一 我らが母校
カペルヴィアストル機士学校の講義室。
授業が始まる前の朝の教室で一人の少女がアジ演説でもするようにして熱弁を振るっている。
「今の国王陛下と、王弟殿下の間でいさかいがあることは知っているでしょう?」
ヘイゼルの髪が美しい少女は自慢するようにして級友達に言った。
「お二人のいさかいの元が王位の継承権によるものだということが世間では言われているわ」
少女の言葉には妙な含みがあった。その含みを機士見習いの一人が突いた。こちらは明るい亜麻色の髪をした華奢な少年である。
「違うの?」
「違わないわ!けれど、このいさかいのそもそもの発端についてはみんな知っているようで知らないでしょう?」
勝ち誇ったように言う娘に機士の見習達もうなずいた。
確かにステアネーゼの国王とその弟君の喧嘩の理由など知らないが……。だが、別にそれは知らなくても良いことなのではないのか?事情通の娘はしかしそのような観客の疑問を気にすることなく続ける。
「ここからは私だけが知っている情報よ。どうして、二人の御関係がここまでこじれてしまったのか。その発端は何であったのか……知りたい?」
アジ娘はもったいぶって言った。
ところが聴衆のほうはといえば、これが皆一様にうさんくさそうな顔をするばかりなのだ。少女は情報通をもって自らを認じていたが、一介の学生ごときに王家の重大な秘密を知り得る機会があるだろうか?常識的に言ってそんなはずはないのだが……。だが、事情通は周囲の疑念にはきちんと釈明しないままに『実はね』と話を続ける。
「実は、王弟クリーエフ殿下は国王陛下と子供の頃にどれだけ多くの固ゆで玉子を食べられるかという競争をしたことがあるのよ。これは私が見つけた王立の公文書館に保存されていた資料にもきちんと記されているわ」
公文書館?
少女は公文書館がどういうものであるか知っているのか?知っていたとしてそれではその自信はいったいどこからやってくるのだろう。
「実は、この競争はただの競争ではなかったの。勝ったほうが王位を取るというそういう条件で始めた戦いだったのよ」
聞いていた小柄な少年が不意に何かを思いついたようである。
「……でもさ、ファーラ、それじゃ、継承権者の兄殿下のほうが条件が悪いんじゃないの?」
何の意味もなく自分に与えられた権利を賭けの対象とする者がいるだろうか。黙っていれば国王になれるのだ。その権利を見返り無しに賭けるような人物は馬鹿と呼ばれるのだ。質問に情報屋は待っていましたとばかりに応える。
「それよ、それが問題よ。シエル!」
ファーラは名探偵のようにうなずいた。
「私の調べた所によれば、今の国王陛下は、どうも王弟クリーエフ殿下の恋人が気に入っていたようなのよ。それで、自分が勝ったら、その恋人をよこせと言ったようなの。そのかわり、もしも弟君が勝ったら王位継承権をやるからって。それで賭けが始められたのよ」
ほう。
聴衆である機士見習い達も何となく合点が言ったようである。情報屋もたまには真実をかすることもあるではないか。だが、仲間達の感心も長くは続かなかった。
「ねえ、ファーラ、それっていつのことなの?」
シエル少年は尋ねる点がいちいち細かい。
「ファーラ、その競争っていったいお二人がおいくつの時のことなの?」
ファーラはにやりと笑ってから『よく聞いておけ』と言わんばかりに重々しく答えた。
「兄君が五歳、弟君が三歳よ」
五つと三つ?五つと三つで恋人と王位を賭けて勝負する?それも固ゆで玉子で?
――はあ?
聴衆の混乱を無視してファーラは続ける。彼女はすでに地に足がついていない。真顔で空中を闊歩しているのだ。
「その競争で兄君の国王陛下は四十個の卵を食べ、そして弟君は四十一個と半分を食べたの」
少女のニュースに、まわりの機士見習い達はそろそろ嫌になってきている。
――誰でも良いからあのねーちゃんを止めてやれよ。
学生達の中でそのような声が上がったが、情報通はあくまで自説の展開を強行する。なんと言うか、自分が理解できていないだけに狂ったピエロのようである。
「弟君である王弟殿下はこの勝負に勝った。けれども、その勝利は一瞬のことだったの。あまりにも短時間で卵を食べたことに加えて、兄君が弟をからかっておなかを強く押したために、王弟殿下はせっかく食べた卵を全てその場で戻してしまった。そう、クジラの潮噴きみたいに。どばーっと」
――もう駄目だ……。
不敬罪という言葉を知らないブン屋娘に、聴衆は頭を抱えている。
「しかも不幸なことに王弟殿下が噴出なされた酸っぱい匂いのする卵ジュースが先の国王陛下のお気に入りのマントを汚してしまったからさあ大変。先の国王陛下はどんなことがあってもこの出来の悪い次男にだけは王位を譲るまいと決めたのよ。大いに面目を失った弟君は、それから自分の兄をひどく恨むようになったの」
聴衆は潮が引くようにして一人、また一人と消えて行った。
時間のあり余っている機士見習いもここまでくだらない話につき合わされるのは本意ではないのだ。結局後に残されたのは片手でも十分に数えられるぐらいの好事家だけとなった。
「おめえの話、一撃で嘘っぱちだって分かるからなあ。笑えることは笑えっけどさ」
最後までその場に残って『嘘っぱち』につきあった酔狂な人間の一人となる少女が言った。浅黒い肌をした黒猫のような女性である。猫娘のつけた落第点に事情通は当然のように気色ばんだ。
「嘘ですって?冗談じゃないわ。エルマ、私は正確な取材を元に、こうやってみんなに歴史の真実を伝えているのよ」
華奢な少年も猫のような娘もそろって鬱陶しそうな表情を作った。
真実ですか。
人それぞれにあるのが事実であり、唯一絶対のものが真実であるという。唯一絶対の真実とは吐瀉物のごとく陳腐なものであるのか?やがて、真実の重みに耐えられなくなったのだろう。猫娘のほうが口を開いた。
「なあ、バアドクレアも、本なんか読んでないで、何か言ってやってくれよ」
猫娘は中立国を激戦に巻き込んでやれといった具合に隣で本を読んでいる級友に声をかけた。
「ん?うーん……」
本を読んでいた機士見習いはちょっと困ったように笑った。不思議な、本当に不思議な人物であった。
癖のある固い金髪に白い肌。深い藍色をした瞳。男性用の緑の上着を羽織ったこの人物は性別を特定しにくい人物であった。女性であると言い切られればおそらく全ての人は納得するだろう。けれど男性ですと言われれば、まあ、そうだろうかとも思える、そんな人物なのだ。
「まあ、ファーラがそう言うならばそうなんじゃないかな。だって、公文書を調べたんだし……」
金髪のバアドクレアは言った。その言葉に情報屋は我が意を得たりとうなずいた。
「さすがバアドクレアだわ。物事の筋道がよく分かってる。エルマもシエルもちょっとはバアドクレアの聡明さを見習いなさいよ!」
ブン屋娘は自負心を回復して一人悦に入っている。
――真に受けるなよ。
猫に似た少女は強引なブン屋娘を迷惑そうに見やると同時に、物分かりが良すぎるバアドクレアにも恨めしげな視線を送っている。ファーラは他人の迷惑に気にすることもないままに続ける。
「みんな私のことをガセ女と言っているけれど、いまに見てなさい、私はいずれ最高の記者なってみせるわ」
「機士じゃなくて?」
シエル少年は言った。学校の設立理由と学生の進路が明らかにかけ離れているように思われるのだが……。
「機士なんて私のガラじゃないわ。だいたいあんなもの、権力の走狗じゃない。犬よ犬。地べたを這いずるチンコロよ!」
ファーラは『うがーっ』と雄叫びを上げた。
その機士を養成する学校におまえは来ているのではなかったのかとは誰も言わない。養成学校とは言っても、卒業生が全員機士になるわけではない。素養として機士のたしなみを学ぶためや、あるいは学生生活の三年間を都でふらふらと遊ぶために学校に来ているものもいるのだ。機士という職責に心酔して機士学校にやってくる者はむしろ少数であった。もっともそれは学生の側の理屈であり、教員の側には別の言い分があった。言い分というよりも面子である。授業料をふんだくっているのにまあそこそこ問題なく卒業してくれればそれで良いですとは学校側は思っていても口には出せない。
「阿揄追従の世渡り上手。長いものにまかれるだけが取り柄の宮仕えのさんぴんなんかになりたがるなんてどうかしているわ!」
ファーラは吠えた。と。ファーラの叫びに答える声があった。
「ほう、グイドバルド君、機士はチンコロかね」
声がブン屋娘のすぐ後ろであった。
ファーラは振り返った。
「……」
妙な沈黙があった。華奢な少年は困ったような顔を作り、猫娘のエルマは知らん顔でそっぽを向いた。
ファーラの後ろには立っていたのは歴史を教える老教官であった。厳格でいつも渋い顔をしているこの老人はスフィアーの歴史に関する名著をいくつも残す優れた学者である。いつものように険しい顔をしている老人に、しかしファーラは果敢にも反撃を試みる。
「ええ、その通りですッ!」
勇敢というよりはもはややけくその突撃といったほうが良いだろう。だが老教官は無茶をする教え子のことを糾弾しなかった。かかる手合いを糾弾してもしかたがないことを教官は知っていたし、それよりも何よりも老人には、やっておかなければならないことがあったのだ。
「グイドバルド君、そのことについては後で話をするとしよう。それよりも……」
老人は視線をファーラから猫娘のエルマへ、ついで華奢な少年のシエルへと移した後に、ようやく目指す人物を見いだした。
「アスペンブロウ君……」
仲間と教官のやり取りをぼんやりと眺めていた金髪の若者は、自分の名前が呼ばれたことに不思議そうな顔を作った。
「何か」
「学校長が君を呼んでいる。授業は良いから、すぐに校長室に行きなさい」
「校長先生が、ですか……」
不思議な雰囲気を持つ若者は首をかしげた。
「いったい何でしょうか」
「さて」
若者の問いに老人はあいまいに応えた。教官は本当に知らないのだろう。
「それはわからん。とにかくすぐに行きなさい」
金髪の若者はうなずくと席を立った。
カペルヴィアストルは都にある六つの機士学校の中で施設規模で下から二番目、学生数は最下位という弱小校であった。練習機はくたびれたセプティアが十機あるだけで、飛行カタパルトはおんぼろのものが一台ある切り。王立の機士学校に次ぐ古い歴史を持っており、校舎が王都の中にあるということで立地条件だけは最高であったが、その条件の良さはせいぜい学生達が酒場に入り浸る手助けとなるぐらいで、と、いうことは勉学には何の役にも立たないということであった。だいたい、大きな駐竜場や飛行施設が必要な学院が都の中にある必要はどこにもなく、むしろ、郊外にあるべきであって、事実、他の六校は王立の機士学校を除いて全て都の外に校舎が建てられていた。唯一、王立機士学校のみがカペルヴィアストルと同じく都の内側に施設を残していたが、こちらは国庫から資金が潤沢に回ってきていたし、都から十分ほどのところにあるグラールの王立飛行施設を利用できるようになっていた。一方弱小のカベルヴィアストルは、飛行施設が校舎から遠く離れたダリエンにあり、学生は実技訓練のために一時間以上車に揺られる必要があった。とにもかくにもカペルヴィアストル備品から始まって施設、教育者の質に至るまで何から何まで他校に見劣りするものであったのだ。ただ、この学校が街の人に嫌われていたかというとそういうわけでもなかった。カペルヴィアストルは立派な学校ではなかったけれども、その入試制度がきわめて公正だったからである。
――入学者の門地、性別は問わない。
勉学を望むものであれば貴族も平民も関係なく受け入れる。
それがカペルヴィアストルの方針であった。他の五つの学校が基本的に男子校であったのに、カペルヴィアストルだけは共学。奨学金の制度も他の五校よりは利用しやすい。
――誰にでも等しく教育を受ける機会を与える。
カペルヴィアストルのこのような設立方針を、
――立派なことを言い、それを実践するものはいつでも懐が寒い。
という典型と見なすか、それとも、
――志の高い人間の魂はどんな貧窮にも屈することはない。
好例と見なすかは人それぞれであっただろう。
だが都の人々、特に金銭的にあまり恵まれていな人々からはこの学校は一定の評価を得ていたのだ。女性が多くいるということで雰囲気もとても華やいでいる。男ばかりでむさ苦しい学校よりも、若い女性が集うところのほうが傍に置いていて気分が良いという心理も街の人々にはあっただろう。とにかく、規模では下から数えた方が早いこの学校が、知名度で王立機士学校に迫っているということは、これは他の学校には面白くないことであったけれど事実であった。
金色をした銀杏の葉に前日の夜まで降っていた雨粒が輝いて光る。
カペルヴィアストル機士学校の中庭を金髪のをした若者が足早に行く。
講義室のある中央校舎から、校長質がある北校舎へ。
まだ湿っている石畳には、校内に植えられた椎の木の枯れ葉が幾枚か張りついている。薄い緑色のズボンに、深緑のブレザーという機士学校の制服を着けた青年が静かな中庭を足早に歩いていく。
「冬の匂いがする……」
若者は呟くようにして言うと空を見上げる。
青空がとても高い。秋の次には待ち構えるようにして凍える冬が控えているのだ。
「今年は……収穫はどうだろうか……」
空を見上げる若者の耳ににかさかさという落ち葉の触れ合う音が聞こえてきた。目を落とすとニレの木の下にリスが一匹、冬支度のために走り回っている。若者はその様子を足を止めてしばらく眺めていたが、すぐに自分の用件を思い出して歩き始める。
――学校長のところへ行くように。
いったい何の用で?
若者は自分が謹厳な人物であり、律義な性格であるとも認識している。朝は六時に起床し、二十三時に就寝。学外に出ることはまずなく、問題を起こすこともない。素行優良な若者に校長から呼び出しを食うようないわれはないのだ。それなのに何故?考えるまでもない。疑問はすぐに明らかになるからである。
二階建ての小さな校舎の一階、西に向いた機士学校の校長室で、青年は学校長から直接呼び出しの理由について話して聞かされることになる。
「アスペンブロウです」
若者は学校長の部屋の前で言った。
――開いています。入りなさい。
部屋の奥から声があり、そこで律義な若者は部屋に入った。中には白い髪をした初老の女性が若者のことを待っていた。暗い渋茶の服を着けたその女性こそが機士学校の校長であった。
「何か御用でしょうか、ルッカ先生……」
バアドクレアは訊ねた。バアドクレアも貴族のならいとして姓名共に長いほうであるが、それでもこの学校長には及ばない。学生達はそこで、この校長の姓の一番最初の部分を切り取って『ルッカ』と短縮して呼んでいた。学校長もそのような生徒達の短縮行為を怒ったりはしなかった。
「よく来てくれましたね、バアドクレア・アスペンブロウ」
品の良い初老の女性は、そう言うと世間話を始めた。
「どうですか、学校は。あと、一年で卒業ですが」
機士学校は三年制。あと一年と少しがたてばバアドクレアも卒業となる。
「進路については決めましたか?」
「ええ。故郷に帰って、家督を継ぐつもりです」
金髪の若者は言った。
「そうですか……」
初老の女性校長はそこで言い淀んだ。どういうわけでかは知らないが、校長は何かに困惑しているようであった。そうでなければ、時間を稼ごうとしているようなのだ。バアドクレアはそこで訊ねた。
「校長先生、何か御用なのでしょうか?」
「そう、そうです。あなたにちょっと頼みたいことがあったのですが……」
女性校長は物言いがどうもはっきりしない。いつもならば、このようなことはないはずなのだが。
「頼みですか?」
「寮のことです。あなたの部屋は今、あなただけが使っていましたね」
そうです、その通りですと金髪の若者は言った。
いろいろとやかましいことを言われるカペルヴィアストルの学生寮を嫌う学生が多く、そのせいもあって寮は定員割れを起こしている。それがバアドクレアが二人部屋を一人で使っている理由であった。
「ええ、そうです。僕だけですけれど、それが何か?」
「今日から、あなたと一緒の部屋で勉強する生徒が来ることになっていたのですが……」
女校長はちょっと困ったような顔で言った。彼女は飛竜に不可欠となるゲルと呼ばれる物質の研究者であり、とても理知的な人物であった。取り乱したりすることもないし、また感情を爆発させるようなこともない。その女性がひどく困惑しているのだ。
「なっていた?」
バアドクレアはもう一度訊ねた。
「転入生ということですよね……」
「ええ、そう、転入生です。もう来るはずなのですが……」
校長の話がなかなか先に進まない理由がここにあった。彼女は時間を稼ぐ必要があったのだ。それにしても学校長も長い教員生活で生徒から約束をすっぽかされたのは初めてであったろう。バアドクレアのほうも何と言っていいのか分からないでいる。
「あなたに寮や学内の案内を頼もうと思っていたのですが……」
校長はほとほと弱っている。バアドクレアもそれは同じであった。
「どうしましょうか……」
青年は訊ね、そして学校長のほうは決断を下した。
「しようがありません。本人が来ないのでは。もう下がってくれていいですよ。時間を取らせて済みませんね」
校長はあまりにも不作法で非常識な転入生に頭を抱えている様子であった。
と、その時のことであった。
ノックもないままに校長室の扉が開いた。女校長も金髪の若者も何事かと戸口のほうに視線を送る。開いた扉の向こうには一人の青年の姿が見える。黒い髪と黒い瞳を持つ背の高い人物。肩幅が広くしなやかな体躯を持つ偉丈夫である。乗機用の黒いシャツの上に黒のジャケット、擦り切れた黒いズボン。そして腰に下げているのは黒鉄の斧。若い男は別に遅刻したことを悔いてもいなければ反省もしていないようであった。
「どーも」
若者は人懐こい笑みで言うと部屋の中にずかずかと入ってくる。
――何が『どーも』だ。まったく!
金髪の若者はきわめて律義な人物であり、それだからこそ約束にルーズなルームメイトに最初から辛い評点を与えていた。一方、校長のほうは、この黒い髪をした若者のことを困ったものだと思いながら、それでも直ちに相手を非難叱責することはなかった。
「あなたがトリセルディ君ね……」
白髪の校長は穏やかに言った。
「ええ、そうです」
若者は悪びれる様子もなく言った。
「ここの校長を勤めるルッカです」
「トリセルディ・エラートです」
校長の差し出した手に青年は力強い握手で応えた。
とても粗野な印象を与える人物。バアドクレアはトリセルディという人物をそのように見ている。もしも金髪の青年がルームメイトに良い印象を抱いているのであれば粗野という形容はきっと野生味に溢れるとなったはずであったろう。
要するにバアドクレアはこのがさつな新参者が全く好きではないのだ。一方遅刻男のほうは笑っている。
「昨夜、母が家を飛び出しまして、それを捜すのに手間取って、このように遅刻をすることになりました。どうぞお許しを」
黒い髪の青年は平気な顔でそのように言った。それにしてもそんな言い訳があるだろうか。バアドクレアは内心で舌打ちをしたまま思った。
――嘘をつくならばもっとそれらしい嘘を言えば良いのに!
金髪の青年は新しいクラスメイトにかなり否定的に見ている。だが肝心のエラート氏のほうはといえば、これが全然平気な顔をしているのだ。随分と強靱な心臓である。
「そういった次第ですから、一緒にうかがうことになっていた両親は、今日は欠席ということでよろしくお願いします」
青年は言い、校長が訊ねる。
「……それで、お母さまは見つかりましたか?」
「ええ、実にきわどい所でしたよ。あと少し遅かったら、やばかったです」
若者は笑った。きわどい?やばい?何を言っているのだろう、この男は。バアドクレアの表情は複雑ある。だが、校長の表情は金髪の優等生のそれほどは複雑怪奇ではなかった。彼女は自分が相対している相手がどういう人物で、どういう前歴の持ち主かということをある程度知っているのだ。
「そうですか。お母さまによろしくお伝えください。さて……」
ルッカ校長は言った。しきりなおしである。
「トリセルディ君。本校については知っていますね」
「ええ、まあだいたいは」
「本校は、機士を養成する私学として創設されました。今からほぼ百年の昔のことです」
青年は野卑ではあったけれど、校長を侮るほど不謹慎ではなかった。
「ドレイク、つまり飛竜の操縦や修理補修整備といったことを通じて生徒の能力や精神を磨き、社会に貢献できる人間として育成教育する。これが本校の目標です」
「はあ」
青年は馬鹿正直にうなずいた。粗暴な印象とは裏腹にエラート氏はちょっと人の良いところがあるようだ。いや、むしろ、難しい話が頭に入らないタイプなのだろう。
「施設はこちらの本校と、ダリエンの駐機場。駐機場には飛行カタパルトが一機あります」
老校長は穏やかに笑ったが、バアドクレアは、
――遠いんだよな、ダリエン。
と駐機場の立地の悪さを心の中でぼやいている。車で一時間。行って戻ってくるだけで二時間。時間がかかり過ぎである。ルッカ校長は続ける。
「練習機としてセプティアを揃えています」
黒い機士見習いはうなずいた。
「何か質問はありますか?」
「あ、いや、いいえ……」
青年はあいまいに言った。その横顔を見ていたバアドクレアは理解した。
――この野郎、何も聞いてないんだ……。
面倒臭いことは聞いたふりということであろうか。まあ、学校の設備にいちいち過剰に反応する者などいないであろうが。
「学内と寮についてはこちらにいるアスペンブロウ君の話を聞いてください。いいですね?」
トリセルディは神妙な顔をしている。
「何か質問があったら、教官にでも私にでも納得のいくまで質問をしてください。私はたいていここにおりますから」
校長はそのようにして話を締めくくり、あとはバアドクレアの任となった。
「それではアスペンブロウ君、彼を案内してあげて」
金髪の青年は『はい』と言って、奇妙な級友に退室を促した。トリセルディは黙ってバアドクレアの後をついてくる。
二人の若者は青空の校長室を出るとそのまま中庭を歩き始める。
先ほどまで庭で駆け回っていたリスはいずこかへと消えている。リスにはリスの都合があるのだろう。そして。先に言葉を発したのは黒い髪の若者であった。
「トリセルディだ。おまえは?」
「……バアドクレア。バアドクレア・アスペンブロウ」
金髪の若者は少し機嫌が悪い。あまりにもフランクな相手のもの言いがちょっと癇に触っているのだ。親しき仲にもなんとやらというではないか。中堅とはいえアスペンブロウは貴族であり、バアドクレアはその跡取りである。それに向かって『おまえ』はないだろう。そして金髪の若者はそれからすぐに、トリセルディの心無いひとことでさらに機嫌を悪くすることになる。
「やっぱりいいな、共学は。こうして綺麗なねーちゃんに学校の案内をしてもらえるんだからな……」
錯誤があった。
トリセルディにとってはその錯誤は些末なものであったが、バアドクレアにとってはゆゆしき大問題であった。
――ねーちゃん?
バアドクレアは耳を疑った。
――ねーちゃん?
それが自分のことだとバアドクレアが分かるまでにしばらく時間がかかった。
「ねーちゃん?」
金髪の若者呟いた。一方、がさつ野郎のほうは平気な顔をして頷いた。
「ああ。ねーちゃんだ」
「僕は……僕は男だ」
金髪の青年はぷっとそっぽを向いて吐くように言った。黒い髪の若者は惑乱した様子で、隣を行くバアドクレアの横顔を覗いている。
「はあ?」
「だから、僕は男だ」
金髪の青年はいよいよ機嫌を悪くした。
「おまえ、男なの?」
「男だよ。男」
――男で悪いのか?
金髪の若者の声には憤りがあったが、そういうその声は男性のものというよりは、女性のものに近かった。
「?」
黒髪のトリセルディはいたく納得がいかない様子であるが、ガラガラ蛇の威嚇のように声を荒らげるバアドクレアの気迫に押されて、
「そうか、男……男なのか?」
と、ぶつぶつ呟いている。がさつなエラート氏は実はまだ得心がいっていないようである。
「……そうか、男?ああ、男……そいつは悪かったな。いや、すまん、男だとは思わなかったんだ。許してくれ」
トリセルディは詐欺にあったような顔つきのまま一応の謝罪をする。
「……」
バアドクレアは沈黙する。性別に関する錯誤ですぐに謝罪がなされることは、金髪の若者の経験上極めて珍しいことであった。
――仕方が無いか。
そこで若者のほうは機嫌を直しはしなかったけれど、怒りの矛を納めた。相手は何も知らないのだ。何も――。
秋の低い太陽に照らされて、二人の学生の影が枯れ葉の上に長く伸びる。
トリセルディは遠慮をしたのか口を閉ざした――そして、バアドクレアのほうは、自分が大人げない人物と見られたのではないか、心の狭い人物だと謗られるのではないかなどといろいろと些細なことを考えはじめている。
金髪の若者は律義であり、繊細であり、これは裏を返せば気が小さい小心者ということでもあった。自分のように細かいことをいちいち気にするような人物は真の男とは言えないのではないか。バアドクレアはそのように思って口を開いた。
「……君は、どこから来たんだ?」
「ああ、俺?」
若者は言った。
「王立機士学校だが……」
どうもエラート氏は何も考えていなかったようである。ただ、ぼーっとしていただけ。当然、バアドクレアの些末さなど実は最初から気にもしていなかったのの違いない。一方バアドクレアはトリセルディの発言に素っ頓狂に叫んだ。
「王立機士学校?」
機士学校の最高峰。
試験を受けて入学できるものは十五人に一人いるかいないか。文字通りの難関中の難関である。実はバアドクレアも最初は王立機士学校への入学を希望していたのだ。素晴らしい施設と教師陣、出世の王道とも言うべき王国最高の学府。金髪の若者は知識と知恵の面では十分にこの最高学府に入学ことができたはずであった。それを果たせなかったのはひとえにバアドクレアの身体的なハンデによるもので……。
「き、君は王立機士学校にいたのか?」
「何なんだよ、急にでけー声出して。びっくりするじゃねーか」
きんきんと響く女性の声に、トリセルディは驚いている。
「だから、君は王立……」
「ああ、いたよ。四日でクビになっちまったけれどな」
「四日でクビ……」
「ニールスの地方校から転入したのが、五日前。それで昨日にはクビにされちまったんだよ」
トリセルディも驚いているが、バアドクレアはもっと驚いている。いや、慌てているのだ。自分でも入学できなかった学校に、目の前のがさつ者が編入などできるのか?
――そんな馬鹿な!
バアドクレアは相手を侮っており、そこで事実を事実として受け入れられない。
「ど、どうしてまた……」
金髪の若者の声は我が事のように震えている。
「夜中に寮を抜け出して、酒呑んだりしてたからなあ。どうもそいつがまずかったらしいんだよ」
トリセルディはぼんやりとした調子で言い、聞いている金髪の若者は体が震えている。
――飲酒……飲酒なんかで……。
バアドクレアが得ることのできなかった特権をこの馬鹿者ときたら飲酒で棒に振ったというのだ!しかも、この頓馬、とんでもない不始末をしておきながらさして悔いもしなければ恥もしない。
「かたいこと言いやがって。なあ。酒ぐらい良いじゃねーかよ」
トリセルディはバアドクレアに同意を求めたが、金髪の若者を絶対に同意しない。
「……四日でクビ。王立機士学校を。それも飲酒で」
バアドクレアは苦い薬を呑むようにして呟いた。
「どうかしたのか?」
「君は……君のお父上やお母上は何も言わなかったのか?君がそんなふうに出鱈目なことをやって……」
金髪の青年が急にそしてまたも機嫌を損ねたことに、トリセルディは驚いたようである。金髪の青年がトリセルディを馬鹿と認めたように、黒い髪の青年のほうはバアドクレアのことをひどい気分屋と思ったのではないか。
「おやじとおふくろ?なんで?」
「な、なんでって、学校を辞めさせられちゃったんだよ!」
バアドクレアは自分の家のことを考えている。もしもバアドクレアが放校処分になったら母親は何と言うだろう。父親はどんな顔をするだろう。金髪の若者は人の話を聞いているだけで恐ろしくて肝が潰れそうである。
「まあ、そうだけれどよ」
いくらやっても話がかみ合わない。
バアドクレアは夢の中で走っているようないらいら感を募らせている。穏やかな若者がそのように焦れることは珍しいことであった。一方、トリセルディのほうはのんきな性格なのか全く気にしていない。
「しようがねえしな。どうしても辞めさせたいって向こうは言うんだし。こっちがどういってもやりようがねえだろう」
「……」
黒い瞳の若者は楽しそうに笑った。
「それによ、俺は、もともとこっちの学校のほうが良いと思ってたんだよ。良い女もいるしな。王立機士学校も女子生徒を入れれば良いのによ。そうすりゃあ俺だって、夜中に寮を抜け出すこともなかったんだ」
自分の罪は棚に上げて、学校を非難。この馬鹿者いったいどういう了見をしているのか。
「……君は本当にどうしようもないね」
「そうか?」
本当に不思議そうに言うトリセルディにバアドクレアはため息をついた。
――こんなのと同じ寮に……。
青年はすっかり憂鬱になってしまった。
歴史の講義の後、語学、次は地理。
その日の授業は全て教養科目であった。飛行訓練や整備といった実習授業は無し――。
新入りに学内をざっと見せて回ったバアドクレアはすぐに授業に合流したものである。
――なあ、遊びに行かないか?うまいエビまんじゅうを食わせてくれる店を見つけたんだ。
トリセルディのほうは授業に出たいという意志はそれほどないようで、バアドクレアをそのように誘ったが、金髪の青年はそのような誘いを全力ではねつけた。
――授業があるだろ。君もでなければ駄目だよ。
バアドクレアはそう言って、全く乗り気のしていない新入りをむりやりに講義室に連行したものである。黒い髪をした奇妙な青年はちょっと人が良いところがあるのか、おせっかいなバアドクレアに特に何も言わなかった。もっとも、トリセルディが真面目な顔をしているのも講義が始まった後、最初の数分だけであった。黒い髪の若者はすぐに授業に飽きてしまい、居眠りを始めてることになったものである。バアドクレアは新入りを管理監督する資格などなかったけれど、新入りが眠りそうになると、そのわき腹をひじで突いてわざわざ叩き起こしてやった。
金髪の青年はとても真面目であり、潔癖症であり、そして若者自身がそのような自分の生き方を好ましいものと考えて疑っていないのだ。
――人間は、法律を遵守し、自分の責務を全うし、勉学に励まなければならない!
バアドクレアは穏やかな顔はしているが、教条主義者のきらいがあった。
真面目も過ぎれば良い迷惑の余計なお世話になるということなど考えもしない。
一方のトリセルディのほうはといえば、こちらは横暴な先輩に抗議するわけでもなければ、反抗するわけでもない。ちょっとイラつき気味のバアドクレアに黙って従うばかりである。
バアドクレアは新入りのことを非常識と感じていたが、恐らくは黒髪の野人の方にも言い分はあったはずである。
かくして船を漕いでは横やりを入れ、横やりを入れてはまた船を漕ぐという授業初日が終わり――。
講義が終わると級友達がトリセルディのまわりに集まってくることになった。
一番最初にやって来たのはエルマであった。男性陣が女性に興味を持っているように、実は女性のほうも男性に関心があるのだ。学内の生徒達は十六から十八歳ぐらいまで。異性がものすごく気になり出す時期でもある。
「あたしはエルマ。エルマリィン。姓はデルカロッツァだ」
猫科の獣のような雰囲気を持つこの女生徒はざっくばらんで、非常に男性的な人物であった。身長のほうはそれほど無いが、剣の腕も立てば飛竜の扱いもうまい。地方の農場の娘ということで平民の出身であったがバアドクレアはこの女子生徒と仲が良かった。
「俺はトリセルディだ。トリセルディ・エラート。よろしくな」
キスではなく握手をかわすトリセルディとエルマを見ながら、バアドクレアは、二人の波長がよく似ていることに気がついた。細かいことにはこだわらず、困ったことは笑い飛ばしてしまう。たくましいと言えば言葉がいいが、デリカシーが無いということもできる。と、トリセルディとエルマの会話を聞いていた情報通のファーラが文字通りすっとんできた。
「いったいどこから来たの?」
ブン屋娘は学内で個人新聞を発行しており、どんなささいな事件にでも首を突っ込んでくるのだ。そして真実を追求する熱意でもって他人の秘密を根掘り葉掘りに詮索する。それだけではない。不完全な事実の切れ端を自分の好きなように勝手につなぎあわせ、足りない部分は想像力を十分に活用して『真相』を構築してしまうのだ。こういうことは世間一般ではでっちあげと言うのだが、ファーラ自身はそのような謗りをまったく気にしなかった。他人のプライバシーなどというものを考慮することもない。ファーラ自身が、
――こいつは良い、こいつは特ダネ!
と、認定した段階で、そのネタは事実として活字になり、学内のあちこちに張り出されることになる。まわりにとってはこれほど迷惑なことはない。
かかる迷惑女が新奇な出会いに飛びつかないことがあるだろうか?ありえないことである。
「私はファーラ・グイドバルドよ」
ヘイゼルの髪を持つ迷惑女はそう言って自己紹介をした。黙って何もしなければこの娘もそれほど不器量というわけではなかったから、もっと男子生徒からもてるはずてあった。だが男子生徒達のほうはあることないこと書かれるのが恐ろしくてファーラに近寄ろうとしない。
――学内最凶の変態男。
などとファーラ新聞に書かれでもしたら、学内におられなくなるだろう。
「トガンの出身よ。実家は両替商をしているわ」
情報通は歯切れ良く言うと、左手を差し出した。何故右手ではないのか?右手にはメモを取るペンが握られているからである。
「トガンか」
トリセルディは言った。バアドクレアは自分の横で笑っている大柄な青年の横顔を眺めるとはなしに眺めている。
「来たことある?」
「いや。ねーな。聞いたことしかない。商業都市だろう」
トリセルディの言葉にファーラは続ける。
「あなた、生まれはどこ?」
ブン屋娘の調査はすでに開始されているようである。
「ニールスだ」
「ニールス。随分と南ね、殆ど国境じゃない」
ファーラは目を輝かせている。国境の街ニールス。南方の大国クレティアとの紛争の最前線である。ニールス市街中央にそびえるアミラーノ要塞には常時千を越える機士が詰めていると聞く。
「まあな」
トリセルディは自分の故郷についてそれほど思い入れが無いようである。
「ね、どんなところなの?」
ファーラは取材体勢である。
「どんなところって、要塞の街さ。別に面白いことはねえよ。クレティアの機士が時々攻めてきて、取ったり取られたりをしている。それだけさ」
黒い髪をした田舎者は感慨の無いままに言った。ファーラはメモを取るのに忙しい。その間隙を縫うようにして今度は小柄なシエルが口を開いた。
「僕はシエル。シエル・アリスティア」
小柄な少年はにこやかに笑った。
「トリセルディだ。よろしくな」
若者は改めて言った。
「斧を……斧を使っているんだね」
シエルはトリセルディの持ち物に興味があるようだった。黒鉄でできた大斧。黒光りする鉄斧はトリセルディの脇に机に立てかけるようにして無造作に置かれている。機士学校の生徒達は学校に上がるときにたいてい二つのものを揃えてくる。一つが制服であり、もう一つは剣である。実際の機士は戦士であり、兵士である。もっとも彼らが戦うのは飛竜を駆っての空中戦であり、機神と呼ばれる兵器を使っての戦闘である。大型の兵器での戦闘こそが機士の本分であり、白刃を振るって肉弾戦を戦うというようなことはほとんど稀である。機士学校では剣技の講義もあるのだが、そうであったとしても機士にとっての剣はほとんど象徴となり果てている。学校の機士見習いの中には常に剣を携行するならず者もいるが、そのような例は稀であった。バアドクレアも故郷を出るときに両親に持たせて貰った剣を帯びるのは儀礼の時だけである。
「ああ?ああ、これか……」
トリセルディは軽々と斧を握った。彼のように実用性一辺倒の大斧を携えているものは機士学校にはいない。
「剣は持っていないの?」
シエルは訊ねた。
「ああ。ずっと前からこれを使っているんだ。斧のほうがいろいろな場面で使えるから。剣じゃ立ち木は倒せないだろう」
華奢な少年はなるほどとうなずいた。細身の飾り剣では教室の戸板をたたきやぶることさえできないだろう。
「飛竜に乗った時にも、斧のほうが役に立つことが多いからな」
トリセルディは言った。彼の口ぶりはベテランのそれであった。エルマがつられるようにして口を挟んだ。
「へええ、飛竜、乗れるんだ」
「まあな」
田舎者は適当に言った。飛竜。ドレイク。スフィアーと呼ばれる世界で発展した兵器である。
セラミックでできた骨格にゲルと呼ばれる流動物質を吸着させた機械。
翼を展開した姿は竜、ドレイクであり、翼を畳み地上に下りれば二足歩行の人の形、つまり機神、パンツァードールと呼ばれる。
バアドクレアが暮らす王国ステアネーゼを含むスフィアー諸国家はこの飛竜を駆って常に覇権を競っている。機士、ドール達の職責とはこの生物兵器を操縦することであり、機士学校が教えるものも基本的にはその操縦術に他ならない。
「なあ、どれぐらい乗れるんだ?」
エルマは挑戦するように言った。
猫系の元気娘は学内で最高の飛竜乗りを目指すと公言していた。そのようなものを目指すことに実際的には意味は無かったが、これはつまり憧れというものであった。少年が力に単純にあこがれるのと同じの理屈でエルマは飛竜、ドレイクに、そして機士、パンツァーグラディエに心惹かれている。実際、エルマの操縦技術は非常に優れていた。
「どれぐらいって言われてもなあ。まあ、そのうち実技の時にでも見せてやるよ」
トリセルディはのんびりと言った。
「実技の時間は……いつだ?」
黒い髪の青年は呟いた。それにエルマが応じる。
「明後日だ」
「そうか、じゃあ、明後日にでも、な」
トリセルディはあいまいにうなずいた。彼自身は実はそれほど飛竜には興味がないようであったが、エルマのほうは新入りの実力に興味津々といった具合である。そしてトリセルディに興味があるのは、エルマだけではなかった。
生徒達が話をしている講義室の扉が開き、不意に男子生徒が五、六人ばかり入って来るのがバアドクレアにも見えた。
――あれは……。
金髪の若者は、やって来た連中の顔を見ただけで、トラブルが起こるだろうことを覚悟した。部屋に入ってきたたのは一〇六期生、つまりはバアドクレア達の一つ上の上級生であったのだ。
――コーツ。イリオ・コーツだ……。
バアドクレアは乱入してきた上級生の先頭に立つ妙に色白な男子生徒の顔と名前を心の中で直ちに一致させた。忘れようと思って忘れられる相手ではない。
――高貴極まる貴族の出身。
コーツは自分のことをそのように喧伝していばりちらす実に不愉快な男であった。
常に徒党を組み、弱い者を見れば絡んでくる嫌な人間であったが、相手が自分よりも大きな家の出身の場合には決して攻撃をしてくることはない。要するところ苛める相手を選ぶ卑劣漢なのだ。
バアドクレアも何度かその容姿と身体的な特徴を突かれて不愉快な思いをしている。その愚劣漢が早くも新入りに目をつけたのだ。
「どけ、ばか、どけ」
上級生達は金の装飾の美しい剣をガチャガチャ言わせて下級生を追い散らした。
カペルヴィアストルには剣技の授業があり、特に貴族の子弟は剣を持っているものも少なくない。だが、イリオ・コーツ達愚連隊のように何処に行くにも必ず腰に剣をぶらさげ、飾りの多い自分達の剣を貴族の誇って自慢するような人間は稀であった。それはともかく――。頭も悪ければ程度も悪い男子生徒達はそのままトリセルディとバアドクレアのほうにまっすぐに歩いてくる。一、ニ、三……全部で六人のヘクサ小隊である。
「貴様か、新入りは」
コーツはトリセルディの前までやってくるとずばりと聞いた。黒い髪をした新米は急にやって来た態度の大きな連中にうなずいた。
「名前は?」
コーツの後ろにいる男子生徒の一人がきわめて横柄にトリセルディに訊ねた。
黒い髪の新米は相手がどういう手合いであるのか理解しているのだろうか?隣にいるバアドクレアは疑問であった。新入りの若者は性格的に鈍いのか、いつでもどこかぼんやりしたような表情をしているのだ。まわりには、彼が分かっているのだか分かっていないのだか判断できないところがある。
「名乗らなければ駄目なのか?」
「……」
新入りの思いもよらない態度に、闖入者達は顔を強ばらせた。まさかそのような反応があるとは上級生達は思っていなかったのだ。
――こいつはちょっと痛い目にあわせてやらなければならない。
上級生達の視線が交錯する。と、ファーラが笑顔で割って入った。
「まあまあ、先輩もそうカリカリなさらず、ねえ……」
ファーラは弁舌で巧みにその場を丸く治めようとしたのだが、そのような努力はすぐに水の泡となってはじけて消えた。
「金貸しの娘め、おまえは黙っていろ!」
コーツの後ろに控えていた男子生徒はファーラを押し飛ばす。思わぬ手荒な扱いにファーラはその場に尻餅をついた。ちなみに彼女の実家は両替商であって金貸しという誹謗は必ずしも的を射たものではない。
「い、いてて……」
尻を打ちつけたブン屋娘はしばらく立ち上がることができないでいる。
取材に危険はつきものではあるが、この時のファーラの行為は紛争の仲裁であってネタの収集ではなかったのだ。一方、血筋的に優れている(と、本人達は信じている)連中のほうは自分にまとわりついた蟻の一匹の末路など気にもしない。と。渦中にあったトリセルディがぼーっとした表情のまま立ち上がり、そのまま床に転がっているファーラのことを助け起こした。
「大丈夫か?」
「まあ、何とか……」
ファーラは言った。もしかしたらブン屋娘は照れていたのかもしれない。そして完全に黙殺された愚連隊は大いに腹を立てている。
「名乗らなければ駄目かだと?」
イリオ・コーツは憎々しげに唇を歪めたが、挑発を受け続ける黒い髪の若者は愚連隊の存在そのものを気に留めていない。
「田舎者め、貴様、自分の立場が判っていないな!」
なまっちろい御貴族様が叫び、トリセルディは渦中からファーラを押し出して言った。
「ねーちゃん、ちょっとの間、向こうに行ってな」
「ああ、う、うん……」
語りかけられたファーラはなんとない照れ笑いを作り、そしてトリセルディのほうは重々しい足取りで貴族達の前に一歩を踏み出した。
両者激突の予感があった。
「エ、エラート君……」
バアドクレアは校長から預かったばかり友人に諫めるようにして囁いた。
だがトリセルディは諫言を笑って黙殺した。
「なんだ、貴様……」
自分のほうに恐れるような様子もなく踏み出してきた下級生にコーツは硬い口調で言った。黒い髪の青年は背が高く体格に優れており、そのことは立ち上がって一歩を前に出たことで余計に際立つことになったものである。
どっしりとした存在感のある新参者に、威張るだけが能の馬鹿息子達も怯んでいる。そしてその怯みが彼らにより高圧的な態度を取らせる結果となった。
「度胸だけは褒めてやる……」
状況は最悪も最悪であった。
バアドクレアにしてみれば上級生達ともめ事を起こしたくない。相手は数が多いし、目をつけられるのは避けたいのだ。けれど、その一方で黒い髪の馬鹿者の事を放って逃げるというわけにもいかない。校長にもあとで何か言われるかもしれない。
――も、もうしかたが無い……。
バアドクレアは覚悟を決めると上級生達と物騒な若者の間に入った。ファーラの仲裁が失敗した後であり、バアドクレアがその場を丸く収めることができるという保証はまったくなかったが、それでもやるしかなかった。
「コーツ先輩、エラート君は、今日、初めてカペルヴィアストルに来たばかりなんです。それで、まだ学内の事が判らなくて……」
コーツ家はバアドクレアのアスペンブロウ家よりも格が上になる。学内では格式を問われないことになっているが、それでもバアドクレアは上級生への異見にやり辛さを感じている。
「よく言って聞かせますから、今日のところは……」
「これは学内のことにあらず。人間のマナーの問題であり、道理の問題だ」
コーツの後ろの控える愚連隊の一人がいかにも訳知り顔で言った。彼らのマナーとはすなわち、自分達を崇め讃えよということであろう。
「で、でも、それは……」
バアドクレアはやはりというか説得に失敗し、それどころか帰って事態を混乱させることとなった。イリオ・コーツが笑った。何か愚劣な事を思いついたようである。
「……そうか、アスペンブロウ、貴様がそいつのお守りというわけか」
蛇のように陰湿な上級生は続ける。
「ならばこいつの過失は貴様の過失であるというわけだ」
コーツは嫌味に笑った。
――その理屈はあまりにも理不尽ではないのか?
その場にいた騎士見習い達のほぼ全員がそのように思ったはずである。だが、イリオ・コーツは自分の横暴さを気にしていない。つまるところこの矮小な人物は他人が嫌な思いをすればそれで幸福なのだろう。コーツは続けて言った。
「それならば、新米教育に落ち度のあった貴様に責任を取って貰うというのもいいかもしれないな」
上級生達はにやにやと笑っている。彼らは潔癖で優等生のアスペンブロウ家次期当主のことを前々から煙たく思っていたのだろう。バアドクレアは困ってしまっている。無理難題を押しつけられることは疑うべくもない。そして、実際に、コーツによる制裁はバアドクレアが聞いて吃驚してしまうものであった。
「アスペンブロウ、貴様、いつも自分が男であると言い張っているが、どうも、俺達にはそれが信じられない」
「いや、でも……」
バアドクレアは慌てている。まさかそのような因縁をつけられるとは思っていなかったのだ。
「そこで、だ。今、ここで、おまえが男であることを見せてくれれば、そいつの落ち度については見逃してやってもいい」
「男であることを見せる?」
バアドクレアはおうむ返しに聞き返した。物分かりの悪い後輩に下品な上級生の一人が言った。
「べルト外してタマを見せてみろって言ってるんだ」
バアドクレアは顔を硬く強ばらせた。
怒りもあるが、驚いてどうして良いか判らなくなくなってしまったのだ。講義室に静寂が訪れ、金髪の若者は自分の爪先に視線を落とした。
――そ、そんなこと言われたって……。
金髪の若者は本当に困ってしまっている。男であることを証明する。できることならば本人がしたい。けれど、それはできないのだ。なんとなれば……。
どうして良いか判らなくて立ち往生しているバアドクレアの肩を黒い髪の若者が脇に押したのはその時のことであった。
「……トリセルディ・エラートだ」
黒い髪の若者は上級生を見下ろすようにして言った。
「俺の名前が聞きたかったんだろう。何に使うのかは知らねえけれど、悪戯に使うのだけはやめてくれよな」
「エ、エラート君……」
バアドクレアは慌てて制止した。だが野人は穏やかに笑っただけであった。一方、集団を頼りに威張り散らすダニ共はトリセルディの出座に内心でほくそえんでいるのに違いない。
「……エラート?エラートだと?はあ?」
上級生の一人がいかにもわざとらしく、仲間の耳に訊ねて聞いた。コーツ達は数で完全に優位に立っており、だから自分達がこてんぱんに叩きのめされて大恥をかくような事態は最初から想定いないようである。イリオ・コーツが仲間の意地の悪い問に応じる。
「エラート?知らんな、そんな家。おい、誰か、聞いたことある奴いるか?」
コーツは歯を見せて笑い、仲間達は口々に騒いで言った。
「さあな。聞いたこと無いぜ。少なくとも貴族鑑には載ってないな、そういう下賎な一族の名前は」
「おおかたどこぞの食いつめ者だろう!」
イリオ・コーツとその一派は揃いも揃って親のすねをかじる穀潰しの癖に自分達の家柄を異常なまでに誇って威張り散らすのだ。もっとも、コーツ達にとっては痛いところであるのだが、彼らの生まれた家が名家中の名家かというと、そういうわけでもないのだ。
――せいぜいいいところが中の中。お情けで中の上。上の下まではいかない。
コーツ家もそうだし、他の連中の家もその程度である。彼らがことさらに自分の血筋を誇るのも結局はそのためであろう。だいたい言わなくても分かって貰える名家は本人が努めて喧伝する必要などない。
「やれやれ要するに卑賤の輩というわけか!」
コーツはまるで指揮者のようにして仲間を煽りたて。その言葉に上級生達が息を合わせて新参者を嘲り笑った。
「どうした、何も言えないのか?」
上級生達は嫌味に笑った。そしてトリセルディはすまし顔で応えた。
「……何かをコメントしなけりゃならないような場面じゃねえだろ?」
「……」
トリセルディは上級生をからかっているわけではないのだろうが、そうとられてもおかしくない状況であった。
――なんだこの小生意気な後輩は。
上級生達は愚弄するはずが愚弄されて大いに腹を立てたようである。だが、彼らが行動を起こすよりも体格の優れた若者が穏やかに口を開くほうが早かった。
「エラートは何処の馬の骨ともしれない下賤だ。そいつはその通り。けれど、だったらなんだというんだ?おまえらには損もなければ得もない。そうじゃないか?」
トリセルディは堂々としている。
――俺が何者であろうとおまえらには関係ない。
まったくもってその通りの正論である。正論家はさらに臆することなく続ける。
「下賎下賎とおまえらは言うけれど、俺達は自分より力の弱い者に手を上げたり、むやみやたらと自分の出自を誇ったりはしないぜ」
トリセルディはさらに続ける。
「だいたいおまえらの言う肩書きや家柄って奴にいったいどれほどの意味がある?空ではそんなものは何の役にも立たない。飾りにすらならないぜ」
野人は血の巡りの悪い上級生のことを哀れんでいるようにも見える。
「そんな何の役にも立たないものを後生大事に抱えていったいどうしようっていうんだ?」
若者は堂々と反論をした。
両者はどこまで行っても平行線。衝突は不可避である。決然とした新参者の発言に上級生達も一瞬だけ言葉を詰まらせてしまった。だからといって彼らがそのまますごすごと若者の言を受け入れるわけもない。むしろ、面目を潰したということでイリオ・コーツと不愉快な仲間達は態度を硬化させている。
「……良い度胸だ、新入り。ちょっとかわいがってやらないとな」
上級生の一人が憎々しげに呻いた。
売り言葉に買い言葉。上級生は自らの権威を護持するためにも断固とした態度を取る必要に迫られていた。どちらにか非が有るかは明かなのだが、上級生には余裕が全く無い。
一方のトリセルディは相変わらずおっとりしている。
「そいつを……そいつを決闘の申し込みと受け取ってかまわねえな?」
トリセルディはしれっとしている。講義室は水を打ったように静まった。
――決闘!
周りを取り囲む機士見習い達は顔を見合わせた。
――決闘だって!
新参者の確認にコーツ達のほうは苦い顔をしている。
思いもよらぬこと。事態が少し過激に動きすぎている。
上級生達には、命のやりとりをするところまで事を荒立てるつもりなどな最初からなかったのだ。荒立てるつもりがない、というよりも、そこまで波風が立つほわけがないという上級生達は安易に確信していたのだ。
上級(これは本人談)貴族である自分達に真っ向から刃向かう馬鹿がどこにいる?広大な(本人談)封領を持ち、絶大な(これもまた本人談)権力を誇る父親を持つ(この父親という部分はなるべく小さな声で談)自分達に逆らう馬鹿者などいるわけがない。現にこれまでに彼らの横車が通らなかった時などなかったではないか!
黒い髪の新参者も名声と頭数を誇って脅してやれば間違いなく縮み上がり、結果、貴族達の自尊心が大いに満足する――。そうなるに違いない!イリオ・コーツ達はそのようなシナリオを信じて疑わなかったのである。
だが――。
転入生のほうは挑発を恐れず、多数を向こうにたった一人で敢然と反抗をしてきた。それも刃物で雌雄(と、おそらくは生死を)を決しようという徹底抗戦である。
下級生達の厳しい視線もあってコーツ達も今更引っ込みがつくはずもない。まさに薮蛇。シナリオを超えて暴走する事態に一番困っているのは上級生達であっただろう。
「決闘をしたいんだろう?違うのか?」
エラートの青年はぼんやりと血生臭いことを言った。
コーツ達はトリセルディの問いにはっきりと『そうだ決闘を望んでいる』とは言わなかった。しかしながらこの場合は『いいえ、違います。決闘はしたくありません』と正確に否定をしない限りは『是』と言っているのと同じであった。
ちなみに――決闘はカペルヴィアストルの学校則で違反となっていたし、またステアネーゼの国法でも重罰を課せられる犯罪として規定されている。未遂罪であれば最低でも五年の懲役、相手を死亡させればその時点で死刑は確定である。国の法律を無視して自分の腕力で正義を実行することは国家に対する挑戦とみなされる。当然、罰も重くなる。
「よし、良いだろう。その決闘、受けよう!」
トリセルディは単純明快に応諾すると傍らにあった大斧を取りあげた。
人間の頭など簡単に斬り飛ばすことのできる凶器。上級生達も黒鉄の冷めた輝きにわずかに怯んでいる。だが。ことここに至っては、勝負をしないわけにはいかないのだ。挑発をしたのは上級生のほうであり、挑発の結果を彼らは甘んじて受けなければならない。
「エラート君……」
バアドクレアはどうして良いか分からず、そこでとりあえず転入生の名前を呼んだ。
――こ、こんなことになるなんて……。
校長から『頼む』といわれたその初日にこのような大事件が起きるなどとバアドクレアは思ってもみなかったことである。けれど一方でバアドクレアは、上級生がファーラを突き飛ばしたり、バアドクレアに服を脱ぐような非礼を働かなければ新参の若者が立ち上がることなどなかっただろうとも認識している。
――ど、どうしよう……。
律義なバアドクレアはちょっと気の弱いところがある。そんな寮友の視線を横顔に浴びながらトリセルディは言った。
「心配すんな。俺が負けるわけがねえだろう!」
黒髪の若者は大鉄斧を軽々と抱えると講義室を出ていく。その後を上級生達がひとまとまりになって追い掛ける。バアドクレア達下級生は上級生のさらにその後ろからおずおずと着いていく。
一対六の決闘戦。
カペルヴィアストル機士学校始まって以来の大騒動である。だが先頭を行くトリセルディときたらまるでトイレに小用を足しにでも行くような風情なのだ。
「喧嘩慣れしてるね……」
華奢なシエルはバアドクレアの耳に囁いたが、それを聞く金髪の若者は気が気でない。
このような大事件に自分は何かをしなければならないのではないか?何か手を打って、事態を収拾するべきではないのか?バアドクレアにトリセルディの事を学校長から任されており、新入りを任されたからにはバアドクレアにも責任があるのではないか?しかも、騒動の遠因の一つにバアドクレアの『性別』が絡んでいる。金髪の若者にも本当に僅かだけれど責任の一端があるのだ。
――ど、どうしよう、どうしよう……。
生真面目で潔癖なバアドクレアはもうどうして良いか分からないで、可哀相なぐらいにおろおろしている。
そして慌てているバアドクレアをよそに、転入生は廊下を行き、階段を下り、噴水の脇を通ってどんどん歩いていくのだ。
そして。結局バアドクレアが何もできないまま、大勢のギャラリーを引き連れた黒髪の若者が脚を止めた。そこは寒風の吹きつける寮の裏庭であった。
「よし、ここらで良いだろう」
トリセルディは言った。そこは先ほどバアドクレアが、
――ゴミ捨て場はここをまっすぐ行った所だよ。
と、新入りに教えたばかりの場所であった。
「こんなことのために案内をしたわけじゃないのに……」
金髪の青年は顔色が悪いが、転入生はもちろん知らん顔である。
「ギャラリーもいることだし、さっさと始めよう。誰から来る?」
トリセルディは落ち着いている。
「いつでもいいぜ。かかってきな!」
野人の呼びかけに上級生達は動きが鈍い。実は、貴族の子弟達は真剣で戦ったことが無く、そこで内心では浮き足立っている。下級生の手前、平静を必死に装ってはいるが、メッキがはがれるのも時間の問題であった。そしてトリセルディのほうはといえばこちらは恐らく自分が対峙している連中の実力をすでに把握しているのだろう、そこで畳み込むようにして機械的にどんどん話を先に進めていく。
「ああ、そうだな、そういえば立会人がいるな。決闘だもんな……立会人はそうだ、バアドクレア、おまえがやれ」
トリセルディは簡単に言った。指名を受ける人間の気持ちなどお構い無しである。
「い、嫌だよ、立会人なんて……」
金髪の若者は顔を背けて小声で返答する。その様子は女性のそれであった。
「そ、そんなものゃったことないし……」
とんでもない話。バアドクレアは完全に気後れしている。そこに歓声があった。
「あ、じゃあ、あたしやるっ!あたし立ち会い人やるッ!」
バアドクレアが辞退し、宙に浮いた立会人に立候補したのは女性のエルマであった。地方の豪農の出身であるエルマは物理的に大きな胸を持ちながら、それと反比例するようにして極めて男性的な思考の持ち主であった。
冒険や名誉、男らしさ、力――
そのような言葉にこの豊かなバストの持ち主はひどく敏感に反応するのだ。決闘?望む所ではないか!立会人など一生のうちにそう何度も経験出来るものではない。だが。ここで名誉有る汚れ役を一度は断ったバアドクレアが意を翻した。
――僕は校長先生からトリセルディを頼まれている。しかも僕は『男』じゃないか。
妙な責任感と『男』であるという自負。バアドクレアは誰に頼まれたわけでもないのに決戦場に一歩を踏み出した。恐らくバアドクレアはエルマが勇んで立候補しなければ、かかる決断をしなかっただろう。そう考えればエルマリィン・デルカロッツァこそはバアドクレアにとっては余計なことをしてくれるトラブルメーカーであったろう。
「いや、やっぱり僕がやるよ……」
バアドクレアの顔色はどこまでも冴えないままである。
「けれど……けれど、立会人っていつてもいったい何をすれば良いの?」
ルームメイトの言葉に、トリセルディは笑った。
「立ってりゃいいんだよ。何、すぐに終わるさ」
黒い髪の青年はそう言うと、寒くなってきた日陰の裏庭に腰を落ち着けるようにして立った。
はっきりさせておくべきだろう。トリセルディはこの決闘騒ぎを明らかに楽しんでいる!一方の上級生達は、六人が固まるようにして新入りと対峙している。バアドクレアも顔色が冴えないが、上級生達の顔はさらに硬く強ばっている。ファーラに言われば、程度の悪い愚連隊は、まるで寒空に震えているようにも見え――そして実際、彼らは震えていたのだろう。繰り返しになるが上級生達は真剣でもって実戦を戦うことは初めてなのだ。剣を取る若者達が実は一番自分達の非力を知り、さらに言えば、決闘の結果見るだろう結末についても知っている。
親のコネと金で実刑は免れられるだろう。恐らくは。そして、こちらは恐らくではなく、確実に貴族としての経歴に大きな汚点が残ることになる。決闘で命を落とさなければという但し書きつきであるが……。
「よし、やろうか。観客をあんまり待たせるもんじゃない。そうだろう?」
トリセルディは鉄斧を二度ほど振るって笑った。
「人間には三種類。言わなくても判る奴。言えば判る奴。最後が言っても判らない奴。言っても判らない奴にはどうすればいいか。答えは簡単だ」
青年はその答えを示そうとしていた。
「バアドクレア合図してくれ。それで始めることにしよう」
黒い髪の青年の言葉にバアドクレアはうなずき、上級生達の中から半ばしかたなくといった具合にリーダーのイリオ・コーツが押し出される。機士学校の講義には剣技も含まれており、真面目に三年間授業を受けていれば形だけはそれなりのものになるはずであった。少なくともそのようなカリキュラムとなっている。けれど『形になる』のと『強剣の使い手になる』ということはイコールではない。
――授業と実戦は別物。
であるのだ。
「……」
イリオ・コーツは沈黙したままご自慢の剣を抜き、切っ先を生意気な新参者に向ける。愚連隊の隊長はもはや相手を罵る心の余裕もなくなったと見える。
――始まる。
エルマは花火が爆発する一瞬前の緊張に両手を握り締め、シエルは奥歯を硬く噛みしめる。
イリオ・コーツは貴族のたしなみとして幼少の頃から剣に触れているのであろう。確かに『構え』だけは綺麗である。一方、トリセルディの武器は斧であり、これは機士学校の生徒達には馴染みのない武器であった。腰を落とし切っ先を相手の喉に正確に向けるコーツに対して、トリセルディは斧を握ってただぼんやりと突っ立っているだけのようにも見える。
――どちらが強いのか?
ギャラリーには決闘に挑む闘士達の優劣が今一歩判然としない。
「それでは……」
バアドクレアは本当に『始め』と言っていいものか最後の一瞬まで迷ったあげくに言った。
「始め!」
もう、どうなっても知らない。知るもんかっ!金髪の若者は破れかぶれであった。そして……。
コーツが動いた。
斬り合いに不慣れな貴族は完全に頭に血が上っていたようである。凝った意匠に飾られた細身の剣が暮れかけた空に銀色の閃光となってトリセルディを切り裂いた――。いや、切り裂いたように見えただけであった。
がちりっ。
黒い髪の青年は斧の刃でコーツの一撃を受け止めていた。息を飲む観客からはしわぶきの声一つ聞こえない。
――これは……。
バアドクレアの目を見張っている。
――これはすごい……。
トリセルディは場数を踏んでいるのだろう。学校の中で威張るだけ、温室育ちのぼんぼんにはとても太刀打ちできる相手ではない。素人で学生達でさえ、最初の一太刀を見ただけで実力の違いを認識している。
――前線では肩書は関係ない……。
バアドクレアは転入生の言葉を思い出している。確かに戦場では肩書きは関係ない。強いものが生き、弱いものが死ぬのだ。
「はあ、はあ、はあ……」
イリオ・コーツの額からどっと汗が噴出している。愚連隊の親分は命のやり取りに全く余裕が無い。
ぎりっ、ぎりりっ……。
剣と斧。鉄の軋み音が裏庭に響く。
と、凶器と凶器で押し合いをし、鍔競り合いを演じていた両者に再び動きがあった。先に動いたのはトリセルディであった。黒い髪の若者は斧の刃を相手の剣の上に滑らせる。そして、そのままイリオ・コーツの剣を斧の刃と柄の間に挟み込むようにして絡め獲った。本当に一瞬のことであった。トリセルディはそのまま軽く鉄斧を捩じる――。
「あっ!」
がちっ!
コーツが叫び、それと同時に耳障りな金属の破断音が響いた。
簡単なてこの原理の応用であった。斧の刃と柄の間に絡めとられたところに捩じりの力を貰ったことでコーツの剣は脆くも真ん中から断ち割られてしまっていた。折れた剣の一部は地面に転がり落ちて鈍い光を照り返している。
勝負有り、であった。
もはや愚連隊の隊長にはどうすることもできない。反撃をしようにも武器は半分の長さになっている。
「あ、ああ、あ……」
惑乱してい意味不明な叫びをもらす上級生の鼻先に、黒い鉄の斧が突きつけられる。
「どうするんだ、まだやるのか?」
あまりにも簡単な幕切れにギャラリーもどよめいている。
――こいつはすごい。
――あの新入り、強えぞ。
――やっぱり剣よりも斧のほうが実用的だというのは本当なんだ。
生徒達はもとより弱いものいじめの過ぎるコーツ達のことを嫌っていた。当然のように上級生を力でもって捩じ伏せた転入生に観客達は大いに溜飲を下げている。もっともそのことをあからさまに表現するものは稀であったが。皆、上級生から後々に報復されるのが恐ろしくて、喜びを意図して抑えているようである。ただ、唯一、怖いもの知らずのエルマだけが誰憚ることなく大興奮で、
「あいつ、強い、すげえ!すげえぞ!」
と、シエルの頭をばしばし平手で殴り飛ばして大はしゃぎであった。いや、はしゃがないまでも興奮しているものはもう一人いた。ファーラである。彼女は事件の詳細を記録するべく必死の形相でメモ帳にペンを走らせている。カペルヴィアストル開校以来、これほどの大事件がかつてあっただろうか?
――いい素材が来たじゃないの!行く先々で大事件を巻き起こす台風男!いいじゃないの、いいじゃないの!
ファーラはトリセルディのことを男性としてはともかく、取材対象としては大いに惚れ込んでいる。そして。決闘はさらに続くこととなる。もっとも、唐突な幕切れはすぐそこに迫っていたので有るが。
「……次は誰だい?誰でもいいぜ」
トリセルディは愚連隊のほうに穏やかな視線を送った。イリオ・コーツもそうだが上級生達に答えはない。力の差はもはや嫌というほどに歴然としているのだ。
――とてもではないがかなわない!
上級生達もそのことが骨身に染みたのだろう。
そして、血の一滴も流れない決闘劇についに終止符が打たれることになった。イリオ・コーツ達愚連隊の敗北宣言による小気味の良い青春劇の結末ではない。教官の乱入というばたばたと想像しい喜劇の終幕であった。
「おまえたち、何をやっておるかっ!」
女性の声に、生徒達がざわつき始める。
――まずい、バレル教官だ!
血相を変えてすっ飛んできたのは航空戦術の女性教官であった。
――やばい、戦車だぞ!
三十過ぎの女性教官は、国軍の機士あがりであり、軍隊気質がいつまでも抜けないことから『女戦車』という女性としてはあまり名誉ではないあだ名を頂いている。
――逃げろ!
教官の急襲に生徒達は大いに慌てている。生徒達のやっていることは校則違反である以前に法律違反でもあった。私闘罪、私闘のほう助、不法行為への積極加担、公序良俗の違反等、下手をすれば全員が懲役刑を喰らって豚箱に放り込まれてもおかしくないのだ。生徒達は蜘蛛の子を散らすように逃走を開始する。だが。血相を変えて飛び込んできた教官は、ある時点を境にして急に表情を緩ませることになった。
「トリス、トリスじゃないか!」
教官は人の輪の中心にいた黒い髪の青年を見るなり歓声を上げた。
「やはりおまえか!なんだ、カペルヴィアストルに何しに来たんだ!」
――なんだ、教官と新入りは知り合いなのか?
学生達にとっては実に気の抜ける展開であったが教官のほうは決闘のことなどもはやどうでも良くなったようである。だいたい、怪我人も出ていないのだし鼻持ちならない貴族の坊やには良い薬ではないか。教官が本当にそのように思ったのかどうかは分からないが、おそらくそれに近かったのではないか。とにかく女性教官はトリセルディとは旧知の間柄であるらしい。
「ああ、お久しぶりです、ミランさん」
トリセルディはバレルの名前のほうを呼んだ。女教官の目には古い馴染みだけが見えていて、他の学生の存在はもはやどうでも良いようである。
「お父上は元気か?牝鮫殿は?」
ミラーナは勢いよく言った。
腕がよく、陽気で開けっぴろげな性格をした女教官は生徒達にも慕われていたが、その反面、めんどくさいところを勝手に省いてしまうような適当な部分があった。適当に端折られた生徒達は大いに困惑し、時に大迷惑を被ることになるのだ。この時も、生徒達は状況に戸惑うばかりであった。いったいぜんたいそんな決着のつけかたが許されるのか?いいのだろうか、そんなことで?だが教官のほうは気にしないのだ。そして女戦車は細かいところを気にしないまま叫んだ。
「おまえたち、早く家に帰れ!さあ早く帰れ、何をやってるッ!」
コーツ達上級生は教官の怒声に追い立てられて、それこそ逃げるようにその場から去っていった。否、実は彼らこそがもっとも教官の介入を喜んでいたことだろう。面子の傷も最低限で済ませることができたし、ケガもせずに済んだ。命があっただけでもありがたいという最悪の状況を無事に切り抜けることが出来たのだ。愚連隊にしてみればミラーナ・バレルこそが天祐であったに違いない。
「ここで見たこと聞いたことはすべて忘れろ!いいな!何も無かった、何も無かったんだ!」
バレルの有無を言わさない叫びに、見物人達も三々五々に散っていく。とにかく決着がついたのだ。愚連隊にも観客にも幕が下り劇場に止まる理由はない。
結局、その場に残ったのはバアドクレアとシエル、エルマ、そしてファーラの四人だけであった。彼らは全員が寮に入っているという事で共通しており、つまりは帰れといわれても、そここそが帰る場所という連中であったのだ。そして適当な教官ミランは四人ばかりの居残りについてはそれほど気にしなかった。
「いったいどうしたんだ、トリス、まさかこんなところで会うことになるとは思わなかったぞ!」
ミラーナ教官はもはや騒ぎは無かったものとして言った。
「まあ、俺のほうはいずれ会えると思っていましたがね……」
トリセルディはにこやかに言った。
「懐かしいな。この前に会ったのはいつだったか?一昨年か?」
そうです。トリセルディは穏やかに言った。
「……あの、教官はトリセルディをご存じだったのですか?」
エルマは教官のほうに近づいていくと、当然の権利のようにして訊ねた。女教官のほうも胸の大きな娘があまりにも堂々と近づいて来たために、かえって疑ったりはしなかったようである。
「ああ、こいつのおやじさんには随分と世話にになってな」
ふーん。エルマはうなずいた。そしてその後をファーラが継いだ。取材、取材、取材である。
「教官、トリセルディ君の父君とは……」
珍奇な使命感を振りかざすブン屋娘のことは女戦車も知っている。そして事件記者に単独インタビューを求められた女教官は横暴にもファーラの取材メモを引ったくった。
「なにを……」
ファーラは暴虐な上からの圧力にきっとなった。まさしく権力の濫用!社会正義を踏みにじる体制の暴挙!だが、女教官は気にしない。
「バカモン!こんな記事を新聞に書かれてみろ。最善でも全員放校処分だぞ。おまえも含めてな」
「……は?」
ブン屋娘はぽかんとしている。ファーラは自分も放校になるかもしれなかったことにこの時になって初めて気がついたようである。かくして真実を追及する手だては永遠に失われたのだ。そして政治的な決着を成し遂げた教官は馴染みに向かって話を続ける。
「ところで、いったい何だってこんなところに。おまえさんがいまさら飛竜の乗り方なんか勉強する必要もないだろうに」
「ええ、まあ、そうなんですがね……」
トリセルディはあいまいに言った。そして、複雑な表情を見せる若者に教官のほうは何か感じとるものがあったらしい。
「……ニールスで何かあったのか?」
教官は訊ねた。
女教官も二十代の後半まで南方の国境にいたことがあったという。
「べつに、そんなんじゃありませんよ」
トリセルディは嘘があまりにも下手くそであった。そして適当な教官も恐らくはトリセルディの本意が別にあることは気がついたはずである。だが、気がついた上で彼女は『そういうこと』と納得したようである。まともな大人は相手のことを根掘り葉掘り聞いたりはしないものであるのだ。
「まあ良い。私に何か手伝えることがあったら、遠慮なく言ってほしい。父君には随分と借りがあるからな」
女戦車はそう言って笑った。
「ミランさん、しばらくの間ですけれど厄介になります」
トリセルディは軽く頭を下げ、そこで教官は『ああ任せておけ』と大笑して応じた。そしてバアドクレアは一人こう思っていた。
――本当にこんなことで良いのだろうか……?
金髪の青年は教官とトリセルディを交互に見ながら困ったような顔を作ったものである。
――決闘の処分は?本当にこんなふうに灰色の決着でいいのか?
もっともそのようにして過去にとらわれているのはバアドクレアただ一人であった。もはや全ては忘却のかなたであり、事件も何もかもがうやむやになってしまった。




