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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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第一章 ノートの端の未確認生物

 四月の教室は、少しだけ落ち着かなかった。


 新しいクラス。


 新しい席。


 新しい教科書。


 まだ馴染んでいない制服の襟。


 黒板の上に貼られた真新しい時間割。


 窓の外では、校庭の桜が少しだけ残っていた。


 満開はもう過ぎている。


 けれど、風が吹くたびに、薄い花びらが校庭の端へ流れていく。


 僕は自分の席に座りながら、それをぼんやり見ていた。


 中学三年生になった。


 そう言われても、正直あまり実感はなかった。


 教室が変わっただけ。


 机の位置が変わっただけ。


 周りの顔ぶれが少し変わっただけ。


 そう思おうとした。


 でも、どこか違う。


 三年生。


 受験生。


 その言葉が、まだ春の空気の中では少し重すぎる。


 先生たちは、もう何度か「進路」という言葉を使っていた。


 まだ四月なのに。


 まだ桜が残っているのに。


 もう卒業の方を見なければいけないらしい。


 僕は、机の上に置いた真新しいノートを見た。


 表紙の角がまだきれいだった。


 折れ目もない。


 汚れもない。


 その真っ白さが、少しだけ苦手だった。


 何かを書き始める前の紙は、いつも少し怖い。


 失敗したら目立つ。


 線が曲がったら残る。


 だから僕は、最初の一筆を入れるまでに少し時間がかかる。


 美術部に入っているくせに、そういうところがある。


 絵を描くのは好きだ。


 でも、描き始めるまでは少し怖い。


 白い紙に、自分の線が残ること。


 それは、思っているより勇気がいる。


「はい、じゃあ席替えはこのままでいくぞ」


 担任の先生の声で、教室が少しざわついた。


 席替えと言っても、始業式の日に仮で座った席を、そのまま正式にするというだけだった。


 僕の席は、窓際から三列目。


 後ろから二番目。


 悪くない。


 黒板も見える。


 窓の外も少し見える。


 先生に当てられにくいかどうかは、まだ分からない。


 僕は周りを見た。


 前の席には、去年も同じクラスだった男子。


 後ろには、ほとんど話したことのない女子。


 そして、右隣。


 そこに座っていたのが、滝夏美さんだった。


 滝さん。


 同じ学年なのは知っていた。


 でも、去年まで同じクラスになったことはない。


 名前と顔くらいは分かる。


 吹奏楽部で、たしかクラリネットかフルートか、そのあたりの楽器をやっていたはずだ。


 どちらだったかは自信がない。


 髪は肩より少し長く、いつも整っている。


 派手な感じではない。


 でも、教室の中でふと目に入る人だった。


 今は、新しいノートを開いて、何かを書いている。


 いや、書いているというより、描いている。


 先生が話している最中なのに。


 僕は、見ないようにしようとした。


 隣のノートをじろじろ見るのはよくない。


 でも、視界の端に入ってしまった。


 ノートの右下。


 そこに、小さな生き物のようなものがいた。


 丸い体。


 短い手足。


 妙に目つきが悪い。


 うさぎのように見える、でもカエルのようにも見える


 顔は可愛いうさぎ?でも目つきめっちゃ悪い


 何だろう。


 かなり変な生き物だった。


 僕が少し見てしまったことに、滝さんは気づいたらしい。


 彼女はノートの端を少し隠した。


 そして、こちらを見た。


「見た?」


 小さな声だった。


 先生の話の邪魔にならないくらいの声。


 僕は少し焦った。


「ごめん」


「謝るほどではない」


「でも、見た」


「確認しました」


 確認。


 その言い方が少し変だった。


 滝さんは、ノートの端をもう一度見た。


 そして、隠すのをやめた。


「ぴょん吉」


「え?」


「名前」


「ああ」


 僕はノートの右下の生き物を見た。


 ぴょん吉。


 名前があるらしい。


 目つきは悪い。


 でも、名前は妙に軽い。


「うさぎ?」


 僕が聞くと、滝さんは少しだけ考えた。


「未確認生物」


「未確認なんだ」


「たぶん跳ぶ」


「たぶん」


「だから、ぴょん吉」


 説明されても、あまり分からなかった。


 でも、そういうものなのだと思った。


 滝さんは、ぴょん吉の横に小さく文字を書いた。


『新学期、警戒中。』


 僕は思わず少し笑った。


 そのぴょん吉は、たしかに警戒している顔だった。


 目つきが悪いせいで、常に何かを疑っているように見える。


 でも、その横に「新学期」と書かれると、急に少しだけ親しみが出る。


 僕も今、似たような顔をしているのかもしれない。


 新しい教室。


 新しい席。


 新しい隣の人。


 全部に少し警戒している。


「笑った」


 滝さんが言った。


「ごめん」


「謝るところではない」


「じゃあ」


「本採用」


「え?」


「笑ったので、本採用」


 滝さんはそう言って、ぴょん吉の横に小さく丸をつけた。


 本採用。


 また変な言葉だった。


 でも、嫌な感じはしなかった。


 その時、担任の先生がこちらを見た気がして、僕たちは同時に前を向いた。


 先生は進路の話をしていた。


「三年生は、あっという間だぞ。まだ四月と思っているかもしれないが、夏が来て、秋になったら、もう進路の話が本格的になる。今のうちから、自分がどうしたいのか、少しずつ考えておくように」


 教室の空気が、少しだけ重くなる。


 まだ四月なのに。


 やっぱり、もうその話なのかと思った。


 僕はシャーペンを持ったまま、ノートの端を見た。


 自分のノートには、まだ何も描いていない。


 真っ白なページ。


 滝さんのノートには、もうぴょん吉がいる。


 新学期、警戒中。


 少しだけ羨ましかった。


 白い紙に、すぐ自分の線を置けることが。


 先生の話が終わると、係決めや委員決めが始まった。


 教室は少しずつざわざわしていく。


 誰が何をやるか。


 去年と同じ係がいいとか、楽なのがいいとか、そういう声があちこちから聞こえる。


 僕はあまり目立つ係は避けたかった。


 前に出て何かをするのは得意ではない。


 それに、体調のこともある。


 ずっと悪いわけではない。


 でも、無理をしすぎると、あとから急に来ることがある。


 小さい頃から、母さんにはよく言われていた。


 無理をしないこと。


 早めに言うこと。


 休むことを悪いことだと思わないこと。


 そう言われても、なかなか難しい。


 周りと同じように動けないことがあると、どうしても気になる。


 大げさに心配されるのも嫌だ。


 何も知らずに無理をさせられるのも困る。


 その中間が、いつも難しかった。


「佐倉くん」


 隣から声がした。


「うん」


「何か係やる?」


「なるべく静かなやつ」


「静かな係」


「あるかな」


「黒板係?」


「わりと前に出る」


「図書係?」


「本は好きだけど、委員会がありそう」


「美化係?」


「掃除は普通にある」


「普通って難しいね」


「うん」


 普通。


 その言葉が、少しだけ引っかかった。


 滝さんはノートの端に、またぴょん吉を描いた。


 今度のぴょん吉は、腕を組んで首をかしげている。


『普通、審査中。』


 僕はまた少し笑った。


「それ、何でもぴょん吉になるんだね」


「なる」


「便利」


「便利です」


「でも、目つき悪い」


「そこが重要」


「重要なんだ」


「かわいすぎると、言えないことがある」


 その言葉に、少しだけ意外な感じがした。


 かわいすぎると、言えないことがある。


 滝さんは変なことを言っているようで、たまに急に分かることを言う。


 たしかに、ぴょん吉はかわいすぎない。


 目つきが悪い。


 でも、その分、弱音や不安を少しだけ冗談にできる。


 新学期、警戒中。


 普通、審査中。


 そう書かれると、言葉にするより少し楽になる気がした。


「佐倉くんは」


 滝さんが聞いた。


「美術部?」


「うん」


「絵、描くんだ」


「一応」


「一応?」


「好きだけど、上手いかは分からない」


「好きならいいのでは」


「そうかな」


「たぶん」


 滝さんは、すぐに言い切らなかった。


 たぶん。


 その曖昧さが、逆に少し安心した。


「滝さんは吹奏楽部だよね」


「うん」


「楽器は」


「クラリネット」


「あ、クラリネット」


「何と迷った?」


「フルート」


「惜しい」


「惜しいの?」


「同じ木管なので」


「なるほど」


 ほんとに惜しいかは分からなかったが、納得しておくことにした。


 会話はそこで一度途切れた。


 でも、気まずくはなかった。


 新しい隣の席の人と話す時の、あの探り合いのような感じはあった。


 でも、滝さんの言葉は不思議と角がなかった。


 変な言い方をする。


 ぴょん吉も変。


 でも、その変さが、少しだけ話しやすかった。


 

 昼休みになると、教室の空気は一気に緩んだ。


 ご飯を食べ終えた生徒たちが、あちこちで集まり始める。


 新しいクラスになって、まだ誰と一緒にいるか決まりきっていない人も多い。


 去年からの友達同士で固まる人。


 新しい友達を探すように話しかける人。


 僕は自分の席で、ぼんやり窓の外を見ていた。


 美術部の友達は、別のクラスになった。


 休み時間にわざわざ会いに行くほどでもない。


 だから、今日はこのまま過ごすつもりだった。


 すると、教室の入口に一人の女子が立った。


 背筋がまっすぐ伸びている。


 黒髪を高めの位置で結んでいる。


 いわゆるポニーテールという髪型だ。


 表情は落ち着いていて、同じ中学生なのに少し大人っぽく見えた。


 その女子は教室を見渡して、滝さんを見つけると、まっすぐこちらに歩いてきた。


「夏美」


 名前を呼ばれて、滝さんが顔を上げた。


「沙耶」


 沙耶。


 如月沙耶さん。


 剣道部の人だ。


 学年でも名前は通っている。


 成績も良くて、運動もできて、先生からの信頼も厚い。


 そんな印象だった。


 如月さんは滝さんの机の横に立つと、僕をちらりと見た。


「隣か」


「うん」


 滝さんが答える。


「佐倉くん」


「佐倉です」


 僕は少しだけ姿勢を正した。


 如月さんは、短くうなずいた。


「如月だ」


「知っております」


 ちょっと緊張して言葉が変になった。


「ん、そうか」


 会話が短い。


 でも、威圧的というわけではない。


 ただ、余計な言葉がない。


 如月さんは滝さんのノートを見た。


「また描いているのか」


「新学期なので」


「理由になっていない」


「ぴょん吉も新学期」


「ぴょん吉も進級するのか」


「する」


「そうか」


 如月さんは普通に受け入れた。


 ぴょん吉という未確認生物を。


 たぶん、慣れているのだろう。


 滝さんの親友。


 その距離感が、少しの会話だけで分かった。


 如月さんはぴょん吉の横の文字を見た。


『普通、審査中。』


「何だこれは」


「普通を審査しています」


「誰が」


「ぴょん吉が」


「基準が不安だな」


「厳しい」


 滝さんが言う。


 如月さんは腕を組んだ。


「厳しいのはいいことだ」


「出た」


「何が」


「沙耶の正論」


「正論は大事だ」


 滝さんが少しだけ笑った。


 僕も少し笑いそうになった。


 如月さんの言葉は、短い。


 でも、滝さんとのやり取りには妙なテンポがある。


 ぴょん吉。


 滝さん。


 如月さん。


 新しい教室の中で、少し変な組み合わせが僕の隣にできていた。


「佐倉」


 如月さんが急に僕を見た。


「はい」


「夏美の絵を見て笑ったのか」


「え」


 滝さんが横で少し固まった。


「沙耶」


「確認だ」


「確認しなくていい」


「必要だ」


 僕は少し迷ってから答えた。


「笑いました」


「馬鹿にして?」


「違います」

 

 僕は首を横に振りながら言った。


「ならいい」


 如月さんは即答した。


「夏美の絵は変だが、馬鹿にしていいものではない」


「沙耶」


 滝さんが小さく言った。


「変は認めるんだ」


「事実だ」


「厳しい」


「だが、悪くない」


 如月さんはぴょん吉を見た。


「目つきが悪いところがいい」


「沙耶評価」


「何だそれは」


「高評価です」


「そうか」


 如月さんは、また僕を見た。


「佐倉」


「はい」


「笑うなら、ちゃんと見て笑え」


 少しだけ意味が分からなかった。


 でも、なぜか大事なことを言われている気がした。


「はい」


 僕が答えると、如月さんはうなずいた。


「ならよい」


 その「ならよい」が妙に強くて、僕は少し緊張した。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 昼休みが終わる頃、如月さんは自分の教室へ戻っていった。


 滝さんはノートを見ながら、小さく言った。


「沙耶、初対面だと少し怖いかも」


「少し」


「本当は優しい」


「分かる気がする」


「分かる?」


「言い方は厳しいけど、悪い感じはしなかった」


「うん」


 滝さんは少しだけ嬉しそうにした。


 そして、ノートに新しいぴょん吉を描いた。


 竹刀のようなものを持ったぴょん吉。


 目つきが悪い。


 でも、少しだけ頼もしそうだった。


『沙耶、監視中。』


「それ、如月さん?」


「仮」


「怒られない?」


「たぶん怒られる」


「それでも描くんだ」


「うん」


 滝さんは、竹刀のようなものを持ったぴょん吉を少しだけ見つめた。


 目つきは悪い。


 でも、どこか頼もしそうでもある。


 如月さんのことを、滝さんがどう思っているのか。


 ほんの少しだけ分かった気がした。


 まだ会ったばかりの僕には、それ以上のことは分からない。


 でも、二人の間には、もうずっと前から続いている何かがあるのだと思った。


 

 放課後、僕は美術室へ向かった。


 新学期最初の部活は、簡単な連絡だけだった。


 部員たちは新しい学年になって少し浮ついている。


 後輩たちも入ってくる。


 部長が何かを説明している。


 僕はそれを聞きながら、窓際の席に座った。


 美術室の匂いは、教室とは違う。


 絵の具。


 紙。


 古い木の棚。


 少しだけほこりっぽい空気。


 その全部が、僕には落ち着いた。


 藤野先生は、美術準備室から出てくると、僕を見つけて少し笑った。


「佐倉、新しいクラスはどう?」


「まだ分からないです」


「正直ね」


「隣の席の人が、変な絵を描いてました」


「変な絵?」


「ぴょん吉っていう未確認生物です」


「なにそれ、面白そう」


 藤野先生は笑った。


 僕は少しだけ迷ったあと、今日見たぴょん吉を自分のノートの端に描いてみた。


 丸い体。


 短い手足。


 目つきの悪さ。


 でも、うまく描けない。


 僕が描くと、妙に弱そうになる。


 滝さんのぴょん吉は、もっとふてぶてしかった。


「これ?」


 藤野先生が覗き込む。


「たぶん、違います」


「違うの?」


「本物はもっと目つきが悪いです」


「本物って言うのね」


「未確認生物なので」


 先生はまた笑った。


「でも、いいじゃない」


「これがですか?」


「うん。ちょっと弱そうだけど、そこが面白い」


「弱そうですよね」


「うん。でも、消さなくてもいいと思う」


 藤野先生は、僕のノートを見ながら言った。


「同じものを見て描いても、線は人によって変わるから」


「そういうものですか」


「そういうものよ。だから、無理に本物と同じにしなくてもいいの」


 その言葉を聞いて、僕は自分の描いたぴょん吉を見た。


 確かに弱そうだった。


 滝さんのぴょん吉とは、かなり違う。


 でも、その違いまで消してしまう必要はないのかもしれない。


 そう思うと、少しだけ残しておきたくなった。


 僕は横に小さく文字を書いた。


『新学期、警戒中。弱め。』


 書いてから、少しだけ笑った。


 滝さんのぴょん吉の真似だ。


 まだ自分のものになったとは言えない。


 でも、ノートの端に残しておくくらいなら、悪くない気がした。


 部活が終わり、帰る頃には夕方になっていた。


 校庭の桜は、朝より少し散っていた。


 花びらが、昇降口の近くにいくつか落ちている。


 僕は靴を履き替えながら、今日のことを思い返した。


 四月の教室。


 隣の席。


 滝さん。


 ぴょん吉。


 如月さん。


 藤野先生。


 何かが始まった。


 そんな大げさなことを言うほど、まだ何も起きていない。


 ただ、新しいクラスで隣になっただけ。


 変な絵を見ただけ。


 少し話しただけ。


 でも、白いノートの端に、最初の線が入ったような感じがした。


 まだ何の絵になるか分からない。


 失敗するかもしれない。


 途中で消したくなるかもしれない。


 それでも、もう白紙ではない。


 

 家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


「新しいクラス、どうだった?」


「変な絵を描く人が隣だった」


「なにそれ」


「ぴょん吉」


「ぴょん吉?」


「未確認生物」


 母さんは少し不思議そうな顔をしたあと、笑った。


「楽しそうね」


「そうかな」


「顔が少し楽しそう」


「出てる?」


「出てる」


 僕は鞄を置きながら、少しだけ困った。


 顔に出るのは、あまり便利ではない。


 でも、今日は少しだけ出てもいい気がした。


 夜、自分の部屋でノートを開いた。


 美術室で描いた弱いぴょん吉が、ページの端に残っている。


『新学期、警戒中。弱め。』


 僕はその横に、もう一文書き足した。


『隣の席、未確認。』


 書いてから、少し考える。


 未確認。


 でも、悪くない。


 たぶん。


 まだ四月。


 受験も、進路も、卒業も、遠いようで近い。


 でもその前に、明日も同じ教室へ行く。


 同じ席に座る。


 隣には、滝さんがいる。


 ノートの端には、たぶんまたぴょん吉がいる。


 そう思うと、新しい教室が少しだけ怖くなくなった。


 僕はノートを閉じた。


 春の隣の席。


 そこから、何かが始まった気がした。


初めまして、佐藤めあと申します。

初投稿なので緊張しますが、楽しく読んでいただけたら幸いです。

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