第8話 佐伯
タクシーが走り出すと、唯月はポケットから小型の端末を取り出した。
定食屋の監視室でも使用していたものだ。
画面を操作し、車内のカメラやマイクにアクセスすると、映像と音声の記録に細工を施していった。
その様子を、後部座席の美俐沙がじっと見つめていた。
定食屋でも、唯月は同じようなことをしていた。
監視カメラの映像を操作し、GPSの位置情報まで誤魔化していたのだ。
あのときは逃げることで精一杯だったが、あらためて考えてみると、目の前の男がしていることは普通ではない。
「……あの、そういえば」
「ん? なんだ?」
唯月は画面から目を離さずに答えた。
「まだ、お名前を聞いていませんでしたよね?」
「ああ、そうだったな。佐伯だ」
もちろん、佐伯というのは偽名だった。
素性もわからない三人に、わざわざ本名を教える理由はなかった。
「佐伯さん、ですか?」
「ああ。よろしく」
「……佐伯さんって、一体何者なんですか?」
「何者って、どういう意味だ?」
「さっきから、普通じゃ考えられないようなことばかりしているので……」
「詳しくない人にはそう見えるかもな」
「そういう問題じゃないと思うんですけど」
「そう考えるのもわかるよ」
唯月は何でもないことのように答え、端末の操作を続けた。
明らかに適当な返事だった。まともに答えるつもりがないことくらい、美俐沙にもわかった。
しかし、唯月に助けられていることは事実だった。
彼がいなければ、三人だけであの店から逃げ出すことはできなかっただろう。
仮に逃げ出せたとしても、GPSが作動したままではすぐに居場所を突き止められ、連れ戻されていたに違いない。
そう考えると、それ以上問い詰めるのは気が引けた。
それでも、どうしても聞いておきたいことがあった。
「……じゃあ、どうして私たちを助けたんですか?」
「困っている人がいれば、助けるのは普通のことじゃないか?」
美俐沙は、まともに取り合おうとしない唯月の態度に、ますます苛立ちを募らせた。
そんな様子を察した唯月は、小さく笑った。
「まあ、単純にあの店の連中が気に入らなかったんだよ」
「……それだけですか?」
「ああ」
唯月は短く答え、端末の画面を確認した。
ちょうど必要な処理も終わったところだった。
三人を助けたのは、別に慈善活動のつもりではなかった。
あの店とザラームとの繋がりは気になったし、悪党どもが痛い目を見るのは、それだけで愉快だった。
もっとも、三人が組織についてどれほどの情報を持っているかはわからない。
定食屋の内情を聞けるだけでも多少の手掛かりにはなるだろうが、それ以上のことは期待しすぎない方がいい。
一方で、唯月は美俐沙から次々と質問を浴びせられることに、少々煩わしさを感じていた。
警戒されるのは当然だと理解していたが、だからといって、すべてを説明するつもりもなかった。
「よし、こんなもんか」
唯月は端末をしまった。
そのとき、どこからかサイレンの音が聞こえてきた。
「……あっ」
瑠丹が窓の外に目を向けた。
美俐沙と愛珠奈も、つられるように外を見た。
しかし、サイレンは遠く、パトカーの姿は見えなかった。
「……さっきの電話かな?」
愛珠奈が呟いた。
「かもしれないな」
唯月は窓の外を一瞥した。
「警察、あの店に行ってくれるんでしょうか……」
「通報を受けた以上、何らかの確認はするだろう。あとは向こうの対応次第だな」
「……そうですか」
美俐沙は再び窓の外に目を向けた。
あのサイレンが、本当に先ほどの通報に応じたものなのかはわからない。
警察が店に向かったとしても、それで何かが変わる保証もなかった。
それでも、警察が動いてくれているのかもしれないと思うと、美俐沙は少しだけ気持ちが軽くなった。
「まあ、詳しい話は落ち着いてからにしよう。それより、これからのことを話しておきたい」
三人の視線が唯月に集まった。
「今向かっているのはショッピングモールだ」
「……ショッピングモール?」
美俐沙が不思議そうに聞き返した。
「そこが、さっき言っていた身を隠せる安全な場所なんですか?」
「いや、買い物をするために寄るだけだ」
「えっ、買い物?」
愛珠奈が驚いたように声を上げた。
「そんな余裕あるの……?」
「必要だろ? 君たちは何も持っていないじゃないか」
唯月は後部座席の三人に目を向けた。
「それに、まずはその服をどうにかしないとな」
三人は自分たちの制服に視線を落とした。
「GPS……ですか?」
美俐沙が尋ねた。
「それもある。今は位置情報を誤魔化しているが、いつまでも通用するとは限らない。それに、三人揃って同じ制服を着ていたら目立つだろ」
「……確かに」
「だから、最初に服を買って着替える。そのあとで、当面必要なものを揃えるつもりだ」
「必要なものって……?」
「日用品とか、ほかにもいろいろあるだろ」
愛珠奈は自分の服を見下ろした。
「……そうだね」
店にいた間は、着るものも使うものも、すべて向こうに管理されていた。
自由になったところで、今の三人には身の回りのものすらほとんどなかった。
唯月はそんな三人を見ながら、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、金は持ってるか?」
三人は顔を見合わせた。
「……持ってません」
美俐沙が答えた。
「今どきキャッシュレスが主流とはいえ、店に多少は現金があっただろ?」
「それは……勝手に持ち出すわけにはいかないと思って……」
「そうか。賢明な判断だな」
唯月はあっさりと答えた。
「ほかに、何か持ち出せたものは?」
「……何もありません。身分証も、全部取り上げられたままで……」
「わたしも……」
瑠丹が小さく答え、愛珠奈も首を横に振った。
「そっか。まあ、そうだろうな」
唯月は軽く息を吐いた。
「でも、お金がないと買い物も……」
美俐沙が言いかけると、唯月はあっさりと答えた。
「ひとまず俺が出す」
「えっ……?」
「必要なものは買っておかないと困るだろ。ただし、貸しだからな」
「……いいんですか?」
「よくないと言ったほうがいいのか?」
唯月は肩をすくめた。
「……ありがとうございます。必ず返します」
美俐沙は小さく頭を下げた。
愛珠奈はそのやり取りを聞きながら、少し考え込んでいた。
「……ねえ、佐伯さん」
「何だ?」
「買い物が終わったら、どうするの?」
「言っただろ。安全な場所に移動する」
「それって、どこなの?」
「そんな変わった所じゃない。普通の部屋だ」
「そっか……」
愛珠奈は曖昧に返事をした。
店から逃げ出す手助けをしてくれたことには感謝している。
けれど、素性もわからない男にこのままついていくことに、不安がないわけではなかった。
そんな愛珠奈の様子を見て、唯月は口を開いた。
「別に、無理についてこなくてもいいんだぞ」
「えっ……?」
「俺は身を隠すのに都合がいい場所があると言っただけだ。嫌ならショッピングモールで別れたっていい」
「でも……」
愛珠奈は返す言葉に迷い、美俐沙と瑠丹の顔を見た。
「……ううん、ごめんなさい。連れて行ってください」
唯月はそれ以上何も言わず、ナビに目を向けて到着までの時間を確認した。
「買い物はできるだけ手早く済ませたい。まずは服を選んで着替えてもらう。今着ている制服は、モールで処分しよう」
「わかりました」
「そのあと、必要なものを買う。何が必要かは自分たちでも考えておいてくれ」
「はい」
三人がうなずいたのを確認し、唯月は前方へ視線を戻した。
タクシーは大通りを進み、やがて商業施設の集まる一帯へと入っていった。
窓の外には、大きなショッピングモールが見えてきた。
広い敷地には複数の建物が並び、入口付近には多くの買い物客が行き交っていた。
「人、いっぱいだね」
愛珠奈がつぶやいた。
瑠丹も窓に顔を近づけ、久しぶりに目にする賑やかな光景を眺めていた。
美俐沙はそんな二人を見たあと、あらためて唯月の方へ視線を向けた。
佐伯と名乗った男。
何を尋ねても飄々とした態度を崩さず、何を考えているのか、いまだにつかめない。
それでも、あの店を出てからここまで、何事もなく移動できているのは確かだった。
少なくとも今は、この男を頼るのが一番いいように思えた。
タクシーはショッピングモールの乗降場所へと入り、ゆっくりと停車した。
「さて、着いたぞ」
唯月がそう言うと同時に、車のドアが自動で開いた。




