用の空き地は舗装もされておらず、まるで河川敷のようにところどころに草が生えている。駐竜場の回りには明確な境界となるフェンスやバリケードのようなものはなく、そのために近くの農家の牛や羊が草を食みに来る。持ち主の農夫達もそのことを特に気にしていない。そのために、学生達は時に敷地内に入って図々しくも食事をしている牛共を総出で追い払うところからはじめなければいけないこともままある。学生も教官もタイムスケジュールがあるために必死だが、こうなると彼らが何の学校に入って、何を勉強しているのか訳が判らなくなってくる。もっとも、トリセルディの最初の飛行に際しては、そのような牛追いの必要はまったくなかった。先夜、夜間訓練をしていた学生が飛行を終えたばかりであり、のんきな家畜共が敷地に侵入してくるだけの暇がなかったのだ。
「用意は良いの?」
シエル少年がトリセルディに尋ねた。黒髪の大柄の若者は格納庫の前でぼんやりと空を見上げている。ぼーっとしている若者にシエル少年は再び同じ内容を言葉を変えて尋ねた。
「着替えなく良いの?」
シエル少年はすでに白い乗機服に着替えている。アザラシの皮で作られた首からつま先までを包む乗機服は、少年の細い身体にぴったりと張りつくように作られている。
「ああ……」
トリセルディは曖昧に言った。黒い髪の若者は来た時のまま黒いシャツにジャケットを着けたままである。普段着のまま飛竜に搭乗しようというのだろうか。
「大丈夫だ」
機神、パンツァーグラディエ――飛行形態を飛竜、ギガドレイクという――の操縦席は機神のボディを形づくるゲルによって満たされている。
このゲルは電気的な信号を受けることで硬化するという特性があり、そのために飛竜の筋肉として用いられるのだが、この性質を逆に使うことで乗者の身体の動きをそのまま機体に伝達する入力装置の役割も果たしていた。古強者達の言うところの、
――ゼリーの海で(操縦者が)踊る。
ことで搭乗者は機体を操作するのである。
飛竜を飛ばすだけであれば、これほどまでに複雑で奇妙な操縦系を構築する必要はない。操縦桿とフットペダルがあれば最低限の事は足りるのだ。
だが。スフィアー最強の兵器は飛行兵器というだけでなく、制圧兵器という側面も持っているのだ。制空権を巡って大空で闘うだけでなく、翼を畳み、地上に舞い降りては二足歩行の機神に形状を変化させて剣を奮って力戦敢闘する。そのような多目的多用途の兵器をペダルとレバーだけ操作するのはどうしても難しい。その点でゲルは搭乗者の細かい動きをトレースすることができる。操縦席内の機士が手を握れば、その動きに際して人体が発する微細な電流をゲルが感知し、流体感知器を通してそのまま機神の脳となる制御球に伝えられ、機神の手が機士のそれと同じように握られる。同じ原理で機士が脚を蹴り上げれば、その動きがそのまま機体に反映されるのだ。言ってみれば機士の肉体がゲル(と、その動きを感知する流体感知器)を仲介にすることで機神(と、その飛行形態である飛竜)の脳となるのである。機士と機神は文字通り一心同体。しかもこのゲルは防弾防刃効果に優れ、衝撃にも極めて強いという特性があった。機体の不調で一千メートルの上空から地面に叩き付けられた機体の搭乗者がゲルのおかげで軽いケガで済んだというような話はスフィアーではしばしば聞かれることである。
――ゲルが無かりせば飛竜(と、その別形態となる機神)もなし。
というわけである。
ただ……。実に便利で優れたこのゼラチンにはしかし一つだけ欠点があったのだ。乗員がずぶ濡れになるということである。機神の操縦席に着くと言うことは、
――マーマレードの樽の中に沈むような。
ものであり、外に出る時には極めて難儀なことであった。ゲルの中には酸素が常に循環しており、搭乗者が溺死するということはまず有り得ないことてあり、と、言うことはこの水濡れになるということは、その兵器の効果に比べれば必ずしも大きな問題では無いのだろうが、それでも出撃の度にどろどろのびしょ濡れになるというのは乗り手としてはあまり気分の良いものではない。機体内は温度が一定に保たれているから良いとしても、機体を降りた後がどうにもいけない。夏ならばともかく、厳冬期の折りの機士の仕事は悲惨で、機体を降りるなり唇を紫にしてぶるぶると震えなければならないのだ。
――機士が必要な物。焚き火とタオル、風呂。
機士の中に時々ひどいアルコール中毒が見られるのは、厳冬期の任務のせいであるとかないとか。カペルヴィアストルでも格納庫脇に一棟、機士のロッカールームがあり、そこには暖炉と風呂場が設けられている。開発者達は、このようなゲルの特性をなんとかすることを早々にあきらめ、そのかわりに優れた防水加工を施した保温性の高い操縦服を開発するようになった。そのほうがはるかに現実的だし、費用も安く上がったからである。
若干説明が長くなったが、機士学校の生徒達も飛竜の操縦席に乗り込むための衣服を着けることになる。シエルが着けているアザラシの皮でできた潜水服に似た乗機服は学校から支給されるものであった。
「いつもこのままでやっているからよ」
トリセルディは自分の事を不思議そうに見ているシエルに言った。
少年は納得したのかうなずいて、それ以降は何も言わなくなった。華奢なシエル少年はトリセルディのことをすでに良い意味で尋常でない人物と看破しており、この転校生に大きな信頼を寄せているのだ。
――この男が大丈夫と言ったら大丈夫なのだろう。
特に根拠があったわけでもなく、実力の全てを見て知っているわけではないがシエル少年はそう信じている。トリセルディの言うことであれば間違いないのだ。
と、ぼんやりとしていたトリセルディが格納庫のほうに視線を送った。
格納庫の扉は開いたままになっており、夜間飛行を終え、機体の整備点検を終わったばかりの飛竜――この時は二足歩行の機神形態になっていた――が出撃を待っている。トリセルディの視線は自分が命を預けることになる機体をじっと見やっている。
「セプティアか……」
大柄な若者は呟くように言った。どんよりした灰色にカラーリングされた機体は驚くほど傷んでいる。装甲板はところどころひしゃげ、おそらくは模擬のゴム弾の後であろう。凹みがいくつも見られる。トリセルディが見やる格納庫には複数のセプティアが納められていたが、そのどれもが、どこでどうすればこのようになるのかというほどにぼろぼろになっている。業者に下取りに出しても、これでは値がつくかどうかと疑わしくなるようなおんぼろばかり。と、シエルがたまらずに声を上げた。華奢な少年は自分の母校がいとおしくてしかたがないのだ。それは、彼がそこに学ぶからであり、彼が思いを寄せている胸の大きな野蛮な少女がいるからであり、そこに彼の青春があったからなのだ。
「ひどい機体だよね。けれど、うちの学生の乗り方が悪いわけじゃないんだよ」
シエルは弁明をするように言った。
「王立機士学校の生徒達が、時々、演習攻撃を仕掛けてくるんだ。向こうの機体は大きいし、武装もしっかりしているから、いつも負けてしまうんだ」
華奢な少年は悔しそう言った。
「演習攻撃?」
トリセルディは首を傾げた。そのような荒っぽい他校との交流があるのだろうか?少なくとも模擬弾を実際に発射するような危険な訓練は、任地に配属された新米兵士が行うものであって、イロハのイも判っていないような黄色い嘴共のするようなことではない。
「おいおい、向こうは模擬弾を撃ってくるのか?そんな訓練をやっていいのか?」
「本当は駄目だよ。けれど、向こうはお構い無しなんだ」
「校長は抗議をしないのか?」
「したって知らぬ存ぜぬなんだ。向こうはいつも教官がいない飛行を狙って襲ってくるから。飛行ルートを変えたりいろいろしているんだけれど、あいつら、しつこく襲ってくるんだよ」
そいつはひでえな。トリセルディ・エラートは自分を放逐した鼻持ちならない英才校を逆恨みしていないが、だからといって好いているというわけでもない。何かを思案しているようなトリセルディにシエルは憂鬱そうに言った。
「向こうは、うちの管制のやりとりを常に傍受してるみたいなんだ。それでうちが学生だけで飛ぶ時にあわせて向こうも出撃してくる。あっちは駐竜場がそばにあるから、すぐに飛ぶことができるんだ。それに良い機体をそろえているから、あっという間に追いつかれてしまう」
少年は悔しくて仕方がないようである。と、トリルディが言った。大柄な若者は何かを算段しているようである。
「向こうの機体は確かスフォルツァだったな……」
トリセルディは王立機士学校で暮らした僅かな日々を思い出していた。
「そう。青いスフォルツァ。脚が速いんだ」
シエルはうなずいた。
「セプティアじゃあ確かに荷が重い相手だな。けれど、前線では必ず自分よりも弱い相手に出会うとは限らないぜ」
トリセルディの何気ない一言をシエル少年は叱責と取ったようである。
「……けれど、そう言うけれど、向こうは本当に強いんだよ」
セプティアはもともと練習機として設計されている。一方、王立機士学校の所有する機体は実戦配備を前提に設計されている。武器設置用のポイントも二つあり、軽カノンやバルカン等さまざまな兵器を搭載できるようになっている。旋回能力、上昇性能、速度、航続距離と全てにおいてセプティアを凌駕している。軍の等級でもセプティアがランク外の無級であるのに対して、スフォルツァは堂々の五級戦列機であった。
「向こうは強い、か……。
トリセルディは何かを計算している。シエルは憂鬱そうに言った。
「……僕、実はあいつらに二回も撃墜されているんだ。それも連続で。今日も向こうのスフォルツァが出てきたらどうしようかと思ってすごく不安なんだ」
華奢な少年は機士見習いでありそれなりの自負を持っているはずである。だから本当であれば撃墜された回数のような不名誉なことなど言いたくないに違いない。それを語ったのはシエルがそれだけ新参者に対して心を開いているということであった。
「……僕だけじゃなくて、きっとみんなもそうだと思う」
なるほど。トリセルディは言った。行きの車の中が、何とも言えず重たい雰囲気だったことに野人も気がついていた。緊張の理由はこれであったのか。
「ま、ちょっと考えてみよう。出てこなければよし。向こうが出張って来たらその時は……」
「その時は?」
つられて尋ねた少年にトリセルディはぼそりと言った。
「まあ、な……。それよりもだ」
トリセルディは話を曖昧にすると、話の中心を僅かにずらした。黒い髪の野人は整備が終わった練習機の一機か先ほどから気になっているようである。
「あの、真ん中の機体だが……」
「四番機だね。あれがどうしたの?」
不思議そうな顔をしているシエルを伴って、トリセルディが機体に近づいた。
「右脚の脛の骨に異常が出てるな」
「そうかな?見ただけではちょっと……」
パンツァーグラディエは骨格の上にゲルを吸着させて、その上に装甲を乗せるという構造になっている。骨格からは常に微弱な電気信号が出されており、その信号を受けたゲルが硬化し機神の筋肉となり表皮となって全体像を構築する。上腕部の骨は、常にゲルに対して『上腕になるように』という信号を出し続けており、そのおかげで不定型のゲルが一個の個体として存在できるのだ。骨格が痛み、信号が狂ってしまうと、ゲルはすぐに崩壊してしまう。トリセルディが指し示した機体には、そのようなゲルの溶解は外目には認められない。シエルが不思議そうな顔をするのはそのためてである。つい先ほど整備が終わった機体に何が問題があるのだろう?だが、トリセルディの視線はあくまで鋭い。まるで大工の棟梁のような眼差しなのだ。
「……まあ、今日、明日にぶっ壊れちまうようなこともねーとは思うが、できれば速いうちに交換したほうが良いな」
「そうかな。僕には普通に見えるけれどなあ……」
納得しないシエルにトリセルディは思いもよらぬ方法でもって自説の正しさを証明しにかかった。大柄な若者は傍らに置いてあった大斧を取り上げると、それでもって機神の壊れているという右脚のふくらはぎの部分――機神の装甲は部分的なものであり、全体を覆うものではない。地肌となるゲルが露出している部分の方がむ・・Lい・セ・フ・汲闔謔チた。電気信号を受けて硬化しているゲルは力自慢のトリセルディでもその上っ面を僅かに削り取るのがやっと。もっとも検査には薄っぺらな切片だけで十分であったのだ。トリセルディは削り取ったゲルを口に含んで、二、三度噛むとそのまま呑み込んでしまった。学校の備品、それも機体の一部を新参者が口に入れただけでなく飲み下してしまったことにシエルは焦っている。
「……食べちゃって大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。前線では酒肴が無いときにみんなやっていることさ」
トリセルディはそう言うと、もう一度、斧の先を使って、今度は機神の左右のふくらはぎから先ほどと同じようにゲルの切片を削り出した。削り出された機神の一部は固い寒天のようでもある。骨格から信号を得られなくなったゲルはやがて元のどろどろのマーマレードのようなペースト状に戻っていく。
「こっちが右足。こっちが左足。噛んでみな。飲み込むのが嫌なら吐き出しちまって良いから」
シエルはうなずいた。バアドクレアであれば嫌がるような場面であるが、華奢な少年は見かけよりもずっと冒険心に富んでおり、また好奇心も強いほうであるらしい。トリセルディの手から機神のかけらを手に取ると少年はまずは『正常な』左足を口に含んだ。
「味はしないね……」
「まあな。コンニャクみたいなもんさ。味はどうでもいいから、歯ごたえを良く覚えておきな。で、こっちが右足」
黒い髪の大柄な若者に言われて、シエルは野人が壊れていると主張する右足の一部を口に含んだ。シエルの頭に何かひらめくものがあったらしい。
「あ、こっちのほうがちょっとぶよぶよしてる……」
出来の良い生徒にトリセルディは笑った。
「そうだろ。信号がきちんと伝わってないから、ゲルの硬化が甘いんだ。それだから出荷の時の状態に解けて戻るのがそれだけ早いんだ」
シエルは感心したようにため息をついた。
「けれど、どうして見ただけで骨に異常があるって判ったの?」
「遠目にだが、右足のゲルの表面に映り込んでいる風景が僅かに歪んでいるように見えたんだ。注意して見てみな。左足の映り具合違うだろう?」
シエルは真剣な顔で表面を見上げる。ゲルの表面はつるつると滑らかで、そこに華奢な少年の顔が本当にわずかだが歪んで映っている。
「……そう言われてみれば、そうだ。けれど、本当に良く気がつくね」
シエル少年は唸った。
「長く経験を積めば、どこを見れば良いか判ってくるもんだ。こいつは親父の受け売りだがね」
シエル少年はすっかり感心しきっている。と、そこでようやく、女子生徒達が追いついてくる。エルマ、ファーラ、ミューネと続き、ビーステアが最後である。女子生徒達は裸の身体にフィットする薄い乗機服の上にレインコートのような上着を羽織っている。
「お待たせしました」
ブン屋娘が言った。ビーステアのほうは自分が他人を待たせるのは当然の権利と心得ているのか全く平気な顔をしている。大貴族の令嬢は全員が白い乗機服を着けている中、一人だけ薄い緑色の物を着け、その上に小豆色をしたコートを着けていた。学校が支給してくれた安物のアザラシ皮など着けていられるかということなのだろうか。
「バアドクレア、まだ来てないの?」
ファーラが尋ねた。ブン屋娘は最後の一人を探して視線をさまよわせている。
「まだ、だね……」
シエルが応え、気の短いエルマがそれに言葉をかぶせた。
「先に、搭乗して待つことにしよう」
すでに作戦行動中身については作戦指揮室で説明が済んでいる――。否、エルマが気忙しいのには実は大きな理由があるのだ。
――機体の良し悪し。
である。
カペルヴィアストルが所有する練習用ギガドレイクは揃いも揃って十年以上も使われたおんぼろであった。しかも、そのおんぼろ機体には『そこそこ使える』ものと『程度が極めて劣悪』の二種類がある。結果、カペルヴィアストルの生徒達は訓練飛行の時に誰が『そこそこ使える』機体に乗るかということでしばしばいさかいを起こすことになるのだ。
――先に搭乗しよう。
と言い出したエルマは、要するに良い機体を先に分捕ってしまいたいのだろう。ちなみに、カペルヴィアストルの練習機でもっとも程度の良いものは二番のナンバリングがなされたものであり、最悪の状態は七番機である。
「そうね、そうしましょう」
ビーステアがうなずいた。不思議なことであるが、こういう時にはなぜかエルマとビーの意見は一致を見るのだ。エルマがそうであるように、ビーステアもまた操縦以外のことにいろいろと気を使わなければならない不良機のことを嫌っている。実は、もうずいぶんと昔のことであるがビーステアは、学校の機体のあまりの程度の低さに激怒し、新品の自分専用機を用意するように父親にねだったことがあったという。娘が可愛くて仕方がない愚か者の父親は驚くべきことに娘の頼みを聞き入れ、本当に新型の練習機を娘に買い与えようとしたらしい。この邪悪な企図は学校のポリシーである、
――平等な教育。
に反するということで結局実現せず、学園の女王はこの時のことをいまだに根に持っており学校長のルッカを憎んでいるとかいないか……。
「あ、あのさ、機体を選ぶのはクジにしようよ……」
シエルは狂暴で凶悪な女性二人に言ったが、少年の良識ある発言は直ちに寝言として片づけられてしまった。
「それじゃ行こう!」
エルマは格納庫の中を走りだし、ビーステアも歩き始めた。他の生徒達も崩壊した同盟につきあうことなくそれぞれに散っていった。どうも男と女では、女性のほうが厚かましいようである。それも相当に。
「……」
シエルは自分が寝ていると認識されたことに小さなため息をついた。
結局、後にはトリセルディとシエル少年だけが残された。二人の男性は程度の悪い機体が割り当てられる事が決定したのであるが、野人のほうは、自分の置かれている状況があまり判っていないのか平気な顔をしている。否、トリセルディは別のことに気が言っていたのだ。
「それにしてもバアドクレアの奴、遅いな。男のくせに、ねーちゃん連中よりも身支度に時間がかかるなんて、どうにもなんねえな」
トリセルディの笑いに、シエルが首をかしげて言った。おかしな間があった。
「ねえ、トリセルディ君……」
「なんだ?」
「バアドクレアは男じゃないよ」
トリセルディはシエルの顔を見下ろして怪訝な顔をした。変な間があった。
「バアドクレアは男の子じゃないんだよ」
何をおかしなことを言っているのだ、このちびは。トリセルディは理解が及んでいない。
「あいつ、自分は女じゃないって言ってたぜ」
「バアドクレアは女の子でもない」
シエルは言った。
「じゃあ、おかま野郎ってことか?」
トリセルディは尋ねた。華奢な少年はおかしな方向に転がり出しそうな話を必死に押さえて話し続ける。
「違うよ。男でも女でもない。今のところは……」
「今のところは?なんだそりゃ」
はっきりさせておくべきだろう。トリセルディは余計に混乱している。
「トリセルディ君、バアドクレアはキメラ種なんだよ」
「キメラ種?」
がさつな野人は口をへの字に結んだ。
「ああ、なんか、そんなのを聞いたことがあるな……」
スフィアーにはごく少数であるが、ある一定の年齢まで雌雄が決定しない人々が暮らしているという。そのような人々をキメラ種と言った。キメラ種はスフィアーに諸国家が興る遥か以前からこの地に暮らす古い血筋であるというが、もちろんトリセルディは人種については興味がない。
「バアドクレアはまだ性の決定がなされていないんだ。だから男でもないし女でもないんだ。今のところは……」
はあ。トリセルディは曖昧に唸ってからシエルに訊ねた。
「それで、奴の性別は何時決まるんだ?」
「さあ。もうそろそろだと思うよ。だいたい十七、八歳ぐらいに男か女か決めるって聞いたことがあるから」
鈍いトリセルディもシエルの妙な言い回しにすぐに気がついた。
「決める?」
「そうだよ。キメラの人達は男か女かを自分の意志で決定できるんだって。だから、バアドクレアって二重名にしてるんだよ。男になった時にバアド・アスペンブロウ、女になったらクレア・アスペンブロウってどちらになっても良いように」
寮友の奇妙な生態にトリセルディは深く感心しているようである。
「そうか。あいつキメラ種だったのか……キメラを見たのは初めてだ」
トリセルディは納得したようであった。男だと言い張るからそうなんだろうと信じていたが、バアドクレアにそのような秘密があったとは。
「あいつは自分のことを男だと言ってたからなあ。本人がそう言うからそうだとばかり思っていたんだが」
野人はのんびりとして言った。シエルは相手のいったことをそのまま鵜呑みにするクラスメイトをおかしなものでも見るような目で眺めている。
――アバウトに過ぎるんじゃないか、この人……。
「性の決定か。おもしろそうだな。けれど、なんで、キメラ種にはそんなおかしな能力があるんだ?そんな能力、あってもなくても同じだろう」
トリセルディは首をかしげた。トリセルディ達普通の人間は生まれた時に性別はすでに決定され、そのことで別に不都合もない。と、言うことは逆に言えばキメラ種の性に関する能力は無用の長物ということにならないか。野人は合理的であり、その疑念ももっともであった。一方、若者の問いにシエルは答えることができないでいる。少年もまた不思議な能力を持つ少数民族のことを細大漏らさず知っているわけではなかったのだ。
と、そこに若者達の疑問に応える声があった。バアドクレアの甲高い少女の声ではない。低く落ち着いた男性の声であった。
「キメラはこのスフィアーという星に渡ってきた最初の人々なのだ」
トリセルディは振り返り、そしてシエルは声をあげた。
「リンツ……」
背の高い金髪の美青年である。やせ型だが生来の威厳があり、見るものに深い肝銘を与える人物といったところだろうか。青年はトリセルディの顔から目を離すことなく言った。
「君がトリセルディか。いろいろと話は聞いている」
「あんたは?」
トリセルディはどこかでこの男を見たような気がする。そのようなことを思いながら尋ねた。
「リンツ。リンツ・ギヴェルフ・ハイメリオン」
太陽神の立像にも似た若者は淀みなく言った。
「ハイメリオンか……」
トリセルディは自分のデジャヴュの原因を知って納得した。
――ビーステアの親類。
これは後に分ることであるが、リンツとビーは従兄妹同士であるという。しかも二人の母親は双子なのだそうだ。姉は外務大臣をしていたリンツの父親に嫁ぎ、妹は軍務府参謀となるビーの父親に嫁いだ。双子の子供達が似るのは当たり前といえば当たり前である。
「いかにも。次期ハイメリオン当主」
リオン家では後継者は父親の名前をミドルネームとして貰う習慣があるという。リオン家ではこの慣習を神の刻印などともったいぶって言っているが、なるほど後継ぎが誰であるかは一目瞭然である。それはともかく、金髪の青年は明らかに気負い過ぎているようである。若い教授は蒙昧の若輩が頼んでもいないのに講義を続ける。
「我々の先祖の銀河の開拓については知っているだろう?」
多少はね。トリセルディは言い、ビーステアの従兄はうなずいた。スフィアーに暮らす人々は遠い昔にソルと呼ばれる銀河の彼方の母星から星に乗ってやってきたのだという。
「我々の先祖が故郷のソルを飛び出して、この銀河の開拓に乗り出した際に、その先遣の役を担ったのがキメラの一族だった」
トリセルディもシエルも黙って聞いている。話の腰を折る必要も無かったからである。
「キメラの一族は、後でやってくる本隊のために開拓星の状況を偵察、調査し、前線基地を作るという任務のために特別に作られた人々なのだ」
ソルには神を超える技術があったという。星を渡り、命を作り出すこともできたという。ギガドレイクの製造技術ももとはといえばソルのものを応用したものであった。もっとも、スフィアーとソルとの交流はもう数百年以上も途絶えており、母星の存在はほとんど神話の物語となっている。
「前線は危険だ。先遣隊は危険な場所で時に一世紀に渡って本隊の到着を待たなければならない」
リンツは重々しく続ける。
「キメラの性が生まれた時に決まっていないのはこのためなのだ。厳しい前線では事故によって、一方の性が死に絶えてしまうということもある。そのような事態に備えて、キメラにはあえて後天の能力として付与されたのだ。性の選択が」
なるほど、男女どちらかがいなければ高等生物の繁殖は不可能である。危険な未開の地では男女どちらか一方の性が何らかのアクシデントで死に絶えてしまうということは十分に考えられ、もしそのようなことがあれば百年近い橋頭保の確保は難しくなってしまう。男女の性が成人まで決定されないということは過酷な環境ではきわめて合理的なことである。
「星を行く船の改良が進み、殖民にかかる時間が大幅に短縮したことで、キメラと呼ばれる人々は必要がなくなったという。この宇宙にいくつかある殖民星のうち、特に古い星にのみキメラ種が暮らすのはそういうわけだそうだ」
「詳しいんだな」
トリセルディは言った。
「国政に携わる一族、それも一部のものだけが聞かされる話だ。もっとも隠匿しているわけではない。興味のある人間がいないだけだ」
リンツは厳かに言った。トリセルディはしかし数少ないキメラに『興味のある』人間であった。それも大いにである。
「そうか。そうだったのか」
トリセルディはぼんやりと頷いて、思い出したように確認する。
「……選択、選択ってことは、自分の意志でってことだよな」
「そうだが……」
性の選択とさっき言っただろう。リンツは理解力に劣る若者にちょっとうんざりしているようである。
「自分の意志か」
リンツはトリセルディが何を考えているのか理解できないでいる。あるいは何も考えていないのかもしれないが、初見のリンツにはトリセルディの内面にまで踏み込んでいくことができない。
「そうか。うん……」
トリセルディはそういって沈思した。と、会話の途切れた男子生徒達のところに男であって女でもあるバアドクレアがようやく追いついてくる。トリセルディは遅れてやってきたキメラの若者のほうを真顔でじーっと見つめた。バアトクレアは視線に直ちに警戒の色を面に表した。
――あ、こいつ、何か良くない事を企んでいやがる!
バアドクレアはシエルよりもさらに数段、勘が鋭いのだ。トリセルディは感情を表に表していないが、それでも野人が何かを考えているらしいことはバアドクレアはその顔を見ただけで看破している。
「な、何だよ……」
「いや、別に……」
トリセルディは適当に言い、金髪の若者は嫌な顔を作った。
「教えろよ。何か、変なことを考えてるんだろーっ、もーっ!」
「言わねー」
野人は言った。キメラの青年は雄牛のように怒り、両手を振るって叫んだ。トリセルディはバアドクレアの鋭いジャブをささっとかわした。
「ちきしょーっ、逃げるなっ、このーっ!」
シエルもリンツもバアドクレアの怒りにちょっとたじろいでいる。
「絶対に言わねー」
トリセルディにからかわれてバアドクレアはムキになっている。あるいは、エルマの叫びが割り込んでこなければ二人は延々『言えよ』『言わねー』と日没までやりあっていたのではないか。
――全員揃ったんだ。早く、搭乗してくれよ。
エルマが乗り込んだパンツァーグラディエはすでに起動しており、最初の第一歩を踏み出していた。エルマは機体の外部スピーカーを通して続ける。
――リンツ、誘導を。おまえ、今日の誘導班なんだろ?
ハイメリオンの次期当主は『おまえ』呼ばわりに明らかにむっとしている。
「エルマの山猿め!いくら言っても口のききかたが分らん」
リンツのことを傲慢とそしるべきではないだろうが、自分の血筋に対する意識が必要以上に強すぎるとは言えただろう。一方、エルマのほうも山猿ではなかったが、常識人ではなかった。
「今、誘導する!」
リンツはそう言って、カタパルトのほうに走り出した。
飛行、整備、誘導と飛竜の実技は三つの項目に分けられている。学生は、この三つをローテーションで行うことになっている。カタパルトにはすでにリンツを除く誘導班の全員が待機している。
「トリセルディ君。君とは後でゆっくり話をしてみたいものだな」
大貴族の次期当主はそう言い置いて去っていった。
それにしても。ビーといいリンツといい、リオン家の人々はトリセルディがどうにも気になってしかたがないらしい。一方、残された方もぼんやりと突っ立っているわけにはいかない。実は、これから空を飛ぶのは彼らであるのだ。
「じゃあ、行くか……」
トリセルディは宣言すると、さっさと残っている飛竜のほうへと歩いていく。黒い髪の野人が選んだのは、練習機野中でもっとも傷みが激しく、誰もが取り回しに苦労する最悪の練習機、七番のナンバリングがなされた機体であった。
「トリセルディ、それは……」
バアドクレアはルームメイトに呼びかけた。
「その機体……」
「大丈夫だ。これよりももっとひどいのにニールスで乗ったことがある。敵の雷撃をもらった奴だ。右の翼が三分の一になってた。ゲルが流出していて、とにかくめちゃくちゃだったよ。あれにくらべりゃ上出来だ」
黒い髪の若者はまったく気にしていない。後ろを振り替えることなくおんぼろの機体の前に進み出ると、キャノピーを開いて、さっさと搭乗にかかった。一番ひどい機体を選って選ぶということは、それだけ操縦に自信があるということなのだろうか。バアドクレアは不安でもあり、それ以上に複雑でもあった。
――強い男は、当然のように一番厳しい立場に我が身を置く。
ルームメイトが発言ではなく行動でもってそのように示したような気がしたからである。実際にトリセルディがそこまで意識して考えていたかは実のところ相当疑わしい。案外黒い野人にとってはどれに乗っても同じというぐらいの感覚であったのではないか。
「僕が、あっちに乗るよ」
バアドクレアはそう言うと、二番目に程度のひどい機体に向かった。シエルは何か言おうとしたようであるが、キメラの若者は相手に発言を許さなかった。男でないからこそ余計に男を意識する。バアドクレアの心の内は複雑である。
少女の面ざしのままバアドクレアはぽんこつ寸前の機神の前に立った。膝を曲げてしゃがんでいる練習機の操縦席下からは鋼鉄のワイヤが降りている。ワイヤの先端には鐙がついておりそこに脚をひっかけて下に引くと、ウインチでもって搭乗者は操縦席にまで引き上げられることになるのだ。
――よしっ。
バアドクレアは自分に気合を入れるようにして頷くとワイヤーを伝って操縦席に上がった。開きっぱなしになっているキャノピーの向こうに、巨大な魚の卵のような暗い色をした奇妙なものが見える。天空にあってはドレイク。地上にあってはグラディエの筋肉であり心臓となるゲル。若者はゆっくりとゼリー状の物質の中に掌を置いた。
ぶにゅっ……。
バアドクレアの掌がゲルの中に埋没するようにして沈み込む。さら前腕、肘、肩と若者の体がゼリー状の物質の中に吸い込まれていく。飛竜を動かす操縦系は全てがこのゲルの内側にあるのだ。
「……」
バアドクレアは小さな深呼吸を一つ。それから意を決して深雪の山に飛び込むようにしてキャノピーの内側に頭から飛び込む。
ゼラチン質のぶよぶよした流動の中には常に十分な酸素が供給されており、搭乗者はゲルを通して呼吸をすることになる。気体ではないものを肺に入れるということではじめて飛竜に乗るものは混乱することになるが、それも最初のうちだけであった。
「……アスペンブロウ、出撃準備に入ります!」
金髪の青年は叫ぶようにして言うと、泳ぐようにしてゲルの中央に進む。
搭乗者を感知した機体が直ちに胸部キャノピーを閉鎖する。機体内部が一瞬闇に包まれた。だがそれも本当に一瞬のことであった。パンツァーグラディエのあちこちに取り付けられた目が機能し始め、ゲルの中がたちまちに明るくなった。
前後左右上下。三百六十度全方向の視界が開ける。背後には格納庫の壁。右手に整備台。前方の扉は大きく開け放たれ、機神が一機ゆっくりと歩みを進めている。乗っているのはおそらくファーラであろう。
「各種機器チェック……」
バアドクレアは言った。すでに飛行計画に入っている。発言はすべて記録され、その内容は管制のほうにも伝わっているはずである。
「高度計、よし……。気圧計……」
高度計、気圧計、速度計。ブラックボックス内の燃料変換計。計器チェックが続く。ゲルモーター特有の三拍子に近い振動がバアドクレアの肌を叩きはじめる。
「計器チェック続行中……ゲルモーター正常に作動中」
と。チェックに忙しいバアドクレアのもとに、一般回線を通じて通信が入った。
ゲル内に緑色のランプが明滅し、操縦者の目の前に四角い通信画面が現れた。通信を寄越したミューネの顔がゲルの中に漂うようににして浮かびあがっている。
――あ、あの……。
「何?」
バアドクレアは計器チェックをしながら尋ねた。
――リ、リンツさん、何を言ってたの?
「さあ。トリセルディと話していたみたいだけれど。でも、どうして?」
キメラの若者は赤くなっているミューネに尋ねた。なぜ、彼女はリンツの発言が気になるのだろう?言行録を書いているわけでは……なさそうである。と、バアドクレアの目の前で二つ目の通信画面が開いた。接触してきたのはファーラであった。
――ミューネ、リンツに言ってもらたい台詞かあるんだってさ。
「台詞?」
バアドクレアは計器のチェックを手早く終えると、ファーラに尋ねた。先にチェックを終えたシエルのパンツァーグラディエがゆるゆると動き出すのがバアドクレアにも見える。
「……台詞って?」
バアドクレアは改めて尋ねた。そういえばここのところ、ミューネはリンツのことを妙に気にしているようであったとバアドクレアは記憶している。
――好きだとかそういう言葉かな?
バアドクレアはそう思ったのだが、小説書きの奇妙な娘にはどうも常識というものが通用しないらしい。
――言ってやんなよ。ミューネ。
ファーラが笑ってけしかける。ミューネはバアドクレアに『誰にも言わないで』と言って、それから彼女が名家の貴公子にどうしても語って貰いたいという『いかした』台詞を呟いた。
――ぶびょー。
バアドクレアは計器のチェックを中断して聞き返した。
「は?」
バアドクレアは通信回線が断線したのではないかと考えたのである。ミューネはおずおずとどうしても貴公子に『語らせたい』台詞をもう一度言い直した。
――ぶびょー。
『愛している』でもなければ『好き』でもない。『結婚してくれ』であるとか、そのようないわゆる常識的な愛の囁きを思い描いていたところによりによって『ぶびょー』である。バアドクレアは足払いをもらったように大変な衝撃を側頭葉に受けた。
――いや、待て、待つんだ。
バアドクレアは自分の不明を疑いながらおずおずと尋ねた。もしかしたらスフィアーの古語にでもあるのではないか。『ぶびょー』が。
「ねえ、ミューネ、ぶびょーって……何?」
――意味なんかないわよ。ミューネが作った言葉に。
ファーラが笑って言った。意味の無いことを言わせる?何のために?惑乱するバアドグレアをさらに混乱させるようにミューネが言った。
――意味は……ある……。
「ええ?」
一方で意味が無いと言い一方であると言う。バアドクレアはもう訳が分らない。
――ただ……ぶびょーの秘密は今は言えない……。
ミューネはぼそぼそと言った。それではいつになったら『ぶびょー』の真意に言及できるのかということについてはとうとう不思議少女は語らなかった。不条理極まるミューネの精神構造に立ち往生しているバアドクレアにファーラ・グイドバルドが後を続ける。
――ミューネは、色男のリンツにぶびょーって言って欲しいんだってさ。ただそれだけ。
バアドクレアはおそるおそる薄氷を踏む思いで尋ねた。
「……どうして?」
ミューネは顔を赤らめてもじもじしているが、聞き手のキメラの若者はそれ以前に、ミューネの狂った精神構造に困惑しているのだ。
『ぶびょー』という言葉の意味不明さも理解に苦しむが、そのような理解不能な奇声を他人に言わせて何にが楽しいのだろう。そして恐ろしいことに戸惑うバアドクレアに何の釈明もなく『ぶびょー』についての話はそこで打ち切られてしまった。
先行していたミューネの機体がカタパルトに誘導されたからである。最前を行くエルマ機はすでに空中に射出されており、滞空待機をしている。続くビーステアの練習機もカタパルトのレール状を物凄い勢いで走り出したところであった。
――バンクラフト機、カタパルトへどうぞ。グイドバルド機は待機ポートに進んでください。
管制室の声が一般回線を通じて入り、そこでミューネ機からもファーラ機からも連絡が途絶えてしまった。そして、大きな謎を置き土産に放置されたバアドクレアは途方に暮れるばかりである。
「……ぶびょーって何?」
バアドクレアは初めて聞く単語が気になって仕方がない。それは名詞なのか、動詞なのか、感嘆詞と考えるのが自然なような気もするが……。では感嘆詞だとしてそれは嬉しいときに発せられるべきなのか。それとも悲しみを表現する言葉なのか。そしてここで必死に類推するバアドクレアの悩みを大きくするように三度、通信が入る。最後の通信の相手はトリセルディであった。機体を操作しながら、首をかしげるバアドクレアは野人に思わずこう尋ねた。
「トリセルディ、ぶびょーって何?」
何か言いたいことがあったらしい野人は、バアドクレアの真剣な顔に気を呑まれたようである。
――あ?
野人はあるいは先ほど仕入れた重大な秘密についてバアドクレアに何事かを尋ねようとしていたようであるが……。
「だからさ、ぶびょーって何かな?」
バアドクレアは真顔である。
――ぶびょー?なんだそりゃ。
「ミューネがリンツに言わせたいんだって。ぶびょーって。でも何なんだろう、ぶびょーって。そんなことを言わせて何か良いことあるのかな」
真顔のバアドクレアに、トリセルディも真剣な顔を作った。野人はきっと言おうとしていた何かを忘れてしまったのに違いない。
――あのねーちゃん、何考えているか良く分んねえからな。大方なんかのまじないじゃねえのか。そいつを言わせると、相手が自分に惚れるとか。
まじないの言葉か。なるほど、そういう考えもある。バアドクレアは割合にあっさりと納得した。神経の病気に近いバアドクレアは不粋でのんきなトリセルディに腹を立てることがしばしばであったが、一方で、おおらかな若者の適当な発言は、キメラの若者の些細なイライラを解消するということもあったのだ。
「そうか、おまじないか。うん。そうかも……」
バアドクレアは得心がいった。
「そうだね。きっとそうだ……」
一方、今度はトリセルディが腑に落ちないというような顔を作った。
――俺は何かを言おうとしていたのだが、何だったか……。
何のことはない、当惑はバアドクレアからトリセルディに手渡されたのである。もっとも、野人のほうは細かいことはすぐに忘れてしまう得な性質の持ち主であり、キメラの若者のように『ぶびょー』一言で困惑して前に進めなくなるということもないだろう。と、二人のやりとりの間にカタパルトでは動きがあった。パンツァーグラディエからギガドレイクへと形態を変えたミューネの練習機が物凄い勢いで大空へと放り出される。一気に数百メートルまで打ち出された練習機はぎこちなく翼を羽ばたかせて高度を維持している。そして、管制からバアドクレアに指示が下される。
――アスペンブロウ機、エラート機、若干遅れています。ただちに待機ポートへ進んでください。グイドバルド機、アリスティア機出撃の後、射出します。
「了解です。誘導よろしく」
バアドクレアは言うと、遅ればせながらも機体の操作にかかった。キメラの若者を包むゲルの中に細かい気泡がぽつりぽつりと浮きはじめ、機神の骨格が嫌なきしみ音を立てる。普通であれば、骨のきしみ音が搭乗者に伝わるようなことはないのだが、何せおんぼろの機体である。歩かせるという最低限の操作ができればきしみ音ぐらい我慢しろということなのだろうか。バアドクレアも慣れたとはいえきしみ音はあまり気分の良いものではない。一方、トリセルディのほうは『もっとひどい機体に乗ったことがある』らしく、それほど慌てることもなく実にスムーズにぽんこつを操作している。
――あいつ、ちゃんと乗れているようだ……。
全方向を映し出す練習機のモニタ画面の右手後方にトリセルディの機体をバアドクレアは見るとはなしに見ている。機神を歩かせるということはこれはそれほど難しいことではないが、それでも最初のハードルではある。野人は基礎の基礎だけはできるようである。 ――まあ、こんなものか。歩けるだけめっけもんだわな……。
野人の呟きが通信回線を通してバアドクレアの耳にも届いた。
「何か不都合は?」
バアドクレアは野人に尋ねた。
――大丈夫だ。とりあえず機体は動いている。
「その機体、水平計と高度計をいつも気にしたほうが良いよ。普通に飛んでいるといつの間にか少しずつ傾いてしまうんだ。翼の骨にもしかしたら異常があるのかもしれない。定期整備はちゃんとしているんだけれど」
七番の練習機は、翼の骨格に異常があるのか、飛び続けていると微妙に右に傾くようにして機体の水平バランスが狂っていくのだ。バアドクレアは先輩として警告した。そしてトリセルディはまだ飛ぶ前だというのに老練にも言った。
――……いや、翼じゃねえな、そいつは。推力制御用の神経が狂っているんだと思うぜ。背骨の中の、多分六番か七番パーツがおかしいんだ。小型の機体で平衡機能が狂っているのは、だいたいそこがやられているんだよ。
「そうなの?」
――まあな。全部が全部ってわけじゃねーけど。けれど古い機体はどうしてもそこが痛みやすいんだよ。翼が常にこすれあう部分だからな。そうでなかったら、制御ボックスの中か。古い機体だからしようがねーよ。じじいがぼけちまうのと同じだ。ま、どっちにしろ、飛んでみないと分らない。あとで、ちょっと見てみよう。直せるかもしれない。
トリセルディは特に意識することなく普通に言っているが、そこまで詳しく飛竜について知っている学生は機士学校でも珍しい。少なくとも学校で教える講義の中にはトリセルディの語った知識は扱われていない。バアドクレア自身、知っているのは骨格にゲルを吸着させたり、壊れていると分っているところ、それも翼であるとか脚といった機体の命とも言うべき制御部から遠い部分を交換するといった基本的なことだけである。機体の些細な症状から小さな破損個所を特定することなどはとても不可能だし、重要な背骨の部分の修理となるとこれはもうお手上げである。。そのような技術を習熟するには十分なスキルが必要となるのだ。
もっともそれだからといってバアドクレアはトリセルディのことを見直したりしない。野人のそれまでの生活態度があまりにもひどすぎるのだ。ちょっとぐらいの知識があって、飛竜を飛ばす技術に優れているからといって、それによってこれまでの悪行が相殺されるわけもない。どんなに実質が優れていても態度が悪ければ駄目。バアドクレアは本人は否定するだろうが形式主義者であり、それよりも何よりも意地っ張りであった。
そして――。
カタパルトの空き待ちをしていたキメラの若者に管制から声があった。
――アスペンブロウ機、変形の後にカタパルトへ。
「了解」
バアドクレアはゲル内右手奥に明滅表示されている二つのモニターに順々に触れていく。最初の緑色に輝いている表示板に触れると安全装置が解除され、二番目の表示板に触れることで機神は変形待機となる。そして最後に左手の起動用の表示板に触れるといよいよ機体はその姿を変えることになるのだ。パンツァーグラディエを形作る骨格からの信号が途絶え、かわりに、それまで機神内に折りたたまれて収納されていたギガドレイクの骨格が作動展開する。制御を失い一瞬、粘土状になった機神の体を構成するゲルは新しく伸びてきた骨格の信号をもらい、その姿を二足歩行の人型から飛行形態となる飛竜へと直ちに変化することになるのだ。
人型の機神から翼をもつ飛竜に形態を変更するのにかかる時間は僅かに数秒。その数秒の間に、機士が搭乗する操縦席も素早く様変わりする。搭乗者の頭上からは操縦桿が降り、一方、足元前方からシートがせりあがってくる。乗員はせり出してきたシートにまたがり、降りてきた操縦桿を握って飛竜を操縦する。ドレイクを操縦する機士の姿は、二輪のゲルバイクに乗る姿ときわめて似ている。
「アスペンブロウ機、変形を完了した。誘導を!」
変形を終え、鋼鉄の騎士から天空高く舞う鳥へと姿を劇的に変えた練習機の中でバアドクレアが言った。
――了解した。
管制の声が回線から戻ってくる。それと同時に、バアドクレアが乗る練習機のまわりに、誘導担当の学生達が走り始める。矛と呼ばれる縦に細長い赤い旗を振りながら一人の少女がバアドクレア機をカタパルトへと誘導する。キメラの若者は機神の時には腰部装甲として折りたたまれる飛竜の足を上手に操作して誘導係の指示にしたがって機体を前へとすすめていく。中途半端な螺旋形をした射出ポートに機体が入ると、機士はしばらく待機となる。誘導係があわただしく走り回り、射出される飛竜の胸部にフックがとりつけられ、ウインチがまかれる。機士はその姿をただじっと見ている以外にするべきこともない。
やがて、機体の胸部装甲がカタパルトのレールに収まると、ようやく射出となる。機体の射出のタイミングを決定するのは基本的にも応用的にも機士であるが、横風や侵入機などの影響もあり、管制からの指示があるまでは機士が勝手に射出モーションに入るということはない。また、管制が危険だと判断すれば、カタパルトを走り出した飛竜をカタパルト上で強制的に停止させるということもある。果たして、バアドクレアの出撃に関しては何の問題も無く、淡々と射出の準備が整った。仕事をこなした学生達はあわただしく、後続のトリセルディ機に向かっていく。
――無事に帰還されたし。
管制から声があり、バアドクレアは頷いた。
「誘導ありがとう」
カタパルトの脇から前回の射出用に使われたガスの残りが煙のように噴き出し、それがぴたりと止まった。あとは時を待つだけであった。射出のタイミングは操縦桿に取り付けられた安全リングを引き抜いて機士が決める。リングを引くことで電気信号がカタパルトに送られ、圧縮ガスが一気に炸裂する。
横風は、侵入機は――ない。
確認作業が終わり、機体脇で待機していた少女が矛をさっと水平に振った。出撃を促す動作である。
バアドクレアは操縦桿についている安全リングを引き抜いてからグリップを捻る。瞬間、時間の流れががらりと変わる。鋼のレールが黒光りして走りだし、目に見える景色が回転を始める。右手に見えていた草地が背後に、それから左手へと物凄い勢いで飛んでいき、ついで空がぐんぐんと近づいてくる。ゲルで緩衝されているとはいえ、バアドクレアの身体には大きな重力がかかる。もっとも、それもほんとうに一瞬のことであった。
――よしっ……。
バアドクレアは軽くフットペダルを軽く踏む。灰色をしたおんぼろの練習機が羽ばたきはじめ、驚くほどの速さで地上が足元を遠ざかる。バアドクレアは右足のペダルを踏みながら操縦桿を引く。さらに高く、天空を高くへ。先行する仲間達は駐竜場上空を綺麗に円を描くようにして旋回している。
「管制へ。バアドクレア機。離陸……問題ない」
――了解した。バアドクレア機。高度五百で待機されたし。
バアドクレアの指示の通りに機体を上昇させ仲間達の輪に合流した。
――トリセルディ機を待って、予定のコースに出る。
管制ではなく、エルマの声が聞こえ、画像がエルマのそれが映った。
いつものことなのだが、猫のような娘は演習になると顔つきが僅かだが男っぽく変わるのだ。やがて、後続のトリセルディ機も追いついてくる。隊長となるエルマは宣言した。
――これより西進を開始する。
駐竜場があるダリエンを発し、西進、ワルデ湖上空で北に進路を転ずる。スウェニィ川とモナ川の合流するクルゼーの渡し場で南東に再び転進、ダリエンへ帰還する。
全行程一時間三十分の飛行がバアドクレア達に与えられた課題であった。西に向かうコースは、ただでさえ山がちな上に気流の関係で霧が出やすいということもあって初心者は向かないルートである。その難ルートが演習にもちいられるのは王立機士学校のちょっかいがあまりにもうるさいからであった。カペルヴィアストルの校長がいくら抗議をしても王立機士学校側は知らぬ存ぜぬで押し通そうとする。それどころか証拠がないことを盾にして逆に名誉棄損で提訴すると脅しにかかる始末である。シエルの弁であるが、
――やくざよりも性質が悪い。
のである。結局、カペルヴィアストルは揉めても良いことが一つも無いので、あえて冴えないルートを作定して、王立機士学校とぶつからないように自衛をするよりほかなかったのである。もっとも、これは妥協が結局相手を増長させることにしかならないという好例となってしまった。王立機士学校の側は弱腰の二流校をいよいよ傘にかって攻撃するようになったからである。
――自校の生徒に模擬演習をさせることは決して無益ではない。
王立機士学校の教授達は、建前では知らぬ存ぜぬを決め込んでいたが、本音のところ、実際に機体を用いての実戦演習が生徒達の技術向上に役立つと考えていた。否、それよりもなによりも、王立機士学校の教授達も生徒達も自分達より力の劣ったものを苛め、自分の力を誇示して喜んでいたのだ。本当に模擬の演習をするのであれば、自分よりも劣ったものを標的にするべきではない。最低でも自分と同等のものと闘わなければ訓練の足しにならない。何のことはない。彼らは王家がバックについていることを良いことにやりたい放題をやっていただけであった。
そして、そのような愚劣漢達が、自分達の安っぽいプライドを満足させる機会を見逃すわけが無い。そのことは、バアドクレア達の飛行が始まってすぐに明らかになった。異常に気がついたのはトリセルディであった。黒い髪の野人は自分が見出した異常を飛行隊全員にではなく、バアドクレアにだけ回線を通じて伝えて寄越したものである。
――おい、気がついているか?
鹿の角とも呼ばれる特殊な形をした飛竜の操縦桿を握るのに忙しいバアドクレアは、まわりがあまり良く見えていない。実は、キメラの若者はトリセルディに話しかけられるのも気が散るので嫌だったのだ。
「気がつくって?」
――その前に、俺以外の回線を切れ。
回線画像のトリセルディは真顔であった。バアドクレアは唇を突き出すようにして不満を顔に表したが、それでも横暴な野人の言う通りにした。
「切ったよ」
――六時の方角、地上すれすれに編隊が見えた。
「編隊? 編隊って?」
バアドクレアは合点がいっていない。意味が判っていないのだ。
――王立機士学校の連中だ。
「ええ?」
バアドクレアは上ずった声をあげた。キメラの若者も王立機士学校の無法については身をもって体験して知っているのだ。一方、トリセルディのほうも相棒がすぐにパニックに陥りやすい性格であることを知っている。
「ほ、僕達を狙っているのかな?」
バアドクレアは浮足立ってしまっている。大型の機体にぶつけられたり、模擬のゴム弾で追いかけ回されるのは非常に恐ろしいことである。そのことをバアドクレアは身を持って知っている。
――落ち着け。心配するな。
「心配するなって言われても……」
バアドクレアは操縦桿を握りながらちらちらと六時方向に視線を送る。眼下には森、その向こうに丘が連なっている。
――今は見えねえよ。丘の向こうに隠れて並進している。
トリセルディは悠々としている。
「ど、どうしよう」
キメラの若者は気が気でない。
――俺に策がある。
「策?どうやって逃げるの?向こうはこっちよりも足が全然早いんだよ」
――逃げたりしねえよ。奴らにこれから悪には悪の報いがあるということを教えてやんのさ。
「そんなこと……」
バアドクレアが『出来るわけがない』と言うよりもトリセルディが『出来る』と厳かに言い切る方が早かった。
「おめえが協力してくれれば、奴らに一泡も二泡もふかせてやれる」
バアドクレアは生唾を呑むようにしてのどを鳴らした。丘の向こうに隠れてる不埒者達はすぐにでも襲ってくるかもしれない。
――いいか。俺が合図を送ったら、一目散に北に向かって飛べ。仲間のことは気にするな。全速力だ。
「仲間のことは気にするなって言われても……」
――良いから北だ。俺もすぐに追う。
「そんなふうに急に言われても困るよ」
バアドクレアは困り切った顔を作った。
――大丈夫だ。俺にまかせておけ。
黒い髪の野人は笑った。そして、その時のことであった。灰色の空の下を綺麗な編隊を組んで飛行していたカペルヴィアストルの練習機の進行方向左、丘の稜線を踏み越えるようにして青い機体が十機ばかり物凄い勢いで上昇してきたのである。心のうちには襲撃という二文字を常に納めていたカペルヴィアストルの生徒達であったが、現実として攻撃を受けてみると、気構えや心構えなどというものはあまり役に立たない。空でものを言うのは一に経験であり、二に機体性能。精神論を語る機士は機士として失格なのだ。
――今だ、いけっ!
トリセルディは叫んだが、バアドクレアはもたついている。
「みんなに断りを……」
――そんな暇はねえっ。早くしねえと、みんな撃墜されちまうぞっ!
トリセルティは蹴り飛ばすように喚き、その喚く声にはじかれてバアドクレアは機体を北に向けた。襲ってきた機体は全部で十一機。カペルヴィアストル校の練習機よりも機体の性能でも数でも遥かに勝る巨竜の群れは一気に高度差と距離をつめてくる。
カペルヴィアストルの生徒達は一応は襲撃を予期しており、危険防止の対処マニュアルを貰っているが、現実に事が起こってしまうとお約束はあまり意味をなさなかった。
――管制に連絡を。管制から学校長に連絡。学校長から教官機及び、国都警邏隊に連絡。その間、作戦行動中の学生は可能であればダリエン駐竜場へ退避する。退避が出来ない場合は編隊を崩さずに高度を低くとり増援の到着を待つ。
マニュアルにはそのようにあるがゴム弾で威嚇射撃され追い回され、機体をぶつけてこられては編隊も保ちようがない。到着を待つなどと簡単に言われてもその簡単なことができないから皆悩んでいるのだ。果たして学生達はすでに混乱に陥っている。
――わ、わーっ!こっち来た!
回線を通して聞こえるファーラの声はほとんど悲鳴となっている。
――高度を下げろ、高度を!
エルマも叫び声をあげているが、全員が慌ているためにどうにもならない。
――管制、管制!
ビーステアも叫んでいるが、興奮しきっている彼女では何が起こっているのか管制に正確に伝えられるかどうか。一方の襲撃者達のほうは、一―二―三―五というくさび形の編隊を崩し、縦列編隊へと機体編成を変化させる。
一列になって、最高速を保ったまま真正面から敵にぶつかり、すれ違いざまに次々に銃弾をたたき込む。弾丸の力に相手のスピードを上乗せする大きなダメージを与えるこの作戦は自分よりも大きく装甲の厚い敵を撃破する時に用いられるという。
――駄目だ、来るよ!
シエルも興奮して叫んでいる。青い蛇のようにして縦列編隊を組んだまま十一機のスフォルツァがぐんぐん距離を縮めてくる。カペルヴィアストルの見習い機士達は鯉の餌が水の中で溶けるようにしてばらばらに崩れていく。そんな中でバアドクレアが戦線を一足先に勝手に離脱して逃亡したことは……誰も気がつかなかった。思いもよらぬことが起こり、全ての人の目がそのことに集中したからである。
――あっ!
回線越しに叫んで言ったのはファーラであった。崩れた編隊の中から、バアドクレアが機首を返した数瞬の後、カペルヴィアストルの編隊の中から、さらにもう一機が飛び出していた。逃げ出したのではない。逃げるのであればこれは毎度のことであり、誰も驚いたりはしなかっただろう。戦線を離脱したその機体はこともあろうにたった一機で、上昇急接近してくる十倍の敵に向かっていったのである。勇敢というよりも、気違い沙汰というべきだろう。
――トリセルディだ!
シエルが恐怖して叫んだ。いくら野人が地上での喧嘩が強かろうと、大空ではあまり意味のないことである。空では数と機体性能が全てである。勇敢という言葉は空では無謀とイコールである。だがトリセルディの操作する機体は盲牛のように敵編隊に向けて急降下していく。すでに誰も留めようが無い。一方、王立機士学校の生徒達も混乱していたはずである。自分よりも圧倒的に弱い連中がここに来て、刃向かって来るなどとは彼らも思っていなかったからである。もっとも――混乱してはいたがそれだからといって王立機士学校の生徒達が、弱小校の生徒達のように我を忘れて編隊を崩してしまうようなことはなかった。何と言っても彼らは機体の性能でも数でも圧倒的な優位にあったし、ついでに言えば、王家という威光を背中に背負っていたのだ。いったい何を慌てる必要が……。
縦列編隊の先端を飛ぶ機体がきりもみで墜落していったのはその時のことであった。おそらく、墜落した機体の機士は自分が何をされたのか分らなかったのではないか。
――ああッ!やったっ!
普段あまり叫び声などあげないミューネが叫んでいた。彼女は見ていたのだ。トリセルディの離れ業を。接近してくる敵目掛けて急降下を敢行した野人は、相手がゴム弾をほばら撒くトリガーを引くことをためらっているのを見逃さなかった。否、そうではない、王立機士学校の先頭機はためらったのではない。頭上から文字通り『降ってくる』相手に狙いを定める暇が無かったのだ。そして、その一瞬の隙を衝くようにしてトリセルディは自機をドレイクからパンツァードールに形態変化させたのだ。空戦機から陸上制圧形に――もちろん空中でである。翼を腕に、長い尾を脚へと変え、ほとんど隕石のように自由落下するトリセルディの操縦するセプティアはそのまま王立機士学校の先頭機に突き刺さるようにしてぶつかっていった。
まさに巨大な砲弾であった。
もとより数と装備を頼みに弱いものを標的にするような卑劣漢である。技術的にはバアドクレア達とそれほど変わらない連中。王立機士学校の生徒は回避運動に入ることすらできなかった。
何かがちぎれるような嫌な音が確かに灰色の空に響いた。
トリセルディの小さな練習機の伸ばした手が急上昇する敵機の翼をつかみ、これを引き裂いた音であった。翼を破られた青い機体はそのまま森の中に落下していく。
一方、トリセルディはここでさらに神業に近い曲芸を披露した。自由落下していく自機を立て直し、再び形態の変化を行ったのだ。飛竜から機神へと成り変わった小型の練習機は今度は機神から飛竜へと姿を変え、力強く羽ばたいて急上昇を開始した。僅かに一秒か二秒、瞬きする間の超高等技術であった。
――ああ……す、すごい……。
ビーステアが肺腑を震わせるようにして言った。その呟きには恍惚の色が聞いて取れる。
――あんなことができるなんて。
シエルの声も凍えている。唯一エルマだけがトリセルディが見せた曲芸の名前を知っていた。それは教則本にも載っていないある種の禁則技。
――ソ、ソリッドダイブ……は、はじめて見た……
そして、そこでトリセデルィ自身の大喝があった。
――てめえら、ぼーっとしてんじゃねえっ。全員、高度を下げて西へ飛べっ!
西へ?東のダリエンに戻るのではないか?疑問を口にしたのはシエルであった。
――西?ダリエンに……。
シエルの言葉に野人の大声が被る。権威をかさにきた屑連中には、カウンターを貰ったぐらいでは模擬演習をあきらめる意志はないようである。それが証拠に青い機体の群れは散開していた隊列を再び整え始めている。とにかく時間が無い。トリセルディは話を続ける。
――駄目だ。ダリエンまで逃げ切れねえ。いいか、西に飛べ。西だ。ワルデ湖まで逃れろ。湖までならばなんとか保つはずだ。湖畔にたどり着いたら、そのまま機体をドールに変化させて着陸しろ。
地上に!言われた方は大いに慌てている。そのような指示が出されるとはも思っていなかったのだ。
――け、けれど、一度、着陸してしまったら、私達、再び飛び立つことができないわ!
ファーラが言った。
飛竜は実はカタパルトなしでも飛ばすことができる。もとより自力発進ができるように設計されているのだ。だが、この自力発進にはコツが必用であり、風を見る能力が無いと飛び立つことがなかなか難しい。週に何時間かの飛行訓練ではとてもおいつかない高等技術なのだ。学校にカタパルトが用意されているのはそのためである。もちろんのことだがファーラを始め、その場にいる誰一人として飛竜と一体になる高度な技術を持ち合わせていない。
――大丈夫だ。離陸のことは俺がなんとかする。とにかく今は離陸のことよりも撃墜されないことを考えてくれ。
トリセルディは重々しく続ける。
――さっき手を合わせて奴等の腕前はもう見切った。向こうもおめえらと一緒で自力発進なんかできない。間違いねえ。向こうがおめえらを追っかけて地上に降りてきて白兵戦を挑んでくることはない。絶対に。
野人の発言は全てが断言の言い切り形である。『はず』や『だろう』という推量は一切含まれていない。若者達の恐慌がそのことで和らいだ。
――地上に下りたら上空から的にされるわ!
ビーステアがヒステリックに叫んだ。
――どうせゴム弾だ。ゲルに傷は着けられても装甲までは破れない。
トリセルディは力強く断言して続ける。
――地上で密集防御陣を構築できれば上空からのゴム弾の斉射ぐらいならばもちこたえられる。実弾ならばやばいけれどな。森に入ることが出来れば一時間は確実に耐えられる。
練達の算段を知らされることで、若者達の恐慌はその八割が氷解したようである。勝算は無くとも敗北はしなくて済むかもしれない。希望があれば人間は冷静に行動ができるものなのだ。
――その間に教官機を待つんだね。
シエルは作戦をほぼ飲み込んで言った。だが華奢な少年は最後の最後で野人の策を理解していなかった。
――いや!教官なんぞの手なんか借りるまでもねえ。俺らで奴等をぶちのめしてやるんだ!
自信に満ちた野人の宣言に学生達は息を呑んでいる。
――ぶちのめす?どうやって?
シエルの問いにトリセルディは説明をしなかった。
――とにかく俺に十分だけ時間をくれ。
時間をくれということは戦線を離脱させてくれということであろう。
――切り札をつれて戻ってくる。必ず。
切り札?学生達は沈黙した。絶望からではない。これはひょっとするとという期待の沈黙である。短い沈黙の後それまでじっと黙っていたエルマが言った。
――分った。トリセルディ。おまえの作戦に乗ってみることにする。
――すぐ戻る!
トリセルディはそう言った時には機首を北へと向けて、戦隊を離脱していた。王立機士学校の生徒達は、二手に分れたカペルヴィアストルの練習機のうち、西に向かう本隊に攻撃の的をしぼったようである。離れ業をやってのける曲芸師と向き合って闘うほどには彼らは肝が据わっていなかったのであろう。
野人の駆るぼろぼろのセプティアは、どこをどうすればそれほど速度が伸びるのかと仲間達が感心するほどの勢いで北へと急ぎ――そして先行するバアドクレアに追いつくことになった。
「みんな、大丈夫なの?置いてきてしまって」
仲間のやり取りは回線を通じてバアドクレアも把握している。キメラの若者は実は何度か仲間達の元に戻ろうと考えたのである。
――大丈夫だ。地上に降りることができれば、守ることは何とかなるはずだ。
トリセルディは続ける。
――自分よりも強い相手、それも、相手の数が多い時には、とにかく地上に降りちまうんだ。それで岩や木を盾に使う。空にいるよりもやられる可能性がぐっと減る。地上に降りた後は場合によっては機体を捨ててしまっても構わない。ケガさえしないで生き延びればいずれ反撃のチャンスもやってくるだろう。
野人の言葉には経験した人間だけが持っている深みがあった。バアドクレアは反論をすることが出来なかったし、もともとそのような意志も起きなかった。生活態度はでたらめだが、トリセルディは肝が据わっていて実に頼れる人物でもあるのだ。バアドクレアはそのことを知っている。
「それでどうするの?このままどこまで飛ぶの?」
バアドクレアは操縦桿を握ったまま尋ねた。キメラの若者は自分の手が震えていることに気がついていない。
「この先には廃墟があるだけだよ」
進路にあるのは四百年ほど昔の古い遺跡があるだけである。森の中にぽっかりと開いた穴のようになった遺構にはがれきの山と広い野原が広がる。トリセルディはバアドクレアの問いには応えないで、キメラの若者が乗る機体の前に自機を割り込ませた。実にスムーズに、無理のない機体の取り回しである。後ろを飛ぶことになったバアドクレアはルームメイトのそのような優れた技術だけは認めざるを得なかった。もっとも、野人の日頃の生活態度を考えれば、そのようなプラス査定も焼け石に水であったのだが。
キメラの若者は他の生徒達が新参者に対して無条件に賛嘆の声をあげるのと違い、ルームメイトの希有な美徳をそれほど美徳とは感じることがない。嫉妬をしているわけでもないし、反発をしているわけでもない。野人の絶妙な技術を認めながらも小便を便所にまき散らしたり、風呂に入らないことのほうが圧倒的に気にかかるだけなのだ。もしも、トリセルディが身の回りをきちんと整理整頓して風呂にも入り、香水などを着ければ……。いや、そうなったとしてもバアドクレアは野人の細かい仕種や癖が気になったことだろう。それではバアドクレアは新参者を憎んでいたのかというとそういうわけでもない。男でも女でもない奇妙な若者は、ルームメイトに実に微妙な感情を抱いていたのだ。
――見えたぞ。ビットプリウス要塞……。
トリセルディは言った。
「ビットプリウス要塞?」
要塞などというものがどこにあるのか?バアドクレアは幻を探すように呟いた。眼下にあるのは古い遺構だけでなのだ。人も住まない古い廃墟。要塞などという表現にはあたらない過去の遺物。トリセルディの言う要塞はいったい何処に?




