運命の日 命の危機
1912年7月13日
夜はいつの間にか溶け、気づけば東の空が薄く白み始めていた。焚き火の残り火は灰の中で赤く瞬き、風がそれを静かに削っていく。
二人は無言のまま荷をまとめ、野営の痕跡を手早く消していった。砂を払い、火の跡を踏み固め、馬車へと道具を積み込む。昨夜の気配は、まるで最初から存在しなかったかのように荒野へ吸い込まれていた。
馬車がゆっくりと動き出す。車輪が乾いた地面を軋ませる音だけが、朝の静けさに溶けていく。
しばらく進んだところで、リャンが手綱を軽く揺らしながら横目でイーサンを見た。
「どうだ、体調は?」
イーサンは少し間を置き、肩を軽く回してから答える。
「まだモヤモヤするけど……少しはスッキリした」
リャンは短く鼻で笑った。
「そうか。それは良かった」
それから前を見据えたまま、続ける。
「やっぱこういうのは、声に出したほうがいいさ。頭の中で抱えてると、余計に重くなる」
イーサンはその言葉に、ほんの少しだけ視線を落とした。
「……ありがとう」
リャンは一瞬だけ驚いたように目を細め、それから肩をすくめる。
「何言ってんだ。礼を言うほどのことじゃない」
そう言うと、懐から葉巻を取り出し、マッチで手慣れた動作で火をつけた。薄い煙が朝の空気にゆっくりと溶けていく。
リャンはそれを軽く振って見せた。
「吸うか?」
イーサンは少しだけ間を置き、視線をその葉巻に向ける。
「勿論」
そう言って受け取ると、火をつけてもらい、浅く一口吸い込んだ。
煙が喉を通り、重く、しかしどこか落ち着く感覚が胸に広がる。
イーサンは小さく息を吐いた。
馬車は何事もなかったように、広い荒野の道を進み続けていた。
荒野は相変わらず果てしなく続いていた。乾いた大地と低い起伏だけが視界を埋め、目印になるものは何一つない。
だが、その単調な景色の上に広がる空だけが、急速に色を変え始めていた。
灰色の雲が流れ込むように集まり、朝の光を飲み込んでいく。風もわずかに湿り気を帯び、肌にまとわりつくような重さを持ち始めた。
リャンが空を見上げ、眉をひそめる。
「……なんかやばくないか!」
イーサンも同じ方向を見て、短く息を吐いた。
「確かにな。このままだと雨が降りそうだ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、空から一粒、冷たいものが落ちてきた。
ピチョン。
馬車の屋根を叩く、小さな音。
リャンは舌打ちした。
「お前、フラグ立てやがって」
イーサンは肩をすくめる。
「これは天候だろ。仕方がない」
言い合いながらも、雨は止む気配を見せなかった。
むしろ——
次の瞬間には、空が破れたように雨が降り出していた。
バラバラと地面を叩く音が、あっという間に轟音へと変わる。乾いた荒野が一瞬で色を変え、泥と水の世界へと塗り替えられていく。
馬も不安げに鼻を鳴らし、歩みが鈍る。
リャンは手綱を握り直し、声を荒げた。
「流石にやばくないか、これ!」
イーサンは濡れ始めた本能的な焦りを押さえ込みながら、周囲へ目を走らせる。
視界はすでに雨の幕で遮られ、遠くが霞んでいた。
「……ああ、本当だよ」
短くそう答えると、すぐに判断を切り替える。
「どこか洞窟とか、雨宿りできる場所を探そう」
リャンが頷き、馬を軽く叩いた。
「了解だ。落ちる前に見つけないと洒落にならんぞ」
馬車は激しく降りつける雨の中へと突き進むように進路を変え、荒野の先へと走り出した。
空はすでに完全に鉛色に沈み、荒野は昼間だというのに薄暗い。乾いていた大地は一瞬で水を吸い始め、表面がぬかるみに変わっていく。
リャンが舌打ち混じりに手綱を強く引いた。
「おい……これ、ただの雨じゃねぇぞ」
イーサンも馬車の揺れを抑えながら、前方を見据える。
「……地面の吸い方が変だ。水が逃げてない」
その違和感に気づいたときには、すでに遅かった。
馬車の車輪が、急に沈むように重くなる。
ギィ……ッ、と嫌な音を立てて回転が鈍った。
リャンの表情が一気に引き締まる。
「まずい、ぬかるみだ!」
だがこれは単なるぬかるみではなかった。
荒野の地形は、水を受け止めるようにはできていない。乾ききった地面は表面だけが水を吸い、下層は固いまま。結果として、雨水は行き場を失い、地表を流れ始める。
そして——流れは“道”を作る。
最初は細い筋だった水が、数分もしないうちに勢いを増し、地面を削りながら低い方へと集まり始めていた。
イーサンの目が鋭くなる。
「リャン、これ……」
言い切る前に、横から水が“走った”。
ただの雨ではない。
地面そのものが水路になり始めている。
リャンが声を荒げる。
「おいおいおい……冗談だろ!?」
馬が不安にいななき、馬車がわずかに横へと流される。
イーサンはすぐに判断した。
「流れに逆らうな! 横に逃げる!」
「どこにだよ!」
リャンが叫ぶ。
だがその答えは、すぐに現れた。
地面の低い部分に向かって、濁流が“線”ではなく“面”になって流れ始めたのだ。まるで見えない川が一気に出現したかのように。
荒野は、雨のたびに“別の顔”を見せる。
2人はまだ知らなかった。
ここでは雨は恵みではない。
——地形を一瞬で作り変える、暴力そのものだということを。
その変化は、あまりにも一瞬だった。
遠くで「ゴォ……」という低い唸りが聞こえたかと思うと、それはすぐに地面を震わせる音へと変わった。
リャンが顔を上げる。
「……今の音、なんだ?」
イーサンの表情が強張る。
「上流……いや、もっと遠くから水が——」
言い終わる前に、それは来た。
荒野の一部が“崩れた”ように見えた瞬間、茶色く濁った壁が一気に押し寄せてくる。
水ではない。
土、砂、石、枯れ草を巻き込んだ、塊そのもの。
鉄砲水だった。
「来るぞ!!」
イーサンの叫びと同時に、視界が一気に埋まった。
轟音。
馬の悲鳴。
車輪が地面から浮く感覚。
リャンが手綱を必死に引くが、意味をなさない。馬車は流れに押され、横に、そして斜めに持ち上げられるように揺さぶられる。
「クソッ……!!」
リャンの叫びが濁流に飲まれる。
イーサンはとっさに荷台の支柱にしがみついた。指先に全体重をかけても、身体ごと持っていかれそうになる。
水が馬車の床を越え、膝まで一気に達した。
冷たい、という感覚すら追いつかない。ただ“力”だった。
イーサンが叫ぶ。
「リャン! 離れるな!」
しかし返事は、激しい水音にかき消された。
次の瞬間、衝撃。
馬車が何かにぶつかったのか、あるいは流れに削られたのか——
視界が傾く。
世界が横になる。
「うわっ——!」
リャンの声が遠ざかる。
イーサンの身体が宙に浮き、濁流の中へ引きずり込まれた。
冷たい泥水が一気に視界と音を奪う。




