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0 序幕

 横殴りの雨が降り続ける。

 国都リゼー街、深夜半。

 他国からの船舶が多く乗り入れ、さまざまな物産が積み下ろしされる港湾に隣接する倉庫街。人気が途絶えた夜の港に、雨音にかき消されかかって小さな靴音が響く。靴音の主は時折、足を止めては自分の後を誰かがつけてこないかを確認するようにして耳をそばだて、そして何も異常がないと確信すると、ふたたび深夜の倉庫街を走り始める。

 慎重にして細心、警戒は怠らず――。

 人影はそうやって、雨に打たれながら長い道のりを走ってきたのだ。やがて。人影は倉庫街の西の端にまで辿り着く。

 そこは倉庫街の終わりであると同時に、都の尽きるところ、そして街道の始まるところであった。

 目の前には運河があり、運河には橋がかかっている。その向こうには森の中を行く新街道が続いている。街道は南へと伸び、さらには国境へと通じている。

 人影は雨の中で自分が走ってきた厳しい道程を振り返った。豪雨の中、暗闇を選ぶようにしてやって来た苦しい道のりもう終わりであった。橋を越えて都を出れば彼の苦労は十分な金銭でもって報われることになる――いや、なるはずであったとするべきか。

 じじじ……。

 それまで黙っていた街灯が不意に小さく音を立てて光り始める。倉庫街の出口に立っていた街灯は接触不良でも起こしているのだろう。光初めてすぐに寝ぼたように消えてしまった。

 ただ――。

 寝ぼけた街灯が思い出した自らの職業への責任感によって、黒い人影から『影』の部分が一刹那ではあるが吹き消されることになった。

 闇を縫って逃げてきた人物は男であった。

 うす汚れた灰色の外套を頭からすっぽりとまとった背の高い人物。年の頃は三十ちょっとといったところだろうか。否、もっと若いかもしれないし、年かもしれない。

 灰色の男は表情が虚ろで実年齢を読み取ることが難しい人物であった。もっともそのようなことはどうでも良いことであった。運命の尽きようとする人間に年齢が何の意味を持っていただろう。

 「……ふふっ」

 灰色の男は自分を驚かせた明かりの消えた街灯を見上げて奇妙なため息を漏らした。あまりにも神経質になっている自分を笑ったのだろう。

 と。

 街灯がもう一度弱々しく輝いた。悪事を働くやくざな男に対するそれが彼の精一杯の抵抗だったのかもしれない。そして、その魂の無い物の抵抗が、灰色の男にとっては致命事となった。雨の中を自由と報酬に向かって歩き始めようとした男の脚がぴたりと止まった。

 灰色の男が向かう先に、彼とよく似た装束を着けた者が道を塞ぐようにして立っていたのである。

 あるいは鏡に映った自分の像――

 灰色の男はそのように一瞬疑ったようである。だが、男がそう疑ったのも一瞬のことだった。

 道の真ん中に立ち塞がっていたもう一人の男はこちらは灰色ではなく黒い外套をまとっており、その上、灰色の男が持っていないものを手にしていたのである。長い柄を持つ幅広の大斧であった。人の首など造作もなく一撃で斬り飛ばす残忍な凶器。

 「……よう」

 雨音にかき消されることないしっかりとした声が聞こえた。

 「ずいぶんと待ったぜ」

 大斧の死神はひどくさばけた言い口でもってやくざ者に声をかけた。まだ若い、十代から二十代の青年の声であった。

 「こんな夜更けにどこに行くんだ?夜這いって感じじゃねえよな」

 貧相でがりがり、骨ばかりというのが通り相場の死神にしては、この大斧の若者は体格が優れており肩幅も広い。灰色のやくざ者と比べても彼が身体面で遥かに上回っていることはこれはもう誰の目にも明らかであった。

 「花束もなければ楽器も持ってねえみたいだしよ」

 青年は力強く一歩を踏み出した。

 「てめえには聞きてえことが山とあるんだ」

 灰色の男は応えない。

 「ニールスの件についてだよ。知ってるだろう?知らねえとは言せねえぜ。うちの身内が一人死んでるんだ。このままただで済ませるわけにはいかねえぜ」

 若者の声は鋭く、そして険しい。

 「おとなしく一緒に来てくれねえかな。抵抗しなければ命だけは保証するよ。どうする?」

 大斧の刃に街灯の灯りがちりちりと光って映る。灰色の男はすぐに反応した。灰色の外套の下から短い短刀が現れる。 

 「交渉の余地はねえってことかい。そいつは残念だね」

 話し合いの段階はとっくに過ぎてしまっているらしい。若者は続ける。

 「ところで、あんた、保険には入ってるのかい?もっとも、こんな状況じゃ説明しても保険金が下りるとも思えねえけどよ」

 その時のこと――。

 「きえええっ」

 灰色のやくざ男が奇妙な叫びを上げた。降り続く雨の中で男の叫びは奇妙にくぐもっている。雨のしずくに濡れた短刀に街灯の光が反射した。

 男の刀さばきは正確であった。 突き、相手が退けばさらに切りつけ、切りつけ、さらにえぐるようにして横薙ぎに刀を振るう。だが。若い死神のほうは灰色の男の短刀の閃きに慄いたりしなかった。体を反らして白刃を避け、脚を使って間合いを保ち、突き進んでくる切先に斧を峰をぶつけて加撃をはじき返す。

 強い雨の中を白刃と黒鉄が激突し、赤い火花が飛んで爆ぜる。男達は水たまりの上を決死の覚悟で走り回り、逃げ回り、そしてまた激しくぶつかり合う。金属の弾ける耳障りな音が雨の中に響く。

 死神と灰色の男。

 鉄の凶器が重なり合い、力と力が真っ向からぶつかりあう。両者の力はほぼ互角、いや、やはり死神のほうが上であるか。

 「たいした腕じゃねえな。そんなんじゃ、俺は殺れねえぞ」

 若い死神は斧越しに言った。攻め込まれている若者のほうが、攻めている灰色の男よりも遥かに落ち着いている。一方、灰色の男は消耗が激しい。

 「こいつが最後のチャンスだ。おとなしく来て貰おうか。そうでないと、腕の一本、脚の一本じゃ話が済まなくなっちまうぜ……」

 死神は宵闇の中で笑ったようであった。一方、灰色の男のほうはというとこちらは死神の出頭命令に最後まで抗うつもりである。そうすることが賢明なやり方でないことは罪人のほうも知っていただろう。しかし恭順の意を示して、その通りに行動しても彼は結局破滅することになる。灰色の男には、自らの力を頼るほかに生き延びる手だてが無かった。そして――。

 「……」

 沈黙を保ったままの灰色の男が不意に動いた。男が着けている外套が大きく揺れ、懐から細い薄みの小剣が飛び出してくる。右手に握られたものの半分ほどのナイフ。完全な奇襲であった。だが若い死神は、騙し討ちに斧の柄をあわせるようにして簡単にこれをしのいだ。運命の神は何もかもをお見通しであるらしい。

 「……毒入りってわけだ。あぶねえじゃねえか、ええ?」

 二本目の隠し剣の刃には茶色をした気味の悪い液体が絡みつくようにして張りついている。恐らくは毒であったのだろうが、それもすぐに強い雨に流されてしまった。死神は小癪な罪人を笑った。

 「……毒リンゴに二度目はねえぜ」

 灰色の男は苦く思ったことであろう。

 目の前の若僧はこの時までとっておいた必殺の一撃をかわしてしまった。灰色の罪人には次の手がない。

 「本当に痛い目にあわないとわかんねえみてえだな」

 死神の顔が厳しさに硬くなる。

 黒い大鉄斧の面を激しく雨粒が打ちつけ、いよいよ後が無くなった灰色の男は右手に小刀を、左手の小剣を構え直す。

 両者、最後の激突の予感――。

 「来いよ。ここでケリを着けようぜ」

 若い死神は誘った。

 力量では死神が上。

 しかし、灰色の男にも勝機があった。それは状況である。

 ――相手には自分を殺せない。 

 死神は罪人を生きたまま捕らえようとしている。一方、灰色の男のほうは相手の生命や彼の家族について考慮する必要などどこにもない。その違いがが灰色の男の唯一の勝算であった。罪人はその勝機に賭けた。

 「うおおっ、うおーッ!

 灰色の男の口から獣じみた叫びが漏れ、死神はそれに叫びではなく鋭い眼差しで応じる。

 男は両刀を振るって体ごと死神にぶつかっていく。死神は長柄の斧で応戦する。

 がちりッ!

 鉄の激突する音が響き――勝敗は一瞬で決せられた。。

 灰色の男の小刀が死神の斧の一撃によって叩き割られる。割れた刀身の半分はものすごい勢いで一直線に飛ぶと、倉庫の壁に突き刺さって、そこで止まった。

 叩き割られたのは刀だけではなかった。灰色の男の外套の胸の部分が大きく破れ、敗れた穴からは血が流れ落ちている。

 「ぐ、ぐはッ……」

 罪人は痛みのあまりその場に膝をがっくりとついた。

 「……心配すんな。それぐらいの傷じゃあ死なねえよ。大げさなんだよ、いちいち」

 だから言わんことではない。死神の言葉には困惑のような色があった。そして困惑したまま死神は、地獄へ連行する在任のほうへと歩み寄った。

 「痛いかい?これまでのあんたの悪事を思えば、それぐらいで済んで儲けもんと考えなきゃあな」

 地獄の台帳に乗っている咎人の罪はあまりにも多く、それをいちいち本人に語って聞かせるだけの時間は忙しい死神にはなかったようである。

 「てこずらせやがって、まったく……」

 死神は言った。

 それが死神の若さであったと言えば、そうも言えただろう。

 「あッ!」

 若い死神の口から驚きの声が漏れる。

 それは本当に一瞬のことであった。

 血に染まり、動けなくなっていた罪人が思いもよらぬ行動に出たのだ。今や朱と灰色のまだら模様になった男は小剣を捨てると、よろめくようにして運河のほうへと走り始めたのである。

 長雨のせいで運河は増水しており、殆ど濁流のようになって逆巻いている。転落すれば、ただでは済まないだろう。一瞬で荒れた海にまで流されることであろう。そしてその後は、魚やシャコがうまい餌を待ちかまえている。

 「おい、ちょっと……おいって!待て、待ちやがれっ!」

 死神は制止したが、罪人は警告を聞かない。止まっても進んでもまだらの男の運命がろくなものににならないことは罪人本人が一番良く知っている。

 「待てっ、おい、待てこらっ!」

 まだらの男は死神の制止を振り切り運河に向かって転がるようにして走り続ける。男の行く先には逆巻き荒れ狂う水。

 若い死神は博打を試みね罪人を止めようと後を追って走り出す。

 だが。

 何もかもが半歩のところで手遅れであった。

 まだらの男は運河に飛び込んだ。というよりは転落したとするべきか。死神は何かを叫んだが、罪人の耳には届かなかっただろう。

 手傷を負った男は濁流となった運河に呑まれ、そのまま海へと向かって流されていく。

 「う、うおおっ、うおお」

 まだらの男は叫びながらそのままどんどん大海へと押し出されていく。もはや泳ぐどころではない。罪人はその時になって初めて自分の無謀さに気がついたようであった。

 「助け……助けてッ……うわああっ」

 死神も罪人の助けを求める声を聞いてはいたがもはやどうすることもできない。

 急流に浮き沈みを繰り返していた灰色の男はやがて暗い海に呑み込まれ、二度と戻っては来なかった。

 「ああ、あのタコッ!」

 若い死神は興奮して叫んだ。

 健康な体であったとしても泳ぎ切ることの難しい荒れた海。手負いの身ではとうてい助からない。死神は運河沿いを走り抜け、波止場のところまで行ってそこでようやく足を止めた。もう罪人の姿はどこにもなく、声も聞こえない。そしてなによりも走っていこうにもそこから先には陸はなかった。

 「ああ、もう、俺はなにやってんだっ、ちくしょうっ!」

 若い死神は地面を蹴り飛ばし叫んだが、荒れた海が飲み込んだ罪人を帰して寄越すということはついになかった。

 

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