全ての始まり 水の中でもがく
???
イーサンの視界は、ほとんど何も見えなかった。
上も下もなく、ただ濁った水と砂が渦を巻いているだけの世界。肺に入る空気が一瞬で奪われ、代わりに冷たい泥水が喉へと流れ込んでくる。
「が……っ、あが……っ!」
声にならない音が、泡となって漏れた。
身体は思うように動かない。腕を振っても抵抗はすべて流れに飲まれ、足元はすでに地面を失っていた。
——引きずられている。
どこへ向かっているのかも分からない。ただ、強制的に“下流”へと運ばれていく感覚だけがはっきりしていた。
イーサンは必死に何かを掴もうと手を伸ばす。
だが指先は空を切り、代わりに流木のようなものが腕にぶつかって弾き飛ばされる。
「っ……!!」
衝撃で一瞬、意識が白く飛びかける。
それでも本能が身体を動かす。
息をしようとして、また水を飲む。
もがくたびに、さらに深く引き込まれていく。
遠くで、何かが叫んでいる気がした。
リャンかもしれない。馬かもしれない。あるいは自分の幻聴かもしれない。
「……あがが……っ!」
再び喉から漏れる声は、言葉にならない。
視界の端で、何か黒い影が流れていくのが見えた。馬車の残骸か、岩か、それすら判断できない。
ただ一つ確かなのは——
この荒野の鉄砲水は、人間の意思など関係なくすべてを飲み込むということだった。
濁流の勢いが、少しずつ弱まっていく。
さっきまで身体を引き裂くように押し流していた力が、まるで疲れ果てたかのように緩んでいった。
イーサンの身体がふっと軽くなる。
——浮く。
「っ……!」
本能のまま腕を動かし、水面へと顔を出した。
「ぷはっ……はっ……はっ……!」
肺に一気に空気が流れ込む。冷たいはずの空気が、やけに熱く感じられた。
咳き込みながらも、必死に呼吸を繰り返す。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
濁った水の味が口に残っていたが、それでも“息ができる”という事実だけで生き返ったような感覚だった。
視界を確保すると、イーサンはすぐに身体を動かした。
流れの弱い方へ——本能的に岸を目指して泳ぐ。
泥水をかき分けるように腕を動かし、何度も沈みかけながらも、目の前に壁があった
しかし凸凹があり登りやすかった。
足を掛けて
そして壁を登り
「……っ、はっ……!」
そのまま転がるように地面へ這い上がる。
濡れた身体を引きずり、ようやく安全な地面に倒れ込んだ。
そして、そのまま——
大の字になった。
胸が上下する。心臓がまだ暴れている。
「……なんとか、生きてる……」
荒い息の合間に、かすれた声が漏れる。
しばらくそのまま動けなかった。
空を見上げると、雲はまだ重く垂れ込めている。だが雨は少し弱まりつつあった。荒野の暴れた呼吸が、ようやく落ち着き始めたように見える。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて、イーサンはゆっくりと上体を起こした。
周囲を見渡す。
そして、すぐに気づく。
「……リャン、どこに行った」
声は自然と低くなっていた。
立ち上がり、濡れた服のまま周囲を確認する。だがそこにある景色は、彼の知っている荒野とは違っていた。
地面から突き出すように、異様な大きな植物が群生している。太い茎、異常に広い葉。まるで熱帯の密林の一部を切り取ってここに置いたような、不自然さ。
イーサンは眉をひそめる。
「あれ……ここに、こんなものあったっけ?」
鉄砲水が地形をえぐり、見えなかった地層や種子を一気に露出させたのかもしれない。あるいは、別の場所へ流されてきたのか——判断はつかない。
ただ確かなのは、ここがもう“さっきの荒野”とは違う場所になっているということだった。
イーサンは濡れた髪をかき上げ、息を整える。
そして、低く呟いた。
「リャン……」
返事はない。
イーサンは、まず深く息を吐いた。
濡れた服が肌に張り付き、体温をじわじわと奪っていく。それでも今は、生き延びているという事実の方が大きかった。
彼はゆっくりと視線を落とし、自分の装備を確認する。
指先で腰のホルスターに触れた。
そこには確かな重みがある。
「……ある」
短く呟き、留め具を確かめる。
拳銃は無事だった。泥にまみれながらも、まだそこに“戦えるもの”として存在している。
次に肩へ手を伸ばす。
散弾銃。
革のストラップは濡れて重くなっていたが、破損はない。金属部分を軽く叩き、状態を確認する。
「これさえあれば……」
口に出した瞬間、自分でも少しだけ息が落ち着くのを感じた。
——まだ終わっていない。
イーサンは拳銃を軽く引き抜き、動作を確認するように一度だけ構えた。砂と水で重くなった感触はあるが、致命的な不具合はない。
「大丈夫だ……まだ動く」
散弾銃を背に戻し、周囲を見渡す。
異様な巨大植物が風に揺れ、濡れた葉から水が滴り落ちている。その音がやけに大きく聞こえた。
イーサンは一度だけ目を閉じる。
そして、開いた。
「リャン……生きてるなら返事しろ」
返事はない。
代わりに、風が葉を揺らす音だけが返ってくる。
彼は拳銃の位置をもう一度確かめると、ゆっくりと歩き出した。
彼はゆっくりと立ち上がり、見慣れない植物の間へと足を踏み入れた。




