第2話「気まず過ぎる人選とか聞いてない」
あれから数日後、花灯の月、十六日。
クレシアンは最低限の荷物だけを持って、大聖堂の前に立っていた。
灰色のシャツを中心にした、簡素で動きやすい布製の服装に、黒い細身のパンツとブーツを合わせている。腰には細剣を下げているが、使う予定がなければいい、と彼は思っていた。
旅支度と呼べるほどのものではない。そもそも彼は、何を持てばいいのかよく分からなかった。数日分の着替え。最低限の食料。水袋。簡単な手当て道具。それらを鞄に詰めた。
窓から見る景色は明るく暖かかったのに、実際に外へ出ると、空気が少し冷たく感じる。
朝の大聖堂は、いつもより広く見えた。
高い尖塔は薄い朝日に照らされ、白い石壁の縁だけが柔らかく光っている。正門へ続く石畳には、夜の名残のような湿り気があり、ところどころに淡い光を反射していた。拝礼に訪れる者たちが数人、静かに門をくぐっていく。誰もクレシアンに声をかけない。それなのに、その沈黙がかえって息苦しかった。
クレシアンは深く息を吸い込んだ。
胸が詰まる。
戻ろうか。
そう思った瞬間、空っぽになった自室が頭をよぎった。寝台。机。片付けられた棚。そこに戻ったところで、何があるというのか。
戻ったところで、なんの意味があるというのか。
首元には、聖女から渡された首飾りがあった。
直接渡されたわけではない。昨夜、シスターが部屋まで届けに来たものだ。
深緑色の、クレシアンの髪と同じ色の石が、朝日に照らされて静かに光っている。
会いには来てくれなかった。それでも、まだ母親であるという自覚はあるらしい。そう思って、クレシアンは小さく鼻で笑った。
笑ったつもりだった。
だが、胸の奥に残ったものは、ちっとも軽くならなかった。
首にかけたそれを、彼は一度だけ握りしめる。石は冷たかった。掌に収まるほど小さいのに、妙に重く感じる。
それを襟の内側にしまいこみ、クレシアンは正門へ向かって歩き出した。
石畳を踏む音がやけに大きく聞こえる。
誰かに見られている気がした。神官たちの視線。騎士たちの声。遠くで交わされる小さな会話。そのどれもが自分のことを話しているように思えて、心臓が跳ねる。
逃げたくせに。
そんな言葉が、どこかから聞こえる気がした。
実際には誰も言っていない。
けれど、言われていないからといって、消えてくれるわけでもなかった。
クレシアンは俯いたまま歩く。
そして、正門近くまで来たところで、ふと顔を上げた。
「――え」
誰かが、大きく手を振っていた。
「クレシアーン!」
明るい声が、朝の冷たい空気をあっさり突き破る。
その持ち主はアニマだった。
クレシアンは思わず立ち止まる。
なぜ彼女がいるんだ。
そんな言葉が、真っ先に浮かんだ。
アニマはそんなクレシアンの反応など気にした様子もなく、ぱたぱたと駆け寄ってくる。二つに結われた夕暮れ色の髪が朝日を反射し、赤とも橙ともつかない色に煌めいた。燃えるような双眸は希望を携えたようで、愛らしく細められている。
「わっ、髪切ってる!」
開口一番、それだった。
アニマは目を輝かせ、ぴょこぴょこと飛び跳ねながら、ぐるりとクレシアンの周りを一周する。重たそうなツギハギだらけの魔女服は、彼女が飛び跳ねる度に風を含み、ふわりと膨らんだ。古びた布を継ぎ合わせているはずなのに、不思議と彼女にはよく似合っていた。
「黒く染めたんだね!いいねぇ、すごい雰囲気変わったねぇ。服もちゃんと旅人っぽい!」
「あ、あぁ……」
体験したことのない勢いに、クレシアンは少し後ずさった。こんなふうに真正面から褒められることにも慣れていない。妙にむず痒くて、落ち着かなかった。
自分も何か褒めた方がいいのかと思った。
髪が綺麗だとか。服が似合っているとか。元気そうで何よりだとか。
けれど、それらは言葉になる前に空気となって、小さく開かれた唇から漏れていくだけだった。
「元の髪色もきれいだったけど、今のも似合ってるよ!なんかこう、ちょっと悪そう!」
「悪そうって……それ、褒めてんのか?」
「褒めてる褒めてる!」
アニマはけらけらと笑う。
その様子が眩しくて、クレシアンは困惑した。
数日前、自分は逃げた。彼女たちを置いて逃げた。その事実は何も変わっていないはずなのに、目の前のアニマはまるでそんなことなど知らないかのように笑っている。
どう反応すればいいのか、よく分からなかった。
「……おい、いつまで騒いでいるつもりだ」
すると、近くから低い声が飛んできた。
クレシアンの肩が跳ねる。
視線をやると、門の脇、外壁にもたれて腕を組んでいた男が、呆れたようにこちらを見ていた。前回着ていたような騎士見習いの服ではなく、クレシアンと同じような軽装を身にまとっている。だが、背筋の伸び方や、立っているだけで隙のない雰囲気は変わらない。
「ア、アメリス……」
「遅い上に騒がしい。出発前からあまり疲れさせるな」
「別に、騒ぎたくて騒いでたわけじゃ……」
「だってクレシアンが全然反応してくれないから!」
「してただろ……!」
「だから。拝礼者の邪魔になるから静かにしてくれ」
ぴしゃりと言われ、クレシアンは口を閉じた。
アメリスは相変わらずだった。
前回会った時と、何ら変わらなかった。少なくとも、表面上は。
「で、なんでお前らがいんだよ」
クレシアンは思い出したように問う。嫌な予感に、声色が少し強ばる。
「理由なら君と同じだ」
当然だろう、と言わんばかりだった。
クレシアンは少し視線を逸らす。
予想的中だった。
すぐにあの日のことが頭をよぎる。炎。叫び声。獣の息遣い。自分だけが背を向けた瞬間。
アメリスは、そんな自分をどう思っているのだろう。
責められるなら、まだ分かる。怒られるなら、まだ納得できる。
けれどアメリスは、やはりいつも通りだった。
「ほら、行くぞ。今日はやることが多い」
「えー、もうちょっとゆっくりでもよくない?」
「良くない」
即答だ。
まるで、本当にこの三人で旅に出ようとしているかのようだった。いや、実際そうなのだろう。クレシアンだけが、まだその事実に追いつけていない。
アニマが後ろでぶーぶー文句を垂れながらも歩き出す。
クレシアンは正直のところ、責められると思っていた。二人とは歳が近いし、何より彼らは正義感が強そうだ。少なくともクレシアンの目から見たアメリスは、逃げた人間を許せるような人ではなかった。
なのに、アニマもアメリスも、何事もなかったように振る舞う。
それがなんだか、とても居心地が悪かった。
けれど、やがてクレシアンも小さく息を吐いて、正門の外へ視線を向けた。
どうせすぐに自分の事など置いて、好き勝手に行ってしまうだろう。そう思い、深くは考えないことにした。
「……じゃあ、行くか」
そう口にした、その時だった。
「お待ちください」
後ろから声がした。
三人が一斉に振り返る。
すると、大聖堂の方から、一人の少女がこちらへ歩いてきているのが見えた。
一つに縛られた長く黒い髪。黒ずくめの服。肩、腕、脚、全ての露出が多く、腰のベルトには細剣が二本挿さっている。
朝の光の中にいるのに、彼女の白い瞳だけが、どこか光を受け付けないもののように見えた。
初めて会ったようで、初めてではなかった。
見た事もない白い瞳と、やけに落ち着いた佇まい。あまりにも特徴的で、一度見れば忘れられない姿だった。
確か――。
「ティエラ?」
以前、聖女の執務室で会ったことのある少女だ。記憶では、修道女見習いの服装をしていたはずだが、わざわざこんな日に何の用があるというのだろうか。
そう思って、クレシアンは目を瞬かせた。
ティエラは三人の前まで来ると、腰に提げた剣を軽く押さえた。
「はい、ティエラです。私も同行します」
「……は?」
一番間抜けな声を出したのはクレシアンだった。
アニマは「えっ、ほんと!?」と目を輝かせ、アメリスは露骨に眉をひそめる。
「もう定員だ」
アメリスの声は低く、拒絶に近い響きがあった。知らない人が突然同行すると言い出すのだから、警戒するのも当然だろう。
こちらとしてはここにいる全員を警戒しているのだが。
「聖女様がよろしいと」
その言葉に、アメリスは口を噤む。
ほんの一瞬、彼の眉間の皺が深くなった気がした。
ティエラは淡々と続ける。
「戦力は多い方がいいでしょう」
「お前、シスター見習いじゃなかったのか」
空気が重くなっていく感覚が嫌で、クレシアンは疑問ついでに慌てて口を挟んだ。
「今は旅の剣士です」
簡潔な返答だ。非常にわかりやすい。
しかし、クレシアンには上手く理解ができなかった。
剣士にしてはあまりに細い身体だ。腕も脚も、見える肌は白く、鍛え上げた戦士というより、何かの儀式に出てきそうな印象すらある。
けれど、冗談を言っているようにも見えなかった。
「やった!女の子増えた!」
と、男二人を他所に、アニマだけは素直に喜んでいる。
彼女はティエラの腕を掴み、さっそく話しかけ始めた。
「あたしはアニマだよ!ねえねえ、剣だけ?魔法は使う?好きな食べ物は?」
「厨房で余った野菜の皮などはよく頂戴しています」
「え!それ、食べ物じゃないよ!」
アニマの叫びに、クレシアンは思わず吹き出しかけた。
しかし、それを何とかこらえる。
まだ、笑ったらダメなんじゃないか、とクレシアンはそんなことを考えてしまう。
「……まあいい。ほら、早く行くぞ」
アメリスがくるりと背を向ける。
その動きはどこか乱暴だったが、結局それ以上は何も言わなかった。
アニマはティエラを引っ張りながらその後を追い、クレシアンは少し遅れて続いた。
半ば無理やりできた旅仲間。いつの間にか拒否権は無くなっていた。
門の外。
その向こうには、街があり、森があり、魔獣がいる。
そして、自分が逃げ出した場所へ続く道も、きっとどこかにある。
それでも、彼は歩みを進めた。
思っていたよりも、足は簡単に前へ出た。




