第二章 白いノートの端
次の日の朝、教室に入ると、滝さんはもう席に座っていた。
窓の外は、昨日より少しだけ明るかった。
桜は相変わらず散っている。
校庭の端に、薄い花びらが少しずつ集まっていた。
僕は自分の席へ向かいながら、右隣をちらりと見た。
滝さんは、昨日と同じようにノートを開いていた。
そして、やっぱり何かを描いていた。
授業前だから、先生に注意される心配はない。
でも、あまりにも自然に描いているので、最初からそこにいるのが当たり前みたいだった。
僕は椅子を引いて座った。
「おはよう」
先に声をかけたのは、滝さんだった。
「おはよう」
僕が返すと、滝さんはノートから顔を上げた。
「生存確認」
「え?」
「昨日のぴょん吉を見て、今日も来たかどうか」
「それ、生存確認なんだ」
「一応」
「確認されました」
そう言うと、滝さんは小さくうなずいた。
「よろしい」
よろしい。
如月さんみたいな言い方だと思ったけれど、昨日会ったばかりの人をすぐ例に出すのも変なので、黙っておいた。
滝さんのノートの端には、今日もぴょん吉がいた。
昨日より少しだけ小さい。
ノートの右下に、遠慮がちに立っている。
片方の耳がぴんと立っていて、もう片方は少し折れている。
顔は丸い。
体は小さい。
目は、相変わらず何かを疑っているようだった。
でも、昨日より少しだけ描きやすそうな形をしている。
「昨日と違う」
僕が言うと、滝さんは少しだけ嬉しそうにした。
「改良版」
「改良されてるんだ」
「ノートの端に描くには、昨日のは少し態度が大きかった」
「態度?」
「場所を取る」
「ああ」
滝さんはシャーペンで、ぴょん吉の横に小さく文字を書いた。
『省スペース版。』
「省スペース」
「ノートの端なので」
「確かに」
僕は、自分のノートを開いた。
昨日、美術室で描いた弱めのぴょん吉が、端に残っている。
『新学期、警戒中。弱め。』
それを見ると、少しだけ恥ずかしくなった。
真似したのが分かりすぎる。
でも、消そうとは思わなかった。
藤野先生が言っていた。
同じものを見て描いても、線は人によって変わる。
無理に本物と同じにしなくてもいい。
そう言われたからか、昨日よりその線が少しだけましに見えた。
上手くはない。
でも、残してもいい。
それくらいには思えた。
「それ」
滝さんが僕のノートを見た。
僕は反射的に少し隠そうとして、途中でやめた。
「昨日、描いてみた」
「ぴょん吉?」
「たぶん」
「弱い」
「自分でも思った」
「でも、いる」
「いる?」
「うん。弱いけど、いる」
滝さんは真面目な顔でそう言った。
馬鹿にしている感じではなかった。
むしろ、ちゃんと見ている顔だった。
「滝さんのとは違うけど」
「違う方がいいのでは」
「そういうもの?」
「たぶん」
「たぶんが多いね」
「確定できることが少ないので」
滝さんはそう言って、自分のノートの端にもう一匹、小さなぴょん吉を描いた。
今度のぴょん吉は、僕のノートの方を見ている。
少しだけ首をかしげている。
横に一言。
『弱め、確認。』
「それ、僕の?」
「佐倉くん版」
「版ができた」
「仮です」
「仮なんだ」
「審査中」
僕は少し笑った。
滝さんの言葉は、いちいち変だった。
でも、その変さに少し慣れてきている自分がいた。
昨日は、滝さんのノートの端にいた未確認生物を見て、ただ驚いた。
今日は、自分のノートの端にも似たようなものがいる。
一日で、少しだけ教室の見え方が変わった気がした。
朝のホームルームが始まった。
担任の先生が、提出物のことや、委員会のことを話している。
僕はノートを開いたまま、先生の話を聞いていた。
けれど、視線は時々、ページの端に落ちた。
白いノートの端。
そこに小さく描かれた弱めのぴょん吉。
昨日までなら、そんなものはなかった。
真っ白なページを見ると、少し怖かった。
何かを間違えて書いたら、そこだけ汚れる気がしていた。
でも今は、端に小さな線があるだけで、ページの白さが少しやわらいで見える。
不思議だった。
落書き一つで、紙の怖さが少し薄くなる。
授業中、滝さんは真面目にノートを取っていた。
ずっと落書きしているわけではないらしい。
板書はきれいだった。
文字は少し丸い。
でも、必要なことはちゃんと書いている。
その端に、時々ぴょん吉が増える。
数学の時間には、数字の横で頭を抱えていた。
英語の時間には、単語の横で口を閉じていた。
理科の時間には、なぜか試験管の中に入っていた。
僕は見ないようにしようとした。
でも、見えてしまう。
そして、少し笑いそうになる。
滝さんは、たぶんそれに気づいていた。
気づいていて、何も言わなかった。
昼休み、如月さんがまた教室へ来た。
昨日より少しだけ慣れた気がしたけれど、やっぱり背筋が伸びていて、近くに来ると少し緊張する。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
どうやら二人で昼休みに一緒に食べるらしい。
滝さんは弁当箱を出した。
僕も鞄から弁当を取り出しながら、特に会話に入るつもりはなかった。
でも、如月さんは僕のノートに目を止めた。
「佐倉」
「はい」
「それは何だ」
僕はノートの端を見た。
弱めのぴょん吉。
見られた。
「ぴょん吉……のつもりです」
「夏美の真似か」
「はい」
「似ていないな」
「自覚あります」
「だが、悪くない」
如月さんは短く言った。
昨日と同じだ。
厳しいけれど、悪意はない。
僕は少しだけほっとした。
「ありがとうございます」
「礼を言うほどではない」
「でも、馬鹿にされるかと思ったので」
そう言うと、如月さんは少しだけ眉を寄せた。
「馬鹿にするなら、ちゃんと理由がある時にする」
「それはそれで怖い」
「冗談だ」
「冗談なんですか」
「半分」
「半分」
滝さんが横で小さく笑った。
「沙耶、初対面二日目で厳しい」
「厳しくない。正確だ」
「それが厳しい」
「必要だ」
必要。
昨日も聞いた言葉だった。
でも、まだそれが如月さんの口癖なのかどうかは分からない。
ただ、彼女がそう言うと、妙に説得力がある。
如月さんは滝さんのノートを見た。
「また増えている」
「今日は省スペース版」
「省スペースなのに増えたら意味がないだろう」
「厳しい」
「事実だ」
「でも、佐倉くん版も増えた」
「見た」
「弱いでしょ」
「弱いな」
「でも、いる」
「それはそうだ」
如月さんは、僕のノートの端をもう一度見た。
「佐倉」
「はい」
「消すな」
「え?」
「描いたなら、残しておけばいい」
少し意外だった。
如月さんはもっと、「授業中に落書きするな」と言いそうな人に見えた。
いや、実際には言うかもしれない。
でも、今はそうではなかった。
「下手でもですか」
「下手かどうかは知らん」
「いや、似てないって」
「似ていないことと、下手なことは同じではない」
その言葉に、僕は少し黙った。
藤野先生が昨日言ったことと、少し似ている気がした。
同じものを見て描いても、線は人によって変わる。
無理に本物と同じにしなくてもいい。
如月さんは美術の先生ではない。
でも、言っていることの奥は近いように感じた。
「分かりました」
「ならよい」
如月さんはそう言って、滝さんの方を向いた。
「夏美、昼休みが終わる」
「まだ始まったばかり」
「油断するとすぐ終わる」
「沙耶は昼休みにも厳しい」
「時間は厳しい」
「それはそう」
僕は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。
滝さんと如月さんの会話は、昨日より自然に聞こえた。
二人の間には、僕が知らない時間がある。
それは当たり前だ。
昨日会ったばかりの僕が、そこに急に入れるわけではない。
でも、少し離れたところから見ているだけでも、嫌ではなかった。
むしろ、少し面白かった。
放課後、美術室へ向かう途中、僕はノートを鞄から出してもう一度見た。
弱めのぴょん吉。
消すな。
如月さんの言葉が、頭に残っていた。
下手かどうかは知らん。
似ていないことと、下手なことは同じではない。
厳しいようで、ちゃんと救いがある言葉だった。
美術室では、今日から少しだけ通常の活動が始まった。
といっても、最初は自由制作の続きだった。
僕は前から描いていた静物画の続きを出した。
瓶と、布と、古い木箱。
あまり面白い題材ではない。
でも、描いていると落ち着く。
線を引く。
影をつける。
消しゴムで少し戻す。
また線を引く。
絵を描いている間だけは、余計なことを考えなくて済む。
進路のこと。
体調のこと。
三年生になったこと。
そういうものが、少し遠くへ行く。
藤野先生が、僕の机の横に来た。
「昨日の未確認生物、今日も描いた?」
「少しだけ」
僕はノートを見せた。
先生はそれを見て、少し笑った。
「昨日より残ってる感じがする」
「残ってる感じ?」
「うん。昨日はおそるおそる真似した感じだったけど、今日はちゃんと端にいる」
「如月さんにも、消すなって言われました」
「如月さん?」
「滝さんの友達です。剣道部の」
「ああ、如月さんね」
藤野先生は名前を知っているようだった。
「しっかりした子よね」
「かなり」
「何て言われたの?」
「似ていないことと、下手なことは同じではない、って」
先生は少しだけ目を細めた。
「いいこと言うわね」
「はい」
「じゃあ、消せないわね」
「消しにくくなりました」
「それでいいのよ」
先生はそう言って、静物画の方を見た。
「こっちも、線が少し慎重ね」
「慎重ですか」
「悪い意味じゃないわよ。佐倉は、最初の線をすごく考えるから」
「そうかもしれません」
「でも、線って引かないと始まらないから」
先生はやわらかく言った。
「ノートの端でも、静物画でも、一本目があると少し進むでしょ」
僕は、自分の絵を見た。
瓶の輪郭。
布のしわ。
木箱の角。
そこにも確かに、最初の線がある。
当たり前だけど、絵は白紙のままでは始まらない。
ノートの端に描いた弱めのぴょん吉も、同じなのかもしれない。
上手いかどうかは別として。
描いたことで、そこに何かが始まった。
部活が終わる頃、窓の外は夕方の色になっていた。
美術室を出て廊下を歩くと、吹奏楽部の音が遠くから聞こえた。
クラリネットの音がどれなのか、僕にはまだ分からない。
でも、その中に滝さんの音もあるのかもしれないと思った。
階段を下りる途中で、昇降口の方から如月さんの声が聞こえた。
見ると、滝さんと如月さんが立っていた。
滝さんは楽器ケースを持っている。
如月さんは竹刀袋を肩にかけている。
二人とも部活帰りらしい。
「あ」
滝さんが僕に気づいた。
「佐倉くん」
「お疲れ」
「美術部?」
「うん」
「生存確認、放課後版」
「確認されました」
そう答えると、如月さんが僕を見た。
「それは何だ」
「僕にも分かりません」
「夏美」
「はい」
「また変な言葉を増やすな」
「でも必要」
「必要かどうかは審査する」
「厳しい」
滝さんが言うと、如月さんは当然のように返した。
「厳しいのはいいことだ」
昨日も聞いた。
今日も聞いた。
たぶん、これは如月さんらしい言葉なのだろう。
僕は少しだけ笑った。
「佐倉、笑ったな」
「すみません」
「謝るところではない」
「それ、滝さんも言います」
「夏美が?」
「言います」
如月さんは滝さんを見た。
滝さんは少しだけ目をそらした。
「似てきた?」
「似るな」
「厳しい」
「当然だ」
そんなやり取りをしながら、三人で昇降口へ向かった。
三人で帰るというほどではない。
校門までの短い距離を、たまたま一緒に歩いただけだ。
でも、昨日より少し自然だった。
滝さんは僕のノートの話を如月さんにしていた。
如月さんは、「授業中に増やしすぎるな」と言った。
僕は「そこまで増えません」と答えた。
滝さんは「増える時は増える」と言った。
如月さんは「増やすな」と言った。
何でもない会話だった。
でも、僕はその何でもなさを少し覚えていたいと思った。
校門のところで、二人と別れた。
滝さんと如月さんは同じ方向へ。
僕は少し違う方向へ。
「また明日」
滝さんが言った。
「うん。また明日」
「生存確認、明日版」
「予約制?」
「仮予約」
「分かりました」
如月さんが横で小さく息を吐いた。
「変な予約をするな」
「明日来るだけ」
「ならよい」
ならよい。
その言葉を聞いて、僕はまた少し笑った。
家に帰ると、母さんにまた聞かれた。
「今日はどうだった?」
「ぴょん吉が増えた」
「何の報告?」
「新しいクラスの報告」
「そう」
母さんはよく分からなそうにしながらも、少し笑った。
「楽しそうね」
「まだ分からない」
「昨日もそんな顔してた」
「顔に出てる?」
「少し」
僕は少しだけ困った。
顔に出るのは、やっぱり便利ではない。
でも、今日は嫌ではなかった。
夜、自分の部屋でノートを開いた。
昨日のぴょん吉。
今日のぴょん吉。
まだ二匹しかいない。
でも、白いノートの端は、もう完全な白紙ではなかった。
僕はシャーペンを持った。
少し迷ってから、今日の分を描き足す。
昨日より少しだけ耳を短くする。
体を小さくする。
目は弱め。
でも、消さない。
横に一言。
『二日目、確認済み。』
書いてから、少しだけ笑った。
明日も教室へ行く。
隣には、滝さんがいる。
たぶん、ぴょん吉もいる。
如月さんも昼休みに来るかもしれない。
美術室には藤野先生がいる。
それだけで、新学期の白さが少し薄くなる。
まだ、春は始まったばかりだった。




