第3話 十八歳
東灘美俐沙は、来月で十八歳になる。
かつては、それを楽しみにしていた。
高校を卒業したら何をしよう。
大学に進学する余裕はないかもしれないけれど、働いてお金を貯めれば、いつか一人暮らしだってできるかもしれない。
そんな、ごく普通の未来を思い描いていた。
けれど今、美俐沙にとって十八歳の誕生日は、何よりも恐ろしいものになっていた。
あとひと月あまり。
それが、彼女に残された時間だった。
◇◇◇
美俐沙の家庭は、決して裕福ではなかった。
父親は仕事を長続きさせることができず、母親も金銭管理が得意ではなかった。
生活費が足りなくなることは珍しくなく、美俐沙が家事を引き受けたり、両親の代わりに支払いを気にかけたりすることもあった。
それでも、家族だった。
不満がなかったわけではない。どうして自分ばかりが、と思うこともあった。
しかし、両親が抱えている借金が、彼女の想像をはるかに超える額に膨れ上がっていることまでは知らなかった。
十七歳の誕生日を間近に控えたある日、見知らぬ男たちが家を訪れた。
両親はひどく怯えていた。
男たちは穏やかな口調で話し、借金を整理する方法があるのだと説明した。
美俐沙には難しい話だったが、両親は何度も頭を下げ、差し出された書類に署名していた。
その日のうちに、美俐沙は家を離れることになった。
仕事を紹介してもらえるのだと聞かされた。
住み込みで働けば、両親の負担を減らせる。そう説明され、美俐沙も最初は信じようとした。
だが、連れていかれた先で待っていたのは、仕事の説明ではなかった。
スマホを取り上げられ、外部との連絡を禁じられた。
家に帰りたいと訴えても、誰も取り合わなかった。
そこで初めて、美俐沙は自分が売られたのだと知った。
後になって知ったことだが、男たちは偶然あの家を訪れたわけではなかった。
借金の取り立てを口実に家庭の事情を調べる中で、美俐沙の存在に目をつけていたのだという。
容姿の整った十六歳の少女。
彼らにとって、美俐沙は最初から金になる商品だった。
両親がどこまで事情を理解していたのか、美俐沙にはわからなかった。
ただ、あの日から一度も迎えに来なかったことだけは確かだった。
美俐沙が現在の定食屋に連れてこられたのは、それから間もなくのことだった。
店は繁華街から少し離れた場所にあり、昼時には行列ができるほどの人気店だった。
料理はおいしく、店内は清潔で、接客にも細かな決まりがあった。
表向きは、少し値段の高い、ごく普通の定食屋。
だが、そこで働く女性たちは、普通の従業員ではなかった。
店を運営する組織は、美俐沙を連れてきた男たちとは別の集団だった。
彼らの役割は、引き渡された女性を管理し、教育し、より高い値段で扱えるようにすることだった。
美俐沙たちは、料理の運び方から言葉遣い、立ち居振る舞いまで、厳しく指導された。
しかし、それは店で働くための教育にすぎなかった。
営業が終われば、今度は別の教育が待っていた。
上部組織の幹部や、その関係者に気に入られるための振る舞い。
相手の機嫌を損ねない会話の仕方や、どんな要求にも逆らわずに従う態度。
少しでも反抗的な素振りを見せれば、厳しい叱責や罰が待っていた。
そうした日々を繰り返すうちに、美俐沙は逆らうことそのものに恐怖を覚えるようになっていた。
彼らが求めていたのは、美俐沙たちを一人前の従業員に育てることではなかった。
いずれ引き渡す相手にとって、都合のよい女性に仕立て上げることだった。
食事や寝る場所は与えられ、入浴や洗面のための設備も整えられていた。
しかし、それは彼女たちを大切にしているからではなかった。
傷をつけず、健康を保ち、商品としての価値を落とさないためだった。
一方で、逃走につながるような自由は徹底して奪われていた。
私服は一切与えられず、身につけられるのは支給された制服と下着だけ。
制服には位置情報を知らせる装置が仕込まれており、施設内での行動さえ厳しく管理されていた。
店の男たちからは、客の前では決して不満を見せるなと繰り返し教えられた。
店の評判が落ちれば、自分たちの待遇も悪くなる。
それは脅しであると同時に、事実でもあった。
売上がよく、客からの評価も高ければ、営業後の教育が短くなったり、多少の失敗を見逃してもらえたりすることがあった。
反対に、店で問題を起こせば、厳しい指導が待っていた。
だから美俐沙は、懸命に働いた。
客に笑顔を向け、料理を運び、礼を言う。
その一つひとつが、自分を守るための行動だった。
もちろん、従順にしていれば何もされないわけではなかった。
男たちは、女性たちに不用意に手を出すことを禁じられていた。
だが、身体に触れたり、嫌な言葉を投げかけたりする者はいた。
身体の状態を確認するという名目で、下着姿の写真を撮られたこともあった。
美俐沙は、そのたびに自分の感情を押し殺した。
逆らっても、状況がよくなることはない。
そう思い知らされていた。
◇◇◇
八鹿瑠丹と箕矢愛珠奈が、同じ店で働くようになったのは、美俐沙よりも後のことだった。
瑠丹は十四歳。愛珠奈は十六歳。
二人もまた、自分の意思でここに来たわけではなかった。
組織は、女性たちが必要以上に親しくなることを好まなかった。
仕事上の会話は許されていたが、少しでも無駄話をすれば、すぐに注意された。
客のいない場所にも監視カメラがあり、どこで誰に見られているかわからなかった。
それでも、三人は少しずつ言葉を交わすようになった。
食器を片づけるとき。
備品を補充するとき。
男たちの目が一瞬だけ離れたとき。
ほんの短いやり取りを重ねるうちに、互いが同じことを考えていると知った。
ここから逃げたい。
それは、三人にとって何よりも切実な願いだった。
しかし、逃げ出すことは簡単ではなかった。
制服に仕込まれた装置は、勝手に取り外せば異常が通知される仕組みだった。
店には毎日多くの客が訪れ、助けを求める機会はいくらでもありそうに思えた。
実際、かつてそれを試みた少女がいた。
美俐沙が店に来て間もない頃のことだった。
その少女は、接客中に突然、客に助けを求めた。
自分は無理やり働かされているのだと訴え、警察を呼んでほしいと懇願した。
店内は騒然となった。
客の中には少女に親身になろうとする者もいたが、駆けつけた店の男たちによって、少女は奥へ連れていかれた。
男たちは少女が精神的に不安定なのだと説明し、客たちをなだめていた。
少女が連れていかれた後も、客たちはしばらく心配そうに話していた。
あの子は大丈夫なのか。本当に問題はないのか。
そんな声は聞こえてきたが、その場で警察に通報しようとする者はいなかった。
結局、その日も店は普段どおりに営業を終えた。
その後も、美俐沙の知る限り、警察が店を訪れることはなかった。
少女はそれから、店に姿を見せなかった。
数日後、美俐沙たちは男たちに呼び集められた。
そこで見せられたのは、すっかり変わってしまった少女の姿だった。
少女はひどく憔悴し、顔を伏せたまま、誰とも目を合わせようとしなかった。
以前は時折、強がるような笑顔を見せることもあったが、今はその面影さえなかった。
「こいつがどうなったか、よく覚えとけよ。お前らも同じ目に遭いたくなかったら、余計なことは考えるな」
男の一人がそう告げた。
少女は何も言わず、ただ小さく震えていた。
その後、少女は別の場所へ移され、二度と店に戻ってくることはなかった。
美俐沙は、その姿を忘れることができなかった。
助けを求めても、必ず助けてもらえるとは限らない。
失敗すれば、今よりもひどい目に遭う。
その恐怖が、美俐沙から逃げようとする勇気を奪っていた。
転機が訪れたのは、閉店後の片づけをしていたときだった。
美俐沙は、備品を補充するためにバックヤードへ向かっていた。
その途中、奥の部屋から男たちの話し声が聞こえてきた。
「はぁー、美俐沙も来月で十八か。もうあいつにちょっかい出せるのも、数えるほどしかねえのかよ」
「お前、毎日のようにあいつの身体を好き勝手まさぐってんじゃねえか。いい加減満足しろよ」
「するわけねえだろ。あんな上玉、次いつ来るかわかんねえんだぞ」
「そりゃそうだけどよ……。上の連中はいいよな。俺らがずっと面倒見てきたのに、おいしいところは全部持っていきやがる」
「ほんとだよな。誕生日を迎えたら、すぐ引き渡しだってよ。もう少し置いといてくれりゃいいのにな」
「なあ。せめて最後くらい好きにさせてくれりゃいいのによ」
「ははっ、お前それ本気で言ってんのか。商品に傷つけたら俺らがどうなるかわかってんだろ」
「冗談だって。ったく、ケチくせえな」
二人の笑い声が響いた。
美俐沙は、物陰で足を止めたまま動けなかった。
誕生日を迎えたら、すぐにどこかへ引き渡される。
その事実を、今初めて知った。
男たちにとっては、美俐沙の行く末さえ下品な冗談の一つにすぎないらしい。
美俐沙は唇を噛み、足音を立てないようにその場を離れた。
その夜、美俐沙はほとんど眠れなかった。
ここでの生活が続くことも恐ろしい。
けれど、次に連れていかれる場所は、もっと恐ろしいかもしれない。
今の店では、少なくとも男たちに一定の制限があった。
自分たちの商品価値を落とさないためだとわかっていても、その制限に守られている部分があった。
次の場所でも、同じように扱われる保証はない。
逃げようとして失敗した少女の姿が、脳裏によみがえった。
それでも、何もしないまま引き渡されることだけは耐えられなかった。
美俐沙は翌日、瑠丹と愛珠奈に事情を伝えた。
もちろん、監視の目を避けながら、何度にも分けて。
二人は驚き、怯えた。
それでも、逃げることに反対はしなかった。
三人のうち誰か一人が連れていかれるのを、黙って見送るつもりはなかった。
◇◇◇
それからの毎日、美俐沙たちは普段どおりに働きながら、少しずつ情報を集めた。
店に配置される男たちは交代制だった。
監視室には、営業中、基本的に二人が詰めていた。店内のカメラを確認し、女性たちの動きを管理するためだ。
閉店後も、店の管理を担当する二人が残っていた。
顔ぶれはある程度決まっており、美俐沙は長く働くうちに、それぞれの性格を覚えていた。
厳格で、決まりを破ることを嫌う者。
何事にも慎重で、異常があればすぐに上へ報告する者。
そして、女性たちに対する欲望を隠そうとしない者。
美俐沙たちが狙ったのは、最後の種類の人間だった。
もちろん、それだけで逃げられるとは思っていなかった。
制服に仕込まれたGPSも問題だった。
そういえば以前、店の男たちがひどく慌てていたことがあった。
何人もの男が監視室を出入りし、普段とは違う緊迫した空気が漂っていた。
そのとき、美俐沙は男たちの会話を偶然耳にしていた。
何が起きたのかまではわからなかったが、断片的に聞こえてきた言葉の中に、GPSという単語があった。
美俐沙は、男たちに気づかれないよう、開け放たれた監視室の扉からそっと中を覗いた。
すると、男の一人が机の上に置かれた機器を苛立たしげに叩いているのが見えた。
あの機器は、GPSの管理に関係しているのではないか。
美俐沙は、そう考えていた。
もしあの機器を使えなくすれば、追跡を止められるかもしれない。
もちろん、確証はなかった。
それでも、ほかに方法は思いつかなかった。
問題は、監視室に入る方法だった。
普段、女性たちが自由に出入りできる場所ではない。
監視室にいる男たちをどうにかして排除しなければ、機器に手を出すこともできない。
美俐沙たちは、わずかな隙を見つけて言葉を交わしながら、少しずつ計画を練っていった。
もっとも、その先の問題は残ったままだ。
監視室の二人をどうにかできても、組織の他の人間までは止められるわけではない。
逃げたことが発覚すれば、すぐに追手が来る。
機器を壊せば本当に追跡を止められるのか、それさえ確かではない。
だが、美俐沙にはそれ以上の対策を考える余裕もなかった。




