全ての始まり とにかく進む
???
イーサンは散弾銃をしっかりと構えたまま、湿った空気を切り裂くように前へ進み続けた。
足元の土は柔らかく、踏みしめるたびに水を含んだ音がする。周囲には見たこともないほど巨大な植物が立ち並び、葉は頭上を覆い尽くすように広がっていた。まるで森そのものが呼吸しているかのように、湿った気配がまとわりつく。
「……なんだよ、ここは」
低く漏れた声は、自分自身に向けたものだった。だが返事はない。
さっきまでいた荒野の乾いた風も、馬車の軋む音も、どこにもない。ただ、異様な静けさだけが支配していた。
イーサンは唾を飲み込み、もう一度叫んだ。
「リャン……! リャンリャン!!」
声は葉の間に吸い込まれ、すぐに消える。反響すらない。まるでこの場所そのものが音を拒んでいるかのようだった。
「おい……どこだよ、返事しろって……!」
苛立ちと不安が混ざった声が漏れる。指は無意識に散弾銃の引き金にかかる。だが撃つ相手も、守るべき対象も見えない。
一歩進むたびに、景色がわずかに歪む。木の幹のように見えたものが、近づけば脈打つ肉のようにも思えた。
「ここ……本当に同じ世界なのかよ」
イーサンは息を整え、もう一度周囲を見渡した。そして、低く、絞り出すように呟く。
「リャン……頼むから、無事でいろよ……」
背後で、草をかき分けるような音がした。
ガサ、ガサ……。
イーサンの身体が一瞬で反応する。反射的に振り向き、散弾銃を構えた。指先に力が入り、引き金の重みがやけに現実的に感じられる。
「……っ」
だが、引き金を引く前に、それは姿を現した。
巨大な影。
一瞬、甲殻類の怪物かと思った。装甲のように硬質な外殻が光を鈍く反射し、無数の足が地面を這うように動いている。空気がわずかに震えるたび、その巨体が土を押し潰した。
イーサンは息を止めたまま、銃口を微動だにさせない。
──撃つべきか?
しかし次の瞬間、違和感が頭をよぎる。
その動きは、どこか見覚えがあった。
「……ダンゴムシ……?」
呟きは自分でも信じられないほど小さかった。
それは確かにダンゴムシだった。ただし、常識から完全に逸脱していた。膝ほどの高さがある巨大な個体が、装甲を軋ませながらゆっくりと進んでいる。
丸まる気配はない。ただ、淡々と、目的もなく這っているだけだ。
イーサンは銃を構えたまま、動けなかった。
ダンゴムシは彼の存在に気づいた様子もない。まるで岩か木の根でもあるかのように、一瞥すらせず、そのまま横を通り過ぎていく。
土を踏む音だけが、やけに大きく響いた。
そして何事もなかったかのように、その巨体は巨大な植物の影へと消えていった。
静寂が戻る。
イーサンはようやく息を吐き出した。
「……なんだよ、今のは」
指が震えていることに気づき、彼は銃を少しだけ下ろした。しかし、完全には下ろさない。
ここは明らかに“普通”じゃない。
そして、その事実が今さらのように重くのしかかってきた。
また、背後で音がした。
今度は先ほどよりもはっきりと、草を踏み分ける気配。湿った土を押し潰す、一定のリズム。
イーサンの身体が即座に反応する。散弾銃を持ち上げ、銃口を音のする方へ向けた。
「……誰だ?」
声は鋭く、荒野で鍛えられた警戒心そのままだった。
一瞬の静寂。
そして――
「撃たないでくれ、私だよ。私!」
聞き慣れた声。
イーサンの目が見開かれる。
「リャン!」
次の瞬間には、彼は駆け寄っていた。勢いのまま、相手の肩を掴み、そのまま抱きつくように引き寄せる。
「無事だったのか……っ!」
安堵と怒りと安心が混ざった声だった。
しかしリャンは、必死に身体をよじって抵抗する。
「やめてくれ、私はそんな趣味はない!」
「ふざけんな、心配させやがって……!」
「いや物理的に近い近い!」
ジタバタとしたやり取りの末、ようやく二人は距離を取り、荒い呼吸を整えた。
湿った異世界の空気の中で、二人は小さな焚き火を囲んでいた。奇跡的に濡れていなかったマッチが火種となり、乾いた枝に炎が移っていく。
パチ、パチ、と小さな音が闇を押し返した。
イーサンは火を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……いや、本当にさ。あの時は死ぬかと思った」
リャンは肩をすくめ、火の揺らめきを見ながら答えた。
「確かにな。五体満足で再会できたのが奇跡だ。日頃の行いがいいからだな、きっと」
「そういうことにしておくか」
短く笑い合う。
少しだけ空気が軽くなる。
そのとき、リャンが思い出したように顔を上げた。
「……そういえばな」
「ん?」
「湖から見た景色が、すごかった」
イーサンは眉をひそめる。
「景色?」
「お前、見てないのか?」
「いや……お前を探すのに必死で、それどころじゃなかった」
リャンは少しだけ目を細め、焚き火越しに遠くを見た。
「じゃあ、見に行こうぜ」
そう言うと、リャンはイーサンの手を掴んだ。
驚く間もなく、そのまま引かれる。
「おい、ちょっと待てって――」
「いいから。見ればわかる」
二人は焚き火を背に、巨大な植物の間へと再び歩き出した。




