運命の日 次の世界に転生できるなら
1912年7月12日。
次の目的地へ向かう準備のため、広場の片隅で荷物の点検をしていた。馬車の車輪は砂埃にまみれ、革の手綱はすでに手に馴染み始めている。
そのときだった。
広場の中心に人だかりができていた。ざわめきに引かれるように視線を向けると、黒いスーツをきっちりと着込んだ男が、即席の台の上に立っている。
男は声を張り上げていた。
「今、我々は最大の危機にある!」
群衆が静まり返る。男の言葉だけが広場に響く。
「東のアジアの有色人種の国が、白色人種の国に勝ったのだ。本来ならあり得ないことだ!」
ざわ、と空気が揺れる。
「我々は屈しない力を持たねばならない。そのためにはまず、国内にいる有色人種たちを管理し、統制すべきだ!」
最後の一言が落ちた瞬間、広場は拍手に包まれた。熱に浮かされたような、歪んだ熱狂だった。
イーサンはその光景をじっと見つめていたが、やがて視線を外した。
胸の奥に、冷たいものが沈む。
「……気分のいいもんじゃないな」
小さく漏れた言葉は、喧騒に飲まれて消えた。
隣で荷を確認していたリャンが肩をすくめる。
「まあまあ、ああいうのは気にしちゃダメだ」
軽い調子だったが、その声にもどこか硬さがあった。
イーサンは短く息を吐くと、無理に納得するように頷いた。
「そうだな……今は関係ない」
そう言って、荷の結び目を強く締め直す。指先にわずかな力がこもった。
広場の拍手はまだ続いていた。
だが、イーサンはもう振り返らなかった。
「行くぞ」
リャンが馬の手綱を引く。
馬がいななき、馬車がゆっくりと動き出した。
車輪が石畳を鳴らし、広場の喧騒が遠ざかっていく。
やがてその声は、砂漠の風に溶けるように消えた。
そしてイーサン達を乗せた馬車は、次の目的地へ向かって、何もなかったかのように荒野へと走り出していった。
夕暮れはいつの間にか濃くなり、荒野は橙から群青へと溶けていった。二人は小さな窪地を選び、風除けの石を積んで焚き火を起こした。乾いた枝がはぜる音だけが、静けさの中に規則正しく響いている。
イーサンは膝を抱えるように座り込み、膝の上で一冊の本を開いていた。火の揺らぎが紙面に影を落とし、文字が生き物のように揺れて見える。
リャンが横目でそれを覗き込む。
「それって、あれか? 機械関係の本か?」
イーサンは視線を外さず、短く頷いた。
「ああ、そうだ」
またしばらく、焚き火の音だけが二人の間を満たす。風が少し強くなり、火の粉が夜空へ舞い上がった。
やがてイーサンが、ぽつりと口を開いた。
「……ちょっと、愚痴を言ってもいいか?」
リャンはを見つめたまま肩をすくめる。
「ああ、勿論だ」
気軽な口調だったが、その声には友人を気遣う色が混じっていた。
イーサンは少しだけ眉を下げる。
「これからが不安だ。私の銃器の開発は評価されたが、今後はどうなるのだか……」
その言葉とともに、黒いスーツをきっちりと着込んだ男の言葉が脳裏をよぎる。
今も胸の奥に引っ掛かったままだった。
リャンは小さく息を吐いた。
「確かにな。それでも私達の周りには理解者がいる。だから、それでもマシなほうだ」
慰めるような声だった。
イーサンは静かに頷く。
「そうだな」
リャンは夜空を見上げながら苦笑した。
「一体なんでこうなったのかな。黄色人種が勢いがあるからって、あそこまでのことになるのかな?」
イーサンは焚き火へ一本の枝を放り込む。
「お前が持っているライフルだって、あの戦争の影響を受けて開発されたからな。たった二年で三万丁。軍の三割が保有している計算だ」
炎が一瞬大きく燃え上がる。
リャンはライフルへ視線を落とし、自嘲気味に笑った。
「私達は子供の頃からスラムの孤児院生まれだ。まともな食事はない。不衛生な場所で育ち、どこかで必ず銃声が鳴る。死体を見るのもほぼ毎日だった」
少し間を置いて続ける。
「それでも、お前の才能のおかげで私も一気に生活が良くなったよ」
イーサンは照れ隠しのように視線を逸らした。
「何だよ。単純にお前と一緒にいると楽しいからな」
リャンは思わず吹き出した。
「いいこと言うじゃねえか」
焚き火の火がぱちりと弾ける。
しばらく沈黙が続いたあと、イーサンが静かに呟いた。
「もしさ、次の世界に生まれ変わるとしたらできるなら……肌の色で評価されない世界がいいな」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
リャンはすぐに顔をしかめる。
「フラグ立てるんじゃねえよ」
呆れたように言ったが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
そして立ち上がり、大きく伸びをする。
「じゃあ私は眠るよ。見張りよろしくな」
イーサンは軽く手を振った。
「おうよ」
リャンは毛布にくるまり、ほどなくして寝息を立て始める。
イーサンは一人、焚き火の前に残った。揺れる炎を見つめながら、本を閉じる。
夜空には無数の星が瞬いていた。




