運命の分かれ道 道を変えるか
1912年7月12日。 ヒルンズタウン
駅の喧騒が遠くに響く中、イーサンは郵便局の扉を押し開けた。油と紙の匂いが混ざった空気の中で、彼は慎重に包みを差し出す。
「これ、よろしくお願いします。」
職員は慣れた手つきでそれを受け取り、軽く頷いた。
「わかりました」
そして何気ない調子で、もう一通の封筒を机の奥から取り出す。
「あっ、後ですね……あなた宛に郵便が来ていました」
差し出された手紙を受け取った瞬間、イーサンの指先にわずかな重みが伝わった。
外に出ると、夏の乾いた風が頬をかすめる。駅前の通りは人の流れが絶えず、馬車の車輪が石畳を叩く音が規則的に響いていた。
その中に、リャンが立っていた。
「おう、無事に終わったか?」
「ああ……なんとか」
だが、その声はどこか沈んでいる。リャンはすぐにそれに気づいた。
「どうしたんだよ。暗い顔してるぞ」
イーサンは一瞬言葉を選び、やがて手紙を軽く握りしめたまま答えた。
「いや……実はな。出版社から連絡があった。しばらくは実名での公表は控えるようにってな」
リャンの表情がわずかに固まる。
「それって……まさか」
イーサンは視線を落とし、短く息を吐いた。
「ああ。そのまさかだ。アジア系への反発が強くなるかもしれないってな。不買運動に繋がる可能性があるらしい」
一瞬、風の音だけが二人の間を通り過ぎる。
「……遂に、ここまで来始めたのか」
イーサンは答えない。ただ、遠くの駅舎を見つめる。その視線の先では、誰も彼の名前など気にせず、世界はいつも通りに回り続けていた。
「名前ひとつで、ここまで変わるもんなんだな」
「名前じゃねぇよ」
リャンは低く言い捨てるように言った。
「向こうが勝手に意味をつけてるだけだ」
イーサンはその言葉に、わずかに目を細める。
「……それでも、私の本は“俺の名前”で届かないかもしれない」
リャンは少しの沈黙のあと、肩をすくめた。
「だったら、名前ごと覆せばいいだろ」
「どうやってだよ」
「決まってるだろ。書き続けるんだよ。誰の目にも止まらない名前で終わるくらいなら、忘れられない中身を書け」
その言葉に、イーサンはすぐには答えなかった。
ただ、握っていた手紙の角が少しだけ、強く折れた。
イーサンは軽く息を吐き、感情を切り替えるように肩を回した。
「まあ、それは後々考えるとして……」
リャンはその横顔を一瞬だけ見て、何も深く踏み込まずに頷いた。
「そうだな」
気遣いとも沈黙ともつかない間が流れたあと、イーサンは地面に膝をつき、古びた地図を広げる。紙の端は何度も折られた跡で白く擦り切れていた。
「さあ、これからのことだが……」
指先で現在地を押さえ、そこから線を引くように視線を動かしていく。
「本来ならこの街道を抜けるのが一番早い。だが今、この一帯は軍が大規模な演習をしているらしい」
地図の一角を軽く叩く。
「出来るだけ避けたい」
リャンはその線を覗き込み、すぐに状況を理解したように息を漏らす。
「となると……ここを迂回するルートを取るんだな」
イーサンは短く頷いた。
「ああ。遠回りにはなるが、検問に引っかかるよりはマシだ」
リャンは腕を組み、地図上の別の道を指でなぞる。
「この川沿いなら、馬車でもなんとか進めるはずだ。……軍の目は避けられる」
「問題は補給だな」
イーサンの声は淡々としていたが、その目はすでに先を読んでいる。
「迂回すれば村が減る。食料と水は計算して動かないと途中で詰む」
「いつも通り、ギリギリの旅になるってわけか」
少しだけ皮肉を混ぜた言い方だったが、そこに不安はない。
イーサンは地図を折りたたみながら、静かに言った。
「慣れてるだろ」
「……まあな」
風が砂を巻き上げ、地図の端がわずかに鳴る。
その音だけが、これから続く長い迂回路の始まりを告げていた。
イーサンは地図を懐にしまい、ゆっくりと立ち上がった。
「出発は今日中だ。日が沈む前に少しでも距離を稼ぐ」
「随分と急ぐな」
「軍の演習は予定より早まることがある。巻き込まれる方が面倒だ」
リャンは肩をすくめ、馬車の方へ視線を向けた。
「じゃあ荷物の確認だな。弾薬、食料、水……あと燃料もか」
「ああ。軽量化できるものは削る」
二人は無駄のない動きで馬車へ戻ると、積み荷を手早く確認し始めた。木箱が軋む音、革袋を締め直す音だけが静かに重なる。
その最中、リャンがふと手を止める。
「さっきの手紙……まだ気にしてるのか?」
イーサンの手が一瞬だけ止まった。しかしすぐに、何事もなかったように作業を続ける。
「気にしても仕方ない」
「そういう言い方は、気にしてる奴のやつだぞ」
イーサンは軽く鼻で笑った。
「じゃあ気にしてることにしておく」
その返しに、リャンも短く笑う。
「素直じゃねぇな」
やがて準備が整うと、二人は馬車に乗り込んだ。手綱を握るイーサンの視線はすでに前を向いている。
「行くぞ」
「ああ」
馬が一歩を踏み出す。石畳を離れ、街の喧騒が背後へと遠ざかっていく。
そしてこの選択が彼らの人生を大きく変えるものになるのだとその時は知らなかった。




