第7話 逃走
定食屋を出た唯月は、周囲の様子をさりげなく確認した。
店の前を通る道には、時折車や歩行者が行き交っていた。
唯月は事前に、この周辺の監視カメラの設置状況や、人通りの多い場所をある程度調べていた。
もちろん、すべてのカメラを避けて移動できるわけではない。
そもそも、このように開けた場所で人目を完全に避けることなど不可能だ。
重要なのは、必要以上に目立たず、あとから足取りを追われにくい経路を選ぶことだった。
唯月が歩き始めると、三人もその後に続いた。
美俐沙は何度も背後を振り返り、ときおり前を歩く唯月の様子をうかがっていた。
瑠丹はすれ違う通行人の視線を必要以上に気にし、愛珠奈は不安を紛らわせるように髪の毛先を指で弄んでいた。
長い間、自由に外を歩くことさえ許されていなかったのだ。
突然その状況から解放されたところで、すぐに普段どおり振る舞えるはずもない。
そんな三人の様子を横目に見た唯月は、小さくため息をつき、歩く速度を少し緩めた。
「そんなに周りを気にしていると、かえって目立つぞ」
「……それは、わかってます。でも、どうしても気になってしまって……」
美俐沙はそう答えながらも、無意識に背後へ視線を向けてしまった。
唯月はそれ以上何も言わなかった。
三人に無理をさせるより、今は先へ進むことを優先すべきだろう。
「……あの、本当に大丈夫なんでしょうか」
しばらく歩いたところで、美俐沙が小声で尋ねた。
「何がだ?」
「誰かに見られていたら……」
「見られてるだろうな」
「えっ……!」
「通行人もいるし、監視カメラだってある。全部を避けるのは無理だ。その制服も目立つし、気にしたって仕方ない部分もある」
唯月は歩調を変えずに答えた。
「余計なことは考えずに、今は普通に歩いていればいい」
「……はい」
美俐沙は言われたとおり、背後を振り返りたい気持ちをこらえながら歩いた。
愛珠奈と瑠丹もそれにならったが、それでも不安は拭えず、落ち着かない様子だった。
そんな三人を見て、唯月は少し考えた。
「ひとつ、手を打っておくか」
「……手、ですか?」
「警察に連絡しておこうと思ってな」
その言葉に、三人の足が止まりかけた。
「警察……?」
美俐沙が驚いたように聞き返した。
「ああ。さっきの店で事件が起きたと知らせておく」
「それなら、私たちも警察に行った方がいいんじゃ……」
「それも一つの手だな。警察に保護されれば、あの連中もそう簡単には手を出せないだろう」
「だったら……」
「警察に頼りたいなら止めはしない。どうするかは君たち自身で決めるといい」
美俐沙は返事に迷った。
警察に保護を求めるべきなのか、それとも、このまま彼についていくべきなのか。
今の彼女には、どちらがいいのか判断できなかった。
愛珠奈と瑠丹に目を向けても、二人とも困惑した様子で、答えを出せずにいた。
美俐沙は迷いながらも、ひとつ気になることがあった。
「でも、どうして警察に通報するんですか?」
「目的は、あの店の連中に余計な仕事を増やすことだ」
「余計な仕事……?」
「監視映像とGPSには細工をしておいたが、いつまでも誤魔化せるわけじゃない。じきに異変に気づかれるだろう」
「それと警察への通報に、何の関係が……?」
「どうせ見つかるなら、いっそ警察に見つけさせてしまおうと思ってな」
唯月の言葉に、美俐沙は少し考え込んだ。
警察が店に来れば、奥の部屋に拘束されたままの男たちを見つけるはずだ。
「……あの人たちが、捕まるんですか?」
「そこまではわからない。ただ、あんな状態で見つかれば、何があったのか詳しく調べられるだろうな」
美俐沙は黙って考え込んだ。
「それに、君たちは正式に雇われてたわけじゃないんだろ?」
「……たぶん、そうです」
美俐沙はまだ十七歳で、雇用に関する法律にも詳しくなかった。
自分たちがどのような扱いになっているのか、正確にはわかっていなかった。
それでも、十四歳の瑠丹まで働かされていたのだ。
まともな雇用関係だったとは、到底思えなかった。
「だったら、君たちが逃げたことを説明するのも面倒なはずだ。たとえば従業員に金を盗まれた、なんて言い訳をするにしても、雇用関係を調べられたら困るだろうしな」
「……なるほど」
「もちろん、うまくごまかすかもしれない。だが、警察への対応で少しでも手間取ってくれれば、その分こっちは動きやすくなる」
唯月の説明に、美俐沙は納得したようにうなずいた。
警察に保護を求めるべきなのか、まだ答えは出せない。
それでも、唯月は警察に行くことを否定せず、自分たちの意思を尊重してくれた。
ここまで助けてくれたことも考えれば、少しは信用してもいいのかもしれない。
「……あの、警察に行くかどうかは、もう少し考えさせてください。でも、今はこのまま一緒に行かせてもらってもいいですか?」
「ああ、構わない。それじゃあ、誰か通行人に電話を借りてきてくれるか?」
「……電話、ですか?」
「俺のスマホから掛けるのは避けたい。君たちも持ってないんだろ?」
三人は揃ってうなずいた。
「じゃあ、あたしが頼んでみる!」
そう言ったのは愛珠奈だった。
自分から名乗り出た愛珠奈に、美俐沙は驚いたような視線を向けた。
「愛珠奈、大丈夫?」
「うん。スマホ借りるだけでしょ?」
愛珠奈はそう答えたものの、その表情にはまだ緊張が残っていた。
唯月は愛珠奈に目を向けた。
「店で事件が起きたことと、助けてほしいということだけ伝えればいい。警察からの質問には答えず、一方的に用件を伝えて電話を切ってくれ」
「わかった!」
愛珠奈の返事を聞いた唯月は、行き交う通行人を一人ずつ目で追った。
しばらく観察したあと、一人で歩いていた若い男性に目を留めた。
「あの人に頼んでくれ」
唯月が視線で示した男性を確認すると、愛珠奈は一度深呼吸した。
「俺たちは少し離れている。終わったら合流してくれ」
愛珠奈がうなずくのを確認し、唯月は美俐沙と瑠丹を連れてその場を離れた。
三人が少し離れたところまで歩いていくのを見届けてから、愛珠奈は男性に歩み寄った。
「あの、すみません。ちょっとお願いしてもいいですか?」
「……はい?」
「スマホ、少しだけ貸してもらえませんか? どうしても電話したくて……」
「えっ、スマホですか?」
男性は怪訝そうに眉をひそめた。
見ず知らずの相手から突然スマートフォンを貸してほしいと言われれば、警戒するのも無理はない。
「はい。すぐ返すんで……ダメですか?」
愛珠奈は男性の反応をうかがいながら、少し首を傾げ、甘えるような笑みを浮かべた。
男性はまだ戸惑っている様子だったが、愛珠奈と目が合うたびに、どこか照れくさそうに視線を逸らしていた。
愛珠奈はぐっと男性との距離を詰め、上目遣いでその顔を見つめた。
「……お願い、できませんか?」
男性はすっかり気を許した様子で、照れくさそうに笑った。
「あ、いや……いいですよ。全然」
男性はポケットからスマートフォンを取り出した。
「ほんとですか? ありがとうございます!」
愛珠奈が嬉しそうに微笑むと、男性はますます頬を緩ませた。
愛珠奈は唯月から教えられたとおり、緊急通報の番号を押した。
呼び出し音が鳴り、ほどなくして応答があった。
「もしもし……! あの、近くの定食屋で事件が起きてて……!」
愛珠奈は店の場所を伝えた。
「人が捕まってて……助けてください! 早く来てください!」
それだけ告げると、相手の問いかけを最後まで聞かずに通話を切った。
愛珠奈は男性にスマートフォンを返した。
「ありがとうございました! ほんと助かりました!」
「あ、いえ……って、え? 今の、警察ですか? 大丈夫ですか?」
「はい! もう大丈夫です!」
愛珠奈が明るく笑うと、男性は少し顔を赤くした。
「あ……そ、そうですか……」
「じゃあ、失礼します!」
愛珠奈は軽く手を振り、三人のもとへ戻った。
男性はしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて首をかしげながら歩き去っていった。
「……ねえ、これでよかった?」
男性に見せていた笑顔は消え、愛珠奈はどこか不安げな表情を浮かべていた。
そんな愛珠奈に、唯月は小さく笑った。
「ああ。なかなかの演技だった。あれじゃ断れる男もいないだろ」
「もう、何それ」
愛珠奈は呆れたように返したが、どこか照れくさそうに笑っていた。
「でも、あの人、警察にいろいろ聞かれたりしないかな……」
「聞かれるかもしれないな。だが、君のことは何も知らないだろ?」
「まあ、そうだけどさ……」
「大丈夫だ。気にするな」
「……うん」
愛珠奈はまだ少し気になる様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
「さて、行くぞ」
唯月はそう言うと、再び歩き始めた。
三人もその後に続いた。
やがて四人は、大きな道路に出た。
車が絶え間なく行き交うその通りには、バス停やタクシーの乗降場所が設けられていた。
唯月はスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
「ここからは車で移動する」
「車……ですか?」
「ああ。少し離れた場所まで移動する」
ほどなくして、一台の車がタクシーの乗降場所へ近づいてきた。
白を基調とした車体には、無人運行を示す表示がついていた。
車が停車すると、自動でドアが開いた。
唯月は慣れた様子で助手席に乗り込んだ。
三人は戸惑いながら顔を見合わせたが、唯月に続いて後部座席へと乗り込んだ。
「……え?」
最初に声を上げたのは美俐沙だった。
「運転する人が……いない?」
「無人タクシーだからな」
「無人……?」
美俐沙は改めて運転席を見つめた。
瑠丹と愛珠奈も、初めて乗る無人タクシーに興味津々といった様子で車内を見回していた。
「これ、勝手に走るの……?」
瑠丹が不思議そうに尋ねた。
「ああ」
唯月は短く答えただけで、スマートフォンに目を戻した。
三人にとっては驚くような光景でも、唯月にとっては普段どおりの移動手段にすぎなかった。
ドアが閉まると、タクシーは静かに走り出した。




