第8話 予約表は1冊しかありません
開店31日目。
朝、予約表を開いて、俺はしばらく見とれていた。
昼 ミルテ様 お手入れ
昼すぎ カタリーナ様 お肌のお手入れ
夕方 ジークリット様 洗髪とお手入れ
1日に3件である。
前世では1日に40人の予約をさばいていた。それに比べれば3件など、準備運動にもならない。
ならないのだが、胸が熱い。裏が母さんの買い物の覚え書きだった紙に、ちゃんと3行並んでいる。
ひとつだけ、気をつけることがあった。
この3人は同じパーティーの仲間で、3人とも「あの2人には内緒に」と言っている。正確には、1人は言っていないが、仲間に店の名を聞かれて黙ったそうなので同じことだ。
だから時間をずらしてある。昼、昼すぎ、夕方。間はたっぷり空けた。
40人を鉢合わせさせずに回していた男である。3人くらい、目をつぶっていてもできる。
そう思っていた。昼までは。
*
昼のミルテ様は、手の保湿だった。
髪は3日おきと、今朝あらためて申し上げたので、今日は切らない。本人は不服そうだったが、紙1枚ぶんを毎日切っていたら、ひと月で前髪がなくなる。
施術が終わって、彼女はフードを眉の高さまでかぶり直した。銀貨を1枚、きっちり数えて台に置く。
俺は扉の鍵を開けた。
その瞬間、鈴が鳴った。
「こんにちはあ。少し早く着いちゃっ——」
明るい声が、途中で止まった。
戸口に、ずんぐりしたローブが立っている。
店の中に、小さなフードが立っている。
2人は、互いを見たまま動かなくなった。
「…………カタリーナ」
「あらあ。ミルテちゃん。奇遇ねえ」
「お散歩」
「え?」
「3日前。お散歩と言った」
「お散歩の途中に、寄ったのよ?」
ミルテ様は懐から帳面を出して、開いて突きつけた。
記録。カタリーナ、同じ石けんの匂い。嘘の可能性、9割。
「……あなた、仲間のことまで記録してるの?」
「全部してる」
「こわい子ねえ」
カタリーナ様は口布の下でため息をついた。
「でも、ミルテちゃんこそ。毎日お昼にどこへ行くのか、言わなかったじゃない」
「聞かれなかった」
「聞いたら答えた?」
「…………答えない」
そのときである。
通りの向こうから、がしゃん、がしゃんと音が近づいてきた。
鼻歌つきだった。兜の中で反響している。
俺は予約表を見た。夕方、と書いてある。今は昼すぎだ。
扉が開いた。
「予約を早めたい。夕方まで待て——」
鼻歌が止まった。
鎧が、戸口で固まった。
*
3人が、三角形に立っている。
兜と、フードと、口布。顔はひとつも見えないのに、3人とも気まずいのがよく分かった。
俺は棚の陰に下がりたかった。できれば棚の中に入りたかった。
「……なぜ、いる」
最初に口を開いたのは、兜だった。
「こっちの台詞」
「あらあら。全員そろっちゃったわねえ」
兜が、ぎぎ、と音を立てて俺のほうを向いた。
「話したのか」
「申しておりません。ひと言も」
「本当か」
「蜥蜴のほかは、ひと言も」
「蜥蜴?」
「何でもありません」
ミルテ様が手短に説明した。リーダーの剣が急におかしくなったので調べたこと。この店にたどり着いたこと。検証のために自分も施術を受けて、以来毎日通っていること。
カタリーナ様が続けた。2人の様子がおかしいので、4日かけてあとをつけたこと。
兜は黙って聞いている。
「……つまり、私だけが、何も知らなかったのか」
「リーダーは、鼻歌で忙しかったから」
「歌っていない」
「歌ってたわよ。今も」
兜が、少しうつむいた。
それから、ふいに顔を上げた。
「待て」
声が変わっていた。
「お前たち、この店で、髪を切ったのか」
「切った」
「私はお肌の手入れをしてもらったわ」
「なら」
兜の奥で、息を吸う音がした。
「脱いだのか。フードを。その布を」
店の中が静かになった。
「この男に、顔を、見せたのか」
ミルテ様は答えない。カタリーナ様も答えない。
かわりに、小さなフードが兜を見上げた。
「ジークリットこそ。兜のままじゃ、髪は切れない」
今度は兜が黙る番だった。
4年である。
3人は4年間、互いの顔を知らずにやってきた。聞かれたくないことは聞かない。そう決めて、命を預け合ってきた。
その3人が、そろって同じ男に顔を見せていた。互いには、まだ見せていないのに。
俺は音を立てないように扉へ行って、鍵をかけた。鎧戸を閉めた。鏡には、もう布がかかっている。
当店の標準の手順である。今ほどこれが要る場面は、たぶんない。
*
沈黙を破ったのは、カタリーナ様だった。
「……ねえ。私、2人に言ってないことがあるの」
いつもの明るい声ではなかった。少し低くて、少し早口である。
「このひびね。描いてるのよ。毎朝、炭で。ローブの下は綿なの。3枚重ねて、立派に見せてるだけ」
彼女は、ローブの裾を握りしめている。
「2人は隠してるだけでしょう。私は、嘘をついてたの。4年間、ずっと」
「知ってた」
ミルテ様が言った。
「…………え?」
「綿は、歩き方で分かる。体の重さと足音が合わない。ひびは、4年間で1本も増えてないし、減ってもない。本物なら計算が合わない」
「い、いつから」
「2年目から」
「言ってよ!」
「聞かれたくないことは、聞かない。決まり」
カタリーナ様は口を開けたまま固まった。布の上からでも分かる。
「私は知らなかった」
兜が、重々しく言った。
「でしょうね」
「だと思った」
2人の返事がそろった。
カタリーナ様の肩が震えだした。笑っているのか泣いているのか、たぶん両方である。
彼女は口もとの布に手をかけた。外した。頭巾も取った。
栗色の髪と、ひびのない頬と、垂れた目が出てきた。
2人が、それを見た。
少しして、ミルテ様が自分のフードの縁をつまんだ。後ろへ落とす。黒い髪と、夜の色の大きな目。
残るは1人だった。
兜は、あごの下の帯に手をかけたまま、長いこと止まっていた。
「……笑うな」
「笑わない」
「気の毒そうな顔も、するな」
「それは、お互いさまよ」
帯が外れた。
湯気が出た。こればかりは何度見ても出る。
金色の髪と、灰色の目。
3人は、互いの顔を見た。
誰も、何も言わなかった。
炉の上で湯の沸く音がしている。俺は息を止めていた。
*
「……2人とも」
最初に口を開いたのは、ミルテ様だった。
「何だ」
「ひどい顔」
ジークリット様の眉が、ぴくりと動いた。
「あなたもよ、ミルテちゃん。お人形みたいで、見ていられないわ」
「カタリーナ。お前は、その……何というか、そろいすぎている」
「リーダーに言われたくないわねえ。なあに、その鼻すじ」
3人は、互いの顔を上から下まで眺め回した。
やがてミルテ様が、結論を出した。
「3人とも、同じくらいひどい。差は誤差の範囲」
沈黙。
ジークリット様の肩が、揺れた。
鎧ががしゃがしゃ鳴っている。笑っているのだ。声を出さずに、肩だけで。
カタリーナ様が吹き出した。練習していないほうの声だった。
ミルテ様は「ふ」とだけ言った。それが彼女の笑い声らしい。
4年ぶんの何かが、店の中でほどけていった。
俺は、ようやく息を吐いた。
目の前に、雑誌の表紙が3冊ぶん並んでいる。凛とした金髪と、人形のような黒髪と、やわらかな栗色。前世なら、この3人が並んで歩くだけで通りが止まる。
ひと言、言いたくなった。
「あの。俺の目には、お三方とも——」
「黙って」
「お前は目が悪いんだ」
「気の毒にねえ」
3人そろって、気の毒そうな顔をされた。
しないと約束し合ったばかりの顔である。俺に向けるぶんには、いいらしい。
*
感動の場面は、そこまでだった。
「さて」
カタリーナ様が、ぱんと手を打った。いつもの声に戻っている。
「次は私の番ね。予約は昼すぎだもの」
「待て。私は予約を早めるために来た」
「リーダーは夕方でしょう?」
「早めると言っている」
「私は今日、手だけだった。不公平。追加を要求する」
「あなたは毎日来てるじゃないの」
「回数と1回あたりの内容は別の問題」
3人の目が、同時に台の上へ向いた。
予約表である。
手が3本、伸びた。
ジークリット様が端をつかんだ。カタリーナ様が反対の端を押さえた。ミルテ様は背が届かないので、杖の先を向けた。予約表がふわりと浮く。
「ミルテ様。張り紙を」
「非常時」
浮いた予約表を、鎧の手が空中でつかみ直す。もう片方の手は剣の柄にかかっていた。
カタリーナ様は、にこにこしながら台の上に銀貨を積みはじめた。
「店主さん。明日の昼の枠、これで買うわ」
「売り物ではございません」
「じゃあ、明後日も」
「カタリーナ、ずるい」
「離せ。破れる」
「離すのはリーダーのほうよ」
びり、と音がした。
予約表の端が、指1本ぶん裂けていた。裏の、母さんの買い物の覚え書きごとである。
3人が止まった。
俺は、ゆっくり息を吸った。
「お客様」
前世で、スタッフ42人が同時に黙った声だ。開店前の朝礼で、年に2回くらいしか使わなかった。
「予約表は、1冊しかありません」
*
王国に3組しかいないSランクの冒険者が、3人、椅子の前に横1列に並んでいる。
誰も目を合わせない。
俺は紙を1枚出して、書いた。字は今日もうまくないが、太く書いた。
当店の決まり
1 予約は、お1人につき1日1枠まで
2 髪の施術は、3日おき
3 予約表に触れてよいのは、店主だけ
4 店内での魔法、抜剣、買収は禁止
5 ほかのお客様の施術中は、のぞかない
壁に貼る。
「ご質問は」
「5に異議。記録の必要がある」
「却下します」
「……妥当ではない」
「4だが。抜いてはいない。握っただけだ」
「握るのも含みます」
「買収って、私のこと?」
「口止め料を置いていかれた方のことです」
「あら」
「尾行は、禁止じゃないの」
ミルテ様が、横目でカタリーナ様を見た。
「店の外のことは、当店の決まりの外でございます」
「あら、よかった」
「よくない」
3人は並んだまま、張り紙を上から下まで読んだ。
ジークリット様が、ぼそりと言った。
「……1日1枠は、あるのだな」
「ございます」
「毎日、1枠」
「髪以外でしたら」
3人の目の色が変わった。そこに気づかないでほしかった。
俺は裂けた予約表を膠でつなぎ、新しい頁に線を引いた。縦に3本。
3人ぶんの欄である。
それぞれの名前を上に書くと、3人は自分の欄を、黙って長いこと見ていた。
*
その日の施術は、予約の順にやった。
昼すぎのカタリーナ様が先で、夕方のジークリット様が後だ。早めたいという申し出は、予約の順を守るために受けつけなかった。
待つ間、ほかの2人は店の隅の木箱に並んで座っていた。のぞかない、という決まりを守って、壁のほうを向いている。Sランクの背中が、妙に素直だった。
終わるころには、日が傾いていた。
3人は、兜とフードと口布を元に戻した。綿入れも3枚着こんだ。
外では、まだそうするのだ。それは3人が決めることである。
扉を開ける。
鎧と、小さいのと、ずんぐりしたのが、並んで通りに出ていった。
3人一緒に店を出るのは、今日が初めてだ。
少し歩いたところで、小さいのが何か言った。ずんぐりしたのが笑った。鎧が、がしゃんと肩を揺らした。
同じ石けんの匂いが、夕方の風に残っている。
帳面を開いた。
来店:17名(うち再来店13名)
売上:銀貨33枚
預かり金:金貨5枚弱
断った男性客:91名
備考:予約表、裂ける。膠で修理。決まりを制定
守秘義務は、今日をもって用済みになった。
最後まで守りきったと言いたいところだが、蜥蜴の件がある。黙っておく。




