第5話 フードの理由
【ミルテ視点】
宿の部屋で、本を開いた。
いつもの本である。学院の術式論の第4巻。もう11回読んでいる。
なのに、知らない本のように見えた。
行の左端と右端が、同時に見える。頁の上の章題と、下の注釈が、首を動かさなくても目に入る。前髪の隙間から1行ずつ拾っていたものが、頁ごと頭に入ってくる。
読む速さが倍になっていた。
私は帳面を出して、書いた。
記録。視界、推定7割以上。読書効率、およそ2倍。
それから少し考えて、書き足した。
原因:前髪。
*
私の父は、王立学院の書庫番である。
家は書庫の隣にあった。私は字を覚える前から本の間で育った。
6歳のとき、ひとつの規則に気づいた。
大人は子どもを褒めるとき、決まった言葉を使う。かわいい。きれい。お母さんに似て美人になる。近所の子は、皆そう言われていた。
私だけが、言われない。
私を見た大人は、まず少し黙る。それから頭をなでて、こう言う。
「かしこい子ね」
必ず、それだった。
気のせいかもしれない。そう思ったので、数えた。父の反故紙の裏に、線を引いて記録をとった。
半年で、「かしこい」が41回。「かわいい」が0回。
6歳の私は、数字を見て結論を出した。
私の顔は、褒める言葉が見つからない顔である。
誰も私に意地悪はしなかった。皆、ちゃんと褒めてくれた。褒められるところを、一生懸命に探してくれたのだ。
だから私は、かしこくなることにした。そこしか、ないのだから。
*
12歳で魔術学院に入った。同期でいちばん年下だった。
筆記はずっと首席だった。これは当然である。ほかに何もしていない。
困ったのは実技だった。
詠唱には作法がある。顔を上げる。標的を見る。はっきりと唱える。魔術は意志を的に届ける技だから、顔を伏せて唱えるのは無作法とされていた。
私は作法どおりに顔を上げた。
教室が静かになった。
毎回である。私が顔を上げるたびに、話し声がやみ、筆の音がやみ、誰かの咳ばらいだけが残る。
同級生は親切だった。
隣の席の子は、毎朝挨拶をしてくれた。ただ、その目はいつも、私の額の少し上を見ていた。
実技で私と組になった子は、嫌だとは言わない。丁寧に組んでくれる。そして、その日は1日、口数が減った。
私は記録をとるのをやめた。数えなくても、分かるようになったからだ。
*
2年目の冬に、師が私を部屋に呼んだ。
師は学院でいちばん年を取った教授で、私の術式をいちばん細かく見てくれる人だった。
「君は、フードをかぶったままでよい」
師は言った。
「顔を上げずともよい。作法は、私が特例を出しておく。君の術式は正確だ。見なくとも、当たるだろう」
師は私をかばってくれたのである。教室が静かになるたびに、私がどんな顔をしているか、師だけは見ていたのだと思う。
私は礼を言って、翌日からフードをかぶった。
教室は静かにならなくなった。皆がほっとしているのが、布ごしにも分かった。
私は、見ないで当てる練習をした。
標的の位置を数字で覚える。距離と角度を計算する。顔を伏せたまま撃つ。
1年で、当たるようになった。
師は「見事だ」と言った。本当にそう思ってくれていた。
見ないで当てられる魔術師は、学院の歴史で私だけだそうである。なぜ私だけなのかは、誰も言わなかった。
*
16歳で卒業した。首席だった。
首席は卒業の式で、壇に上がって言葉を述べる。学院ができてから、ずっとそういう決まりである。
式の3日前、師が言った。
「代読にしよう。原稿は君が書きなさい。読むのは次席の者に頼む。……君も、そのほうが楽だろう」
そのとおりだった。楽だった。
壇に上がれば、フードを取ることになる。広間じゅうが静かになる。来賓が目を伏せる。父が、後ろの席で小さくなる。
私は原稿を書いた。3晩かけた。
式の日、次席の子がそれを読んだ。よく通る声だった。広間が拍手で埋まった。よい言葉だった、と何人もが言っていた。
私は最後列で、フードの中からそれを聞いていた。
自分の書いた言葉が、自分ではない声で読まれるのを聞くのは、妙な気分である。うれしいような気もした。そうでない気もした。区別がつかなかったので、記録はしていない。
*
その夜、寮の部屋で前髪を切ろうとした。
伸びて、目にかかっていたからだ。
鋏を持って窓の前に立った。夜の窓は、鏡になる。
ガラスに、顔が映っていた。
41回の「かしこい子ね」と、静かになる教室と、額の少し上を見る目と、代読の拍手。それが全部、その顔のせいだった。
私は鋏を置いた。
その日から、前髪を切っていない。
フードは、人から顔を隠すための布である。それはフードで足りている。
前髪は違う。あれは、私から顔を隠すためのものだった。
*
学院は、研究室に残る道を用意してくれた。師の推薦つきだった。
断った。研究室は相部屋である。同じ机で、何年も、誰かに気をつかわせ続けることになる。
それから2年、父の書庫を手伝った。本の整理は性に合っていた。ただ、覚えた術式を使う場所が、どこにもなかった。
18歳で冒険者になった。理由は3つある。
1つ。ギルドの登録に、顔はいらない。フードのままで札がもらえる。
2つ。依頼は掲示板の紙で受け、報告も紙で出す。誰とも長く話さずに済む。
3つ。魔物は、詠唱の作法を気にしない。顔を伏せて撃っても、無作法だとは言わない。
消去法である。私に残っていた場所は、そこだけだった。
組む相手はいなかった。私の席は、ギルドの隅である。少し離れた席に、厚いローブの女も1人で座っていた。
ある日、兜をかぶった女が来て、私たちの前に立った。
「組まないか」
それだけだった。誰も、何も聞かなかった。
あれから4年になる。私は22歳になった。
*
窓の外が明るくなっていた。
術式論の第4巻を、ひと晩で読み終えている。12回目にして、初めて気づいた注釈が7つあった。
本を閉じて顔を上げたとき、窓ガラスが目に入った。
朝の光で、薄くなった鏡である。
目が合った。
すぐにそらした。6年間そうしてきたので、体が先に動く。
ただ、そらす前に、ひとつ確認できたことがある。
記録。目は、2つあった。
当たり前のことだ。当たり前のことを、私は6年ぶりに確かめた。
あの店主は言った。醜いとは思っていないので、と。
記録はしてある。検証の方法が、まだ分からない。
分からないので、今日も行くことにした。
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【レン視点】
開店24日目。
朝いちばんに、張り紙を1枚作った。
店内での魔法は、ご遠慮ください
字は今日もうまくない。伝われば十分である。美容室に貼る紙として正しいのかどうかは、考えないことにした。
昼、鈴が鳴った。
フードを眉の高さまで上げた小さなお客様が、柱にぶつからずに入ってきた。目の下に、濃いくまがある。
「いらっしゃいませ、ミルテ様。お顔色が」
「寝てない」
「何かございましたか」
「本が、読めすぎた」
苦情なのか礼なのか、判断がつかない。
彼女は張り紙を見上げて、3秒ほど読んだ。
「これは、私のせい?」
「どなたのせい、ということでは」
「妥当」
納得していただけた。
*
彼女は椅子によじ登って、杖を膝に置いた。
「今日は、何を切るの」
「昨日切ったばかりですので、切る髪がございません」
「前髪」
「紙1枚ぶんも伸びておりません」
「じゃあ、何をするの。昨日、相談と言った」
俺は彼女の手を見た。
杖を握る指先。爪は短く割れて、縁がぎざぎざになっている。ささくれが何本も立ち、爪の間には黒いインクがしみこんでいた。
働く人の手である。それはいい。ただ、割れた爪は引っかかるし、ささくれは痛い。
「本日は、爪のお手入れをご提案します」
「爪?」
「爪です」
「爪を、手入れするの。何のために」
この世界では、爪を気にする人がいない。美人の条件に入っていないので、荒らしもしなければ整えもしない。放っておかれている。
「頁をめくるとき、引っかかりませんか」
「……引っかかる。1日に14回くらい」
「数えていらっしゃる」
「数える癖がある」
*
道具を並べた。
爪やすりは自作である。薄い木の板に、ふるいにかけた細かい砂を膠で貼りつけてある。粗いのと細かいのと、2枚。
砂は、母さんが頬に擦りこんでいる灰色の粉と同じものだ。
使う場所さえ合っていれば、砂はいいものである。母さんには言えない。
「お手を、失礼します」
彼女の右手を取った。
その瞬間、フードの下の肩がびくりと固まった。
「……握られている」
「施術です」
「手を、握られている」
「爪は手についておりますので」
「……論理的」
小さな手だった。指が細く、冷たい。インクのしみは湯でふやかしてから、布で少しずつ落としていく。
割れた縁をやすりで整える。1本ずつ、丸く。ささくれは根元から切って、木の実の油をすりこんだ。爪の付け根の固くなった皮も、湯でやわらかくして押し上げる。
最後に、手のひらから指先へ、ゆっくり揉みほぐしていく。
前世では、これだけで寝てしまうお客様が多かった。
「記録。右手、終了。爪の縁、なめらか」
「ありがとうございます。左手を」
「記録。…………」
間があった。
「手が、あたたかい」
「血のめぐりがよくなりましたので」
「今のも記録しない」
「かしこまりました」
フードの陰で、耳の先が赤くなっていた。見なかったことにする。美容師は、見なかったことにするのも仕事のうちだ。
仕上げに、樹脂を溶いた薄い液を爪に塗った。前世の透明なマニキュアの代わりである。割れにくくなり、ほんの少しだけ光る。
彼女は両手を目の前に広げて、ひっくり返し、また戻した。昨日も同じことをしていた。
「……爪が、10枚ある」
「ございます」
「光ってる」
「少しだけ」
*
「検証する」
来た、と思った。俺は張り紙を指さした。
「外でお願いします」
店の裏には、小さな空き地がある。塀の上に、小石を5つ並べた。
彼女は杖を使わず、右手の指を2本立てた。指で印を結ぶ撃ち方だという。細かい的には、杖よりこちらが向いているらしい。
指先から、細い光の矢が出た。
1つ目の小石の真ん中に、穴があいた。
2つ目。3つ目。4つ目。5つ目。全部、真ん中だった。
「……10発中、10発」
「5発しか撃っておりませんが」
「5発で5つとも中心。10発撃てば10発。計算上」
彼女は自分の指先を見つめていた。
「いつもは、10発で8発」
「それは、前髪があったころの数字ですか」
「そう」
「3割の視界で、8発当てていらしたんですか」
「計算すれば、当たる」
この人は、たぶん天才である。昨日からうすうす思っていた。
「指先が、ぶれない。爪の引っかかりがないから、印が正確に結べる。……それだけじゃない」
彼女は左手も上げた。
「出ていくところが、なめらか。髪のときと、同じ感じ」
「同じ、ですか」
「髪を整えたら、流れ方が変わった。爪を整えたら、出方が変わった」
夜の色の目が、まっすぐ俺を見上げた。
「ほかは?」
「ほか?」
「ほかに、整えるところ。全部調べる」
「ミルテ様。ひとつよろしいですか」
「何」
「5つ目の矢が、塀を抜けております」
小石の後ろの塀に、指の太さの穴があいていた。向こうの路地が見える。
「…………」
「塀は、大家さんのものでして」
「……弁償する」
張り紙を、もう1枚作ることにした。
*
彼女は銀貨を2枚、きっちり数えて置いた。それから塀の修理代を別に置いた。こちらもきっちりだった。
「予約。明日。明後日。その次も」
「髪は3日おきと申し上げました」
「髪以外なら毎日でいいと言った」
「申しておりません」
彼女は帳面を開いて、俺の顔の前に出した。
記録。店主、髪は毎日洗うと傷むと発言。髪以外については、制限に言及せず。
「……言及は、しておりませんね」
「記録にある」
予約表が、一気に埋まった。
明日 昼 ミルテ様 お手入れ
明日 夕方 ジークリット様 洗髪とお手入れ
明後日 昼 ミルテ様 お手入れ
その次 昼 ミルテ様 お手入れ
昼と夕方なので、2人が顔を合わせることはない。同じパーティーの仲間が、互いに内緒で同じ店に通っている。
俺はどちらにも「言わないで」と言われている。正確には、1人は言われていないが、聞いても店の名を答えなかったそうなので、同じことだろう。
板ばさみである。開店24日目にして、お客様2人で板ばさみになる美容師もめずらしい。
*
それからの3日間は、こうだった。
25日目。昼にミルテ様。手の保湿をもう一度と、指の付け根のこり。夕方にジークリット様。洗髪のあと、金貨をもう1枚置いていった。止めたが、置いていった。
26日目。ミルテ様。眉をもう少し整えた。
27日目。
「今日は、何を切るの」
「ミルテ様。もう、切るところも、整えるところもございません」
「前髪」
「紙1枚ぶんです」
「それを切って」
切った。紙1枚ぶんである。鋏を入れたのかどうか、自分でも分からなかった。
彼女は銀貨を1枚置いて、満足そうに帰っていった。
帳面を開く。
来店:9名(うち再来店6名)
売上:銀貨17枚
預かり金:金貨3枚弱
断った男性客:78名
備考:塀に穴。前髪、紙1枚ぶん
常連が2人できた。売上もある。家賃も払える。
帳面を閉じて、鎧戸を閉めようと窓に寄ったときだった。
通りの向かいに、誰かが立っている。
厚いローブを着こんだ、背の高い人影だった。この陽気に、首もとまできっちり布を巻いている。
その人は、うちの看板をじっと見ていた。
目が合うと、ひらひらと手を振って、角の向こうへ消えていった。




