第10話 隠れ家
時刻は午後五時半を回り、買い物を終えた四人は、ショッピングモールに直結する駅へ向かっていた。
「ねえ、佐伯さん。今度もタクシー?」
連絡通路の窓から夕暮れの空を眺めながら、愛珠奈が尋ねた。
「いや。今から行く場所は無人タクシーの運行エリア外なんだ。電車に乗る」
「電車かぁ。なんか久しぶりだなー!」
「わたしも!」
瑠丹が嬉しそうに声を弾ませた。
美俐沙は隣ではしゃぐ二人を見つめ、つられるように口元を緩めた。
「ここって成阪駅ですよね? 何駅くらい乗るんですか?」
「快速で五駅だ。朝留まで行って、そこから少し歩く」
「結構、遠いんですね」
「時間にすればそれほどでもないさ」
四人は駅の改札を抜け、ホームへ向かった。
夕方の帰宅時間帯ということもあり、ホームにはそれなりの人が集まっていた。
「瑠丹、あんまり離れないでね」
「わかってるってばー!」
美俐沙に答えながらも、瑠丹は周囲を興味深そうに見回していた。
久しぶりに自由に外を歩けることが嬉しいのだろう。店を出たばかりのころに見せていた緊張も、だいぶほぐれてきたようだった。
ほどなくして電車が到着し、四人は車内へ乗り込んだ。
車内は帰宅途中の会社員や学生、買い物袋を提げた乗客などで混み合っていた。
空いている座席は見当たらず、四人は扉から少し離れた場所で、互いに向き合うように立った。
「ねえ、美俐沙」
「うん?」
「なんかさ、すごくない?」
「……何が?」
「だって、普通に電車乗ってるんだよ、あたしたち」
愛珠奈は声を潜めながらも、興奮を隠しきれない様子だった。
「さっきも普通に買い物できたし。なんか、ほんとに助かったんだなって」
「……そうだね」
美俐沙は小さくうなずいた。
定食屋を出てから、まだ数時間しか経っていない。
追っ手のことを考えれば、安心するには早い。
それでも、こうして大勢の人に混じって電車に乗っていると、あの店がずいぶん遠い場所に感じられた。
「ねえ、もう追いかけてこないのかなー?」
瑠丹が小声で尋ねた。
「それは、まだわからないよ」
美俐沙が答えると、愛珠奈も少し表情を引き締めた。
「……だよね」
「どうせなら、少しくらい張り合いのある連中だと面白いんだけどな」
窓の外を眺めながら、唐突に唯月が口を挟んだ。
「……え?」
美俐沙は言われた意味がよくわからず、思わず唯月を見上げた。
冗談を言っているのだろうか。
しかし、当の本人は何でもないことのように、流れていく景色を眺めている。
愛珠奈と瑠丹も、顔を見合わせていた。
美俐沙が唯月の真意を測りかねていると、不意に袖を引かれた。
「ねえ、美俐沙」
振り向くと、瑠丹が少し遠慮がちにこちらを見上げていた。
「瑠丹、どうしたの?」
瑠丹は隣にいた愛珠奈の腕にぎゅっとしがみつくと、おそるおそる口を開いた。
「……もう、あの男たちに触られるようなこと、ないんだよね……?」
美俐沙は一瞬、言葉に詰まった。
買い物をしている間も、電車に乗ってからも、瑠丹はずっと楽しそうにしていた。
けれど、あの店で植え付けられた恐怖が、たった数時間で消えるはずもない。
こうして何気ない瞬間に、不安がよみがえってしまうのだろう。
「うん。もう、そんなことないよ。絶対に」
瑠丹は美俐沙の言葉を聞くと、ほっとしたように笑った。
愛珠奈は優しく微笑み、瑠丹の頭をそっと撫でた。
「ずいぶん仲がいいんだな。これじゃ王子様の出番はなさそうだ」
いつの間にか三人に目を向けていた唯月が、ぽつりとつぶやいた。
「……え?」
瑠丹が不思議そうに唯月を見上げた。
しかし、すぐにその言葉の意味に気づいたらしく、目を見開いた。
「えっ!? ちょっと待って! あれ、聞こえてたのー!?」
「ああ。せっかくかわいい子に王子様なんて呼んでもらったから、その気になってたんだけどな」
「えっ、ええっ!? そ、そんな……!」
瑠丹が頬を真っ赤にして言葉を詰まらせると、唯月は小さく笑った。
「冗談だ。車内では静かにな」
自分からからかっておいて、何事もなかったかのように注意する唯月に、愛珠奈は思わず吹き出しかけた。
愛珠奈が笑いをこらえる一方で、美俐沙は訝しげに唯月を見つめていた。
先ほどの不穏な発言は、いったい何だったのだろう。
今は何事もなかったかのように、いつもの飄々とした態度に戻っている。
美俐沙には、ますますこの男がわからなくなっていた。
◇◇◇
快速電車に揺られることしばらく、四人は目的の駅に到着した。
駅を出ると、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
四人はそのまま、駅前の商店街へ向かった。
店先には明かりが灯り始め、惣菜店からは揚げ物の匂いが漂っている。
商店街には、仕事帰りの人々や買い物客が大勢行き交っていた。
「うわ、いい匂い!」
愛珠奈が惣菜店の方へ顔を向けた。
「お腹すいたね」
「うん。わたしもー」
瑠丹も小さくうなずき、お腹に手を当てた。
「寄っていくか?」
唯月が尋ねると、愛珠奈と瑠丹は顔を見合わせた。
「いいの?」
「ここの惣菜、けっこううまいぞ」
「ほんと?」
愛珠奈と瑠丹は、どうするか尋ねるように美俐沙へ視線を向けた。
美俐沙は少し言いにくそうに口を開いた。
「あの……佐伯さん」
「何だ?」
「今日のお買い物もそうなんですけど……お金のこと、どうしたらいいんでしょうか」
「どうしたらって?」
「全部、返さないといけないのはわかってるんですけど……」
美俐沙は言葉を詰まらせた。
モールでの買い物だけでも、三人合わせて十万円近くになっていた。
美俐沙にとって、それは決して小さな金額ではなかった。
自分たちは身分証すら持っていない。
働いて返そうにも、この先まともに仕事を探すことさえ難しいのではないか。
そんなことを、今になって考え始めていた。
「すみません。返すまでに少し時間がかかってしまうかもしれません」
「別に急がなくていい。金に困ってたら、見ず知らずの人間に金なんて貸さないさ」
唯月のあっさりとした返答に、美俐沙は少し肩の力が抜けた。
「……ありがとうございます。必ずお返しします」
「ああ」
四人は惣菜店に立ち寄り、夕食と翌朝の朝食を買い揃えた。
店を出たところで、美俐沙がふと唯月に尋ねた。
「そういえば、佐伯さんは何も買わなくていいんですか?」
「俺は帰ってから食べるつもりだ」
「そうですか……」
美俐沙は少し意外そうな顔をした。
どうやら、唯月はこのあと自分たちと一緒に過ごすつもりではないらしい。
気にはなったものの、それ以上は尋ねなかった。
四人は再び歩き出し、先にある住宅街へと向かった。
商店街を抜けると、周囲はぱったりと静かになった。
「ここだ」
唯月は、一棟のアパートの前で足を止めた。
三人は建物を見上げた。
三階建ての、ごく普通のアパートだった。
特別新しいわけでもなく、かといって古びているわけでもない。
周囲に並ぶ住宅と比べても、目立った特徴はなかった。
「ここですか?」
「ああ。俺が所有しているアパートだ」
「えっ、佐伯さんのアパートなんですか?」
「えー! アパート持ってるの? すごくない?」
「佐伯さんって、もしかしてお金持ち?」
驚く美俐沙たちをよそに、唯月は建物の入口へと向かった。
三人も慌ててそのあとを追う。
階段で三階まで上がると、唯月は一室の前で足を止めた。
「ほかの部屋は普通に貸している。あまり騒がないようにな」
そう言いながら、唯月は鞄からキーケースを取り出した。
いくつか並んだ鍵から一本を選び、扉を開けた。
三人を中へ促し、自分もあとに続いた。
唯月が明かりをつけると、真新しい廊下が目に入った。
「あまり使ってないが、最低限の家具と家電は揃ってる。自由に使っていい」
三人は靴を脱ぎ、奥へ進んだ。
部屋は1LDKの間取りだった。
リビングには小さなソファとテーブルが置かれ、壁際にはテレビがある。
キッチンには冷蔵庫や電子レンジも備え付けられていた。
「わあ……!」
瑠丹が部屋を見回した。
「普通のお部屋だ!」
「悪かったな。普通の部屋で」
「ち、違うよー! そうじゃなくて!」
瑠丹は慌てて首を振った。
これまで自由に過ごせる場所などなかった彼女たちにとって、何の変哲もない部屋で過ごせることが嬉しかったのだ。
唯月はそんな瑠丹を見て、意地悪そうに笑っていた。
その表情を見て、瑠丹もようやくからかわれていることに気づいた。
「奥の部屋も見ていいですか?」
美俐沙が尋ねると、唯月はうなずいた。
奥の扉を開けると、そこにはシングルベッドが一台置かれていた。
愛珠奈と瑠丹も、一緒になって部屋を覗き込んだ。
「三人だと、少し狭いかもしれないな」
「いえ。今までの部屋に比べたら、全然広いです」
「そうか」
唯月は寝室を見渡し、ベッドに目を留めた。
「ただ、寝具が足りないな。予備の布団もなかったはずだ」
「いえ、そこまでは大丈夫です。こんなにいいお部屋を貸していただけるだけでも、十分ありがたいですから」
「いや、そうはいっても、三人でそのベッドに寝るのは無理があるだろう?」
「……寝られないことは、ないと思います」
美俐沙が愛珠奈に視線を向けると、愛珠奈も特に気にした様子もなく答えた。
「え? うん、まあ、なんとかなるんじゃない?」
「じゃあ、わたし、壁側がいい!」
瑠丹は嬉しそうに声を上げた。
「……そうか」
思いのほか真剣な返答に、唯月は何とも言えない表情を浮かべた。
唯月はこれまで、彼女たちのことを利用価値のある情報源としか考えていなかった。
だが、そんな彼でも、さすがに今の三人の姿は気の毒に思えた。
「あー……布団は元々買い足しておこうと思ってたんだ。近くにホームセンターがあるから、二組買ってこよう」
「え……いいんですか?」
「これは貸しじゃない。ただの俺の買い物だ」
そう言われてしまうと、美俐沙もそれ以上は遠慮できなかった。
「……ありがとうございます。本当に、何から何まで」
美俐沙が素直に礼を言うと、唯月は少し照れくさくなり、それを隠すように部屋を見回した。
「……そういえば、少し埃っぽいか? しばらく使ってなかったからな。掃除をしたほうがいいだろう。俺は布団を買ってくる」
「はい! 任せてください」
唯月は掃除道具の場所を伝えると、足早に部屋を出ていった。
「ねえ、佐伯さん、なんか照れてなかった?」
愛珠奈がそう言うと、美俐沙は不思議そうに首を傾げた。
「え、そうかな? わかんなかった」
「えー、絶対そうだって! 瑠丹はどう思う?」
「えっ? 何が?」
瑠丹は部屋を眺めるのをやめ、二人に振り向いた。
どうやら新しい部屋に夢中で、話を聞いていなかったらしい。
愛珠奈はそんな瑠丹に呆れたような顔をした。
「ねー、テレビ見てもいいかなー?」
「もう、瑠丹ったら。まずはお掃除でしょ!」
「えぇー! わかったよぉ……」
不満そうな瑠丹の様子に、美俐沙は思わず笑みをこぼした。
三人は掃除道具を取り出し、さっそく部屋の掃除に取りかかった。




