全ての始まり これらからのこと
イーサンはしばらく黙ったまま、夜の街を見つめていた。
見慣れない光。
見慣れない匂い。
見慣れない乗り物。
本来なら、恐怖していてもおかしくない世界だった。
だが、不思議と絶望感はなかった。
――元の世界に戻れないかもしれない。
その事実を理解しているはずなのに、胸の奥は妙に静かだった。
戻ったところで、何がある?
アジア系への差別は年々酷くなっていた。
仕事は制限され、まともな暮らしを得られる保証もない。
下手をすれば、理由もなく殴られ、路地裏で死ぬ。
そんな光景を、イーサンは嫌というほど見てきた。
だったら――。
むしろ、この世界の方が生きやすいのではないか。
そんな考えすら浮かんでいた。
イーサンは小さく肩をすくめ、乾いた笑みを浮かべる。
「……まあ、そんな悪い事じゃないと思うよ」
リャンが意外そうに目を瞬かせた。
「お前、もっと落ち込むかと思ってた」
「俺もそう思ってたさ」
イーサンは苦笑しながら答える。
「それにアウラさんはこう言った。」
彼は空を見上げる。
「――“人間とゴキブリは、どんな環境でも生き残る”って」
リャンは一瞬ぽかんとした後、吹き出した。
「例え最悪すぎるだろ!」
「だろ?」
イーサンも少しだけ笑う。
その笑いは、自嘲でもあり、開き直りでもあり――
そして、ほんの少しだけ希望が混じっていた。
「じゃあ、このまま散策しようか」
イーサンが周囲を警戒しながら言った。
「了解」
リャンは短く返事をし、二人は再び公園の奥へと歩き出した。
巨大な草木。
見上げるほど高いベンチ。
遠くで響く、巨人達の話し声。
自分達がどれだけ小さいか現実を、嫌でも思い知らされる光景だった。
二人は排水溝の隙間を渡り、雑草の影を進み
しかし――
気づけば空は赤く染まり始めていた。
西日がビルの隙間から差し込み、公園全体を橙色に染め上げていく。
「まずいな……このままだと日が暮れちゃう」
リャンが空を見上げ、不安そうに呟く。
昼間ですら危険だ。
夜になれば視界は奪われ、昆虫や野良猫に遭遇する確率も跳ね上がる。
「ああ。夜になると危険度が上がるからな」
イーサンも表情を引き締めた。
特に自分達ほど小さな存在にとって、“暗闇”はそのまま死を意味しかねない。
リャンは歩きながら、どこか腑に落ちない様子で口を開く。
「結局、なんで巨人達がこんなに少ないのか分からずじまいだな」
「そうだな」
イーサンは少し考え込むように視線を落とした。
「あの時の女性の言葉と、新聞の記事の内容が分かれば、何か掴めたかもしれないんだけどな」
「まずは彼らの言語について勉強しないといけない」
急ぎ足で拠点へ戻っていった。
だが――
イーサンの推測は正しかった。
先程拾った新聞。
そこには、彼らが知るべき“答え”が確かに書かれていたのだ。
ただし、今の二人にはまだ読むことができない。
記事の見出しに並んでいたのは、この世界の巨人達を震撼させている言葉。
――緊急事態宣言。
もしその意味を理解できていれば、二人はこの街の異様な静けさの理由を知ることになっていただろう。
再び拠点へ戻った二人は、拾った看板を頼りに書き写した地図を地面へ広げていた。
焚き火の明かりに照らされた紙には、この巨大な公園――“オオホリパーク”の構造が描かれている。
中央には大きな池。
そして、その真ん中に浮かぶ島。
周囲には森や遊具施設、さらに複数の建物らしき印も確認できた。
イーサンは地図を指でなぞる。
「……最初に漂着した場所、ここか」
リャンが横から覗き込む。
「島だな。どうりで周り全部水だったわけだ」
「偶然にしては出来すぎてる気もするけどな」
イーサンはぼそりと呟いた。
だが答えは出ない。
この世界の事は、分からないことだらけだった。
少しの沈黙の後、イーサンが口を開く。
「これからどうしようか?」
リャンは地図を見ながら顎に手を当てた。
「この公園の周り、建物だらけじゃん」
「ああ」
「ってことはさ、絶対空き家あると思うんだよ。そこ探せば何とかなるんじゃないかな?」
イーサンはその言葉に目を細めた。
「空き家、か……」
脳裏に昼間の巨大なカマキリが浮かぶ。
あの鋭い鎌。
今思い返しても寒気がした。
「安全性は良いかもしれないな。少なくとも、さっきのカマキリみたいなのに襲われるリスクは減る」
「だろ?」
リャンは軽く笑った。
「屋根と壁があるだけでもかなり違うって」
「確かに。雨風も防げるしな」
「じゃあ明日はその方向で行こうか」
「ああ、そうしよう」
二人の間で方針が決まる。
それだけで、ほんの少し安心感が生まれていた。
その直後――。
リャンが立ち上がり、腹を押さえた。
「……で、難しい話は終わり。とりあえず飯食おうぜ」
「賛成」
イーサンの腹も限界だった。
ぐぅぅ……。
静かな夜に情けない音が響く。
「お前の腹、めちゃくちゃ鳴るな」
「うるさい」
リャンは笑いながら荷物を漁り、本来なら商品だった缶詰を取り出した。
「今日はこれを使う」
「貴重品じゃないのか?」
「腹減って死ぬよりマシ」
「それはそうだ」
二人は焚き火の前へ座り込む。
リャンは空き缶や金属片で作った即席のコンロ台を火の上へ置き、その上に小さなフライパンを乗せた。
じわり、と熱が広がる。
缶詰の中身を開けると、油の弾ける音が辺りへ響いた。
さらにリャンは小袋に分けていた調味料を取り出す。
塩。
乾燥した香草。
少量の黒い粉末。
それらを慣れた手つきで振りかけていく。
「お前、そんなの持ってたのか」
「料理人は調味料を手放さないんだよ」
「いつから料理人になった」
「今なった」
フライパンから漂う香ばしい匂いに、イーサンの腹が再び鳴った。
「……お前は料理うまいよな」
リャンは木の枝で中身をかき混ぜながら肩をすくめる。
「それほどでも」
「いや、冗談抜きでほんとにうまい」
イーサンは真顔で続けた。
「下手すると、その辺の雑草でも上手く作れるんじゃないかって思うくらいだ」
一瞬静まり返る。
そしてリャンが吹き出した。
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「雑草料理人扱いなんだけど」
「でも実際食えそうなのが怖い」
「まあ、追い詰められたらやるかもしれないな」
リャンは冗談混じりに笑った。
焚き火がぱちりと爆ぜる。
巨大な世界の片隅で、小さな二人の夕食の匂いだけが静かに広がっていた。




