第7話 笑顔の練習
【カタリーナ視点】
店を出て、角を曲がった。
後ろから、がしゃん、がしゃんと聞き慣れた音がする。鼻歌つきである。
あぶないところだった。もう少し長居をしていたら、うちのリーダーと戸口で鉢合わせになっていた。
私は足を速めた。綿入れを3枚着ているので、速めてもたいして速くならない。
夕暮れの風が、口もとの布を揺らした。
布の下の頬に、今日はひびを描いていない。7年間、1日も欠かさなかったのに。
肩が軽かった。
軽すぎて、落ち着かなかった。
*
私は、親の顔を知らない。
王都の神殿の前に置かれていた、と聞いている。神殿が育ててくれた。
10歳のとき、治癒の力があると分かった。すりむいた友だちの膝に手を当てたら、傷がふさがったのである。
神官様たちは喜んでくれた。孤児に才があるのは、神殿にとってもありがたいことだった。
私はうれしかった。役に立てるものが、自分にもある。
16歳で、一人前の治癒師になった。
腕はよかったのだと思う。ほかの人が半日かける傷を、私は1時間でふさいだ。神殿でいちばんだと言われた。
ただ、ひとつ困ったことがあった。
治癒というのは、手を当てて、相手の体に力を流しこむ技である。相手が身をあずけてくれるほど、よく流れる。相手が身を固くすると、流れが悪くなる。
私が口布を外して寝台の横に立つと、患者さんは身を固くした。
誰も、何も言わない。皆、礼儀正しかった。
ただ、私の顔を見て、少し息をのむ。目を閉じる。治してもらう相手に失礼がないように、じっと耐えてくれる。
耐えられると、力が流れない。
神殿でいちばん腕のいい治癒師は、神殿でいちばん患者さんを緊張させる治癒師だった。
*
17歳の春に、上役の神官様に呼ばれた。
穏やかな方だった。孤児の私に字を教えてくれた人でもある。
「あなたを、夜の番に回そうと思います」
神官様は言った。
「それから、意識のない方の担当に。重い傷で運ばれてきて、まだ目の覚めない方々です。あなたの腕がいちばん要るのは、そういう方でしょう」
筋の通った話だった。
「患者さんも、そのほうが落ち着きます。あなたも、気をつかわずに済む。あなたのためです」
神官様は、本当にそう思ってくださっていた。
私は礼を言って、その夜から夜番になった。
*
夜の病室は静かである。
寝台が12並んでいて、起きている人は私しかいない。
意識のない人は、身を固くしない。息をのまない。目をそらさない。
私の手を、拒まなかった。
力はよく流れた。昼間の倍は流れた。私は初めて、自分の腕を全部使うことができた。
ただ、静かすぎた。
だから、話しかけることにした。
今日はいいお天気でしたよ。市場に早い苺が出ていました。門番さんのところに子犬が生まれたそうです。角の店の焼き菓子は、朝いちばんに行かないと売り切れてしまうんですって。
返事はない。それでよかった。
ひと晩じゅう、手を当てながら話し続けた。12の寝台を順に回って、どうでもいい話を、できるだけ楽しそうに。
あの人たちが目を覚ますのは、たいてい朝である。朝には私の番は終わっていて、昼の治癒師が代わっている。
目を覚ました人は、昼の治癒師に礼を言う。
それでいい、と思っていた。本当に、そう思っていたのだ。
*
19歳の冬に、小さな女の子が運ばれてきた。
7歳くらいの子である。ひどい熱で、3日間、目を開けなかった。
私は3晩、その子についた。小さな手を握って、力を流し続けた。苺の話も、子犬の話も、焼き菓子の話もした。同じ話を、何度も。
3日目の明け方、熱が下がった。
私は疲れて、寝台の横の椅子でうとうとしていた。口布は、いつの間にか外れていたのだと思う。
握っていた手が、動いた。
目を開けると、女の子がこちらを見ていた。
熱の引いた、きれいな目をしている。
よかった、と思った。私は笑いかけた。
女の子は、悲鳴を上げた。
私の手を振りほどいて、寝台の端まで下がって、母親を呼んで泣いた。
廊下から、母親が駆けこんできた。3日間、控えの間で祈っていた人である。娘を抱きしめて、背中をさすって、それから私のほうを向いた。
そして、何度も頭を下げた。
「すみません。すみません。この子、びっくりしただけなんです。治していただいたのに。本当に、すみません」
謝られた。
3晩かけて治した子に泣かれて、その母親に、謝られたのである。
誰も悪くない。あの子は、目を覚ましたら知らない顔があったから、こわかっただけだ。母親は、娘の無礼を詫びただけだ。
私は「いいんですよ」と言った。笑って言えたと思う。
それから洗い場に行って、口布を洗った。
ずいぶん長いこと、洗っていた。
*
その日から、練習を始めた。
顔が見えると、こわがらせてしまう。それなら、顔が見えなくても伝わるものを使えばいい。
声である。
夜番の廊下で。誰もいない洗い場で。薬草庫の奥で。
「あらあら」
「大丈夫よ」
「痛かったわねえ」
何百回も言った。高すぎない、低すぎない、聞いた人の肩から力が抜けるような声。布ごしでも、笑っていると分かる声。
半年かけて、作り上げた。
ついでに、いくつか覚えた。
眉用の炭で、頬にひびを描くこと。遠目には本物に見える。
ローブの下に、綿入れを重ねること。3枚で、ちょうど「立派」になる。
口布で口もとを隠し、ひびを描いた頬と目だけを見せる。そこに、練習した声をのせる。
患者さんは、身を固くしなくなった。
私はよく喋る、明るい治癒師になった。皆がそう言った。カタリーナさんは話しやすい。カタリーナさんがいると場が明るくなる。
誰も、それが夜の病室で覚えた癖だとは知らない。
返事のない人たちに、ひと晩じゅう話しかけていた。黙ると、静かすぎたから。
*
神殿を出たのは、22歳のときである。
炭と綿と声で、遠目にはごまかせた。けれど治癒は、手の届くところまで近づく仕事だ。近くで見れば、描いたひびは描いたひびである。
昼の番には、最後まで戻してもらえなかった。上役の神官様は「今のままが、あなたのためです」と言った。あの方は、最後まで優しかった。
冒険者には、治癒師が足りないと聞いた。
それに、血を流している冒険者は、治癒師の顔など見ない。傷をふさいでくれるなら、誰でもいいのだ。
ギルドの隅の席に座った。少し離れた席に、フードを深くかぶった小さな子が1人で座っていた。
何日かして、兜をかぶった背の高い女が、私たちの前に立った。
「組まないか」
それだけだった。
私は「まあ、うれしい。よろしくねえ」と言った。練習した声で。
あれから4年になる。私は26歳になった。
あの2人は、隠している。兜と、フードで。
でも、嘘はついていない。
私だけが、毎朝30分かけて嘘を描いている。綿を着て、声を作って、世間の物差しに合うふりをしている。
2人には、言えなかった。
*
路地の先で、子どもの泣き声がした。
5歳くらいの男の子が、石畳に座りこんでいる。膝をすりむいて、血がにじんでいた。
体が先に動いた。
「あらあら。転んじゃったの? 痛かったわねえ」
しゃがんで、膝に手を当てる。
力を流した。
流れすぎた。
いつもなら、すり傷ひとつに息を3つぶんかける。今日は、手を当てた瞬間に、もうふさがっていた。あかぎれだらけの小さな手まで、ついでにつるりと治っている。
なのに、少しも疲れていなかった。
いつもは力を流すそばから、どこかへ漏れていく感じがする。穴のあいた桶で水を運ぶようなものだ。治癒師は皆そういうものだと思っていた。
今日は、漏れない。首から肩、肩から腕へ、流しただけの力が、まっすぐ手のひらに届く。
あの店主さんが、油を塗って、ほぐしてくれたところだった。
「……なおった」
男の子が、膝を見て目を丸くした。それから私を見上げた。
私は口布をしている。頬には、ひびがない。
男の子は、こわがらなかった。夕暮れで、よく見えなかったのだろう。
「ありがとう、おばちゃん!」
「おねえさんよ」
「ありがとう、おねえちゃん!」
男の子は走っていった。途中で振り返って、手を振る。もう一度転びそうになって、こらえて、角の向こうへ消えていく。
私は、しゃがんだまま見送った。
それから、気がついた。
今の「おねえさんよ」は、練習した声ではなかった。
考えるより先に、口から出ていた。少し低くて早口で、たぶんあまり感じのよくない声だ。
口布の下で、頬が動いている。
いつもと違うところが動いていた。練習した笑顔は、口の端を同じ高さに上げる。目を細める。頬を少し持ち上げる。順番も角度も決まっている。
今のは、順番がばらばらだった。
片方の口の端だけが、先に上がっている。
「……あら」
誰もいない路地で、声が出た。
「私、こういう顔で笑うのね」
布の下なので、誰にも見えない。
鏡もないので、自分にも見えない。
7年ぶりだった。あるいは、初めてかもしれなかった。
*
焼き菓子の店に寄り道をして、日がすっかり落ちてから宿に戻った。
2人はもう食堂にいた。
リーダーは兜のまま、壁に貼った紙に何か書きこんでいる。日付らしい。3日先のところに、丸がついていた。
小さい子は、フードを眉まで上げて、自分の爪を眺めていた。ランプにかざして、10枚ぜんぶ、順番に。
「ただいまあ。2人とも、今日はいい日だった?」
「別に」
「普通だ」
そろって返事をした。そろって目をそらした。
私は2人の間に座った。
兜の裾から、ふわりと匂いがする。木の実の油と、灰の少ない石けんの匂い。
フードの中からも、同じ匂いがした。
私の首すじからも、たぶん同じ匂いがしている。
「……カタリーナ」
小さい子が、鼻を動かした。
「今日、どこか行った?」
「あら。お散歩よ?」
「ふうん」
夜の色の目が、じっと私を見ている。この子は鋭い。数えたり、比べたりするのが得意なのだ。
リーダーは、兜の中で小さく鼻歌を歌っていた。こちらは、何も気づいていない。
おかしな話だと思った。
4年も一緒にいて、互いの顔も知らない。聞かれたくないことは、聞かない。そう決めて、本当に何も聞かずにやってきた。
それなのに、3人そろって同じ匂いになっている。
私は口布の下で、もう一度笑った。
今度のも、順番がばらばらだった。




