第12話 トウルビヨン
アパートを出た唯月は、スマートフォンで配車アプリを開いた。
自宅までは電車でも帰れる距離だが、駅まで歩いて電車を待つより、タクシーを使った方が早い。
自宅近くのコンビニを目的地に指定すると、数分後にはタクシーが到着した。
唯月は後部座席に乗り込み、スマートフォンの画面に目を落とした。
仕事関係の連絡がいくつか届いている。
個人で仕事を請け負っているため、曜日や時間帯に関係なく連絡が入ることも珍しくなかった。
急ぎの案件ではなかったが、後回しにする理由もない。
唯月は届いた連絡に目を通し、返信できるものから手早く対応していった。
仕事の連絡を片づけるころには、タクシーは目的地に近づいていた。
指定していたコンビニの前に停車すると、唯月は運転手に礼を言って車を降りた。
そのまま店内に入り、おにぎりと飲み物を手に取ると、翌朝の食事も適当に選んだ。
会計を済ませた唯月は、歩いて自宅へ向かった。
今夜は調べたいことがいくつもある。
中でも気になっているのは、例の組織だ。
ザラーム。
唯月にも聞き覚えのある名前だった。
裏社会に関する情報を調べていると、ときおり名前が挙がることがある。
しかし、具体的な情報はほとんどなく、実在するのかどうかさえ定かではなかった。
これまでは単なる噂の類いだと思っていたが、あの店の男たちは実際の取引相手としてその名を口にしていた。
調べてみる価値はありそうだった。
自宅に到着すると、唯月は玄関の鍵を開けて中へ入った。
一人暮らしには広すぎるほどの二階建ての家で、生活空間と仕事場を分けて使っていた。
リビングには、落ち着いた色合いの家具が統一感を持って配置されている。
内装や家具選びは、高校時代の同級生で、現在はインテリアコーディネーターとして働いている友人に一任したものだ。
唯月自身は、全体に統一感さえあればそれでよく、それ以来ほとんど手を加えていなかった。
唯月は買ってきたおにぎりと飲み物を手に、二階の仕事部屋へ向かった。
大きなデスクには複数のモニターが並び、その周囲にはさまざまな電子機器が所狭しと置かれている。
壁際の棚にも用途のわからない機器や基板、ケーブル類が積み上げられ、部屋全体がちょっとした研究室のようになっていた。
唯月はデスクに食事を置いて椅子に腰を下ろすと、持ち帰った二台のスマートフォンを取り出した。
どちらも、店を出てから電源を切ったままだ。
あの男たちが使用していた端末である以上、位置情報による追跡や遠隔操作には警戒する必要がある。
唯月はデスクの脇に置かれた電波遮断用のボックスを開け、二台のスマートフォンを収めた。
内部の接続端子にケーブルをつなぎ、外部との通信が遮断されていることを確認する。
それから端末の電源を入れ、解析用の機器を操作した。
しばらくして、モニターに二台の情報が表示され始めた。
「さて……何が出てくるかな」
端末のロックは、定食屋にいたときに解除している。
唯月は保存されているデータを読み出し、通話履歴やメッセージ、画像、文書などを順に確認していった。
削除されたデータも含めて調べると、定食屋の営業に関する情報が次々と見つかった。
仕入れ先とのやり取りや勤務予定、売上の報告など、一見すると普通の飲食店と変わらない。
しかし、片方の端末には、それらとは明らかに異なる記録が残されていた。
それは、少女たちの管理に関する資料だった。
年齢や容姿、勤務状況に加え、接客態度や言葉遣いについての評価まで細かく記されている。
さらに、それぞれの名前には管理番号が割り振られ、引き渡し予定日や評価額、取引先と思われる情報まで記載されていた。
引き渡し先は一つではないらしい。
記録には複数の名称や記号が並び、それぞれ異なる相手との取引が予定されているようだった。
その中で、唯月は美俐沙の記録に目を留めた。
ほかの少女たちには取引先を示す名称や番号が記されているのに対し、美俐沙の欄には一文字だけが記されている。
「……Z、ね」
唯月は端末に残されていたメッセージを開いた。
ほかの少女たちの記録と照らし合わせながら、取引に関するやり取りを確認していく。
ただ、取引相手の詳細はわからなかった。
担当者の名前や所在地はもちろん、引き渡しの具体的な手順についても記されていない。
ほかのメッセージにも目を通したが、ザラームにつながる手掛かりは見つからなかった。
過去の取引記録にもその名前はなく、どうやら今回が初めての取引となる予定だったらしい。
唯月は続けて、保存されている画像を確認した。
店内の様子や商品の写真に混じって、少女たちを撮影した画像がいくつも保存されている。
美俐沙たち三人の姿もあった。
しかも、仕事中の写真だけではない。
下着姿で撮影されたものまで含まれていた。
「……ほんと、救いようのない連中だな」
唯月は呆れたようにつぶやいた。
少女たちを商品として扱っていたことは、すでにわかっている。
それにしても、こんなものまで自分たちのスマートフォンに保存しているとは、ずいぶん不用心だった。
唯月は画像の撮影日時や関連する記録を確認し、必要な情報を整理していった。
どれも、あの店で何が行われていたのかを裏付けるものばかりだった。
端末内の情報を一通り確認すると、唯月はザラームの調査に取りかかった。
得られた情報を手掛かりに、一般の検索エンジンだけでなく、ダークウェブ上の掲示板や犯罪者同士の情報交換の場も調べていった。
しかし、成果は乏しかった。
ザラームという名前に言及した書き込みはいくつか見つかるものの、その内容は曖昧なものばかりだった。
巨大な犯罪組織だという話もあれば、実体のない噂にすぎないという話もある。
いずれも裏付けに乏しく、組織の実態につながる情報は見つからない。
「……そう甘くはないか」
結局、今回の調査で新たにわかったのは、あの定食屋を運営していた連中が、ザラームと人身取引をしようとしていたらしいということだけだった。
もっとも、それだけでも以前とは違う。
これまでは噂でしかなかった名前が、実際の犯罪に関わる記録の中に登場したのだ。
唯月は調査結果を保存すると、別の情報に目を向けた。
次は、あの定食屋を運営していた連中だ。
こちらはスマートフォンに手掛かりがいくつも残されていた。
店の経営に関する報告や金銭の受け渡しをたどっていくと、複数の会社や個人の名前が浮かび上がってきた。
唯月はそれぞれの関係を整理し、関連する情報を調べていった。
表向きは飲食店や人材関連の事業を営んでいるが、その裏では違法な活動にも手を染めているらしい。
さらに、店の男たちが交わしていたメッセージを調べるうちに、いくつかの記録に共通して登場する名前が見つかった。
「……トウルビヨン?」
聞いたことのない名前だった。
唯月はすぐに関連する情報を調べ始めた。
どうやら、複数の事業を隠れ蓑に活動している小規模な犯罪組織らしい。
活動範囲は限られており、裏社会で大きな影響力を持っている様子もない。
定食屋のほかにもいくつかの事業に関与している疑いがあったが、どれも規模は小さかった。
「……弱小もいいところだな」
唯月はつぶやきながら、さらに調査を進めた。
組織が小さいからといって、調べる価値がないわけではない。
むしろ、管理の行き届いていない組織ほど、思わぬところに情報を残していることがある。
唯月はスマートフォンに残された連絡先やメッセージをさらに詳しく調べ、組織の関係者を洗い出していった。
それぞれの人物が関わる企業や資金の流れを追っていくうちに、あることに気づいた。
表向きの代表者とは別に、組織を実質的に取り仕切っている人物がいるらしい。
その人物の名前が直接記された記録は少なかったが、複数の情報を突き合わせていくうちに、一人の男が浮かび上がってきた。
その男の名は、長谷岡風河。
「ん? 長谷岡って……」
唯月の指が止まった。
その名前には聞き覚えがあった。
すぐに長谷岡について調べると、六年ほど前に報道された詐欺事件の記事が見つかった。
投資会社を利用した大規模な詐欺事件だった。
長谷岡は当時、複数の会社を経営し、高い利回りを謳った投資商品によって多額の資金を集めていた。
しかし、実際には説明されていたような運用は行われておらず、新たに集めた資金を既存の出資者への配当に回すことで、事業が順調であるかのように装っていた。
さらに、複数の関連会社を経由させて資金の流れを複雑にし、実態を把握しにくくしていたという。
被害は広い範囲に及び、多くの出資者が資金を失った。
事件の発覚後、関係者たちが次々と逮捕されたものの、長谷岡本人が罪に問われることはなかった。
実際の勧誘や資金管理は、傘下の会社や幹部たちに任せていたらしい。
長谷岡は詐欺の実態について知らなかったと主張しており、実務に直接関与していなかったこともあって、その主張を覆す決定的な証拠は見つからなかったらしい。
しかし、一部の報道や事件関係者の証言では、長谷岡こそが一連の詐欺を計画した黒幕だと指摘されていた。
当時二十歳だった唯月も、興味を持って独自に調べた覚えがある。
だが、長谷岡の関与を裏付ける決定的な証拠は見つからず、フリーランスとして独立して間もない忙しい時期だったこともあって、それ以上の追及はしなかった。
唯月は当時の記事をいくつか開いた。
長谷岡は若くして事業を成功させた経営者として注目されていた時期もあったらしい。
記事には、整ったスーツ姿で笑みを浮かべる男の写真が掲載されていた。
「やっぱり、ろくでもない奴だったな」
唯月はにやりと笑った。
どうやら、思っていた以上に狡猾な男だったらしい。
唯月はあらためて、トウルビヨンの情報を確認した。
調べを進めると、トウルビヨンが関与しているのは少女たちの売買だけではないこともわかってきた。
身元の不確かな人間を利用した違法な仕事や、資金洗浄に使われていると疑われる事業も見つかった。
組織としては小さいが、やっていることは相当に悪質だった。
しかも、表向きの事業と裏の活動を切り離し、長谷岡本人の名前が出ないようにしている。
六年前の事件でも、長谷岡の関与を裏付ける証拠は見つからなかった。
今回も同じように、裏から組織を動かしながら、自分だけは責任を逃れられるようにしているのだろう。
唯月は続けて、長谷岡とザラームの間に接点がないか調べてみた。
トウルビヨンがザラームと取引しようとしているのであれば、長谷岡本人は何か知っている可能性がある。
しかし、関連する情報を探しても、両者を直接結びつけるものは見つからなかった。
「……まあ、そうだろうな」
唯月は椅子の背もたれに体を預けた。
ザラームについては、依然として不明なことばかりだ。
だが、思いがけず面白い人物を見つけることができた。
長谷岡風河。
六年前には大勢の人間から金を騙し取った疑惑を持たれながら、罪に問われることはなかった。
そして現在は、少女たちを商品として扱う犯罪組織を裏から動かしているらしいクズ野郎。
唯月にとって、こういう人間は格好の標的だった。
自分の利益のためなら、他人がどうなろうと構わない。
それでいて、自分だけは巧みに責任を逃れようとする。
そんな人間は、すべてを失うときにどんな顔をするのだろうか。
想像するだけで、唯月の口元は自然と歪んでいた。




