第6話「少なくとも悪夢ではない」
気が付くと、クレシアンは見知らぬ場所に立っていた。
空には、どこまでも星が広がっている。
見上げるほどに吸い込まれそうで、頭がくらくらした。
今夜の空は、これほどまでに美しかっただろうか。それに、何だかとても――。
静かだ。
風の音も、虫の声も、生き物の気配すらない。全てが止まってしまったかのように、星さえも瞬きを忘れている。
クレシアンはゆっくりと視線を落とした。
目の前には、大きな泉があった。
水は信じられないほど澄んでいて、鏡のように星空を映し出している。水面に映る星々は、本物の空と同じくらい鮮明で、どちらが上なのか分からなくなりそうだった。
泉の向こうには、一軒の家が建っている。
白い木造の家だった。花々に囲まれたそれは、まるで童話に出てくる妖精の家のようにも思える。素朴だが、温かみがあって、とても綺麗な建物だ。
周囲を見渡すと、様々な木々が立っていた。
足元の草原には、色とりどりの花々が咲き乱れている。
青々と葉を茂らせた木。
紅葉した木。
花を咲かせた木。
葉を全て落とした木。
知っている花。
知らない花。
四季が混ざったかのような光景なのに、クレシアンは何一つ不自然とは思わなかった。
そして、教えられずとも理解していた。
この木々の外に、世界は続いていない。
ここで終わりなのだ、と。
「……なんだ、ここ」
声を出した瞬間、泉の向こう側で何かが揺れた。
小さな、紫色の光だった。
クレシアンは、吸い寄せられるようにそちらへと足を踏み出した。
一歩。
二歩。
ふと、思い出したように足元を見る。
踏み込むすぐ先に、地面はなかった。
「っ!」
気付くには遅かった。
彼はそのまま地面を踏みしめるように、泉へと足を踏み入れる。
落ちる。
そう思って、クレシアンは反射的に目を瞑った。
「わっ」
けれど、落ちなかった。
無いはずの何かがそこにはあったのか。
あるいは、あるはずの何かが無かったのか。
確かにそこは水面だった。
それなのに、受け止められた重さに対し、広がった波紋はあまりにも小さく、飛沫が立つこともなかった。
よろけるように倒れ込んだクレシアンは、ゆっくりと目を開ける。
身体は水面に打ち付けられていた。しかし、沈むことはない。
「うふふ、おバカさんなんだね」
いつの間にか近くへ来ていた紫の光が、そう笑った。
少し高い、少女のような声だった。
「お前は……誰だ?」
クレシアンは転んだことに顔を熱くしながらも、誤魔化すように服を払って起き上がろうとした。
その時、赤色の光が目の前に飛び出してくる。
「うわっ!」
クレシアンはまた体勢を崩した。
「おい!お前こそ先に名を名乗れ!」
怒っているような、男性の声だった。
「ク、クレシアン……だ」
思わず名乗ってしまう。
怒鳴られたことに萎縮したクレシアンは、今度はすぐには立ち上がれなかった。
だが、そんなことはお構いなしに、赤い光は次々と質問を投げかけてくる。
「そうか!で、なんでここにいるんだ!どうやって来た!何が目的だ!もしやそっちで何かヤバいことでも起きたか!」
捲し立てるような話し方に、クレシアンは頭が痛くなった。
そんなこと、自分だって知りたい。
確かに眠りについたはずだった。
なのに、突然このような場所へ来てしまうなど、誰が予測できるだろうか。
そうだ。そもそもこれは夢のはずだ。
夢のはずなのに、どうしてこれほどまでに感覚が現実的なのだろう。
クレシアンは答えあぐねた。
二対一になってしまった上、相手の一人――数え方が正しいのかは分からないが――は随分と血気盛んな様子だ。間違ったことを言って、刺激したくはなかった。
「あらあら、いじめはダメでしょう?」
咎めるような、しかし酷く間延びした女性の声が聞こえた。
直後、柔らかい橙色の光が現れたかと思うと、その優しい声色からは想像できない豪快な体当たりで赤い光を吹き飛ばす。
赤い光は、星の映る水面の上を軽く弾むように転がっていった。
「は……?」
クレシアンは口を半開きにしたまま、呆けるしかなかった。
「怖がらせてごめんなさいね。でも、あの子も悪気があったわけではないの。ただ、ここに誰かが来ることなんてなかったから、少し警戒してしまったみたいで」
「そ、れは……」
警戒。
それはこちらも同じだ、とは言えなかった。
それぞれは小さな光に過ぎない。なのに、得体の知れない圧がある。大きさとは無関係の何かが、ひしひしと肌に触れてくる。
どこまでも臆病なクレシアンに、それを言い返すだけの勇気はなかった。
「そうねぇ。もし良かったらなんだけど……どこから来たのか教えてくれないかしら。何かわたくしたちに手伝えることはある?」
橙の光は、心配そうに声を掛けてくる。
その言葉の真意はともかく、クレシアンに話さないという選択肢はなかった。
早く帰るためにも、訊かれたことには正直に答えた方がいいだろう。
だが、『どこから来た』とは、どの範囲で答えればいいのか。
国か。街か。それとも、目を覚ます前にいた場所か。
クレシアンが思考を巡らせ、身体を強ばらせていると、橙の光がそっと頬へ寄り添った。
じんわりと暖かい。
その感触に、緊張がするりと解けていく。
クレシアンは水面の上で、膝を抱えるように座り直した。
「ヴァルディアから、だけど……。今日はギルドの依頼を受けてて、それで、北にある川の近くの集落に泊まることになって、仲間と交代で見張りをすることになって――」
一つずつ思い出すように、言葉を並べる。
「ギルドって、何?」
「え……」
意識の外から投げかけられた問いに、クレシアンは間の抜けた声を漏らした。
「冒険者ギルドだよ。魔獣に対抗するためにできた組織」
適当に答えたつもりはない。ただ、他に説明のしようがなかった。
通常ならば万人が知っているはずのことを、クレシアンはそのまま口にしただけだった。
「魔獣?」
しかし、返ってきたのはまたもや理解に苦しむ問いだった。
ますます普通ではない。小さな子どもの声には聞こえないのに、なぜ何も知らないのだろうか。
それとも、自分は何かを試されているのか。
クレシアンは不安になった。
「ホントに知らないのか……?」
「知らないと言っているだろう!」
赤い光が、落ち着きなくクレシアンの前を飛び跳ねる。
彼はそろそろ戸惑いを隠せなくなりそうだった。それでも、不安と緊張が何とか心を押さえつけていた。
「魔獣は……ルシータの啓示って名乗ってる連中が創り出した化け物だよ。五十年くらい前からいる。……あ、あいつらの目的とかは、オレは知らないから……」
できれば訊かないでくれ。
クレシアンはそう訴えるように、光の様子を伺った。
「そうなのね……。結界に何かあったのかしら……」
結界。
その言葉には聞き覚えがあった。
この不思議な状況を理解する突破口になるかもしれない。そう考えると、クレシアンはそこに切り込まないわけにはいかなかった。
「結界って、六星結界のことだよな?」
「ええ、そうよ。五国豊穣の要に何か起きたりはしていない?」
「輝耀の冠は大丈夫だと思うけど、他は、えっと……」
「いいのよ。自分の国じゃないものね」
「ああでも!今の依頼が終わったらアルカナリアに行くつもりで。運が良かったら初航の儀が見れるかも」
橙の光の声は穏やかだった。責めるような響きはなかった。
それなのに、クレシアンは慌てて取り繕っていた。
間違いなく仕方のないことなのに、彼女の望む答えを返せないことに、どうも気持ちが晴れない。
自分の考えと連動しない心の動きに、クレシアンは妙な気分になった。
本当に何者なんだ。
そう問いかけようとした時、紫の光がまたふわりと近づいてくる。
「そういえば、あなた」
少女のような声が、静かに響いた。
「匂いがする」
「匂い……?」
クレシアンは眉をひそめる。
咄嗟に自分の服の匂いを確かめた。
土や汗だろうか。
綺麗好きの彼にとっては、およそ致命的な指摘だった。
だが、どうやらそうではなかったらしい。
紫の光は彼の周囲をゆっくり回りながら、確かめるように言った。
「懐かしい匂い」
落ち着きのなかった赤い光が、ぴたりと止まる。橙の光もまた、何かを考えるように沈黙した。
クレシアンは訳も分からないまま、ただ水面の上に座り込んでいる。
すると不意に、橙の光が空を仰ぐように高く浮かんだ。
「あら、もう朝ねぇ」
「え?」
クレシアンもつられて空を見上げた。
相変わらず、空には満天の星が広がっている。どこにも朝の気配などない。
だがその瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
「っ……!?」
世界が遠ざかる。
泉も、木々も、星空も。
全てが水に溶けるように揺らいでいく。
「お、時間切れか!」
赤い光が残念そうに言うと、勢いよくクレシアンの周囲を飛び回った。
「そうだオマエ!アルカナリアに行くならイアンによろしく伝えといてくれ!」
「イアン……?」
「アイツ、目が覚めたみたいでな!」
視界が白く弾けた。
次にクレシアンが目を開けた時、そこは見慣れない宿の天井だった。
外からは、忙しない朝の喧騒が聞こえてくる。
誰かが水を汲む音。遠くで鳴く家畜の声。鍋か何かがぶつかる、乾いた音。
しばらくぼんやりと天井を見つめたあと、クレシアンはゆっくりと身体を起こした。
「……なんだったんだ、あれ」
小さく呟いたその時、ノックの音も意味なしに扉が開かれる。
「おい、クレシアン。起きてるならそろそろ支度をしたらどうだ?」
アメリスだった。
少し不機嫌そうな顔で腕を組んでいる。
「あ、ああ、すぐ行く」
その言葉に、アメリスは「そうしてくれ」と頷き、部屋を後にした。
扉が閉まる。
部屋には、また朝の音だけが残った。
クレシアンはしばらくその場に座ったまま、手のひらを見下ろす。
泉の水に触れたはずの手は、当然のように乾いていた。
ただの夢。
そう思うには、あまりにも鮮明だった。




