第3話 兜の理由
【ジークリット視点】
宿の部屋に戻って、鍵をかけた。
窓の鎧戸を閉める。隙間に布を詰める。ランプの火を小さくする。
それから兜を脱ぐ。9年間、毎晩同じ順番でやってきた。
今夜は、帯が引っかからなかった。
いつもなら髪が革に巻きこまれて、何本かちぎれる。その痛みで1日が終わる。今夜は何も起きず、兜はするりと抜けた。
膝の上の兜を、私はしばらく見ていた。
*
私の家は、代々の騎士の家である。
父は王国騎士団の百人長だった。母は穏やかな人で、近所でも評判の美人だった。頬のひびが深く、髪は麦わらのように乾いていた。
私は母に似なかった。
物心ついたころから、母は毎晩、私の頬に粉を擦りこんでくれた。灰色の、ざらざらした粉だ。痛かったが、泣くと母が悲しむので泣かなかった。
朝になると、頬は元に戻っている。
ひびが育たない肌だった。擦っても擦っても、ひと晩で治ってしまう。髪に灰の水をかけても、3日もすれば艶が戻る。
母は粉の量を増やした。石で擦ることも試した。頬から血がにじんだ夜、母は私を抱いて泣いた。
「ごめんね。きれいに産んであげられなくて」
母は悪くない。私はそう言いたかった。7歳の私には、うまく言えなかった。
母は私が12歳の冬に病で亡くなった。最後まで、私の頬を気にしていた。
*
15歳の春に、縁談が来た。
相手は父の同僚の息子で、同い年の騎士見習いである。まじめな少年だという。
顔合わせの日、私は薄布をかぶって席についた。
作法では、茶が出たら布を上げる。私は上げた。
少年は私の顔を見た。
そして、何も言わなくなった。
嫌な顔はしなかった。目をそらしもしなかった。彼は礼儀正しかったのだ。ただ、言葉を探して、探して、見つからないという顔をしていた。
茶が冷めるころ、彼はようやく口を開いた。
「……剣の腕が、たいそうお見事だと、うかがっています」
顔のことは、ひと言も言わなかった。
彼なりの、精一杯の優しさだったのだと思う。
翌日、丁寧な手紙が届いた。ご息女には何の非もない。当方の未熟ゆえである。そう書いてあった。
父はその手紙を3度読み、黙って暖炉にくべた。
*
その夜、父が私の部屋に来た。
手に、古い兜を持っていた。父が若いころに使っていたものだ。鍛冶屋に頼んで、私の頭に合わせて打ち直させたのだという。
「これをかぶっていろ」
父は私を責めなかった。慰めもしなかった。
「これをかぶっていれば、皆、お前の剣だけを見る。剣だけなら、お前は誰にも負けん」
父は不器用な人だ。娘に贈るものを、ほかに思いつかなかったのだろう。
私は兜をかぶった。
鉄の内側は暗く、自分の息の音がよく聞こえた。
暗いのに、ほっとした。それが少しだけ悲しかった。
*
18歳で騎士団の入団試験を受けた。
兜のまま受けた。結果は首席。父は何も言わず、その夜の酒を1杯多く飲んだ。
叙任の式には、決まりがある。王の前では兜を脱ぐ。
私は脱いだ。
広間が静かになった。
並んでいた同期の新人たちが、順番に目を伏せていく。誰も笑わなかった。指をさす者もいなかった。皆、気の毒そうに黙っただけだ。
笑われたほうが、まだ楽だったかもしれない。
ひと月後、団長に呼ばれた。
団長は立派な人だった。私の剣を、団の誰よりも高く買ってくれていた。
「君の腕は惜しい。本当に惜しい」
団長はそう言って、長いこと机の上の手を見ていた。
「だが、隊というのは、顔を合わせて飯を食うものだ。皆、君に気をつかっている。君の前で、誰も妻や恋人の話をしなくなった。皆が疲れている。……君も、疲れているだろう」
そのとおりだった。私は疲れていた。
「辞めろとは言わん。ただ、君には、もっと息のしやすい場所があるのではないか」
団長は私のために言ってくれたのだ。それは分かっている。
私は翌日、騎士団を辞めた。
*
冒険者ギルドは、兜のまま登録できた。
顔を見せろとは誰も言わない。魔物は、こちらの顔など気にしない。
息はしやすかった。
ただ、組む相手がいなかった。兜を一度も脱がない女と、命を預け合おうという者はいない。
だから最初の2年間、私は誰ともパーティーを組まなかった。依頼は1人で受け、1人で斬り、1人で帰る。その繰り返しである。
ある日ギルドの隅で、同じように余っている者を2人見つけた。フードを目の下まで下ろした小柄な魔術師と、季節外れの厚いローブを着こんだ治癒師だった。
2人とも、誰にも声をかけられずに座っていた。
私はこの2人とパーティーを組むことにした。
誰も何も聞かなかった。聞かれたくないことは、聞かない。組むときに決めたのは、それだけである。
パーティーを組んで4年になる。私は24歳になった。互いの素顔は、今も知らない。
あの式の日から、父の兜を、私は一度も人前で脱がなかった。
今日までは。
*
指を、髪に通してみる。
通る。耳の横から毛先まで、止まらずに通る。
あの店主は、私の顔を見て「美しい」と言った。
信じてはいない。あれは目の悪い男だ。本人がそう言っていた。世間と物差しが逆なのだと。気の毒な話である。
だが、あの男は気の毒そうな顔をしなかった。
言葉を探しもしなかった。席も立たなかった。私の顔を見て、すぐに鋏を持ち直して、前髪を切った。
15歳のあの日から、私の顔を見てそうした者は、1人もいなかったのだ。
もう一度、指を通す。
頭が軽い。首が回る。
その夜、私は9年ぶりに、兜を枕元に置かずに眠った。
*
翌朝の依頼は、王都の北の岩場に出た岩喰い蜥蜴の討伐だった。
馬ほどの大きさで、背中が岩のように固い。いつもなら、私が正面で引きつけ、ミルテが魔法で背を割り、そこへ斬りこむ。3手かかる相手である。
蜥蜴が口を開けて突っこんできた。
私は踏みこんで、剣を振った。
手ごたえがなかった。
空振りかと思った。振り返ると、蜥蜴が頭から尾まで2つになって転がっている。その後ろの岩も、斜めに滑り落ちていた。
岩場が静かになった。
「…………今の、何」
ミルテの声がした。フードの奥から、めずらしく長い言葉が続く。
「背甲は割ってない。私はまだ詠唱の2節目。なのに斬れた。岩ごと。説明して」
「分からん」
本当に分からなかった。
ただ、剣がいつもより軽かった。腕から刃の先まで、何かが詰まらずに流れていく感じがした。兜の中がかゆくないので、蜥蜴の動きが最後までよく見えていた。
「あらあら。今日はずいぶん機嫌がいいのねえ。岩のことは、報告書に何て書こうかしら」
カタリーナが、ローブの袖を口もとに当てて笑う。
「それに、いつもと何か違うわ。兜の裾から、毛がはみ出していないもの」
「……髪を、切った」
「どこで」
ミルテが間を置かずに聞いた。
私は答えなかった。
あの店の名は、なぜだか言いたくなかった。聞かれたくないことは、聞かない。それが私たちの決まりである。
ミルテはフードの奥で、じっとこちらを見ていた。
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【レン視点】
開店22日目。
俺は朝から、扉を17回見た。
来るわけがない。昨日の今日である。髪は切ったばかりだ。次に切るのは早くてもひと月先だろう。
分かっている。分かっているが、見てしまう。前世で3か月待ちだった男が、たった1人のお客様を待って、扉の鈴ばかり気にしている。
昼に鈴が鳴った。
「レン、髭を」
「親方の店へどうぞ」
64人目である。
夕方、もう一度鈴が鳴った。
「親方の店へ――」
鎧だった。
がしゃん、がしゃんと入ってきて、何も言わずに椅子に座る。椅子がまた悲鳴を上げた。
「いらっしゃいませ、ジークリット様。本日は」
「昨日の術を頼む」
「洗髪ですね」
「せんぱつだ」
兜が、重々しくうなずいた。
*
鏡に布をかけ、鎧戸を閉め、鍵をかける。
彼女は今日、自分から帯に手をかけた。昨日ほど時間はかからなかった。
湯気は今日も出た。
「今日は何か、激しい運動を」
「蜥蜴を斬った」
「さようでございますか」
美容師を20年やっていると、たいていの返事には驚かなくなる。
椅子を倒す。今日は剣の柄に手が行かなかった。大きな進歩である。俺の寿命にとっても。
湯をかけて、指の腹でほぐしていく。
「おかゆいところは」
「今日は、右の後ろだけだ」
「昨日は全部でしたね」
「昨日は、9年ぶんだった」
さらりと言われた。9年。聞き返したかったが、のみこんだ。お客様が自分から話すまで、美容師は待つ。
かわりに、右の後ろを念入りに洗った。
*
洗い終えて、髪油をなじませ、布で水気を取る。
「本日は洗髪とお手入れで、銀貨2枚です」
金貨が置かれた。
「ジークリット様。昨日の金貨のお釣りが、まだたっぷり残っております。本日のお代は、そこからいただきます」
「では、これは次のぶんだ」
「次の次の次の次のぶんくらいまであります」
「では、そのぶんだ」
金貨は台の上から動かなかった。
帳面に「預かり金」という欄を作ることにする。開店22日目で、売上より預かり金のほうが多い店になった。
「あの、差し支えなければ。お仕事は」
「冒険者だ」
「蜥蜴を斬る」
「蜥蜴も斬る」
「失礼ですが、ランクのほうは」
「Sだ」
俺は鋏を落とした。足の上でなくてよかった。
床屋にいたころ、冒険者のお客様からさんざん聞かされている。Sランクというのは、王国に3組しかいない。竜が出たら呼ばれる人たちだ。
金貨の謎は解けた。
昨日、その人の背後で椅子を倒したのである。指3本ぶんの刃で済んだのは、たぶん奇跡だった。
*
「それでは、次回のご予約はいかがなさいますか」
「よやく?」
「あらかじめ、次にお越しになる日と時間を決めておくんです」
「決めると、どうなる」
「その時間は、ジークリット様だけのお時間になります。ほかのお客様は入れません。鏡も窓も、最初から閉めてお待ちしております」
ほかのお客様がいないことは、あえて言わなかった。
彼女は動かなくなった。
「……私だけの?」
「はい」
「その時間は、誰も来ない」
「来ません」
「毎日だ」
「毎日は洗いすぎです。髪に必要な脂まで落ちてしまいます」
「では、いつならいい」
「3日おきがよろしいかと」
「3日?」
不服そうだった。王国に3組しかいない人が、3日を不服そうにしている。
俺は予約表を広げて、最初の行に書きこんだ。
3日後 夕方 ジークリット様 洗髪とお手入れ
開店以来、初めての予約だ。裏は母さんの買い物の覚え書きである。
彼女は予約表をのぞきこんで、自分の名前のところを長いこと見ていた。
*
帰りぎわに、彼女は兜を手に持ったまま、布のかかった鏡の前で足を止めた。
かぶらない。
俺は黙って待った。
「……お前の目には」
「はい」
「私は、どう見えている」
昨日は口が先に出て、怒らせた。今日は言葉を選ぶ。
「きれいな方に見えています。それから、髪がよく手入れされた方に」
「髪は、お前がやったんだろう」
「はい。ですから、そこだけは自信があります」
彼女は鼻で短く息を吐いた。笑ったのだと思う。
それから手を伸ばして、鏡の布の端をつまんだ。
全部は取らなかった。片側を、手のひらの幅だけ、そっとめくる。
鏡の中に、金色の髪と、灰色の片目が映った。
彼女はすぐに顔をしかめた。15年か20年か、ずっと嫌ってきたものを見る目だった。そう簡単に変わるものではない。
それでも、布は戻さなかった。
しばらくして、小さな声がした。
「……髪は」
「はい」
「髪は、悪くない」
彼女は布を下ろして、兜をかぶった。帯は今日も引っかからなかった。
「3日後だ」
「お待ちしております」
鈴が鳴って、鎧が出ていく。
俺は帳面を開いた。
来店:3名(うち再来店1名)
売上:銀貨5枚
預かり金:金貨2枚弱
断った男性客:64名
備考:髪は悪くない、とのこと
来たときより、少しだけ。
今日のところは、髪だけだ。
十分である。初回から全部を好きになってもらおうなんて、2万2千円の美容師でも思わない。




