二 部外秘
秋の天気は読み難い。
たった一日の晴れ間を挟んで、ステアネーゼの国都を再び雨雲が覆うこととあいなった。
機士学校では雨天の場合、実技訓練は中止することに決まっており、そうなった学生達は振り替えで講義室での授業を受けることになる。
――講義なんてサイコーにつまんねーっ!
王国随一の機士になることを望むエルマは講師の前だろうがなんだろうがまったく関係なくそのように叫んでまわり、これはこれでかなり危ない兆候を示していたのだが、一方でそのようなエルマの叫びは機士見習の共通意見であったろう。実際、あまりやる気のない学生達の中には振替の講義に出てこないで、いずこかへ逃走してしまう不埒物が後を絶たなかった。
――試験の時には友人からノートを回してもらえばいいさ。
学生達は教室での講義を侮り――そして、実際侮っても彼らの人生にマイナスとなることはほとんどなかったのだ。
それでは新入りのトリセルディ・エラートはどうであったか?
彼は実に真面目であり、優秀であった。講義室には必ずやって来て、遅刻をすることもなければ授業を途中で抜け出すということもない。まさしく絵に描いた優等生であった――否、このような評価は事実を歪めていると言わざるをえず、訂正するべきであろう。
実際は以下の通り。
トリセルディ・エラートは最初からそれほど真面目ではなく、優秀でもなく、またやる気もまったくなかったが、講義室には必ずバアドクレアに引きずって来られ、遅刻をしそうな朝は寮友に激しく怒鳴りつけられ、講義室を抜け出そうとすれば金髪の若者に腰のベルトを引っ張られて引き留められ、それでしかたなく椅子に座っていた――。
バアドクレア・アスペンブロウを横暴と謗るのは多分酷だっただろう。
――お願いしますよ。
真面目で律義な優等生はそのような学校長の言葉を必用以上に重く受け止めてしまっている。責任感が強く、ちょっと小心なところのある若者はルームメイトに関して校長が望んでいると思われる極限値の努力をしようと必死だったのだ。
――学外に遊びに行っちゃだめ!また放校処分になっちゃうだろ。そんなことをしたら御両親が悲しむじゃないか。夜更かしもだめだよ!予習はきちんとしなきゃだめ!お酒なんてとんでもない!
まさにバアドクレア・アスペンブロウ、親切の押し売り、お節介やくざ状態である。
一方、新入りの転入生のほうはという、思い上がった宣教師の教化政策を『そんなものか』といった顔で素直に聞いて特に反抗をすることもなかった。もっとも反抗しないだけで、率先して先輩の意見を取り入れるというわけでもなかったが。
――煩いから、まあ聞いたふりしておくか。
そういう適当なトリセルディの態度にバアドクレアがまた激昂することになるのだ。
それにしてもコーツのような悪党に力で反撃する新参者が、力の弱いバアドクレアには素直に従うというのもおかしなことであったし、決闘騒ぎを見て、相手がどれほど強いか知っているバアドクレアがそのことを全く気にせずに、トリセルディのことを鬼の形相で追い回すというのもよく考えれば奇妙なことであった。
――まあ、あんまりあの二人には関わらないほうがいいな。下手に手を出すと、こっちまでとばっちりでバアドクレアに怒鳴られるからさ。
クラスメイト達の間ではそのような声が聞かれると聞かれないとか……。
「ト、トリセルディ……」
バアドクレアの声が怒りにうわずっている。ベッドの上に寝転んでぼんやりと新聞を――ファーラ新聞ではなく、王都で販売されている一般の新聞である――読んでいたトリセルディは何事かといった具合で沸点の低い友人を見やった。
午後の講義はすでに終わっている。
寮の窓から見上げる夕空は暗い雨雲が垂れ込め、すぐにでも冷たい雨粒が舞い降りてきそうである。学生達の多くは都の下宿や自宅に帰り、バアドクレア達も寮に戻っていた。そして事件は、そこで起こった。
「どうして、脱いだ物をちゃんと片づけないんだよ!」
金髪の若者は怒りでほとんど我を忘れている。バアドクレアの目の前、寮室のちょうど真ん中のラインから左側、新入りのベッドのまわりにはトリセルディのジャケットやズボンが散乱している。衣服だけではない。講義の教材や、かばんといった物も放り出されている。一方、バアドクレアの寝台のまわりは実に綺麗なものである。神経質な若者は、床に塵が一つ合ってもがまんならないのである。一方の野人のほうにとっては、今、彼がある状況こそが片づいた状態なのだある。
「ちゃんと整理しなきゃだめだよ!」
バアドクレアは叫ぶようにして叱責した。甲高いその声はきっと隣の部屋にいるシエルにまで聞こえたことであろう。だが、トリセルディのほうはあまり聞いていない。
「あー?あとでやっとくよ……」
青年は新聞の文字を目で追うのに忙しいようである。
「あとじゃだめだよ。今だよ。今やらなきゃだめ!」
「んー?ああ……。うん」
黒髪の青年はぼんやりとしている。バアドクレアは相手のやる気の無さに更に苛々を募らせる。
「早く起きて、片づけるんだよ!」
金髪のバアドクレアは大柄な新入りの側まで行くと、腕を引っ張って無理やりに立ち上がらせようとする。新入りは諦めて新聞を投げ出すとゆっくりと立ち上がった。
――これぐらいいいじゃないか。
トリセルディは言葉ではなく表情でそのように語ったが、バアドクレアはそれを無視した。小さなことの積み重ねが大きな過ちになる。金髪の若者は母親にそのようにいつも言われて育ってきたのである。
僅かに数日。
トリセルディがやって来てから一週間と経っていないがバアドクレアはすでに新入りのだらしなさにほとほと嫌気がさしているのだ。
下着のままうろうろするのは良い方で、バアドクレアの目の前でも平気でげっぷをしたりおならをする。ベッドの上で寝ながらビスケットを食べたり、二日もふろに入らないで平然としている。そしてバアドクレアが一番我慢がならないのが、寮友が、便器の真ん中にちゃんと小便ができないと言うことであった。寮には部屋ごとにトイレがついている。バアドクレア達の部屋にも当然、便所があるのだが、トリセルディは勢いが良すぎるのか、それとも狙いがいい加減なのか、時々的を外してトイレの床をびしょびしょにしてしまうのだ。
――し、信じられない……。
新入りのあまりの暴挙に、バアドクレアは失神しかかったほどである。そして、そのことを問い詰められたトリセルディのほうから得られた回答は、
――ああ、悪い悪い……。
というただそれだけの短いセンテンスである。トリセルディはものすごく悔いているというわけでもなければ、反省しているというわけでもない。便所をびしょびしょにすることが『ああ、悪い悪い』の一言で済ませられることか?バアドクレアは激したが、トリセルディは落ち着いたものであった。
――おまえだってうまく狙いがいかないことだってあるだろう。男なんだから。
黒い髪の若者は平然として言い、バアドクレアはいよいよいきり立った。そしてそのせいで金髪の若者は思いもよらぬ恥をかくことになったのである。
――立ったまましないでしゃがんですれば良いだろう!
金髪の若者はごくごく自然に言い、ということは自分はそのようにしているということを明らかにしたわけである。トリセルディは、それに対して、
――ねーちゃんじゃあるめえに、しゃがんでしょんべんなんかする奴いるかよ。
と、馬鹿にしたように言った。馬鹿にしたように言っただけではない。黒髪の青年は
思いついたように失点をしたバアドクレアにこう指摘したのだ。
――まさか、おめえ、しゃがんでしょんべんすんのかよ?
バアドクレアは息を呑んで言葉を失い、そして、それはつまりは事実を認めたと言うことであった。トリセルディはにやにやっと笑うと、
――だせー。女みてーっ。
と、バアドクレアを侮ったのだ。金髪の若者はそのことで大いに機嫌を損ね、
――もう二度と君とは口をきかないからねっ!
と宣言をしたものである。もっとも宣言をして一時間も経たないうちに、トリセルディが寝る前に歯を磨かないという愚挙が気になった金髪の若者は、
――歯を磨かなきゃ駄目だよ。虫歯になっちゃうじゃないか!
と、おせっかいを焼くことになるのだが。
とにかくこの数日間バアドクレアとトリセルディは不潔か清潔かということでもめにもめ――と、いうか、一方的にバアドクレアが怒り狂っていただけなのだが――、そのことだけでほとんど一日が終わるという生活が続いていた。それにしてもそのような喧騒の日々が楽しいのか?バアドクレアは楽しくはなく、心安らかでもなかったが、暇を持て余すということはなかったろう。
「さあ、早く、片づけるんだ。僕が見てるからね」
金髪の若者は腰に手を当ててふんぞり返った。トリセルディは黙って床の上の衣服を拾い、それを無造作に自分の机の上に乗せた。かばんも同じ、本も同じで、すべて机の上である。それで終わりである。片づけると言うよりは荷物をひとまとめにしたというだけのことであった。当然バアドクレアは激怒した。
「それじゃ駄目じゃないか。着ていたものはハンガーにかけないとしわになっちゃうだろう。かばんや本が机の上にあったら勉強できないじゃないか!」
「勉強なんかしねーよ」
「駄目だよ、駄目。まったく何を考えてるんだよ。また放校処分になっちゃうだろ!」 バアドクレアは、自分がどうして新人にそこまで干渉するのか自分でも分かっていないし、それ以前に干渉しているという意識すらなかったのではないか。
黒髪の青年は恐ろしい先輩に突かれて今度は荷物を机の上からベッドに移した。何のことはないたらい回しである。
「トリセルディ……」
「ああ、なんだ?」
唇を突き出す金髪の若者に、無頼漢はひどくしれっとした様子で言った。
「だからそれじゃ駄目だって!」
バアドクレアは言いたいことが山とある。だが、トリセルディのほうには聞きたいという意志が全く無い。
「まあ、いいじゃねーか。俺にしちゃあ、これでも上出来なほうだよ。そうだろう?」
「何が『そうだろう?』だよ!同意なんかしないからね。だいたい理想の線を自分にあわせて上げ下げしちゃ駄目だよ!」
「そいつはどいつの言葉だい?」
「僕の母だよ」
バアドクレアの応えに新入りはどこかうんざりとしたように首を振った。それから、大柄な若者はこう言った。
「実現不可能な理想は人間を苦しめるだけだ」
トリセルディのいかにも堂々としたもの言いに、バアドクレアはちょっとひるんだ。確かに、高すぎる目標は人を焦らせ、苛立たせそしてついには人間を不幸にしていく。
「……誰の言葉?」
バアドクレアは探るように訊ねた。
「俺の言葉だ。決まってんだろう!」
黒い髪をした大柄な若者は朗らかに笑った。赤ん坊がそのまま大人になったような笑顔であった。
「と、言うことで、掃除は終わりだ」
「終わりじゃないよ!」
「終わりだよ。これでも俺は結構忙しいんだ」
トリセルディはそのように言うと身体にぴったりとした乗機用のシャツの上に上着を羽織った。そして、その上に黒の外套をまとう。
「どこに行くんだよ、こんな時間に……」
寮は原則として八時が門限である。まだ八時までだいぶ時間があるが、それでも、このような時刻に出かけるということは律義なバアドクレアには思いも及ばぬ事である。
「秘密だよ。教えてやってもいいけれど、きっとおめえ、卒倒するぜ」
全身黒装束の若者はにやっと笑った。享楽的なトリセルディはバアドクレアと一緒の禁欲生活についに我慢の限界が来たのだろうか。
「校長先生に報告するぞ!」
バアドクレアは脅した。
「勝手にどーぞ」
トリセルディは意に介さないが、バアドクレアは戸惑いを隠せない。金髪の若者には何の関係もないことだというのに。
「また放校処分になっちゃうよ」
「そん時はそん時」
黒い髪をした若者は笑うと、机に立てかけてあった黒鉄の斧を取り上げた。
「じゃ、ちょっと、行ってくるわ……」
「行ってくるわって……」
バアドクレアがおたおたしている間に、黒い髪の青年は窓を開けてテラスに踊り出る。青年はましらのようにして手すりを乗り越え、雨どいを伝って階下へと降り立った。
――大丈夫なのかな、ほんとに……。
金髪の若者は不安そうに地面に降り立ったルームメイトを見遣った。不埒な脱走兵は、子供っぽくテラスの上のバアドクレアに『どんなもんだ』といった感じの笑顔を見せると、灰色をした雨雲の下を走り出した。そして赤いレンガでできた背の高い壁をよじのぼり、そのままいずこかへと去っていった。
――ほんと、どうなっても知らないからね。
金髪の若者はこれ以上見ていてもしかたがないといった具合に首を振ると、部屋の中に戻りかけ、そして、部屋に入る一瞬前にもう一度だけトリセルディが越えていったレンガ塀に視線を送った。黒い髪の野蛮人が戻ってくる気配は全くない。
「もう、何なんだよ、あいつ!」
金髪の若者はちょっと面白くなかったが、それでは面白くない原因が何なのか、バアドクレアにはよく分からなかった。
夜が更けていく。
ぱらぱらと降っていた小雨は深夜になるとひどい雨になった。
寮に残されたバアドクレアは当然のように落ち着かない時間を過ごし――そして不良の若者はなかなか戻っては来なかった。
トリセルディはこの大荒れの天気の中、いったいどこで何をしているのか。何か問題を起こしていないだろうか。もし万一、彼が問題を起こしてしまった場合、バアドクレアに責任問題は生じないだろうか。
――何やってんだろう、あいつ……。
金髪の若者は本当であれば必ずやるはずの翌日の予習が手につかないでいる。
待つだけ。連絡を待つだけというのはいつでもしんどく辛い。
バアドクレアは罠に捕まったばかりの狼のようにして寮室の中を歩き回ったあげくに、結局できることを何も見いだせず、そこで、トリセルディが真剣な顔で読んでいた新聞を取り上げた。
「あいつ、何、読んでたんだ?」
奇妙な野人は真剣な顔で新聞を読んでいたが、そこにはいったい何が書かれていたのか。バアドクレアは紙切れの上の文字を追った。ざざざと砂をまくような音が寮の屋根の上から聞こえてくる。雨の降りがいよいよ激しくなってきたようである。
「……珍獣来る」
バアドクレアはぼそっと呟いた。
「なんだ、これ……」
新聞には犬ともタヌキの合いの子のような小さな生き物の絵が掲載されていた。ヴィーボという名前を持つその生き物はステアネーゼ南方が原産で数の少ない極めて珍しい生き物だという。新聞記事によれば王立機士学校の研究施設に特別に二頭が寄贈されたというが……。
「ヴィーボ……」
新聞の挿絵をじっと見つめていた青年はやがて吹き出してしまった。
「あはは、かわいいな」
小動物は目がくりっとしていて実に愛らしい表情をしているのだ。その様子にバアドクレアは少女の面ざしで笑った。小さな生き物はいずれ一般にも公開されるという。
「見に行ってみようかな……」
バアドクレアは楽しそうに呟くと同時に、トリセルディの真剣な横顔を思い出していた。
「……あいつ、これを真剣に読んでたのか?」
野人とキュートな小動物。きわめて似つかわしくないことである。
「食べたいと思っていたのかもしれない……」
トリセルディの真剣な眼差しは食欲から来たものではなかったか。バアドクレアは自分が導き出した結論に軽く笑った。あの不作法者ならば、そのようなことを考えてもまったくおかしくはない。いや、そう考えることこそがトリセルディにとっての自然ではなかったか。
――そうだ、きっとそうに違いない。あいつならなんでも食べちゃうだろうな。
金髪のバアドクレアは新聞をきちんと畳むとトリセルディのベッドの上に置いた。新聞には他にバアドクレアの興味を引くような記事は乗っていなかった。
「今、何時だろう」
ついに何もすることがなくなった金髪の若者は壁の時計を見上げた。
時刻はすでに深夜の十二時をまわる。
妙な新入りが遊びに行ってしまってからすでに四時間近くが経っている。いつもであればこの時刻、バアドクレアは床についている。予定表のとおりに厳格に消化されるバアドクレアの生活にしてはこのようなイレギュラーは極めて珍しいことであった。
――あいつ、今日は、もう帰ってこないのかな……。
若者はわずかに寂しそうな表情を作ると、就寝の準備を始めた。
待っていてもしかたがないし、待たなければならない筋合いでもない。と。白いシャツのボタンに手をかけた若者の耳をつんざくような轟音が襲った。轟音だけではない。青白い閃光が一瞬ではあるが、あたりを包み込んだ。
――落雷だ。それもすごく近い……。
バアドクレアは雷を恐れるほど幼稚ではなかったが、それだからといって放電現象を愛しているというわけでもなかった。端的に言ってバアドクレアは職業柄、雷が嫌いであったのだ。ギガドレイクは雷が直撃しても搭乗者がすぐにどうかなるということは万が一にも無かったが、それでも、雷雲の下を飛ぶのは苦労することであった。雨天の場合、学校では実技訓練は中止になるのが普通であるが、それでも相手は自然である。離陸後に天候が変わるということも珍しいことではない。バアドクレアもこれまでに二度、密雲下に飛竜を飛ばしたことがあった。大気が荒れ、上昇気流と下降気流が狂ったように逆巻く中、竜の機体を安定させることはとてもしんどいことであり、神経を使う作業であった。
と、ボタンを外そうとした姿勢のまま立ち尽くすバアドクレアの鼓膜を二度目の轟音が閃光と一緒になって襲ってくる。
――さっきよりももっと近い……。
きんきんと反響音が残る耳を押さえたままバアドクレアは思った。
そして――。
ふっと寮室の照明が消えた。バアドクレアの部屋だけでない。学校全体、いや、学校を含むトラム街全域が一瞬にして闇に閉ざされたのだ。落雷で送電用のケーブルが切れてしまったのか、あるいは、供給施設そのものが壊れてしまったのか。
「困ったな……」
学生寮はしんと静まり返っている。深夜で真っ暗な中、ただの一人。
あまり気味の良いものではない。
「シエル、起きているかな……」
金髪のバアドクレアは何とはない不安に、着替えるのをいったん中止した。隣室に暮らす華奢の少年はどうしているだろうか。小柄で優しい面立ちの少年は、バアドクレアと同じように神経が細かいところがあった。つい先ほどの落雷にも気がついているだろう。何となく誰かの声が聞きたくなった金髪の若者は、隣室の友人を訪ねようかと考えて歩き始める。だが。結果としてバアドクレアが隣室を訪れることはなかった。
それよりも、テラスに通じる窓が開くほうが早かったからである。
ぎいいっ。
怪奇小説の一コマのように古い窓枠が軋み、バアドクレアはあまりにも驚いて思わず絶叫しそうになったほどである。
「さみーな。なんでこんなに寒いんだ?」
果たして窓から帰還を果たした無作法者の第一声が、そのようなものだった。
「まいったぜ。ひでえ雨だ。髪を洗う手間が省けたと思えば、ありがたいけれどな……」
「な、な、なんだよ、ノ、ノックぐらいしろよなッ!」
バアドクレアは恐怖で声が上ずっている。暗闇の中、突然、幽鬼のようにして部屋に舞い戻ってきたトリセルディは物取りや押し込み強盗と間違われてもおかしくない。
「よう、まだ起きてたのか?早く寝ろよ。良い子はねんねの時間だぜ」
真っ暗な中でトリセルディは言った。遠方で落雷がもう一度あり、その青白い光で黒い無作法者の姿が本当に一瞬だけ明らかになった。
「……び、びっくりするじゃないかっ!急に戻ってきて!」
心細いところに不意を打たれてバアドクレアの心臓はろっ骨の下で狂ったように跳ね回っている。だが、これもいつものことなのだがトリセルディはまったく気にしていない。
「真っ暗で何にも見えねえぜ……」
暗中模索とはこのことである。
「送電線が壊れちゃったみたいなんだ」
立ち往生をしているバアドクレアのそばで、トリセルディが何をごそごそとやっている。やがて、小さな明かりが灯った。トリセルディが持っていたマッチを擦ったのだ。そして。 ――あっ……。
小さな明かりに映し出された新入りの異常にバアドクレアは気がついた。マッチの軸はすぐに燃え尽きてしまったが、金髪の若者は寮友の外套の腕の部分が刃物か何かで大きく切り裂かれているのを見逃さなかった。
「ランプか何かねえか?」
トリセルディは言った。バアドクレアは机のなかにロウソクが入っていることを思い出した。その年の夏に仲間達と言った洞窟見物に使ったものの残りである。
「……これを使うと良いよ」
バアドクレアはロウソクをトリセルディに手渡した。マッチが擦られ明かりが灯る。黒髪の野人は小さな炎を自分の机の上に置いた。
「いや、まあ、なんだ、ひでえ雨だぜ……」
トリセルディは自分がどこに行き、何をして来たのかをバアドクレアに語らない。語らないままに黒髪の若者は破れた外套を脱いだ。
「タオルねーか?まいったよ、びしょびしょだぜ」
バアドクレアは黙ってタオルを寮友に渡した。黒い髪をした青年は濡れた頭をふき始め、そこでバアドクレアは友人の腕に傷ができていることに気がついた。
「け、怪我してるじゃないか……」
青年の二の腕からはかなりの出血が認められた。
「ああ?たいしたこたあねーよ。そのうち治るだろ」
トリセルディ・エラートは平気な顔で言った。
「ばい菌が入ったらどうすんだよ」
バアドクレアは部屋に備えてある救急箱を持ってくると、患者の同意のないままに医療行為を始める。
「痛ッ……」
消毒のアルコールが傷に染みたのだろう。本人がたいしたことはないと言い、そして実際に浅い傷ではあったが、トリセルディは大げさに喚いた。
「いったいどこでこんな傷を作ってきたんだ?」
バアドクレアはすぐに詰問を開始する。
「簡単に終わるはずのことがちょっともめちまってな……」
トリセルディは適当に笑った。黒い髪の青年の吐く息には酒の匂いはまったく無い。遊びから戻ってきたばかりのトリセルディはまったくのしらふ――。
――こいつ、いったい、どこに行ってたんだろう。
カペルヴィアストルの機士学校から都の繁華街プレッカまでは、徒歩で二十分あるかないか。いくら雨が強いからといっても雨曝しの場所で呑むわけではあるまい。だがトリセルディは雨の中を何時間もさまよったように芯まで冷えきっている。
――おかしい……。
バアドクレアの観察眼は恐ろしく鋭い。金髪の若者は、さらに泥だらけの友人の靴を見逃さなかった。きれいな石畳が続く国都で靴をそこまで汚すことができる人間は珍しい。
「ねえ……君は、いったいどこに行ってたんだ?」
バアドクレアは訊ねた。
「ちょっと呑みに行ってたのさ」
トリセルディは適当に言い、バアドクレアはそんな友人を覗き込むようにして青い瞳を向ける。
「……本当に?」
トリセルディは細君に浮気の証拠を突きつけられた夫君の顔を作った。バアドクレアは神経質で律義な性格であるからこそ、相手が嘘を言っているのか本当のことを言ってるのかを見破ることができるのだ。証拠は十分。あとは自白だけである。バアドクレアは探偵の才能がある――。
「……呑んで帰ってきたばかりなのにこんなに身体が冷えているのはおかしいよ。息にお酒の匂いもしない。靴は泥だらけ。舗装が行き届いた国都のいったいどこでそんなに靴を汚せるんだ?それにこの傷……」
バアドクレアは包帯を巻きながら言った。
「これ、刀傷だろ……」
金髪の若者は自分の一番最後の『刀傷』という発言に確証も自信もなかった。バアドクレアは検死官ではなく、当然のことだかこれまでに本当の刀傷など見たことがないのだ。ただ、綺麗に切り裂いたような衣服の切れ口と、いかにも『匂う』夫君の態度からなんとなくそうではないかと思ったのだ。数日前の上級生達との決闘騒ぎの場面も思い出される。
そしてバアドクレアは自分の勘に従い、感じたままに相手にかまをかけた。黒い髪の若者はあまりにも鋭い寮友にちょっと困ったような顔を作った。
「……いや、な、実は町のちんぴらと悶着をおこしちまって。それで喧嘩になっちまったんだよ。それで斬り合いになっちまった。それだけだよ」
バアドクレアはじっと友人の顔を見遣った。青く澄んだ瞳を野人は明らかに嫌っている。金髪の若者はトリセルディが絡むと冷静さを失うことが多かったが、冷静な時のバアドクレアは緻密である。
「コーツをやっつけた君が町のちんぴら相手に怪我をするとは思えない」
黒い髪の青年はバアドクレアのおせっかいはそれほど気にならないようだが、冷静な追及には相当弱っているようである。
「……君は嘘をついてる」
トリセルディはそれに沈黙で応えた。寮友はついに『そうだ』と認めたのだ。
「トリセルディ、もう一度聞くよ。君はどこにいってたんだい?」
「……聞いてどうするよ?」
ロウソクの炎がぶるぶるっと揺れた。オレンジ色の光を横顔に受けた野人の顔は恐ろしく真剣であった。居直ったわけではないのだろうが、その視線があまりにも強いので、バアドクレアはちょっとたじろいだ。
「……別に。どうするってわけでもないけれど」
バアドクレアは口ごもってしまった。たしかにどうするわけでもないのだ。ただ、気になるから訊ねた。それだけである。トリセルディは続ける。
「知らないほうが良いことだってある。そうは思わないか?」
「僕を……僕を脅すのか?」
バアドクレアは低く言った。
「いや。ただの一般論だよ」
「君の口から一般論なんて言葉が出てくるとは思わなかったよ」
バアドクレアの悪態に野蛮な不埒者は反論をしなかった。そして反論をしないままにトリセルディは何かを考えるようにして沈黙した。真実を語るか否か。語ることで得るものは何か、失うものは何か。利害得失を計算し――そして野人は話を切り出した。
「分かった。教えてやる。ただし口外は無用だぜ。もし言えば……」
野人の声のトーンがひどく重々しく乾いたものへと変わった。バアドクレアは緊張する。何となく相手の言うことが察せられた。要するに語ってしまうことが不幸に繋がるということであろう。
「分かったよ。言わない。約束する」
「もう一つ約束してくれ。俺の話を聞い後、俺の仕事の邪魔はしないって……」
トリセルディの条件に、バアドクレアは答えた。
「……場合によりけりだよ。もしも、君が悪いことをしているんだったら、僕はそれを看過することはできない。僕は……僕は貴族だからね。この国の将来に責任を負っているんだ」
決然とした律義者の態度に、トリセルディは薄く笑っただけであった。それぐらいならば値切られても仕方がないということなのだろうか。それにしてもアスペンブロウの跡取はいらぬおせっかいが過ぎたかもしれない。若者はそのせいで今まさに危ない橋を渡ろうとしているのだ。バアドクレアは警戒心が強く、堅実な人生を誰よりも望むという人物であった。そのような人物が敢えて危うい道に入ろうとしている。これもやはり縁であろうか。
「セドールって奴を知っているか?」
野人は言い、バアドクレアは聞き慣れない言葉に首を振った。
「知らない」
「麻薬の一種だよ。クレティアが原産のセディアという花の種から取れる油を精製して作るんだ。中毒性の高い厄介な薬さ。こいつを使い続けるとそのうち頭がいかれて廃人になっちまう」
麻薬。嫌な響きの言葉にバアドクレアは眉をしかめた。
「それで?」
「この薬が国都で大量に出回っている。南方のクレティアから大量に入ってきているんだ……本当にびっくりするような量だぜ」
トリセルディは当たり前のように言ったが、聞き手の方は途方に暮れている。麻薬?別のルート?それはいったい……。
「俺達は、その薬の密輸ルートを解明するためにここに――この国都にやって来たんだよ」
野蛮人は静かに言った。
「……」
トリセルディが嘘をついていないことは明らかであった。何故ならば黒髪の野人は嘘がどうしようもなく下手であり、そしてバアドクレアのほうは嘘を見破る名人であるのだ。野蛮人は確かに真実を語っている。そうでなければ誇大妄想ににとりつかれているか。アスペンブロウの次期当主は、黙って寮友の顔を見つめた。
――精神の病気ではないみたいだけれど……。
トリセルディは単純に頭が悪いということはあるかもしれないが、精神を病むようなタイプには見えない。肉体的にも精神的にもタフで動じるところがいささかもない。もっとも、それはそれでバアドクレアが事実を認識するのには困ったことであった。
――けれど、そんな馬鹿なことがあるんだろうか?
バアドクレアは、国都のそこここで凶悪事件が起こっていることを知っていたし、また、それを解決する人々の活躍についても知っている。ステアネーゼで起こる重大事件は治安を担当する内務府の国都警邏隊か国王直属の治安維持銃士隊によって捜査され解決される。そんなことは五つの子供でも理解していることである。そして、警邏隊も銃士隊も機士学校を出た上に専門の学校を卒業しなければ入隊することはできない。何が言いたいかといえば、十代の機士見習に捜査権など有りえないということである。そんなことは常識。だというのに、目の前の不作法者は言うのだ。
――密輸のルートを解明しに来た。
と。常識人のバアドクレアははっきり言って困惑している。
――こいつ、いったい何なんだ……。
バアドクレアは相手の大きさを計り兼ねている。金髪の若者のサンプルは基本的に同じ年の学生達でしかない。ファーラやシエル、エルマといった連中はまだまだ子供と言って良い若輩であった。彼らは能力も経験も拙い。密輸組織を相手に大立ち回りを演じるということなど有りえない話である。
「今もよ、前から怪しいと思っていたところを探ってきたところだ。そうしたらこれだぜ」
トリセルディは苦笑いをして腕の傷を見せた。
「急に襲ってきやがった。いい腕だぜ。俺じゃなければ殺られていたな。ま、怪我の分だけ情報も貰ったから、収支はプラスだな」
トリセルディは楽しそうであったが、バアドクレアのほうは惑乱のしっぱなしである。
――何なんだ、いったいこれは……。
と、黒い髪の青年はバアドクレアに言った。
「どうだい、これで納得してくれたかい?」
納得だと?納得する以前の問題だ!常識人のバアドクレアは何と言っていいか分からず、ようやく、月並みなせりふを口にした。
「トリセルディ……君は、いったい何者なんだ?」
金髪の若者は相手の雰囲気に圧倒され、呑まれてしまっていたのだ。そして『彼』を呑んだ異人は、
「そうだな。正義の味方……っていうのはどうだい?」
と、笑っただけであった。
すべての機士学校には、国からの指導という形で講義についての指針が示されている。指導の内容は簡単に言うと次の通り。
実技の時間は週十二時間。そのうち機体整備が四時間、実際の飛行ならびに操縦訓練が八時間。地上での講義については一般教養を教える教養科目と、たとえば航空戦略や地上戦術といった飛竜の運用に関連した特殊科目がそれぞれ週十二時間ずつ。身体育成系の科目に六時間――。
この規定単位をクリアしなければ学生は卒業ができないし、学校のほうも単位を与えられない限り生徒を卒業させることができない。
ただ、ここで一つ問題がある。
機体整備や講義といった地上でできるカリキュラムには問題はない。問題なのは飛竜の実技、飛行訓練であった。
飛竜、ドレイクは本来的には全天候で戦うための武器であり、雨が降ろうが風が吹こうがその作戦能力に支障が出ないように作られている。否、作られているという建て前になっているのだ。そして、これは当然ことなのだが、『支障が出ない』ということが『誰でも簡単に操縦できる』ということとイコールではない。横風をもらえば機体の制御は難しくなるし、豪雨に巻き込まれれば操縦に差し障りがでてくる。濃霧や夜間の飛行は常に墜落の危険をはらんでいる。
ベテランの操縦士であっても危険なものは危険。ベテランでも影響を受けるのに、ひよっ子の見習いが安全に空を翔べるか?答えは推して知るべし――。
機士学校では、だから、基本的に雨の日や強風の日には飛竜は翔ばない。国による指導を受けての決定ではなく、これは各学校のいわば自主規制であった。強風下や雨天で敢えて飛竜を飛ばすのは、強風訓練や雨天訓練といった、そのための特別講義の時だけ。これらの難訓練は全三年の機士学校のカリキュラムが終わる直前に行われることになっている。
そして――。
ここで問題になってくるのが国からのカリキュラム指導であった。
天候不良が続き十分な飛行ができない時には、機士見習い達はどうなってしまうのか?長雨や嵐が続き、やむなく飛行訓練を延期し続けた場合、学生達はどうなるのか?
簡単なことである。補講となるのだ!
それも休日を潰しての補講である。機士見習い達は遊びに行く代わりに、駐竜場に行き、玉突き場で紅白の球を狙う代わりにカタパルトで自分達が射出されることになるのだ。
――休日出勤、あるいは無手当て出動。
勉学が本分あるというのに学生達はこの休日補講を『出勤』と称して大いに嫌っている。
そしてこの不愉快な休日出勤を比較的簡単に押し付けられやすい立場にある学生がいた。それは学寮生達であった。下宿生達や自宅から通う生徒達に比べると、寮生達はつかまりやすく、そこで教官の思いつきであっさりと不愉快なスケジュールを割り当てられることになるのだ。
――横暴な権力に圧殺される哀れな被害者達!
自身が寮生であるファーラなどは自分達のことをそのように言ってしばしば嘆くことがあったが、他の生徒達にしてみれば奇妙な言説を振りかざすトラブルメーカーが遠くダリエンくんだりまで島流しにあうことで自分達が休日が静かに過ごせると喜んでいたのではないか。
ファーラの嘆きについてはともかくとして。
長雨が続き、満足に飛行訓練ができなかったことでカペルヴィアストルでは休日勤務が設けられることとなり――そして、当然のようにまたも寮生達が貧乏くじを引くこととなった。
バアドクレアはあまり運の良いほうではなく、そこで真っ先に手当て無しの出勤に借りた去れることとなった。
十一月の一日。
月始め、最初の休日であるが、教官はそんなことはお構いなしである。
バアドクレアだけではない。寮友のトリセルディも一蓮托生である。華奢なシエル少年も不運をもろにかぶってしまったし、ブン屋娘も一足遅れで寮にいるところを教官に発見され、自分の愚かさを悔いることになった。
かくして不運な連中の飛行訓練が行われることになるのだが、同時に、それは学内どころか国都を揺るがす大騒動の始まりでもあったのだ。
「こんな天気で翔ぶの?」
シエルは天を見上げて言った。空は黒い雲で覆われている。
風は穏やかだがとにかく気温が低い。いくらスケジュールが押しているとはいえ、ちょっとこれは厳し過ぎるのではないか――。小柄な少年は不安げである。
華奢な少年だけではい。バアドクレアも仲間達とともにカペルヴィアストル機士学校の正門前に立っていた。
――寒いなあ。雲も厚いし。
空を見上げるバアドクレアの横でトリセルディも斧を抱えてぼんやりと立っている。
学生達はこれから郊外のダリエンにある駐竜場にまで車に揺られて一時間の小旅行をすることになるのだ。そして一日がかりの訓練を行う。
機士見習い達は、みな一様に表情が硬い。唯一、トリセルディ・エラートを除いて。大柄な野人はあくびを一つ。それをバアドクレアが突いた。
「あくびなんかしている場合じゃないだろ!」
「ああ、すまん、すまん……」
叱られてトリセルディは適当に謝った。謝っておけば良いだろう。そんな感じの極めて気の抜けた謝罪であった。
あの後――。
嵐の夜の後、バアドクレアがトリセルディの任務について聞いた後に、二人の関係がどうにかなるというようなことはなかった。
何の変わりもないし、何のしこりもない。
否、バアドクレアのほうは多少気にしているのだ。奇妙な職責を担った奇妙な野人のことを。けれど、トリセルディのほうはまったく気にしていない。すべてを忘れたように、以前と変わらぬままなのだ。
あるいは、あの夜のトリセルディの告白は夢だったのではないか――。
金髪の若者はそのように疑ったりもしたほどである。黒い髪の野人は嵐の日以来、彼の言う『任務』のために夜間に外出をすることもなかった。
「遅いね、エルマ……」
シエルがぽつんと言った。猫のような娘は教官のところに行ったままなかなか戻ってこない。
「何かもめてるんじゃないかな」
華奢な少年は心配そうである。バアドクレアは黙ってうなずいた。
ここのところトリセルディの影に隠れてしまっているが、エルマも決して品行方正な成績優良児ではないのだ。常日ごろから奇矯な発言が目立ち、女性だというのに殴り合いの喧嘩も日常茶飯事だった。つい先般も仲の悪い男子生徒に『生まれたことを後悔させるべく』講義中にバールを振り回すという事件を起こしたばかりである。
――バールはまずいよな、バールは……。
バアドクレアはエルマの勇姿を思いながら傍に立っている華奢な少年を見やった。
シエル少年も暴れ馬のエルマに何かあればすぐに張り飛ばされている。まるで人間サンドバック。だというのに、被害者のシエルはいつもエルマのことを心配しているのだ。誰かに憎まれないか、誰かに恨まれないか、誰かに刺されないか、誰かに首を絞められないかといった具合に。バアドクレアはそんなシエルのことを、
――懲りないなあ。
と、笑っていたが、シエルもまた野人のやることなすことにいちいちつっかかっていくバアドクレアのことを同じように笑っていただろう。
「今日の訓練生は僕とトリセルディ。それからシエルとエルマ。ファーラ……全部で五人?」
バアドクレアは繊細な少年には声をかけることのないままにファーラに確認した。集合しているのは五人だけである。
「あと、ミューネがいるわ。ケリオンもね。全部で七人よ」
さすがはブン屋娘。おかしな情報ばかり拾ってくるが、学内の情報に関しては精度の高いネタを持っている。
と、そこに今しがた話題に出たばかりのミューネがやって来た。
ミューネ。姓はバンクラフト。中級の役人の娘であるという。ちょっと不思議な感覚を持ったこの少女は極度に上がり症で男性と眼を合わせて話すことができない。
本が好きで、いつも何かを読んでいる物静かな娘は、自分でも小説を書き、それをファーラ新聞の片隅に載せている。
――国都の夜の物語。
そのようなタイトルのステアネーゼの歴史を題材にしたミューネの小説をバアドクレアは結構気に入っている。ちなみに、ブン屋娘はこのミューネが一番の親友であった。
「……遅れてごめんなさい……」
ミューネはか細く謝罪し、寮生達はそれに笑って応じた。
「小説を書いていて……。それで寝るのが遅くなってしまって」
うつむいたまま赤毛の娘は言った。カペルヴィアストルの機士学校は、入学に制限がないためか、それとも、そういう系統の人物を呼びやすい電波を発しているのか、機士という職責と一番対極にあるような学生がかなりの高確率で混じるきらいがあった。
ファーラがそうだし、シエルも兵士よりは花屋でもやっていたほうが似つかわしい。実は本人はまったくそのような意識がないがバアドクレアも他人から見れば『らしくない』人物の一人だったろう。機士は操縦士でありつまりはパイロットである。歩兵のようにして敵と肉弾戦を戦うというようなことはないが、そうであったとしても機士は兵士であり武人であるのだ。
――堂々とした体躯。厳かな態度。危機にあたって揺るぎない精神力と自信。そして多くの部下を率いる統率力。
ステアネーゼの人々はそのような機士像を持っている。バアドクレア達と正反対の人物こそが理想の機士であったのだ。剣の腕を磨くかわりにも小説を書いているような娘は完全に『場違いな』人間の一人であった。カペルヴィアストルでは案外にそれで通ってしまうのであるが……。
「新しいのはいつあがるの?」
ファーラは女小説家に訊ねた。催促、というか督促であろう。
「……新聞はちょっと待って。もうあと一日。別の作品をしあげなきゃならないから」
ミューネはぼそぼそと言った。
場違いな娘は新聞小説とは別に、表に出てこない裏の作品を書いているという。この作品は学内の一部女子に絶大な人気を誇っているのだが、これは男性同士の同性愛を極端に美化した過激な猥褻本であった。
――闇小説。
少女達の多くがはミューネの作品をそのように評価しているとかいないとか。
「締め切りは明日の午後までよ!」
「うん、分かってる……」
ファーラはクギを刺し、ミューネのほうはファーラではなくバアドクレアのほうを見て、妙に照れていた。
「……ふ、うふふふ、ふふ……」
男とは目を合わせることの出来ないミューネはバアドクレアとだけは目を合わせて話をすることができる。
――何だ?
何故、僕を見て顔を紅くする?友人の奇妙な行動がバアドクレアにはちょっと気になった。なんとなく嫌な予感がするのだが……。
「あとはケリオンだけか」
シエルが言った。頭数は揃いつつある。やがて。
ケリオンよりも先にエルマが操る車がやってきた。九人が乗れる大型車には教官の姿はなく、爆弾娘だけが乗っていた。
「あれ、教官は?」
ファーラが 訊ねた。エルマの顔は若干が緊張している。
「今日は無教官飛行だって」
エルマは言った。トリセルディが口を挟むようにして訊ねる。
「教官がいないってことか?」
黒い髪をした野人はエルマの言ったことをただそのまま簡単に言い直しただけであった。バアドクレアはそういう寮友の態度が何となく恥ずかしい。
――その通りのことを言うなよ。
「そういうこと。今日は学生だけの飛行だよ」
エルマは言った。国からの指導要綱には、学生だけでの無教官飛行についても規定がある。
――一定の飛行時間を飛んだ学生には、学生だけでの飛行を行わせること。
バアドクレア達も、すでに何度か学生だけの飛行を行っているが……。
「トリセルディは大丈夫なの?」
シエルが訊ねた。その場にいる誰一人として新入りの実力を知らないのだ。バアドクレア達は十分――と、いってもそう思っているのは本人達だけだが――に飛行の経験があるから良いが、転入してきたばかりの新入りをいきなりそのような訓練に送って良いものか?ファーラの質問にはエルマが答えた。
「戦車が大丈夫だってさ」
女教官のバレルとトリセルディは旧知であるという。教官がそのように言うならば大丈夫なのだろうが……。
「そう、それならば……」
ファーラも納得はしたようである。
「任務開始時刻は、本日の九時。飛行のルート等詳細については、ダリエンについてからな」
エルマはそう言って車の中から地図や指示書といった書類が入った封筒を仲間達に見せた。模擬作戦書となるその書類には封ロウがなされていた。だれきってはいるがカペルヴィアストルアは機士学校であり兵士の育成所であるのだ。学生達は、そのことをこの『作戦書』という重々しい指令書を見る時にだけ思い出す。そして彼らは訓練が終わるとすべてをきれいさっぱりに忘れてしまうのだ。
「それじゃ、行こうか」
エルマは厳しい顔で言ったが、それをシエルが止めた。
「まだケリオンが来ていないんだ」
「あいつ、また遅刻かよ……」
エルマは実に不愉快そうに言った。どうやら最後の一人はトリセルディと肩を並べるルーズな人物であるらしい。と、そこにようやく一番最後の訓練生がやって来た。一番最後に現れた真打ちは背の高い大変な美人であった。金髪の美少女。バアドクレアもきれいな金髪の持ち主であったが、最後にやって来た美少女の髪のほうがさらに明るく、よく目立った。色白でわずかに面長。ひどく身のこなしの優雅な若い美少女は、細身の体に良く似合う仕立ての良い白いシャツの上に緑の制服を着け、更にその上に渋茶のコートを着けていた。コートの上には銀でできた小さな枯葉のペンダント。他の生徒達と僅かに異なる出で立ちの美少女は時刻ぎりぎりにやって来たことを詫びたりはしなかった。なぜならば彼女は仲間が噂するケリオンその人ではなかったからである。
「あれ、ビー、どうしたの?」
シエルは続けて訊ねた。
「こんなに早く……」
ちょっと鋭い感じのする女性はシエルに、というよりもその場にいる全員に向かってあっさりと言った。
「替わってもらったのよ。実技の時間を。教官の許可もとってあるわ」
「ケリオンと?わざわざ?」
シエルは聞き、車の運転席にいるエルマのほうは唾でも吐きそうな顔をした。エルマがビーという少女を嫌っていることは一目で明らかであった。狂暴な山猫にも似た少女は快不快が簡単に顔に表れてしまうのだ。だが、嫌われている貴婦人のほうはといえばさんぴん女のことなど歯牙にも引っかけていないようである。それがエルマには余計に面白くないのであろう。
「そうよ」
ビーと呼ばれた娘は昂然として言った。この娘は文字通り誰もが振り返る美人であり、困ったことに本人もそのことを十分に熟知しているようである。それだけではない。彼女は自分の美徳が、容姿だけではないとも認識しており、それもおおむね事実であった。
「学園の貴婦人が休日勤?」
ファーラがいぶかしむように続ける。
「ビーはお金を積んででも補講日を平日に持っていきそうだけれどね」
ファーラは挑発の意図は無いのだろうが、そうとられてもおかしくないもの言いである。もっとも大人物は小物のひがみなど気にしていない。言いたければ言わせておけば良いのだ。背の高い美女は、有象無象となる仲間達のことをほとんど無視すると、すぐにトリセルディのほうへとやって来た。美少女は新入りに興味を持っていた。と、いうか、トリセルディにしか興味を持っていないようである。
「あなたがエラート君ね」
「ああ、そうだよ。あんたは……見ない顔だな。あんたみたいな美人がこの学校にいたとは知らせなかったよ」
トリセルディの言葉にはいやらしさがない。
「実家で一族が集まる会合があったのよ。それでここしばらく欠席をしていたから」
ビーは話をしながらもトリセルディのことを値踏みしているようである。いったい何のために?用心棒として雇用するというつもりではないだろう。
「なかなか良い男ね。もっと怪獣みたいな人かと思ってたわ」
美少女はすまし顔でずばりと言った。それにトリセルディは苦笑いをしただけであり、そのかわりにバアドクレアが左の眉をぴくりと動かした。金髪の美少女は隣にいるバアドクレアのことをちらりと見たが、こちらには特にコメントをしないままに続ける。
「コーツを叩きのめしたんですって?」
「因果を教えてやっただけだよ」
トリセルディは笑って言った。青年は享楽的であり女性が好きであった。そして、これは内緒の話なのだが実は美人が大好きなのだ。
「よくやってくれたわ。コーツの言動は以前から不愉快に思っていたのよ。エスカルの田舎貴族の分際で大きな顔をしていたから。たかが二千クアント程度の領土しかもっていないくせに上流を名乗るなんておこがましいにもほどがある!あまりにひどいようならば父に言って、コーツ家になにがしかの制裁を加えてもらおうと思っていたところだったのよ」
エルマはふんと鼻を鳴らし、美女はそこではじめて笑顔を作った。実に嬉しそうな笑みであった。そしてそれを聞いている仲間達はこう思った。
――生意気なだけで実家に制裁が及ぶなどということがあっていいのか?
父親におねだりは良いが、そんな邪悪なねだりかたもあるまいに。もっとも美少女は外野の疑問などお構いなしである。
「私の名前はビーステア。ビーステア・クオレルリオン」
美少女は誇りをもって自分の姓名を告げた。多くの人に感銘と畏怖を与える貴族の名前にトリセルディは軽くうなずいた。
「クオレルリオン。両リオン家の一つだな。知ってるよ。一族から五人の大臣を出した名家中の名家だ。そうか、あんた、リオンの人間だったのか」
クオールに領地を持つクオレルリオンとハイムに領地があるハイメリオンはかつてはリオン家として一つにまとまっていた。それを相続に際して二つに分割したのだ。あまりにも勢力が強くなった貴族の勢力を削ぐための当時のステアネーゼ国王の策略であったという。ちょうどカペルヴィアストルの学校が建てられたのと同じ頃の話だから、ほとんど昔語りの部類に入るだろう。
と、面白くないエルマがぶつぶつと言った。
「もう時間なんだけれど。早く乗ってくれねーかな……」
出発の時間が来ていた。ケリオンが来ないのであれば、作戦の頭数はここに揃ったことになる。立ち話をしている場合ではあるまい。
「話は車の中でしましょう」
ビーステアは言った。お嬢様はエルマのことをお抱えの運転手程度にしか考えていないようである。
「エラート君とはちょっとお話がしたいわ」
かくして学生だけの飛行訓練は始まったのであるが……。




