第11話 自由
唯月がアパートへ戻ったころには、外はすっかり暗くなっていた。
購入した布団を寝室に運び込むと、唯月は三人のいるリビングへ戻った。
「洗濯機の使い方はわかるか?」
「はい。大丈夫です」
「ならいい。ほかにわからないことがあれば、聞いてくれ……それと、これを渡しておく」
唯月はそう言うと、鞄からスマートフォンの入った袋を取り出した。
「連絡用だ。一台しかないが、とりあえずはこれを使ってくれ」
「ありがとうございます。連絡先は……あ、そういえばお店でもらいましたね」
美俐沙は、定食屋で唯月から電話番号を聞いたときのことを思い出していた。
忘れ物が見つかったら連絡するという名目で、紙に書き留めた番号だった。
「ああ、あれか。あの番号は嘘だ」
「……え?」
「そもそも、忘れ物なんてしていなかったしな」
唯月は何でもないことのように答えた。
美俐沙は思わず目を見開いた。あのときは、そんなことを疑いもしなかった。
何か言おうとしたが、それより先に唯月が平然と話を続けた。
「このスマホはプリペイドのデータ専用SIMだ。普通の電話は使えないから、連絡するときはこのアプリを使ってくれ」
唯月はスマホを操作し、連絡用のアプリを開いて見せた。
「俺への連絡先は登録してある。使い方はわかるか?」
「……はい。たぶん、大丈夫だと思います」
美俐沙はスマートフォンを受け取った。
聞きたいことはいくつもあった。けれど、何から尋ねればいいのかもわからず、結局は言われるがままになっている。
そんな自分に、少し歯がゆさを覚えた。
唯月は続けて、鍵を一つ差し出した。
「それと、これが部屋の鍵だ。合鍵だが、失くすなよ」
「えっ、いいんですか?」
「ただ、しばらくは不用意に外を出歩かない方がいいかもな」
美俐沙も、まだ外を出歩くことには怖さがあった。
あの男たちが自分たちを探しているかもしれないと思うと、今すぐ外へ出ようという気にはなれなかった。
「……そうですね。気をつけます」
美俐沙の表情が少し引き締まった。
「俺はこれから、あの店を運営していた連中について調べるつもりだ。あとの話は明日だな」
「調べてくれるんですか?」
「別に君たちのためじゃない。とにかく、明日の朝十時ごろまた来る」
「わかりました。ありがとうございます」
唯月はそのまま玄関へ向かった。
突き放すような言い方だったが、美俐沙は少しだけ安心した。
理由はどうあれ、唯月があの男たちのことを調べるつもりでいる。
それだけでも、今の彼女には心強かった。
「あの、佐伯さん!」
美俐沙が呼び止めると、唯月は振り返った。
「何だ?」
「今日は……本当に、ありがとうございました」
美俐沙が真剣な表情で礼を言うと、愛珠奈と瑠丹も隣に並んだ。
「ありがと、佐伯さん!」
「また明日ね!」
「ああ」
唯月は軽く手を振り、部屋を出ていった。
扉が閉まり、唯月の足音が遠ざかるのを待って、美俐沙は鍵をかけた。
「……行っちゃったね」
瑠丹がぽつりとつぶやいた。
「うん」
愛珠奈は少し寂しそうな瑠丹の様子に気づくと、その肩を軽く叩いた。
美俐沙は手の中の鍵を見つめた。
自分たちで自由に出入りできる部屋。その鍵を、今は自分が持っている。
まだ実感は湧かなかったが、少なくとも、あの店とは何もかもが違っていた。
「とりあえず、ご飯にしよっか」
「賛成! もうお腹ぺこぺこ!」
「わたしも!」
三人は買ってきた惣菜をテーブルに並べ始めた。
美俐沙が飲み物を取り出そうと冷蔵庫を開けると、見覚えのない飲み物やゼリー、チョコレート菓子などが目に入った。
「あれ……?」
先ほど買ってきたものをしまったときには、なかったはずだ。
「どうしたの?」
「これ、私たちが買ったものじゃないよね?」
愛珠奈も冷蔵庫を覗き込んだ。
「あ、ほんとだ。佐伯さんが買ってきてくれたのかな?」
「たぶん……」
「なんだかんだ言って、こういうことしてくれるんだね」
愛珠奈が嬉しそうに笑った。
その言葉に、瑠丹も目を輝かせた。
「ねえ、佐伯さんってさ、ほんとかっこいいよねー! 何でもできちゃうし、普段はクールなのに、こういうとこ優しいんだもんね!」
「わかる! まじでメロいよね!」
愛珠奈が笑いながら同意すると、瑠丹も嬉しそうにうなずいた。
「でも、まだあんまり気を許しすぎちゃだめだよ」
美俐沙が釘を刺すと、愛珠奈は少し困ったように笑った。
「でもさ、ここまでしてくれてるんだし、もうそこまで警戒しなくてもいいんじゃない?」
「……それは、まあそうだけど」
美俐沙も、唯月が自分たちのためにしてくれたことは十分にわかっていた。
彼の本心が見えないことに、まだ少なからず怖さを感じていた。
それでも、ここまで世話になっておきながら疑ってばかりいるのは、少し失礼なのかもしれないと思った。
「……うん。愛珠奈の言うこともわかるよ。たしかに、ちょっと警戒しすぎてたかもね」
美俐沙は苦笑しながら、冷蔵庫の扉を閉めた。
「ねえー! はやく食べようよー! お腹すいたよー!」
瑠丹が待ちきれない様子で声を上げた。
「そうだね。食べよっか」
美俐沙が笑って応じると、三人はテーブルを囲み、夕食を食べ始めた。
さっそく料理を口に運んだ瑠丹は、幸せそうに頬を緩めた。
「んー! おいしい!」
その様子に、美俐沙と愛珠奈も思わず笑みをこぼした。
しばらく食事を続けていると、愛珠奈がふと口を開いた。
「……なんか、変な感じだね」
その言葉に、美俐沙と瑠丹は箸を止め、愛珠奈に目を向けた。
「こうやって三人だけでご飯食べるのって、何気に初めてじゃん? 誰も見張ってないし、何しゃべっても怒られないしさ」
「……そうだね」
美俐沙は小さくうなずいた。
定食屋にいたころは、仕事中だけでなく、休憩時間や営業後も常に誰かの目を気にしていた。
三人でこうして食卓を囲み、好きなことを話せる。それだけのことが、今はたまらなく嬉しかった。
「ねえ、これからずっと、ここにいていいのかな?」
瑠丹は一度箸を置き、美俐沙の顔を見つめた。
「それは、まだわからないけど……明日、佐伯さんが来たらお願いしてみよっか」
「ほんと?」
「うん。佐伯さんがどうして私たちを助けてくれたのか、まだよくわからないけど……私たちにも、何かお手伝いできることがあるかもしれないし」
「そっか! じゃあ、わたしも頑張る!」
瑠丹はほっとしたように笑い、再び食事に手を伸ばした。
その後も三人は他愛のない話をしながら、久しぶりに気兼ねのない食事を楽しんだ。
食器を片づけ、順番に風呂を済ませると、三人は寝室に集まった。
唯月が買ってくれた布団を広げると、寝室の床はほとんど埋まってしまった。
「じゃあ、誰がベッド使う?」
「私はどこでもいいよ」
「わたしも!」
瑠丹も元気よく手を挙げた。
「じゃあ、じゃんけんで決めよっか」
三人は顔を見合わせ、じゃんけんを始めた。
「じゃーんけーん、ぽん!」
勝負の結果、ベッドを使うことになったのは瑠丹だった。
「やったー!」
瑠丹は嬉しそうにベッドへ飛び込んだ。
「わあ、ふかふか!」
「こら、瑠丹! ベッドが壊れちゃうでしょ」
「えへへ、ごめんなさーい!」
悪びれた様子もなく笑う瑠丹に、美俐沙もつられて笑みをこぼした。
「じゃあ、そろそろ電気消すね」
美俐沙が照明を消すと、寝室は静かになった。
ときおり、遠くを走るバイクの音だけが窓の外から聞こえてきた。
それ以外に物音はほとんどなく、静かな時間が流れていた。
しばらくして、美俐沙が静かに口を開いた。
「……ねえ、二人とも。まだ起きてる?」
「んー?」
「うん、起きてるよ」
眠たげな瑠丹の声に続いて、愛珠奈が答えた。
「……今日のこと、二人に謝っておきたくて」
「え? 謝るって、何を?」
「脱走のこと。結果的には逃げられたけど、私の考えた計画じゃ、きっと捕まってたと思う……」
唯月の話が本当なら、あのときGPSはまだ機能していた。
たとえ店から逃げ出せたとしても、すぐに居場所を突き止められ、追っ手が差し向けられていただろう。
唯月が助けてくれなければ、三人とも連れ戻されていた可能性が高い。
「……私が逃げようって言い出したせいで、二人まで危険な目に遭わせちゃった。本当にごめん」
「何言ってんの? あたしたちだって逃げたかったんだよ?」
愛珠奈がすぐに答えた。
「そうだよ!」
瑠丹もベッドから声を上げた。
「美俐沙が言ってくれなかったら、わたしたち、まだあそこにいたかもしれないし!」
「……でも」
「でもじゃないって! あたしたち三人で決めたことでしょ? 美俐沙だけのせいにしないでよ!」
愛珠奈の言葉に、美俐沙はしばらく黙っていた。
「……そっか。そうだよね」
「そうそう! それに、ちゃんと逃げられたんだしさ!」
「うん!」
瑠丹も嬉しそうに声を弾ませた。
「……それにしても、佐伯さんって何者なんだろうね」
愛珠奈がふと思い出したように言った。
「パソコンとか、めっちゃ詳しいってだけじゃないよね……?」
「うん……なんか、ちょっと普通じゃないと思う」
二人の話を聞いていた瑠丹が、ベッドからひょこっと顔を覗かせた。
「ねえねえ、佐伯さんって、もしかしてすっごいハッカーだったりして!」
愛珠奈はいまいちピンとこない様子で首を傾げた。
「ハッカー? そういうのって、ドラマとかの話じゃないの?」
「でも、カメラとかGPSとか、何でも操作してたよ? ハッカーってそういうのじゃないの?」
「……まあ、たしかに」
二人のやり取りを聞きながら、美俐沙も今日の出来事を思い返していた。
監視カメラの映像を操作し、GPSによる追跡をかわし、あの店の男たちを出し抜いた。
どれも自分たちには到底できないことばかりだった。
ハッカーという言葉が正しいのかはわからない。
けれど、唯月が普通の人間とは違う技術を持っていることだけは確かだった。
それに、気になることはもう一つあった。
あの人は、どうして自分たちを助けてくれたのだろう。
別に自分たちのためではないと言っていたが、それなら何のために、ここまでしてくれたのか。
「……ねえ、美俐沙、愛珠奈。そっち行ってもいいー?」
瑠丹がベッドの上から、遠慮がちに二人の様子をうかがっていた。
「いいけど、どうしたの?」
「なんか、一人で寝るの寂しくなっちゃった」
美俐沙は少し驚いたが、すぐに答えた。
「いいよ。おいで」
瑠丹はベッドから起き上がると、掛け布団を抱えて床へ下りてきた。
「じゃあ、あたしもちょっと寄ろっかな」
愛珠奈が自分の布団を美俐沙の方へ寄せた。
「ちょっと、狭くない?」
「いいじゃん。三人で寝ようよ」
「……そうだね」
美俐沙は笑いながら、瑠丹が入れるように場所を空けた。
瑠丹は二人の間に潜り込み、満足そうに息をついた。
「えへへ。こっちの方がいいや」
「せっかくじゃんけんで勝ったのに」
愛珠奈がからかうと、瑠丹は小さく笑った。
「だって、一緒の方がいいんだもん」
「もう、しょうがないなぁ」
そう言いながらも、愛珠奈は瑠丹の方へ掛け布団を寄せてやった。
「……おやすみ、美俐沙。愛珠奈」
「おやすみ、瑠丹。愛珠奈もね」
「うん。おやすみ」
三人は静かに目を閉じた。
明日になれば、また考えなければならないことがある。
それでも、少なくとも今夜は、誰かに怯えながら眠る必要はなかった。
隣から聞こえてくる二人の穏やかな寝息に耳を傾けながら、美俐沙もゆっくりと眠りに落ちていった。




