第6話「そして、目覚め」
オレは、ダメな奴だ。
結局、何も出来やしない。
ちょっと練習しただけ。
ほんの少し打ち解けただけ。
なにかが変わったと思い込んで。
強くなったと勘違いして。
たった数日の事だったのに。
-ここは、地獄だろうか。
本当に存在したんだ。
目を開いても、何も見えない。
身体も動かせず、声も出ない。
あの日、目を閉じて歩いた時よりも暗い。
真っ暗だ。
地獄って何も無い場所だったんだな。
審判を下す魔王も、罰を与える悪魔も、他の罪人すらも。
なんにもない。
なんにもない。
オレは、永遠にここで独りぼっちなのだろうか。
嫌、だなあ。
*
一時間、二時間、どれだけの時間が経っただろう。
どこまでも広がる黒に、気が狂いそうだ。
やがて、目の前に何かが浮かび上がってくるのが見えた。
何だろうか。
オレは目を凝らした。
二本のツノ、一つの目、大きな口。
あの鹿だ。
ここまで追いかけてきたんだ!
オレを喰うつもりなんだ。
いやだいやだこわいこわいこわい!
地獄で死んだらどうなる?
これが、罰?
身体の震えが止まらない。
なのに、動かせない!
逃げられない!
このままじゃ、また……。
-オレはその鹿の魔物に何度も何度も喰われた。
喰われ続けた。
最初は肉を貪られた。
血を啜られ、骨を砕かれた。
頭を噛みちぎられ、皮膚を引きちぎられ、内臓を引きづり出される。
手を、足を、腹を、首を。
熱い、寒い、痛い、痒い。
オレはあらゆる方法で鹿に喰われ、その度に身体が元通りになる感覚がした。
そして、また喰われるのだ。
もう、やめてくれ。
お願いだ。
許して。
許して
ゆるして
「……っ!」
胸の奥で心臓が暴れ、荒く短い呼吸を繰り返す。
身体はびっしょりと冷たく濡れている。
「あぁ…あぁああ、ああぁあぁあああぁあ!!!」
オレは叫んだ。
声が出る事にも気付かず、とにかく叫んだ。
この苦しみを何とか身体から逃がしたいと思った。
身体を激しくばたつかせ、気を紛らわそうと思った。
「クレシアン!」と誰かが駆け寄ってきた。
ぞろぞろと黒い影が集まってくる。
オレを取り囲んだ。
喋っている。
身体を押さえつけられる。
コイツらもオレを殺す気なんだ!
抵抗しなければ。
暴れるオレを彼らはいとも容易く押さえ込んだ。
首筋にチクリとした小さな痛みが走ると、黒い影の一つが何かを唱えた。
突然力が抜ける。
そして、オレはまた眠りについた。
-目が覚めると、自室の天井が見えた。
少し開けられた窓から風が吹き込み、カーテンを揺らした。
そのすき間から時々差し込む光が煩わしくて、背中を向ける。
それから五日間、オレは自室で療養することになった。
治癒魔法のお陰で右腕の怪我はとっくに治っていたが、それでもオレは三日間眠り続けていたらしい。
意味もなく巻かれた包帯を見つめながら、オレはその後の話をぼうっと聞いていた。
誰が魔物を倒したとか、どうやって救助されたとか。
どうでもよかった。
アルマとアメリスが書いた手紙を渡されたが、それも読む気にはなれなかった。
オレは食欲もなく、食器を持つのですら面倒で、ただ布団に引きこもった。
その日は何も考えられず、考えたくもなった。
二日目、オレはようやく自分が助かった事実を噛み砕いて、理解した。
嬉しくも、悲しくもなかった。
ナイトテーブルに放置された仲間からの手紙を見て、怖くなった。
きっと、オレを責め立てているに違いない。
そう思うと、余計に目を通せなくなった。
三日目、やっと食べものを口にした。
味は覚えていない。
ただ気持ち悪くて、すぐに吐き出してしまった。
散々吐いたあとも、胃液を吐き続けた。
四日目、無性に自分に怒りが湧いた。
自分なんかが生きている意味は無いと思った。
首を絞めるも、苦しくて諦めた。
その程度の勇気すら持てなくて、涙が出た。
五日目、生きなければ、と思った。
死ねないなら、生きるしかないと思った。
母さんがオレに甘くないことは知っていた。
どうせ、ずっと部屋に籠ってることは不可能だった。
--コンコン
控え目なノックの音が聞こえた。
「俺だ。フォルテだ」
「……うん」
返事をする気にはなれなかったけど、オレは何とか掠れた声を絞り出した。
それが彼に届いたのかは知らないが、少しの間を置いて扉が開く。
「少し、話をしたいんだが、いいか?」
「……うん」
オレは彼を見なかった。
話したいことがあるなら、勝手に話せばいい。
「なあクレシアンくん、教会から出たくないか?旅をして、国を巡ったり、してみたくないか?」
「今更、何?」
フォルテは、静かに、低い声で話し出した。
死にかけてやっと、彼らはオレの望みを思い出したのか。
運が悪ければ、死んでいたのに。
それに、オレはもう外には行きたくなかった。
またあんなバケモノに出会うかもしれない生活なんて、送りたくない。
教会なら、安全だ。
別に母さんの操り人形で構わない。
言われた事をやっていれば、食事も寝床も、全部手に入るんだから。
「君の母君に掛け合ったんだ。そしたら、構わないと言っていた」
「もういい。出てって」
本当に今更だ。
もう聞きたくない。
旅に出るなんて、許してくれるわけが無かったのに。
それとも、もうオレは必要なくなったのだろうか。
出来損ないの息子が、どこか遠い場所でくたばるのを望んでいるのだろうか。
それなら、出ていくしかないか。
それも仕方がない事だ。
そういえば、あの時、やり残したこととか、やりたい事とか一瞬考えたっけ。
それすらも今となってはバカバカしいと思うだけだ。
適当な仕事でも見つけて、食い繋げればそれでいいや。
「……何か、勘違いしているようなら違うんだ。ただ、俺たちは本当に君が無事で良かったと思っている。あの時だって、心臓が止まりそうだった…。君の父君を亡くしたのに、君まで、と思ってしまって…!」
震えた声に、思わずフォルテを見上げる。
いつも朗らかで、腹から声を出して笑うような人とは別人に見えた。
眉をひそめ、口を固く結び、泣いてしまうのを必死に我慢しているような、そんな表情だった。
「フォルテ、お前…」
「ああいや、違うんだ。見ないでくれ」
彼は顔を手で覆い隠し、オレに背を向けた。
その背中は縮こまり、小刻みに震えているようだった。
泣いて、いるようだった。
オレのために、泣いているようだった。
オレには自信も勇気もない。
努力だってしてこなかった。
なのに、そんなオレなんかのために、フォルテは泣いていたのだ。
オレは、彼のそんな姿など、一度たりとも見たことがなかった。
父さんの葬儀の時ですら、彼は泣いていなかったと記憶している。
誰もが心にもない哀れみを投げかけてくる中、彼だけはオレに何も言わず、ただじっと見つめてきたのが今でも鮮明に思い出せた。
あの時も、彼は今のように我慢していたのだろうか。
「俺は!君には幸せになって欲しい。君の母君だってもちろんそう思っている。本当なんだ、信じてくれ」
オレに背を向けたまま、フォルテはそう言った。
震えた声で、オレに訴えていた。
そんなに必死にならなくたって、知ってたよ。
知っていた。
ああ、もちろん知っていたんだ。
だから自分に嫌気が差したし、見栄を張って認められようとした。
何もしなくたって、必要以上に何かを言われることはなかった。
オレを思っていないのなら、母さんがわざわざ定期的に呼び出すこともなかったはずだ。
だからこそ、心のどこかでは、まだ自分の現状を何とかしたいと思っていたんだろう。
教皇に、母さんに、色んな人に失望されたと思いつつ、誰よりも自分が自分に失望していたんだ。
もちろん、死にたくないというのもある、でも何より、オレを思ってくれる人たちに笑っていて欲しいと思う。
だから、強くなりたい。
オレはもう大丈夫なんだって、今度こそ大丈夫なんだって、教えてあげたい。
「…オレ、旅に出て修行する」
「修行…?いや、無理に戦う必要はないんだ。ただ太陽を浴びて、色んな景色を見てきたらいい」
「オレは、強くなりたいんだ」
「それは、復讐がしたい、ということか?」
オレの言葉に、フォルテは焦っているようだった。
オレが、自分の命を投げ出すつもりかもしれないと勘違いしているのだろう。
もちろん、そのつもりはない。
復讐なんて、オレの家族が望んでいるとは思えない。
ただ…。
「ただ、親孝行がしたいんだ。母さんだけじゃなくて、死んじまった父さんも、お前も、教皇も。みんなオレを守ってくれたから。だからオレは強くなって、もう平気だって伝えたい、頼られたいんだ。力だけじゃなくて、なんつーか、ちゃんと大人になって戻ってくるからさ」
フォルテはもう泣いてはいなかった。
ただ、オレの言葉にきょとんとしている。
そして、急に笑いだした。
いつもの響く笑い声に安心する。
「くく、はっ、ハッハッハ!そうかそうか!それは立派な考えだな。数日前と比べれば、もう十分大人だよ。だが、戦いはほどほどにな。お世辞にも君に才能があるとは思えん!」
「そんなことはオレが一番わぁってるよ!」
やっぱり、みんなオレには才能がないって思ってたんじゃないか。
オレが吹っ切れたのをいいことに、バカ正直言いやがって。
「いいんだ、いいんだよ。君のこんなに真っ直ぐな目は初めて見た。何かあれば、いつでも戻ってくればいい。力になろう」
彼は多くは語らず、ただオレに頷いた。
まっすぐ、真っ直ぐ……か。
確かに、もう目を逸らそうとは思わなかった。
オレも頷いて、フォルテと握手を交わす。
じんわり温かくて、優しい手だった。
その日、五日目、オレは人生に新たな目標を掲げ、志を新しくした。
そして、オレはフォルテからここ一週間の事をもう一度聞いた。
数日前に説明された時は、右耳から左耳で、何も頭には入っていなかったからだ。
彼が言うには、魔物を倒したのはフードを被った人物だったらしい。
たった一筋剣を振っただけで、魔物が真っ二つになったそうだ。
あまりにも速く、痕跡も残さずに消えたものだから、今もあれが誰だったのかはわかっていない、とフォルテは言った。
だがその人物を探すより、あの場では、オレを救助する事が優先された。
あの時、オレの右腕は取れかかっていて、出血量も凄まじかったそうだ。
フォルテの回復魔法で応急処置を施したことと、オレたちが泊まった森の近くの町に回復術師が多く滞在していたこともあって、何とか教会まで持ったらしい。
というか、その時にはもう腕もくっついて、出血はなかったと聞く。
その後は、専門のヒーラーによって輸血処置が行われた。
輸血と聞いて、オレは驚いた。
それほどの技術を持っている人なんて、教会所属のヒーラーにはいなかったはずだ。
流石、魔獣が多く出没する地帯の近くには、優秀な冒険者や専門職の人も多くいるものだ。
彼らには、教会から報酬が出された。
謎の人物については気になったが、全く詳細が知れないのと、どこに行ったかもわからないから、旅の途中で出会えることに賭けるしかない。
もしまた会うことが出来れば、その時には命を助けて貰った礼を言おう、と心に決めた。
そして、オレが目を覚ますより前、フォルテは騎士団を退団した。
なんで、と聞いたが、もう戦う事に疲れたようだ。
それ以上は教えてくれなかったが、オレに怪我を負わせたことを気にしているのだろう。
先程も、父さんに加え、オレも亡くしてしまうかもしれない、と考えていたことを打ち明けられたから。
これからは教会で騎士の訓練に付き合ったり、修道士として働くつもりだそうだ。
それから、アルマとアメリスについての話も聞いた。
彼らはいつも通りの暮らしをしているそうだ。
いつも通り、と言われてもオレは彼らが普段どのような生活をしているか知らないが。
とりあえず、アメリスは騎士団で訓練、アルマは師匠と魔法の練習を続けているらしい。
二人は怪我もなく、元気にやっているとの事だった。
アルマは一度オレに会いに来ようとしたらしいが、ヒーラーに止められたそうだ。
何でも、オレが経験したあの恐ろしい記憶の刺激になって、フラッシュバックする可能性があるということだった。
それもそうだろう。
一緒に戦った人に会えば、嫌でも思い出してしまう。
オレも大分やつれていたし、その姿を見られなくて良かったと思う。
フォルテはわかっていて会いに来たのだから、先程の話がどれだけ大事か、オレにも理解できた。
母さんを説得するのは、きっと大変だったに違いない。
「金を稼ぐなら、やっぱ冒険者ギルドか?オレはどんな役割でパーティに入ったらいいと思う?」
「ギルドか。確かにそれが確実だろうな。教会や企業の出してる公認依頼なら収入も安定してる。クレシアンくんの場合だったら、そうだな…。オレに考えがあるんだが、任せてくれないか?」
考えとは、何の考えだろうか。
彼は頼れる大人だ、もちろん任せられる。
だがこの言い方は、本当に考えているだけのやつだ。
なんの確約もない。
とりあえず、メンバーを探す時には、魔法と剣術が少しだけ出来ると言っておこう。
事実だし、嘘をついていいこともない。
素材の収集や小さな魔獣の討伐任務から始めて、少しずつ自信をつけていこう。
思い出したくないが、この前アースエッジも使えたはずだ。
あの感覚を思い出したいから、魔法の練習も早く始めなければ。
そうだ、もうひとつ大事なことがある。
これだけは、絶対にやらなければいけない。
言わなければいけないんだ。
「なぁ、フォルテ」
フォルテは歯切れの悪いオレを平気か、と見てくる。
少し気恥ずかしい。
でも、ちゃんと目を見て伝えなければ。
「…あ、ありがとう」
誰かの目をまっすぐ見て、心を込めて。
覚えている限り、オレがその言葉を口にしたのは初めてだった。




