反転する世界−バグの産声−
その実験室は、人類の英知の結晶そのものだった。
王都魔法研究所の最深部。幾重もの強固な結界が部屋を包み込み、国家級の防御プロテクトが魔法陣の周囲を物理的・魔術的に隔離している。
万が一の事故が起きても、エネルギーは内側ですり潰され、外部への影響は皆無に終わる。誰もがそう信じて疑わなかった。
実験の目的は、国力を揺るがす希少な魔道具の「完全なる複製」。歪みのない、正位置の完全コピーを生成する高精密な国家プロジェクトである。
だが、運命はあまりにも冷酷な、小さなエラーの連鎖を用意していた。
――駆動式の一部に、微小な魔力の揺らぎが発生。
――同時に、冷却術式の伝達にコンマ数秒の遅延。
――それに焦った研究員の、ほんのわずかな術式修正の入力ミス。
一つ一つは、普段ならプロテクトが容易に弾き飛ばすはずの「取るに足らない不幸」だった。しかし、それらがミリ秒単位の狂いもなく最悪のタイミングで噛み合った瞬間、魔法陣は突如として暴走を始めた。
キィィィィィン――ッ!
鼓膜を引き裂くような高周波が研究所に響き渡る。
眩い純白の光が防壁を内側から爆破し、ターゲットを認識する魔術回路が致命的に狂い狂い、周囲を乱反射した。
(――エラー。対象を『知的生物』と誤認識。出力制御、反転――)
それが、世界の終わりの産声だった。
光が弾けた直後、実験室内にいた研究員たちの「すぐ隣」の空間が、陽炎のように歪んだ。そして次の瞬間には、自分と全く同じ姿をした「何か」がそこに立っていた。
「な、んだ……これ――」
研究員が言葉を失ったのは、目の前の自分の姿に違和感を覚えたからだ。衣服の紋章の位置が逆。髪の分け目が逆。利き腕が逆。
――左右が反転している。
それがバグの仕様だと気づく前に、反転した肉体から、底無しの、純粋な破壊衝動を孕んだ殺気が膨れ上がった。知性のタガが完全に外れた鏡像たちは、喉から獣のような咆哮を上げ、すぐ隣にいる「本物」の首へと一斉に手を伸ばした。
だが、この研究所の悲劇すら、これから世界を襲う絶望のプロローグに過ぎなかった。
暴走した魔法陣の余波は、大地の底、この世界のシステムそのものを統べる「主(神)」の領域にまで達してしまっていたのだ。
世界の概念が、歪む。
神の領域において、王都のバグはそのまま**「世界の主のコピー」**を出力させた。本物と同じ神の力を持ちながら、左右が反転し、狂暴な破壊衝動だけを宿した「もう一人の神」。
本物の神と、偽物の神。
二つの超越的な質量が、世界そのものを舞台にして致命的な同士討ち(殺し合い)を開始した。神々の激突が引き起こす世界構造の摩耗。それにより、この世界そのものが塵へと還る**『72時間の寿命』**のカウントダウンが、無慈悲に開始された。
*
事故発生から、わずか数分後。
暴走したコピー魔法のエネルギーは光速で世界中へ伝播し、あらゆる場所で「すぐ隣」に偽物を湧き出させ始めていた。
王都の兵舎にいたロム、そしてルードが、ただならぬ騒ぎを察知してそれぞれの家へと駆け戻った時には、すでに手遅れだった。
「嘘だろ……母さん!? 何でお前が二人――」
ルードの悲痛な叫びが、崩れかけた家屋に響く。
そこにあったのは、愛する家族が、突如として目の前に現れた「左右反転した自分自身のコピー」に襲われ、問答無用で命を奪われていく地獄絵図だった。
一般人であろうと、どれほど鍛え抜かれた一流の戦士であろうと関係ない。逃げる間もなく、最も安全であるはずの我が家で、最も信頼すべき家族の姿をした化け物に、あるいは自分自身の鏡像に、誰もが不意を突かれてすり潰されていく。
「ルード、離れろ! それはもう本物じゃない!」
ロムは血の涙を噛み殺し、感情を無理やり凍りつかせて短剣を抜いた。
目の前で、自らの家族の息の根が止まる瞬間を見届けるしかなかった絶望。だが、感傷に溺れれば次の瞬間には自分が殺される。すぐ隣に、自分の「反転した顔」が、狂った笑みを浮かべて這い出てくるのだから。
守るべきすべてのものを、最初の数時間で世界は奪い去った。
後に残されたのは、血に染まった世界と、生き残るためにただ刃を振るうしかない、二人の若き戦士だけだった。




