全ての始まり 湖からの景色
???
リャンはイーサンの手を握ったまま、迷いなく前へ進んだ。
湿った地面を踏みしめるたび、草の葉が足元でしなり、雫が跳ねる。巨大な植物の間を抜けると、空気の質が少しだけ変わった気がした。
やがて視界が開ける。
二人は、岸の近くにたどり着いていた。
そこでイーサンは足を止める。
「……なんだこれ!」
思わず声が漏れた。
目の前に広がっていたのは、ただの湖ではなかった。水面は静かに広がり、その向こう側には果てしない空間が続いているように見える。周囲には一面の景色が広がり、遠くには深い森が壁のように立ち並んでいた。
だが、彼の視線を奪ったのはその先だった。
森の奥。
そこに、巨大な建造物群が存在していた。
それは“建物”という言葉では収まりきらない規模だった。森そのものを飲み込むように広がり、幾重にも重なった構造体が地平線の向こうまで続いている。そして何より異様なのは、そのすべてが光っていることだった。
淡い白、青、橙、緑――単一の光ではない。無数の色彩が重なり合い、まるで都市そのものが生きているかのように輝いている。
イーサンは息を呑んだ。
彼はこれまでに、イストニアの都市部にも何度か訪れたことがあった。石造りの建物、ガス灯、そして新しく整備された街並み。それらも十分に“文明”だった。
だが、目の前のそれは違う。
あまりにも異質で、あまりにも美しい。
光はただ照らすのではなく、空間そのものを染め上げているようだった。森の闇さえ、その光に溶けていく。
しばらく言葉が出なかった。
リャンはその横顔をちらりと見て、少し得意げに口を開く。
「ねえ、すごいだろ」
イーサンは視線を外せないまま、短く答えた。
「ああ……」
それ以上の言葉が出てこない。
ただ、見惚れていた。
その光景は、恐怖や警戒心すら一瞬だけ忘れさせるほどの圧倒的な存在感を持っていた。
しばらくの間、二人は光に満ちた森の奥と、その向こうに広がる巨大な建造物群を黙って見つめていた。
異様なほど美しい光景だった。だが同時に、どこか現実から切り離されたような不気味さもある。
やがてイーサンが視線を外し、低く言った。
「……これから、どうするか?」
リャンは湖面の揺らぎを見ながら、迷いなく答える。
「とりあえず今日はここで野宿だな。暗いし、さすがに動くのは危ない」
イーサンは一瞬だけ森の奥を見やり、それから頷いた。
「確かにな……アウラさんも言っていた。“一寸先は闇の場合動くなと”。動いた奴は愚か者の行為だと」
その言葉を口にすると、妙に現実味が増す。見えないものに踏み込むことの危険さが、今の状況と重なっていた。
リャンは軽く息を吐く。
「まあ、そういうことだな。じゃ、とりあえずメシにするか」
「えっ、飯? 食料は?」
イーサンが即座に聞き返すと、リャンは一拍置いてから、あっさりと答えた。
「実はな、全部は失くしてない。奇跡的に無事なものもある」
そう言って、彼は岸辺の少し先を指差した。
そこには二つの木箱と、最低限の装備が整然と置かれていた。湿った異世界の地面の上で、それだけが妙に“人間の痕跡”として浮いている。
リャンは続ける。
「まだあれは一部だ。岸の方にも残ってる。とりあえず明日はそれの回収だな」
イーサンは短く息を吐き、頷いた。
「分かった」
そう言うと、彼は手際よく動き始めた。木箱を開け、残された食料と道具を確認し、焚き火の位置を調整する。
火が安定して燃え始めると、周囲の湿った闇がわずかに後退した。光が揺れるたび、巨大な森の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
一時的ではあるが、確かに“生き延びるための空間”がそこにできていた。
そしてその小さな火の周りだけが、今の二人にとって唯一の現実だった。
そして翌朝。
夜の湿った気配がまだ森の奥に残る中、二人は岸辺へと戻っていた。薄い霧が水面を這い、昨日見た巨大な建造物群は、朝の光の中でさらに現実離れした輪郭を浮かび上がらせている。
漂着した木箱は、そのままの形でそこにあった。
彼らはイーサンが裸になり縄で体を縛り
降りて
そこから周囲を警戒しながら浮いている木箱などの漂着物を手に持ちリャンが引っ張って回収した。
それを何度を繰り返した。
焚き火でイーサンの体を温めた後。
湿った土の上に置かれた木箱は重く、持ち上げるたびに中身の存在感が伝わってきた。
「……中身、確認するぞ」
イーサンが言うと、リャンは無言でバールを取り出し、木箱の金具に差し込んだ。
ギギ、と鈍い音がして蓋が開く。
中には、整然と詰められた物資があった。
銃弾、銃のメンテナンスキット、日用品。
その瞬間、リャンはもう一方の箱も開けた。
蓋が外れた途端、中身が視界に広がる。
肉の缶詰、果物の缶詰、そしてウォッカの瓶。保存食とはいえ種類は多く、現実の荒野でも過剰とも言えるほどの充実ぶりだった。
「これはラッキーだな。全部ではないがしばらくは食い物には困らない」
だがイーサンはすぐに首を振った。
「いや、待て待て。これを“食べるのが前提”になるのは危険だ。最終手段だよ。まずは自給自足がメイン」
リャンは肩をすくめる。
「まあそうだけどさ。最初くらいは使ってもいいだろ」
「それについては……そうだけどな。でも油断するな」
イーサンは缶詰を一つ手に取りながら、どこか遠くを見るように続けた。
「アウラさんは言ってた。“備えあれば憂いなし”。そして……缶詰はうますぎる、って」
リャンは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「そこだけ妙に現実的だな」
「現実的だから怖いんだよ」
短いやり取りの後、リャンは木箱を閉じながら言った。
「とりあえずこれは念のため隠して、散策といくとしますか?」
その言葉に、イーサンは銃のストラップを締め直し、森の奥へ視線を向けた。
「……ああ。行こう」
二人は物資を最低限だけ残っていた袋に入れて、残りを隠すと、再び未知の世界へと足を踏み出した。




