遺された賭け
事故発生から二十六時間後。王城の薄暗い地下室に、クラルムの荒い息遣いが響いていた。
石造りの床には、彼が自身の血と膨大な魔力で描き付けた、未知の魔法陣が怪しく脈動している。その中心から立ち上るのは、陽炎のようにゆらゆらと空間を歪める、半透明な光の輪――「転移門」だった。
「……くそ、まだ術式が未完成の段階で、これを使う羽目になるとはな」
彼は血の混じった唾を吐き捨て、執念深く呪文を紡ぎ続ける。
この門は、空間を裂き、この滅びゆく世界の外――別世界、あるいは過去の概念へと繋ぐための「禁忌の遺産」だ。だが、研究途中の代物であるがゆえに、あまりにも致命的な欠陥があった。
起動のための魔力チャージに、丸一日半――**【三十六時間】**もの時間を要するのだ。
しかも、世界の魔力バランスが神々の戦いで崩壊しつつある今、チャージの途中で魔法陣が霧散し、不発に終わる可能性も低くはなかった。成功率は五分五分。だが、今の人類にこれ以上の選択肢はない。
「三十六時間後……門が開くのは、事故から六十二時間後。世界が完全に塵に還る、わずか十時間前か」
気の遠くなるような逆算を脳内で行いながら、彼は魔法陣の核へ、さらに複雑な「時限式の念話術式」を組み込んでいく。
門が正常に起動したとして、生き残った仲間たちがそれに気づかなければ意味がない。だからこそ、彼は門の開通からさらに**【六〜九時間後】**に自動で発動するよう、音声の罠を仕掛けた。
『――城の地下に、すぐ来てくれ――』
その声が届くよう設定された対象は、ロム、ルード、そして彼らが所属する小隊の信頼できる仲間たち、数名だった。
「頼む、生きていてくれよ、みんな……」
全魔力を注ぎ込み、転移門のチャージが開始されたのを見届けると、クラルムはふらつく足取りで杖を突き、地上へと歩き出した。門の不実を補うため、何としてもロムたちと直接合流し、この場所へ誘導しなければならない。
だが、彼が王城の重い鉄扉を開けて一歩外へ踏み出した瞬間、世界の「カオス」は、すでに彼の想像を遥かに超える領域へと深化していた。
*
街は、地獄すら生温い相互殺戮の泥沼と化していた。
事故から二日目が経過する頃には、当初の「本物 vs 偽物」という単純な構図は完全に崩壊していた。
「手を上げろ! 動くな!」
「待て、俺は本物だ! 利き腕を見ろ!」
「うるさい! 偽物もそれくらいのハッタリはかます! 死ね!」
廃墟の影で、本物の人間同士が、保身と狂気の疑心暗鬼に駆られて刃を交え、殺し合っている。左右反転という見分け方があるとはいえ、一瞬の判断が生死を分ける極限の戦場だ。暗闇や乱戦の中では誰もがパニックに陥り、誰も信じられなくなっていた。
かつてロムやルードを導いた優秀な上司も、背中を預け合ってきた同僚たちも、この「オリジナル同士の同士討ち」の悲劇に巻き込まれ、あるいは襲来するコピーの物量に圧殺され、次々と物言わぬ肉塊に変えられていった。
さらに不気味なことに、知性のタガが外れたコピーたちまでもが、ブレーキのない破壊衝動のままに、目の前の「別のコピー」を敵とみなして貪り食う、悍ましい共食いを始めていた。
オリジナルがオリジナルを殺し、コピーがコピーを潰し合う。敵味方の境界線が消滅した、完全なる混沌。
「……ロム、右か!?」
「いや、左だ。伏せろ、ルード!」
路地裏を駆けるロムとルードは、文字通り「世界に二人きり」となっていた。
上司も、仲間も、もう誰もいない。ただ、言葉の微細な響き、一瞬の視線の交わし方だけで、互いが「本物」であることを奇跡的に証明し合い、背中を預け合ってきた。
ロムは感情を極限まで削ぎ落とし、冷徹に戦況の間隙を縫う。ルードは大魔剣を血に染めながら、親友の活路を開く。そうしなければ、一歩進むごとに狂気に飲み込まれて圧死するからだ。
そんな二人の元へ、必死に手を伸ばそうとしていたクラルムの旅路は、あまりにも唐突に、そして残酷に途絶えた。
「が、はっ……」
王城から数キロ離れた大通り。魔法使いの胸を、背後から無慈悲な白刃が貫通した。
振り返った彼の瞳に映ったのは、かつて自分が教えを乞うた、高名な老魔術師の姿――いや、衣服の仕立てが「左右反転」した、狂暴なコピーの姿だった。
「お前、ら……に、世界を……」
魔法使いは口から鮮血を溢れさせながら、膝をついた。
直接ロムたちに会って、地下室の存在を伝えることは、もう叶わない。意識が急速に遠ざかる中、彼はただ、自分が地下室に遺してきた「不確実な博打」が、いつかあの二人に届くことだけを激しく祈った。
ドサリ、と超一流の魔法使いの身体が、冷たい石畳に倒れ込む。
彼を仕留めたコピーは、一瞥もくれずに次の獲物を求めて去っていった。
人類最後の希望である「転移門」の存在は、これで完全に、滅びゆく世界の闇の底へと埋もれてしまった。事故発生から、六十二時間後に静かに門が開く、その瞬間までは――。




