4話
「くそっ、判別できなくなってきた。朱里! 時間がない。車で行くよ。早く乗りな!!」
車に向かうおばあちゃんを見る。私もその背中を追った。
なんなの。何も分かんない。お願いだから、ちゃんと説明してよ。
エンジンが鳴る車はスピードを出して走り出す。
「時間がない。戻れなくなる前に手短に言うよ。今から境神社に向かう。そしたら奥に進みな。」
ものの数分、車は止まる。
「いいかい、絶対に御神体には近づくんじゃないよ。あれは神なんかじゃない。頼れば戻れなくなる。」
私は車の扉を開けた。
直後、全身に寒気が走る。……さっき感じたものより強くなってる。いやだ、気持ち悪い。
「あら、どうしたの? 朱里。早く扉を閉めて。一人でせっかく来てくれたんだから。今日は奮発しましょうか。帰るわよ。」
……突然、口調が変わった。
それにさっきとは真逆のことを言ってる。まさか……。
「ねぇ、おばあちゃん。私って女だよね?」
冷汗が首元を伝う。
「何を言ってるの? あなたは男の子でしょ。変なことを言ってないで早く家に戻りましょう。」
おばあちゃんの言葉を思い出す。
時間がない。
判別ができなくなってきた。
おばあちゃんまで私をそう言うの? いや、切り替えろ。おばあちゃんは大事なことだけを伝えてくれた。ありがとう。私、やりきるよ。
「ごめん。おばあちゃん。それは用事を全て終わらせたあとにしよう。行ってくる。」
扉を閉める。私は神社に向かって走った。おばあちゃんが何か言っていたような気がするけど、聞こうとはしなかった。
石段を駆け上がる。一段登るたびに倦怠感が私を襲う。
つらい、足が重い。だめ。止まっちゃ……。足を動かすの……。
気づくと段差はなくなっていた。胸が締められるように痛い。
……時間がない。おばあちゃんが言っていた言葉。戻れなくなるのは嫌。こんなとこでへばってられないんだから!!
走る。鳥居をくぐった瞬間――黒く悍ましい何かが私を包んだ。
「何?! なんなの! 邪魔しないでよ!」
しかし、それは勢いを止めない。私は完全に呑み込まれた。
――
息が苦しい。
足が痛い。
喉が焼ける。
なのに、笑っている。
一人、御神体の前で舞い続けている。
嫌だ。もうやりたくない。
これは、私のものではなかった。――
新主の家に生まれた俺は、気づけばこの役目を継いでいた。なんのためかも分からない。ただ事故で親父が死んで、俺は自然に継いだ。
年に一度、街の祭りの日に舞う。ただそれだけのこと。それが地獄そのものだった。
朝から晩までただ謳い舞う。それも笑顔を絶やしてはいけなかった。
だが、それも過去の話。今年からは息子がそれを継ぐとそう言ってくれた。
やっとだ。やっと俺は解放されたんだ。こいつを育てて本当に良かった。
そうだ。一度こいつが苦しむ姿を見たら、こんな街出ていってしまおう。もう家族は要らない。
そう思っていたのに。祭りの前日に息子との連絡が途絶えた。
今年からはあいつがここに立つはずだっただろ。
なんで……なんでまた俺なんだ。
……逃げた。あいつは責任から逃げた。
やっと、終わると思ったのに。
ふざけるな! 何故まだ苦しまなければならない。何故? そうだ。なんで俺はこんな舞いを何十年も続けているんだ? 考えたこともなかった。
舞いが終わる。即座に俺は古い書庫に向かっていた。怒りも疲労も限界だ。それでも俺は歩き続けた。
埃まみれの書庫の中で古びた記録を見つけた。中には一つの絵が描かれていた。
絵の中央には鬼のような角の生えた異形が、黒い塊のようなものに両手を広げているものが描かれていた。その周りには手を体の前で組んで祈りを捧げているような人々。しかし、その顔は怒りや憎悪に満ちたように感じる。
いや——違う。
頁をめくると、たった一文だけ残されていた。
『笑顔で憎悪を鎮めよ』
意味が分からない。
だが、この役目がまともなものではないと直感すると同時に、やめてもいけないものだと理解した。
ある日、息子が帰ってきた。隣には妻と娘がいた。
笑顔を維持しろ。憎悪を殺して息子と接しなければ……。
その時、手に何かが触れる。視線を向けるとそこには少女がいた。
「おじいちゃん。大丈夫?」
奴の娘だった。
俺は口角が歪んだ。新しい代行者を見つけた。そう歓喜に震えた。
俺は優しく丁寧にそれを扱った。今度こそ逃げられぬように。奴らが帰る頃には息子に対しての怒りなどとうに消えていた。
「朱里、おじいちゃんとの約束だ。大きくなっても毎年祭りに来てくれるか?」
無邪気に頷く少女を見て、俺は思わずニヤけた。
俺はその日の夜、久しぶりにちゃんと自分の姿を見た。戻らない口角を触る。髪の毛は白く染まり、顔は垂れ落ちシワで満ちていた。
諦めていた。地獄から抜け出すことが出来ないのだとそう思っていた。
それから数年。
朱里は毎年祭りに来た。何も知らず笑う。俺は確信した。
もう少しだ。もう少しで終わる。そう思っていた。
なのに……
いつものように舞っていた時だった。
足が崩れた。コケたわけじゃない。突然、棒切れのように動かなくなったのだ。
それを理解した瞬間に瞼が重く、開かなくなる。
真っ黒な空間の中だった。一つ光が俺を照らした。
明るい光ではない。暗く、悍ましい光が俺を迎える。
いや
体から引き剥がされるように離れていった。その先には黒く悍ましいものが丸く形を成していたのだ。
やがて、その光は完全に俺から抜け切った。体を動かすと妙に軽い。意のままに体が動く。ながらく忘れていた感覚。手を見るとシワがない。
俺は再び若い自分に戻ったのだ。
直後、悍ましい黒い塊が一回り大きくなった。
その瞬間――書庫で見つけた記録が頭を掠めた。
「これを抑えるための儀式だったのか……。」
顔が歪む。口角は上がり、目は大きく見開いた。声を出す。漆黒の空間の中で悍ましい塊を見て、笑顔を振りまいた。
俺がやっていたことは全て無駄だった? 役目も果たせていなかったのか? なんで……なんのために。
おじいちゃんの憎悪の笑顔は更に『それ』を肥大化させた。
「はぁ……はぁ。」
気づくと私は鳥居の前で立ち尽くしていた。
何……今の。
記憶? 違う。そんな生ぬるいものじゃない。
舞った日の息苦しさも、老いていく日々、孫に縋ろうとした醜さも。
全部、私は伊織として経験した。
「おじいちゃん……。」
最低だ。何も知らないパパや私に押し付けて、自分だけ解放されようとしてたなんて。
……それでも私はおじいちゃんを嫌いになれない。だって、優しかった記憶は嘘じゃない。
私は、おじいちゃんみたいにはならないよ。
でも、この儀式も、この呪いも私の代で終わらせる。元の姿に戻って、普通の人生を取り戻すために。




