焦土の24時間
事故発生から、わずか二十四時間――。
たった一日で、人類の文明はその大半がすり潰され、この世界に生きる知的生物の「七割」が死に絶えた。
逃亡などという生易しい選択肢は、最初から存在しなかった。
どこへ逃げようと、どれほど強固な城壁に引きこもろうと、暴走するコピー魔術の波動は容赦なく空間を侵食する。街を走る一般市民の、戦場へ赴く兵士の、そして最前線で呪文を唱える魔法使いの――「すぐ隣」に、それは前触れもなく湧き出るのだ。
左右が反転した、凶暴な己の鏡像が。
この「即時出現・即時襲撃」という最悪の仕様は、あらゆる防衛戦術を無意味にした。昨日までの隣人が、数秒後には狂気に満ちた「反転体」となって背後から首筋に刃を突き立ててくる。誰もが目の前の私闘を強制され、戦線は最初の一時間で完全に瓦解した。
「狂ってやがる……どいつもこいつも、本物か偽物かも分からねえのか!」
ルードが大魔剣を荒々しく振り下ろし、路地裏で襲いかかってきた「同僚のコピー」を真っ二つに叩き斬る。返り血が、彼の魔法無効の鎧を赤黒く染め上げた。
王都の兵舎を飛び出してからの二十四時間は、まさに終わりなき地獄だった。
かつて背中を預け、共に訓練に励んだ仲間たち。厳しくも頼もしかった上司。彼らはコピーどもの猛攻に晒され、あるいは極限の猜疑心の中で「オリジナル同士の同士討ち」に陥り、次々と命を落としていった。
「――ルード、構えるな。そいつは本物だ。衣服の紋章を見ろ、正位置にある」
背後からロムの冷徹な声が響く。ロムは短剣を構えたまま、物陰から駆けてくる生き残りの兵士を鋭く観察していた。
ルードは息を荒くしながら、剣の切っ先をわずかに下げる。
「ロム、お前、よくそんなに冷静でいられるな……! 仲間が、俺たちの小隊が、みんな死んだんだぞ!?」
「冷静にならなければ、次の瞬間に死ぬ。それだけだ」
ロムの声には、一片の感情も混じっていなかった。家族を失い、上司を失い、同僚をすり潰された。その絶望を、ロムは脳の奥底に無理やり凍結させていた。ここで一瞬でも涙を流せば、その隙に「自分のコピー」が隣に湧いて出る。それだけの話だった。
生き残るための「最善の合理」だけを演算する。それが、ロムがこの地獄で身につけた唯一の生存術だった。
だが、悲劇は地上だけにとどまらなかった。
パニックに陥った各国の軍や強力な魔法使いたちは、突如現れた偽物の大軍を消し去るため、禁忌とされる大量破壊兵器や大魔術を無秩序に乱射し始めたのだ。
本物も偽物も関係なく、ただ「質量」で消し飛ばそうとする焦燥。その結果、コピーが滅びるよりも早く、人類の手によって無数の都市が崩壊し、美しい国土は一瞬にして廃墟の焦土へと姿を変えていった。
*
同じ頃、王都の崩壊を見下ろす高台で、一人の男が天を仰いでいた。
ロムたちの数少ない友人であり、国でも指折りの「超一流の魔法使い」だ。
彼の瞳は、地上の凄惨な殺し合いではなく、その遥か上空――空間そのものが、陽炎のように不気味に歪み、ひび割れていく光景を捉えていた。
「……なんだ、この魔力の変質は。人間同士の戦いの規模じゃない」
超一流の魔法使いである彼だからこそ、世界の根底を流れる「万物の魔力」の異常な激突を感知することができた。
王都魔法研究所の事故は、世界のシステムそのものを物理的に破壊していた。
この世界を統べる「主(神)」すらも反転コピーされ、いま、天上の領域では、本物の神と凶暴な偽物の神が、世界そのものをすり潰しながら致命的な殺し合いを展開している。
その神々の激突の余波が、世界構造を急速に摩耗させているのだ。
「終わる……」
魔法使いの額を、冷たい汗が伝う。
このまま神々の同士討ちが続けば、勝者がどちらであろうと、世界そのものの枠組みが耐えきれなくなる。
「もって、あと二日……いや、正確には四十六時間か」
事故発生からちょうど七十二時間で、この世界は塵へと還り、完全に消滅する。
そのあまりにも残酷な「世界の寿命」を正確に悟ったのは、世界中で彼一人だけだった。
地上でどれだけコピーを倒そうが、どれだけ生き残ろうが、すべては無意味。四十六時間後には、全人類が世界ごと消える。
絶望的な真実を前に、だが、超一流の魔法使いクラルムの瞳には、まだ諦めの色は宿っていなかった。
「……なら、この世界の外へ逃がすしかない。ロム、ルード、お前たちだけでも」
彼は翻り、王城の地下室へと向かって走り出した。世界が滅びる前に、まだ研究中だった「禁忌の博打」を仕掛けるために。




